まだ2万人以上の被災者が東北内外で避難生活をしているので、13年前の東日本大震災は終わりが見えてこない。
原発が廃炉になったとしても、廃棄物の処理は東電だけでなく「人類の課題」だからなぁ…
阪神大震災は、私的遺跡が消えようとしている。
たまーに前を通りかかっていた旧宅が、正月に囲いがされていて、改修かいなーと思いきや本体が取り壊されている。
避難所暮らししながら、悪辣な不動産屋にトンデモ物件をあっせんされつつ、心ある店に紹介された1DKだった。
県庁徒歩5分の立地ながら、風呂は手動ガス点火式、和式トイレの昭和アパートで、月7万は表向きで、被災者の家賃補助3万がついた。この適用期間がすぎても、「お支払いそのままでけっこうですよ」と大家のおばちゃんが気を利かせてくれたので、限界まで住んだ。
限界、というのは、壁がポロポロ崩れ、玄関ドア枠が歪み(閉めて施錠するのに怪力がいる)、僕が退去した後はずっと空き部屋だったので、募集もせず補修もあきらめていたのかもしれない。
なんといっても、建物が数度傾いたままなので、引っ越し手伝いにきてくれた機械メーカーの社員くんが「めまいがする」と苦笑していた。入居時に、「これ以上は傾かない判定を建築士がしてくれた」と告知されたのはウソではなく、もちろん傾きが元に戻ることもなく、倒壊せずにすんだので、慣れればどってことないのだ。
「水平があたりまえ」の世間様にすると、そりゃ借り手がつかんわな。
窓サッシの「高い方」は自動で開き、「低い方」は自動で閉まるのは電気いらずの全自動窓といえるし(いえるか!?)、冷蔵庫もドアが自動で閉まる方向においていた(これは便利である!)。
4階建てでエレベーターなし、その最上階の角部屋は3方角にオープンで風通しがよく、風呂場も台所もトイレも換気扇などついとらん。開けておけばいい。
すぐ上は屋上物干し場で、オートロックなどないからだれでも入れる。熱帯夜は折り畳みリクライニングチェアを持ちこんで夕涼みするのも快適だった。
シャワーもないので、真夏でも風呂を沸かして入っていた。この習慣は悪くなかったと思う。風呂で寝込んでしまう死にかけ体験は何度もある。それほど快適だった、ってことで。
これが物件のハードウェアで、ソフトウェアは数十m近所に住む大家さんに家賃を手渡ししに通っていたのが、なんともレトロな昭和の貸借関係。
見守られている感覚はありがたくもあり、あちこち劣化してきたのに補修を請求するのも申しわけなくもあり、手狭になったので引っ越しを決めたのが 17 年前。
引き止められることもなく、リフォームもされなかったのは、大家さん廃業を決めていたのかもしれない。
借りぐらしのはずが 12 年にもなり、その間に建築規制の緩和もあって、「わが昭和アパート」を取り囲むように高層マンションが林立していった。
激震地だった都心も、地の利はいいので郊外からマンション住民が流入し、もう被災都市の面影はない。
いや、そもそも阪神間でも山手幹線以北は地貌が変わるほどの被害を受けたわけではなく、浜側の再開発がいびつに進んだ。
東灘から芦屋にかけての浜側に、モデルハウス・タウンのような区画整備された街がひろがっている。東北の集団移転先にも、まったく同じ眺めが映っている。
行政が計画するニュータウンは、まさにマクドナルド化されたファスト風土になるようで、能登もそうなるのかもしれない。
決して「昭和がいい」とレトロ趣味に走るつもりはないが、ファスト風土にすんなり適応できるかどうかは年齢や家族構成、生業によりけり。
西区や北区のファスト風土に慣れてきた神戸市民ならまだしも、東北や北陸の被災者だと、どこか魂の置きどころがないような違和感はつきまとうのではないだろうか。「また海岸沿いに住みたい」と思っても、防潮堤で海が見えなかったりすると、ふるさとの眺めは戻ってこない。
海そのもの、山そのものは気まぐれに荒れることはあっても、昔のままそこにあるが、里山や漁村は人の造った環境だから、そのままではいられない。
変えにゃならんべ!国土強靭化!スマートタウンだコンパクトシティだ!!と利権臭がぷんぷんする。
いっそ船に住みたい。
と思うヒップホップな住民はいないのか?
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