2004.05.31 Monday
at 2004 05/01 11:07 編集
いつものように、風呂で熟睡して「1泊」してしまった。
9年前まで住んでいたユニットバス、いやアパートのユニットバスでは眠れなかったのに、なぜだろう。
寝床周りよりスッキリかたづいているのは、風呂だから当たり前だが、散らかし放題の部屋で父が捜し物をしていて、「きったないなぁおまえ・・・」とぼやいている。やめてくれーっ!!と癇癪を起こして家を飛び出すと、老猫2匹が見送ってくれて・・・
という夢を見た。風呂につかって。
登場人物も猫も、なつかしい実在の家族だが、みな天国にいる。おまけにその家も焼失してしまっている。
ただ、脳内の記憶の沼に沈んでいる。
つくづく、記憶とは不思議なものだと思う。
記憶があるから過去があり未来を推測したりする。言葉も、道順も、人づきあいも、記憶が機能していればこそ無難にやりくりできる。
そんな記憶が、次第に欠損して行く痴呆は、他人事ではない。わが家系にも影を落としているから。
もしかすると、僕を認識できない親を見取ることになるかもしれない。
祖父は山の精神病院に入院した。
よく似たロケーションにあるサナトリウムへと、ペダルをこいだ。香山リカ『自転車旅行主義』の実体験版である。
紺碧の空をバックに、鉄格子の並んだ建て物が威容を誇っている。なぜか、ほっと落ち着いた。
足が動かなくなっても、僕の精神はこのサナトリウムに吸引されて行く、そんな日が来るかもしれない。
トーマス・マンは『魔の山』でサナトリウムを描いたが、僕がぶらり眺めに行くようになったサナトリウムは「摩耶山」を背に建っている。この語呂は、ただの偶然だろうか(偶然だって)。
偶然といえば。
五木寛之の『旅のパンセ』を古本屋で買って、「なんで文庫やのにハードカバーになっとるねんブツブツブツ・・・」と、ボヤキ読書をサンマルクでむさぼる。
そのあと一般書店に寄ると、五木さんの『旅のヒント』という新刊が出ていた。単行本なのにソフトカバーであるのに気をよくして即買。
旅に出なくても、こんな出会いもあるもんやなぁ・・・。
スマスマ
at 2004 05/01 18:39 編集
ナイトスクープで、宮崎の海岸で見かけた不思議な生き物を探して!というのを、須磨海岸でロケしていた。そりゃーちょっと無理でしょう・・・と思った通り、もう少し天然の瀬戸内よりで、みごとマテ貝の取材が大成功したのは、とても勉強になった。
理科の勉強はいい。
春先の須磨の映像は、サンタモニカ〜ベニスビーチのように、明るくさわやかだった。
「よし、散歩いこ」と思い立って、こぎ出した。
JRで行けば5駅。
海岸沿いをクネクネたどって行ったので、距離は10kmぐらいだろうか。ふだん西の方は行く用事がないので、「初めてのチャレンジ」気分だが、あっけなく30分ほどで行き着いてしまった。
2号線を走っていると、上は阪神高速だから、もうダブルで排ガスくさい。走れば走るほど、全身が運動になってるのか汚染されてるのかわからん。ドライバーも同じガスを吸ってるんだろうけど。
さすがに海岸をこいでいると、さわやかで心地よかった。
ウィンドサーフィンも水上バイクも砂浜バーベキューも、今は何でも可の解放区になっている感じ。
まだ海の家の類はないので、飲み食いは持参責任だ。
ふと思ったのだが、市街地にドトールだスタバだサンマルクだとひしめいてないで、昔の一里塚なみのペースでカフェがあれば、自転車族にはありがたい。
新しいチェーン名は「マイルストーン」でどやろ。
須磨界隈は、やはり家族向けの店が多い。
会席屋さんやファミレスにぽつんと入るのもなんだし、陽も傾いてきたので、少し山手の28号線を快走して帰ってきた。
快適にひと汗かけた。
須磨は遊ぶところ(赤い提灯に青いネオンではなく、緑の山と青い海のこと)も多くて、住むにはよさそうだ。
「離宮前町」なんて界隈で、ふと不動産屋の店先をのぞいてみたりする。もちろん、冷やかし止まりだが。
次は、塩屋、舞子海岸あたりかな。
じわじわと、最長不倒距離を延ばして行こうか。
プライベートビジネス
at 2004 05/02 13:05 編集
大阪の某社が、新入社員の会社への忠誠心をアンケート調査したそうな。
ん〜?どこの会社なんじゃい!ニュースソースにあたってみたくても、できんじゃないか!
なんで肝心なところボカすんじゃNHK!
「コーラ」「サランラップ」「セロテープ」さえ禁句にしている延長でかしらんが、これ宣伝ちゃうよ、情報源ですぜ、こんなニュースでは。
・・・てな非難を、鴻上尚史さんが書いておられたっけ。ごもっともやなぁ。
私どもがボカしたニュースはお問い合わせいただければ裏の裏まで、取材源を教えます電話は0120・・・という態度を示せば、受信料も払う気になるかもかもしれない。
それはともかく、古い友人と会う約束をしている日に、職場の飲み会が入ったとき、職場を優先する新入社員というのが、過去最高の64%にのぼった!という由々しき事態だ。
ニュースは「厳しい就職活動を乗り越えて入社した会社への忠誠心」とコメントを加えていたが、たしかにそれは社会心理学の定説でもある。
就職難の御時世でもあるし、自分の選んだ仕事を最優先に考えるのは、ごく当たり前のようにも見える。「なぁお前、仕事と俺とどっちが大事やねん」と、おバカなこと言う友人はいない(と思う)。
ところが、仕事と私(または家庭)と、どっちが大事なの!?プリプリ!と、愚問を飽きずにぶつけてくる婦女子・・・というのは、ドラマの中だけの世界だろうか。
「仕事です」と答えるのがわかりきっている僕は尋ねられたことはないけれど、そもそもこんな問いが出て来る時点で、終わりかけているような気もする。
働いて、住居費食費光熱費公共料金保険税金を払って生活をやりくりしている余力で、色恋沙汰にうつつをぬかす(笑)のが大人の現実。
それぐらい、パラサイト娘だと頭ではわかっていても、昔あくせく働いて立派な今があるママやパパと、未来のために今あくせく働かにゃならん彼を、見比べて採点してしまうのかな。
こんな危険を察知し始めた男どもに、やっと文明開化が始まったような気がする。
いかん、つい恋愛ポリスの本領を発揮して横道にそれてしまった。
あっけないが、「職場の飲み会」ぐらいは振ってよろしいのではないか?
今どきノミニケーションで人事をやっているような職場、勤務時間外まで同調させる職場とは、距離をおいた方が賢いと思う。
たしかに、強く出られない立場の新人君も大変だろうと思う。
身内の冠婚葬祭をでっちあげるという古典的な手口もあるが、使える回数に限度がある(笑)。会社の飲み会をふっとばすような口実が必要だ。
ここは政治的に考えればいい。
つまり、彼女に会社の株を買わせる。デートは「株主接待です」とカムフラージュできるから、堂々と株主といちゃつけるぞ。
とはいえ、しょせん勤労者の余暇なんて、自分のポジションと仕事がらみの相手との力関係の中で決まってしまう面がある。俺は余暇でリフレッシュできるから会社に貢献できるのだ!俺を休ませないと会社の損になるのだ!というところまで、強く出られる人はなかなかいない。
ニュースは、新入社員の保守化という言葉を使っていたが、「アメリカ化」への拒絶反応かもしれない。能力主義・成果主義のメッキは剥がしてみればいいと思うものの、かといってふた昔も前の滅私奉公に戻るのも芸がない。
自分の趣味に照らしてみて「お得」な仕事かどうか?というものさしもあっていい。
では、僕が芸能事務所に就職して山口もえのマネジャーになれたとすると、極楽かといえば、そうは問屋が卸してくれまい。
道楽に仕事をからめるとロクなことはない、と気づくのが大人へのワステップだったりする。
それこそ、好きなことが職業になったとたん、いやな仕事から逃れたいとき逃れられないのもつらい。
だから、趣味を仕事にするのではない。仕事を趣味にすればいいのだ。
俺の本職は君を愛することさ。
あぁ、羽賀研二になってしまうな。
希望的人権の損よ
at 2004 05/03 12:10 編集
憲法記念日にちなんでか、イーデス・ハンソンさんが新聞で語っておられた。
関西人以上に「和歌山人」している豪快なおばちゃまぶりは、著書『南西斜面からの便り』(小学館文庫)にもあふれていて、僕はファンである。
ただのタレントではなく、別の肩書きでは、かつてアムネスティ・インターナショナルの日本支部長も歴任されていたと思う。人権見張り番である。
で、ハンソン女史のアピールは、「女人禁制の大峰山は解禁すべし」であらせられる。
聞き手というか、記者が「世界的にも、女人禁制の聖地がありますが…」「文化の破壊になりませんか?」と、俗世間から出てきそうな疑問を代弁してぶつけ、女史が「それ、おかしいやないの」と喝破して行く。
まー人口の半分をシャットアウトする信仰は、自ら足かせをはめているようなものだから、永遠のマイノリティだ。また、メジャーになろうともしていないし、「全国の山々も女人禁制にしましょう」とキャンペーンしているわけでもない。
たとえば運転免許の欠格条項に「おばちゃんであること」を指定するとか、だるまのような元首相が日本を神の国にしてしまうとか、マジョリティが社会的な差別をするのは問題だろうが、「マイノリティのふんばり」はそっとしておいてもよろしいのではないかと思う(大峰山は国有地だったのか?)。
かりに、ふんどし愛好会というのがあって、「トランクスとブリーフとショーツをはくやつは入会さしたらへん」といえば、それは差別なのか?グンゼにもワコールにもふんどしを製造してもらえず、日陰の身を甘んじて受け容れていくしかない。
世俗に背を向け、自虐的な足かせをアイデンティティとするのが修験道の世界だから、なんだか同性だけで群れて「この苦労、わかってもらえない」とため息をついている過労死予備軍や主婦の世界も、現代の修験道といえそうな…(=こじつけ)。
こんなたとえ話以上に、奇妙というか巧妙なのが、イーデス・ハンソン女史の論理だ。
編集の作為でそうなったのかもしれない…とはいえ、「敬虔な気持ちを持って登山する女性を排除するのはよくない」とおっしゃっていたのだが、こんな論理の飛躍は、いかがなもんかね。
整理すると、
事実A「大峰山は信仰対象になってきた山である」
から、
信念A「登山は信仰である」
が導かれ(少し無理がある)、
信念B「そんな山に登る女性は、敬虔な動機からである」(極論)
が暴発している。
そもそも、事実Aにしたって、信者の立場から見ると「そうあらねばならない」だけであって、信心のない庶民や渡来人や子供からすると、山菜や果実を採りに行くエサ場であったり、ただ景色を眺めに行くハイキング気分の山だったかもしれない。…いや、「そうであった可能性を排除できない」とするのが論理的かな。修験者からすると、マツタケ狩人やハイカーは許せない存在なのだろう。
事実Aが揺らぐと、信念Aも「大本営発表」化してくるぞ。
僕は登山が好きだが、別に信仰でもないし、「自分との闘いですっ!」でもなく、ただ「山で食う飯はうまい」というだけ。まぁ一人でテント張っていると、神妙な気分になったりもするが、別に神仏に祈るわけでもない。
そんな薄っぺらい自分を基準に考えるのもよくないだろうが、登山する女性は敬虔な気持ちを持っとるわけかい?
こんな「女性信仰」は、女人禁制信仰と同レベルではないだろうか。
敬虔な気持ちを持ってるかどうかは、思想チェックでもしないとわからない。人権問題である(笑)。
僕がもし、お茶ノ水女子大学に入学したいといえば、不純度99%の卑しい動機としか思われないぞ!
思想チェックしていただいた方が、不純度は88%ぐらいに晴れると思うほどだ。
と、こんな風に、ハンソン仮説(いや、人権教か?)は、洗練させようとすると人権侵害をはらんでしまう。
いろんな人を受け容れた方が、信仰は発展する。
のか?
えっ??????????
なぜローマ法王に黒人がいないのか?
八百万の神々(hundreds of gods)と発言しただけで―godを複数形にしただけで―クレイジー扱いされるのはなぜだ?
神のもとに人類平等をうたった信仰が、どんな悲劇を歴史に刻んでいるか、アングロサクソンは自覚しているだろうか。
唯一絶対神を認めないアウトサイダーへの布教・改心、差別、排除、差別、虐殺は、土着文化を破壊して、罪のない原住民をゲームのように葬ってきたんちゃうかい?
「罪に上下はない」のだろうか。
手近なところ、弱そうなところからメスを入れて行く――そういう態度を「日和見」「権威主義」という。おかげで巨悪は安泰である。
だから、大峰山より、オーストラリアとニュージーランドの方が罪は重いと僕は思う。
と考えると、大峰山が安泰になるか。
なんだか「喫煙と大気汚染」論争みたいやな。
きよっさん!
at 2004 05/04 14:54 編集
出てくる出てくる議員先生がたの年金空白。
老人福祉を看板に掲げる西川きよっさんまで。
もう、ショックでショックで・・・
て国民はいるのだろうか。
やがて、「国民年金不信議員同盟」が立ち上げられて、開き直ったとたんに、国営年金は崩壊する。
その前に、未納率が50%を超えたら、民意が年金を見限ったという証しになるのではないかと思う。
国民年金不信議員同盟には、座談会を開いていただいて、匿名でいいからホンネを語ってほしい。
「25年加入で受給権は発生するけど、権利と受給額別問題。払った額以下しかもらえないんじゃ預貯金しといた方がましだな」
「65歳を超えて働く人からは堂々と削られるからね、国民年金だけで生活できない、かといって働けばもらえない。地獄だね」
「生命保険会社に丸投げして、個人運用化した方がよくないか?」
「厚生官僚が利権を手放すわけないから、国税と連携して強制徴収するさ。住民基本台帳はその布石だろ」
等々、国民が疑っていて、聞けばやっぱり!と思うようなことをぶちあけてくれてこそ、「民意の代弁者」だ。
さて次は、どんなカミングアウトが出てくるか・・・?
肩書き楽園
at 2004 05/04 20:09 編集
「大型連休に小さなレジャー」というのも、粋でいい。
「ロンドン・パリ・ローマ4日間の旅」をやってしまう日本人ならではの大道芸ではないか。
テレビで、さぁご家族で折り紙を楽しみましょう!という番組をやっていた。昔ながらの折り紙細工篇と、紙飛行機篇に分けて。
大型連休は紙一枚で楽しむ・・・すばらしい。
いやー勉強になった。
折り紙ができるようになったぞ!という効能ではなく、社会勉強というか・・・。
日本折り紙協会とかいう団体があって、ゲストで出ていたのはそこの「師範」という肩書のおねーさまだ。
紙飛行機も同様の業界(というのか?)団体があって、そこの「認定指導員」なる斎藤孝フェイスのおにーさんが実演指導していた。
肩書好きの神国日本(やみくもに肩書を畏敬するところは、ほんと神がかりな社会やな)だとは思っていたが、こんな資格もあるんやね。
ま、「大日本スキー教祖」「カウンセラー治療師」「他者支援職支援員」等々を勝手に仰せつかっている僕が、大まじめに資格ブームを批判する資格はない(笑)。
資格や肩書きといえば、カタカナライセンスが近ごろのはやりで、シニアなんとか、アソシエートなんとか、なんとかディレクターかんとか穴リスト・・・というので煙に巻かれた気分になっていたら、今はCEOだCOOだとわけわからんようになってきた。
とーちゃんかーちゃんでやっているSOHOで、「CEOです」といわれて仰々しく名刺を出されても、苦笑してしまうがな。
やはり日本語がいい。
「副係長代理補佐」なんてのはみっともないだけだが、「和菓子本舗十五代目当主」というようなのはすごい。「資格なんぞおまへんが、十五代続いたのれんを守るだけどす」とへりくだられては、パティシエもトルシエも頭が上がらんだろう。
会社も、丁稚、番頭、大番頭、若旦那、旦那衆・・・という地位構成にすると、ぴしりと引き締まる感じがする。業界内独立は「のれん分け」とか。
肩書きの威光とか引け目etcの政治的かけひきで、この世が動いている気もする。「スピリチュアル・カウンセラー」も風水も。飛ぶ鳥を落とす勢いがつけば、それがスタンダードになってしまう。
その意味では、日本は神の国なのだろう。
かっこいい64
at 2004 05/05 11:56 編集
といっても、「任天堂64」の類ではない。
どうせ、うちの通信環境は未だ64Kの超低速ナローバンドじゃっ!!でもそれがかえって粋なのだ!!
・・・と強がり言うつもりはない。
1940年生まれの、人生の先達が元気だなぁとつくづく思うのだ。
連休直前のいいタイミングで池内紀さんの新刊『ひとり旅は楽し』(中公新書)が出たので、カフェのお供になっている。
ムッシュ池内の不思議なところは、まったく家庭の匂いが漂ってこないところで、既婚か独り身かもわからないが、わかったとて、この孤高の生きざまは、文章にもにじみ出ていて美しい。
美しいといえば、日曜昼間のFMの準レギュラーゲストで、訥々と語られる口調も声質そのものも、優しくて美しい。
池内さんの声を、つい首を長くして待ち望んでしまう。
最初は、角川文庫版の『海山のあいだ』あたりで登山家(?)として知ったのだが、東大のドイツ文学教授を定年前にあっさりやめて、天下りもされてない仙人のような生きざまには、つくづく粋やなぁと思う。
池内さんが大学で教えていたころ、ドイツ語を習ったんですよ、という研究仲間の哲人がおられて、ときどき研究会で会って議論に花を咲かせている。
その会の代表で、怠け者の僕に喝を入れてくれる内科医の院長先生も、偶然1940年生まれだ。
同じ40年生まれでも、ずいぶん違うなぁと思うのが、学生時代に何十冊その著書を読んだかわからない片岡義男さんも40年生まれ。
日系三世ゆえのアウトサイダーの視点は、最近は日米関係や英語教育への硬質な評論に結晶している。
文体は池内さんと異質だが、片岡氏のもうひとつの技である写真は、なぜか池内さんの語り口調に通じるクールな優しさを感じる。
硬質なエッセイというか、実用性を貫いた手引き書でうならせてくれるのが、やはり40年生まれの野口悠紀雄先生。新潮文庫版『超旅行法』は、マニュアル書のようで、「人間野口」が随所に垣間みえる紀行エッセイだ。
40年生まれというのは、どんな成育環境だったのだろう。
戦争中に物ごころついて、義務教育はちょうど新制の1期生ぐらいにあたる。
「校舎」はともかく、「ソフト」はまっさらで、教師や官僚の権威が地に墜ちていた時代だ。
片岡氏など、父親が進駐軍として祖国を統治しに来ていたそうだから、「つくりものJAPAN」の
できて行くさまを冷静に観察していただろう。
根っからの日本人でも、敗戦リセット体験があると、その国にいながらにして異邦人感覚を持つのかもしれない。
実験的に異邦人になってみようではないか、とカリフォルニア大学から発信された社会学の方法論にエスノメソドロジーというのがあって、立派な一学派になっている。
そのスピリットを、40年生まれのクール・ミドルは自然に持っているのかもしれない。
64歳はミドルどころかオールドに見える少年少女の方が、なんだか安定志向でふけて見えるのは僕だけか?
G携
at 2004 05/06 10:50 編集
あんまり関係ないが、連休を機会にGPSを試してみるか・・・
そうと決まれば、ハーバーランドの携帯屋さんへチャリリリリ〜ンである。
プレミアムクラブがどうのこうのとキャンペーン説明が始まり、年間10万円ご利用でしたら必ずお得・・・というので、「わしゃ携帯、2年で2000円ぐらいしか使っとらんがに」と返すと、おにーちゃんは2.5秒ほど絶句して、パンフレットを引っ込めた。
GPSだけついておればよろしいのである。
最近の標準装備だか、カメラがついていたりするが、ええぃそんなもん二の次ばい!
・・・とはいえ、メガピクセルカメラもついて8000円というのは、もし期待外れでも授業料だと思えるレベルかな。
FOMAはまだいらないし、なにしろワタクシは「携帯2年で2000円」の、現役PHS命ユーザーなのである。
テレビ電話なんかする相手といえば、わが電脳ショッピング判事でんきがま先生しかおらん。「なんでそんな中途半端なモデル買うの!?」「FOMAにしとけばええのに!」てな判決が予想されるなぁ。
「衛星の視野角は何度ぐらいですか」「衛星は何個捕捉すれば測位できまんの?」・・・と、おねーちゃん店員に尋ねるのは気の毒だから(これは偏見と差別だろうか)、おにーちゃん店員と「電波系」の質疑応答。
いろいろマニュアルを繰りながら、必死のパッチで調べてくれた。こんなマニアに接客することになって、お気の毒に。声をかけてきたのは、そっちだからね。
この客は接客マニュアル通りには乗せられん!と、てこずっていただければ本望である。
相手してくれたお礼に、すんなり成約の運びとなった。
月刊『文芸春秋』なみに分厚いマニュアルには思わずひるんだが、いじくっているうちに何となく使い慣れた。
いや、前の「やっとカラー画面になった」レベルの携帯だって、めったに使わなかったから、かろうじて使う機能だけならすぐマスターするのである。
でGPSだが、なかなか微妙なもんだ。
ビルの谷間だと、衛星を捕捉してくれない。GPS機能と地図業者が結託して商売しようといているのに、市街地でGPSが機能しないというのは自殺行為ではないのかね。スタバの中では測位できるのに、この日和見ぶりはよくわからん。
まぁ、たいていの市街地だとザウルスにPHSつないで無料で大きな地図を見られるから、いちいち数十円ずつ課金される携帯でちっこい地図を見る必要もない。
と、地図機能も減点、カメラも単体デジカメがいい、GPSやっぱり単体がいいか?・・・となって行くと、あぁこの携帯は中途半端の集大成みたいに見えてくるがな(笑)。
なんとか気を取り直して、緯度経度だけでもわかるのは、「少年探偵団」気分ぐらいにはなる。
気圧計で現在地を推定していた登山からは、すこーし進歩できるかな。
おマニヤさま
at 2004 05/07 13:42 編集
連休はゴールデンでしたか?
と、長良川に魚をくわえに行っていた鵜(笑)からメール。
結局、どこにも行かずじまいだった。
そのかわり、電脳ショッピング判事が、怪しい用事で後輩を伴って神戸出張してきた。
よーしここは乙女に毒ガスを浴びせてやろうと悪だくみして呼び出す。
「旅行したいな〜」「北海道も行ってみたい」「18切符って何?」「プロペラ飛行機に乗ったことがない」「ブルートレインってなんですか?」etcetcという、こげな箱入り娘が格好の犠牲者になるのだ。
群馬県と新潟県が頭の中でごっちゃになっている様子。よしよし、脇の甘さはマニヤさま3人のつけ入るスキだらけだ。
YS -11という日本の誇る国産機があってなぁ、エンジンはロールスロイスで…と僕が知ったかぶりを披露しかけると、すかさず怪しいおマニヤ様たちから「YS はもう国内から引退しとる!」とチェックが入った。そして話はコンコルドの採算問題にまで飛ぶ。おそるべし、乗り物オタクである。
「但馬空港に保存されとるから見においで」って・・・
機体マニヤでなきゃ、わざわざ行きませんわな。
この勢いで、バスマニヤさまの「バス入門」が開講すした。乙女が目を白黒させとるわい。
電脳判事は「車体コレクション」専攻で、実際に長距離バスを愛用しているのは僕だから、ハード派とソフト派が居合わせて、濃度の高いバス旅レクチャーになったのでゃないだろうか。でも、こんなマニヤトークきいて「ぜひ、旅したいわぁ」とは思わんだろうな(笑)。
機会があれば、国鉄チャレンジ2万キロ達成者アルベルト君に、鉄分濃厚なレッスンを注入されるような場面も楽しみである。
純真な乙女に、「これぐらい知っとかないとモグリ」とプレッシャーをかけて、マニアックな旅へ仕向ける罪な男3人組。そのうち、「この線区はEFからDDにつなぎ替えるのよね」てな話ができるようになれば、上出来である。
あぁ、罪な!
三都物語
at 2004 05/09 22:05 編集
大阪で、京都新聞の若手記者氏に熱弁(?)をふるって、「じゃー僕は神戸へ帰りますサヨナラ〜」と、阪神電車に乗った。
甲子園駅にこぼれそうにナイター感染いや観戦客がひしめいている。
ユニフォームそのまま着た兄ちゃんまで!(笑)
でも、通勤ラッシュアワーなみに満員になった車内は、やはり通勤電車のような静けさ。
熱狂的に応援して、公共の交通を整然と利用する。このマナーはすばらしい!
スポーツマンシップは、「ファンシップ」のようなものとワンセットになって、地元を幸せにしてくれるもんだなーと思った。サッカーでも同じだろう。
特別に阪神タイガースファンというわけでもなく、「巨人と戦っているチームのファン」というだけの僕ではあるが、いいファンはスポーツ文化全体を育ててくれるような気がする。
だから、アンチ巨人を許してやー巨人ファンだった父よ・・・と、納骨式を明日にひかえて天国に叫んでみた。
国民念禁
at 2004 05/09 16:52 編集
あらまぁ、閣僚や議員や政党幹部の年金空白が出てくる出てくる・・・。
たたけば、もっとホコリが出てくるのではないか?
あってはならないと思っていたことが起きると、憤りや怒りが出てくるのは当然。
そんな気分になりたくなければ、「あってはならないこと」を「あって当然」と考えるのも知恵だろう。政治屋を性善説で見るのは脳天気すぎるわな。
政治屋ご自身も、いっそ「実は、国会議員と大臣全員に未納期間がありました」という演技でもいいからカミングアウトをすれば、辞任ですむ問題ではなくなる。つまり、だれもやめなくてすむぞ。否応なく、もう国民年金は御破算!という形になれば、合本的な見直しができるかもしれない。
サイキック青年団(実は中年団)は、「社会保険庁には年金運用など任せておけないから、ゴールドマンサックスあたりの外資に信託すればどやねん」と、投げやり案をぶちまけていた。そうなる気持ちも無理はない。
「老後の生活資金を国に頼るのは危ない」と思う国民は加速度的に増えるから、破綻は前倒しされるのではないだろうか。
ではどうするか?となったとき、いくつかの道があって、
1.福祉国家(国権で税を財源として社会保障をまかなう)
2.個人運用(店をするとか、金融商品を運用するとか)
3.コーポラティズム(会員制の互助システム)
4.身内の助け合い
が、主立った選択肢かな。
国というものの信用が根本的に揺らいでいるから、1はそっぽを向かれそうだし、人生設計を国や会社任せにしてきたサラリーマンが今さら「脱サラ開店」というのも、ちょっとねぇ・・・。
3は宇沢弘文さんらが提唱している共同体構想で、僕も勉強中というところだが、昔々の日本には講という形で根づいていた。だから、4と組み合わせて、案外いけるかもしれない。
そのためには、とにかく日本人よ、せっせと子づくりして高齢者と同居して、大家族とムラ社会に回帰せよ!とS経新聞の鼻息も荒くなるだろう。
それも案外おもしろいかもしれない(他人事のようにおもしろがっているだけだが)。
規制緩和した経済特区ができているぐらいだから、逆に婚姻の自由は認めない「強制結婚特区」をどこかにつくって、そこでは医療も教育もタダとすれば、ひょっとして地上の楽園に見えてくるかもしれないぞ。
少し演出して、鈴木京香や阿部寛あたりを仕込んでおけば、効果抜群。
なんだか、集団結婚式やってる某教団の発想やな(笑)。
徴兵制度がない日本人だから、徴婚制度で世界をアッといわせるのも妙案だ。国がカップリング事業に乗り出すわけである。
「家事・育児をしない夫、働かない妻は、返品交換できます」とすれば・・・あぁ、もしかして返品の山になるかな。
しかしこんな地上の楽園構想、50年代の「新天地移住政策」を思い出させる。そのオチは「やっぱり楽園はありませんでした」という移住者の本音だったりする。
夢を見て醒めるのも不幸、夢が見られないのも不幸。
夢を見続けようとするのは、幸せなのか不幸なのか・・・?
変身!
at 2004 05/10 17:52 編集
わかってはいたものの、次は誕生日まで、祝日のないタイトな労働が再来した。
ささやかな抵抗で、通勤カバンにはシーナさんが常駐。
お守り気分かな。
カバンといえば、けさ通勤電車に乗っていたら、並びに若手ビジネスマンが大きなボストンバッグとオーバーナイターの二刀流で座り、オーバーナイターを机代わりに経済書のようなのを熱心に読んでいた。
気合い入ってるなぁ。あのカバンの中すべて本だったら驚愕だ。
お勉強する勤労者の姿は尊いと思う。
がんばってほしい。
大阪からは就職活動か、リクルートスーツの女子学生が乗ってきて、ビニール袋に入っていた毎日新聞を読み始めた。チラシが入っていたから、たぶん「一人暮らしワンルームマンション5万5千円バストイレ別」にお住まいなのであろう。これまた、がんばってほしい。
大スポを購読してる女子大生がいたらエラいと思うが、世の中そこまではなかなか進化してくれない。
正装といえば・・・
きのう墓の落成と納骨で兄弟が集合したら、僕一人がポロシャツ姿で、兄には「おまえ、ふだんはネクタイしてるんやろ?」とチクリといわれた。ハイハイそうです。
ふだん兄はヘルメット、弟は(たぶん)サンダルがトレードマークのような労働姿だから、僕が一番お堅い格好をしているはずだ。
その反動で、ふだんは「猥褻一歩手前」までラフな姿に流れてしまうのである。
仕事では「正装」がなんとなく決まっていて、そのかわりオフはできるだけ「素」で過ごせるというのがいい。平服で行ける冠婚葬祭というのも、もっと増えればいいのに。
E男
at 2004 05/11 13:48 編集
ふと「真夜中NHK」を見たら、「いい男について語る山口小夜子」が出ていた。
おぉぉぉぉ、懐かしいというか、永遠に変わりません!この元祖スーパーモデルは。
水戸黄門で風呂シーンを四半世紀も演じつづけた由美かおる、ふけないイリュージョンを駆使するプリンセス天功、最近見ない水森亜土とならぶ、永遠のファンタジーである。
番組は、フランス映画に見るいい男の条件は?とクイズ形式のゲストトーク。
ヒントで「エ」だけフリップに出ていたので、サイキックを聞き終わったばかりのゲスい僕は「そりゃーエロスだろ」と勝手に断定して一人満足していたら、そこは天下のNHK、正解は「エレガンス」だった。
回答者が、名前も思い出せないほど影の薄い面々だったから、さかもと未明や森園みるく女史あたりが並んでいたらよかったのに。
で、「いい男」を人民に尋ねるロケ班が、まずおばーちゃんの原宿こと巣鴨のとげぬき地蔵通りに出て街角インタビュー。グフフフフ笑い、ウィッヒヒヒヒヒ笑いをまじえつつ、元おねーさんたちは「やっぱぁ、アランドロンだにぃ」「ジャン・ギャバンもいいわん主人に似てるの」・・・。
いやぁ、おばちゃんたちもキュート。
たとえアランドロンがお忍びで来日しても、おはぎ持参で全編日本語オンリーでデートしたりしそうな日本のおばーちゃんは、銀幕のいい男にモテモテではないだろうか。
ロケは、続いて元祖原宿で、コむすめどもにインタビュー。
こやつらが群がるいい男は、「ベッカム!」「中居くん!」とまぁ、ストレートでわかりやすい。
なぁデビッド、この英語も日本語もまともにしゃべれん発情娘、どうよ?
ビクトリアに圧勝できる魅力的キャラクターは、やはりグフフフフ笑い、ウィッヒヒヒヒヒ笑いの巣鴨おばーちゃんではないかと思うが。
スタジオに戻って、山口小夜子がエレガンスを「粋」と訳していたのは、さすがのセンスだ。
決して、ニットの貴公子広瀬光治やカバちゃんみたいな(一緒にして申し訳ない)なよっとした物腰のことではない。
なにげない所作の気配りに、エレガンスは宿るのだ。
といえば、日本橋のモバイル専科というパーツ屋に、「お買い上げありがとうございます」と、ちょこっと首をかしげて礼してくれる細面の店員氏がおられるが、これもエレガンス(笑)かなーと思う。
山口小夜子そのものが醸し出しているのが、粋は年季の産物だというメッセージ。いやーすごい。硬質な声は、腹の底からカチッと出ているし、知性のオーラを感じる。
促成栽培で偏差値をかせいだエレガンスは、その手のキャンパスに行けばふわふわ歩いているだろうが、たとえば陽の当たらない福祉の現場で20年、30年と磨き上げられたような技も、若く輝いてなくても、見る目を持った人を圧倒する。
学校の先生も、普通の親も、長年やって疲れた顔ばかりしてないで、渋く美しくなってくれたら、相手の心は離れて行かないだろうに…と、ふと思う。
疲れてはいないがさっぱり渋くもない僕が「エレガンス男」になれる日は、今世紀中に来るのだろうか。
あのー社会の窓が
at 2004 05/12 11:51 編集
130Rという芸人がいたと思ったら、今度は「175R結婚」というニュース。
「326」を(北島)三郎だと思っていた芸能オンチの僕には、さすがに175R=イナゴレボリューションとは読めなかった。昔、よくR175を通って明石まで往復30kmのサイクリングをしてたがなぁ。
0930がオクサマとか、なんだか暗号みたいな芸名もあって、0430(オジサマ)にはついて行けん。
語呂合わせといえば、公衆電話や郵便受けのチラシでおなじみの「0721ボイス聞かせます」というのがあった。
ちょうどその類の宣伝が全盛期のころ、顔なじみの19歳コ娘からもらったメールのアドレスが、なんとか0721なんとか@ドコモになっていて、よほど問いただして叱咤激励(激励は余計)してあげようかと思ったが、そのコの誕生日をつけていたらしいので、そっとしておいた。その前日が僕の誕生日だから、あぁ1日早く生まれていてよかった。
はたして、そっとしておいてよかったのか、泥をかぶる覚悟で御注進してあげればよかったのか、悩むところだ。
悩み続けてはや数年、今そのコ娘はどこで何してるやら。
だれかに指摘されて、「気づいていたくせに、ヒドい!」と矛先が向けられるかもしれないから、消息プッツリは神様の施しかもしれない。
アーバン・フィトンチッド
at 2004 05/13 13:15 編集
12時間拘束から解放されて、プラットフォームで電車を待っていると、「あら、ども。お疲れさま〜**です」と声がかかる。
こんな声のかけかた、気がきいている。
ふだん、街でばったり面識のある人物と出会ったとき、たとえば「よっ大将!」てな声をかけるようなシーンがある。こんなとき、「大将」に対応する単語が案外ないものだ。
「あ〜ら社長」とホステスが呼んでくれたり、「係長!一杯いきましょう」と部下にキャッチされたりする経験はないが、あったとしても「やあ、社員!」と返すのもおかしい。
声をかけるとき便利な肩書きは、「非対称」なのである。
だから、御芳名を名乗っていただけるとわかりやすい。
かといって、「ヒトミです。忘れたの?」といわれるとドキリとするが、まぁそんなことは断じてない(だろう今後も)。
飼ってた猫が死んじゃって、葬儀を出してもらいまして・・・というような話をしみじみうかがって見送り、なんとなく平和な気分で1週間が始まった。
始まったと思うと、翌日は休みなので、いつもの散歩トライアングルに出かける。
週はじめの12時間でぐったりしているか、リカバーしているかで、その週の勝敗が占える。幸い、余力が残っていた(笑)。
藤原新也さんの『空から恥が降る』が文春文庫出でいたので、新刊で買っていた単行本と入れ替えようか・・・と思ってレジへ。
こんなとき、書棚の場所ふさぎになっている単行本の行き先は、「ヒトミ」さんであったり、アウトドア仲間であったりする。
ライナーノーツのようなオマケでしかないものの、解説がついてコンパクトサイズの文庫の方が、僕にはありがたい。
ふだん通勤で乗り降りする新大阪駅に、一昨年オープンした食品店があって、なかなか品揃えは気がきいていて、「色ものコーヒー」を扱っている。邪道といわれようと、僕は色ものコーヒーは好きなのだ。
糸巻きのようなちっこい缶で、何種類かのフレイバーならんでいるので、つい買いおきしてしまう。
割高だが、少量ずつ空けて行く方が風味にはいい。
その1つを家で煎れて、読み慣れた新刊書(変なの)をあらためてパラパラ読む夜中は、心地よい時間だ。
藤原さんのコラム集は、もともとハワイで遭難した愛媛丸について書かれた一筆から始まっていて、今のイラクでの米軍の動きを重ね合わせながら読むと、藤原新也の透視力のようなものが浮かび上がってくる。人の生死を写し留める「藤原カメラ」は、独特の文体で読み手に迫ってくる。
水曜日は、真夏のように暑かったので、夏シャツでも見つけるかと思って阪神百貨店に寄ってみた。
んー、ふだんは阪神びいきでも、どうもタイガースデパートはいけない。地下は大繁盛していて、駅構内にまで、「行列のできている阪神百貨店名物イカ焼き」の芳香が漂っている。それはよろしい。
ところが、あいかわらず紳士服フロアは閑散としていて、なんだか店員の方が多いぞ。ビシバシささってくる視線と、世話を焼きたくてウズウズしている揉み手に恐れおののいて、結局素通りして出てきてしまった。
無駄な途中下車になるのもしゃくなので、となりに新装開店したブックファーストをひやかす。
おぉ、これはいい感じの、静かで高密度の書店だ。表示も明快で、インテリアもシック。
植物図鑑(葉っぱ図鑑)を買って帰る。
新緑の裏山散歩が楽しみ。なんとか週末につながるスタミナになるかな?
玲子と猿
at 2004 05/14 15:15 編集
明日は朝イチ、早起きしないと・・・どころか、数時間後に出勤という明け方近くになって、おとなしく寝入らずにゴソゴソゴソゴソしてしまうのは、困ったクセだ。
昨夜というか今朝も、トルーマン・カポーティーの『夜の樹』という短編小説集を何気なく読み始めたら、これがまた陰鬱な短編小説集をばかりで、2つ3つ読んで睡眠が浅くなってしまった。
ま、半ドン勤労日だから何とか声をはりあげて無事終了、ランチタイムに神戸へ直帰。
ほんと何気なーく元町を歩いていて、昼食は立ち食いソバ屋でザルソバに決定。食べ終わるころ入ってきた客が、「ザル中華やってる?」と声をはりあげる。え?なんじゃそりゃ。メニューにものってないがに。
店員は平然と「やってますよー、620円ねー」と、つくりはじめた。
なにぶん立ち食い屋だから、「ごちそうさま」した後に居座るには手持ち無沙汰すぎて、おさまりがつかない。
冷やし中華と同じやろか違うんやろか・・・でも冷やし中華にザルはいらんやろ。
わがザルソバの倍近い高額メニューだから、よほど具沢山なんやろか、もしかして手長ザルのだし汁ラーメンか・・・と、???マークを頭から乱射しながら、店を出てきてしまった。
世の中、不思議なメニューもあるもんだ。
たとえば関東人からすると、大阪の喫茶店に必ずある(スタバでも通用するかもしれない)「玲子」も、玲子と美湖が合体した「レミーコ」も、やはり???マークを噴出させるメニューかもしれない。
これからの季節だと、鹿児島から西日本を制覇しつつある「しろくま」も、僕は大好きだ。薩摩センスは、愛嬌があって、親しみやすくていい。
ただ、さすがのしろくまも、東へ進むとき、日本一の怪食都市N古屋あたりが壁になって、なかなかたどりつけないのではないだろうか(きしめんも僕の好物だから、名G屋を蔑むつもりは毛頭ないけど)。
いろんな???メニューは、ローカルなまま残っていた方がいいかもしれない。
それにしても、ザル中華は気になる。
一度注文してみようか?
スロー&ミニマム
at 2004 05/15 14:41 編集
菅さんも小泉さんも、おたかさんも公明党も、年金は「穴だらけ」が判明。
年収数千万円の政治家が、意図的に数万円をけちるとは考えにくいから、これはもう、制度そのものに欠陥があるということではないだろうか。
欠陥を見えにくくするのが、迷信や神話の力。
61年に国民皆保険が決まったのだ!というのは、あくまでも政策目標だった。それが、今の世論を聞いていると、いつの間にか政策目標が「国民の義務」にすりかわっている。体制側も、反体制側も。
一方で、年金に頼らなくても老後は安泰な金持ちや、国営年金はかけ損をすると判断した国民や、国営年金の運営の杜撰さに憤る国民が、神話から目覚めはじめたのである。
「悪法も法なり」とはいうものの、それが法治国家の落とし穴でもあって、悪法には従わない自覚ある国民も出てきて当然だ。
所得を捕捉しにくいフリーターの急増も、予想できなかっただろう。
社会人類学でいうポトラッチという原始的な「財の交換」も、金額で算出できないので(政治家、官僚はもっと社会学を勉強した方がいいぞ)、たとえば「ただで働きますから食わせてね」というスタイルの生き方をしていると、低所得者として健康保険・年金保険には加入できても、負担が免除されるから、フリーライダー化する。
その最たる例が、専業主婦という存在だ。
経済成長の夢がなくなった国民は、「何百万円もの可処分所得はいらないから、つつましくても健康で文化的なミニマムな暮らしができれば、それでいい」という気分になるのも自然だろう。
「家庭や地域で必要なお手伝い」はしますよ、でも国に金を納めたくはないですよ、でも医者にかかったら医療費の7割は国が負担してね・・・とまぁ、主婦っぽくなりたがっているのではないかなぁ老若男女ともども。
野心的な国民はどんどん「労働」に励んで所得税を払い、消費も多いから大型間接税も払うから、社会保障は基本的に税でまかなうのが正義だと思う。
所得にかかわりなく一定額という国民年金保険料は、逆進性を持っているから、月収13万円の人にとっては10%もの負担で苦しい、月収130万円の人にとってはたった1%の負担で痛くもかゆくもない(それでも未納が発生する)。
これが制度そのものの欠陥だから、経済力に応じた負担ができる間接税でまかなう方がいい。
で、大真面目に僕がマニフェストにしているのが、「ブランドじゃらじゃら姉ちゃん税」「車でキャンプに行くやつ税」「夏のネクタイ・パンスト税」「美女はべらしイケメン税」などなど。
いらんことに金かけすぎとるぞ日本人!というスローライフ主義といえばかっこいいが、まぁただの貧乏人のひがみ根性+雄叫びかもしれないな。
マイナス思考は健全ですよ、と五木寛之さんもおっしゃっている。
古くは三種の神器、その後はカー、クーラー、カラーテレビの3C、今ならパソコン、携帯、DVD・・・てとこだろうか。買え買え買えと煽って、「買うためには働け」が経済政策の思惑なのだろうが、なければ暮らせんか?
「あれもこれも、いらない」と却下して行けば、ずいぶん静かでほのぼのした暮らしができると思う。
パソコン4つPDA4つ電話4回線をひきずっている僕が雄叫びをあげるのも矛盾しているが、テレビは見ないしエアコン持ってないし足は自転車だけ・・・で相殺できないか?
いっそメールは伝書鳩にして、ホームシアターなんぞやめて電器屋で街頭テレビ、マイホームはテントにして、電話はトランシーバー、教育は自分で師匠を探して弟子入り!
と、こうなりゃホームレスやな。チープだが負担も低額で、ヘルシーな暮らしになると大真面目にワタクシは考えるが。
来週末は、星を見るだけのキャンプを仲間と計画していて、少し勢いづいているせいかもしれない。
黎明期のアルピニストで、高校山岳部員だったころ、山にテントを張って通学していたというつわものがいたそうだ。
心配した親に相談された担任の先生、酒を持って様子を見に行って、「元気でやっとるか。俺も泊めてくれないか」。
いいエピソードだなぁと思う。
そうだそうだ!と賛同して下さる方からは、紙メールをもらえたらうれしい。
あぁ、心ときめく「文通」にも、淡い郷愁を感じるなぁ。色欲煩悩からは解き放たれていないかも(笑)。
マスかき
at 2004 05/16 23:13 編集
「百ます算」の蔭山校長と、元吉本常務の木村政雄さんがFMでトークをしていた。
なんだか毛色の違いすぎるタッグマッチだが、二人とも学生時代は報道志望だったらしいのが接点か?蔭山さんなど、岡山で深夜ラジオのアルバイトをしていたそうだし。
「人気商売」なのは、芸人も小学校の先生も共通している。
たまたま評判になった教育手法が持てはやされて、大声で「奇跡」や「メソッド」を売り出すようになった先生が今度は管理職になって、さて独善的にならなければいいが・・・と、僕はふと思った。
そこは生き馬の目を抜く百鬼夜行の芸能界を見てきた木村さん、絶好調の絶校長先生を前にして、「芸のよしあしは、お客さんが決めればいいんです。子供に媚びてもだめだし」とジャブ1発。いやぁ、大事なことをさらりとおっしゃる。
前からストレートにぶっちゃける人やなぁと尊敬していたけれど、そうそう、そうなんよね。
さらに、子供はこうすれば楽しいんです、だからこうすればいいんです、と断定する絶校長を牽制して、
「年齢がプラスマイナス10歳はなれると、もう本心からおもしろさがわからない。僕はダウンタウンもナインティナインも、なぜおもしろいのかわからない。だから、おもしろさがわかる若手に仕事を任せればいいんです」。
そうですねぇ。
ごくまっとうなご意見だなぁと思う。
たしかに、十年ひと昔ともいうように、10歳違う相手は異文化だと思った方がいいかもしれない。
それで関係が成り立たないとは思わないが、異文化の溝を越えられる人と越えられない人がいるのは確か。
たとえば同世代でも「親元歴42年」なんていう淑女とは何光年もの隔たりを感じる一方で、同じ敵と共に闘うような立場にいる汝なら、たとえ高校生でも同志である(ま、わが心の中では)。
好きなものを共有するより、憎めるものを共有した方が深い絆になるような気もする。
だから、世間一般の年長者と年少者の関係が、偽善的に見えてしかたない。
年長者は「こうなってほしい」という支配欲をカムフラージュして、君のために努力しているおじさん(おばさんでも、おねーちゃんでもいい)を認めてほしいとかすかに望んでいたりする。
「若い人の思っていることがわからないのは、どうすりゃいんです?」と尋ねる司会者に、木村さんは「わからないなら、それでいいんじゃないですか?わかってほしいと思う相手には、何か訴えてきますよ。それに耳を傾ければいい」というような、ざっくばらんな御返答。
不安げな年長者の視界から、恣意的に排除されている反応がある。
「自分で失敗して学ぶから、手を出さないで」
「私にかまってないで、おじさんも成長して」
等々・・・
こんなホンネが出てこない熱血先生レポートやボランティア礼讚は、かなりウソくさい。若い子を不安がる前に、おのれを診断するのが身のため若い子のためだろう。
前々から気になっている何げない言い回しで、教師などがよく「子供たち」という。
そりゃあ未成年者ではあるけれど、そういう意味合いではなく、「子供たち」といったとたん別のニュアンスが響いてくるのは僕の穿ちすぎだろうか。
「こちらは大人だ」という立場の違いを訴えているようにも聞こえるし、「何かしてあげたい」と大きな親切を押し売りたい大人の寂しさもヒュルルル〜と吹いている。
子供なんて、わかりまっせん(北野武ふうに)。
それでええんちゃうかい?
人のことより、まずおのれを把握して糺して、「子供たち」にいい社会を残すことやね。できるだけ、ボケず病まず汚れず、若い世代が自分から弟子入りしたくなるようなふけ方をすればいいと思う。
わかるということは、自分より弱い相手を導きたい(どこへだ?)とか、予測したいとか(育成ゲームかい)、つまりは支配欲の変形したマスターベーションにすぎなかったりするから、注意した方がいいよ子供たち!(笑)
というような揶揄や非難を受けても、どうしても義務教育は必要な国策的な意味を持っているから、難しい立場だろうねぇ。
山楽パトロール
at 2004 05/17 23:00 編集
空き時間に公園あたりでボーッとできれば精神衛生上はいいんだろうけど、なんとなく梅田でひまつぶししてしまう。野生人のつもりが、なんとも不甲斐ない。
梅田に新しく山屋さんがオープンしていて、念のためパトロールに行くと、けっこうにぎわっている。おそるべし、中高年の購買力を見せつけられた感じ。
昨夜は、23歳乙女にリュックとトレッキングブーツを売りつけてきた。
店員に代わって売りつけて、ついでに同伴してくれた仲間にも同じ靴を「いかがですか大将!」と売り込んで、3万円も店に貢献したぞ。
ったくもう、ボランティアにもほどがある。
スポタカより石井より好日より「安くていいもの多数」の店に買いに来ないキミはまちがい!と確信しているワタクシだから、売り込みにも熱が入る。店員のノリもよかったし。
梅田の店を見ていると、おねーちゃん客など、まずいない。
「あたし、これにしとくわ。アッハハハハハハハハハハハ」
とまぁ、ここでなんで笑いが入るのであるか?と思う節目節目に、必ずおばちゃん笑いが入る。
おかげで、いやぁ山につながる店はにぎやかで楽しい。
いま登山界には、口やかましい手取り足取りおやじがカリスマとして君臨しているけれど、氷川きよし似のクライマーでもいれば、日本アルプスにおばちゃん大量増殖・・・という、世にもおそろしい事態になるのではないかな?
それもほほえましいけど。
ふりだしに戻る
at 2004 05/18 14:46 編集
喫茶店でプハーッと息抜きするのがささやかな楽しみなのに、手にとった日経新聞が、「サラリーマン、変わらなきゃ」と訴えてくる。
変わった例を連載で紹介しているのだ。
なにぶん記事なので、だいぶ要約されているとは思うが、こんな親子物語である。
高校生だった息子が、不登校から引きこもるようになり、悩んだ親はカウンセリングや新興宗教にも出向いて、息子を変えよう変えようとしていたのだそうな。
が、あるとき親が変わりなさとアドバイスされて、子供と向き合うように意識した。
すると、あるとき「お父さん、許してやるよ」と、息子が引きこもりをやめたという。
親子関係が「再生」する感動のドラマである。
・・・か?
引きこもりにも、いろんな形、理由があるから、学校に原因があって、自宅がシェルターになることもある。もっと攻めの家族なら、砦か前線基地か、何か次のアクションを起こすための充電スタンドにもなるかもしれない。
が、親が原因だと思っていて、その親が築いた家に引きこもってネガティブな自己表現に浸るというのは、なんだか哀しい。
こんな引きこもりから足を洗えたのは何よりだが、そりゃアホらしくなるだろう。
いっそ彼女の部屋に転がり込む方が、なんぼか健全だし、彼女が大人の女性なら、何か得るものはあるのではないかな?
それにしても、言うに事欠いて「許してやる」とは、なんちゅう捨てぜりふだ!(笑)
なんだか、「ふりだしに戻る」みたいな展開ではないか。
「そうか、わかってくれたか・・・じゃあ、学校に行ってくれるんだね息子よ」
「あぁ、行ってやるよ。許してやるよオヤジ」
「そうか、では行っとくれ。・・・だがな、二度と帰ってくるなバカモン!」とぶんなぐってやれる気骨は、もう日本の父親に残っていないのだろうか。
ドラマ好きなカウンセラーなら、「精一杯の闘いを終えた我が子を叱りとばすのではなく、やさしく抱き締めて上げるのも、親の改心を表現するメッセージとして映るものです」なんて間抜けな感慨にふけって陶酔しているかもしれないが。
上の不登校克服ドラマは、どうしも「親をなめた息子」と、「息子に媚びたオヤジ」に要約されてしまう。
そう指摘する客観的な第三者がいないことこそ、不幸な状況だ。マスコミは涙の物語が好きだから、なんでもかんでも「絶望と再生」におとしめたり持ち上げたりするし、職業カウンセラーは寄り添ってくれないし、宗教ビジネスは救済してくれない。
いてほしいのは、幼いままの王子様に「きみ、何もわかってないね」とグサリやってくれるスナフキンのような村人だ。
そんな村人を「はみだし者」「風来坊」として消し去ってしまった社会で、似たような三文ドラマが再演され続ける。
ふりだしに戻る
at 2004 05/18 14:46 編集
喫茶店でプハーッと息抜きするのがささやかな楽しみなのに、手にとった日経新聞が、「サラリーマン、変わらなきゃ」と訴えてくる。
変わった例を連載で紹介しているのだ。
なにぶん記事なので、だいぶ要約されているとは思うが、こんな親子物語である。
高校生だった息子が、不登校から引きこもるようになり、悩んだ親はカウンセリングや新興宗教にも出向いて、息子を変えよう変えようとしていたのだそうな。
が、あるとき親が変わりなさとアドバイスされて、子供と向き合うように意識した。
すると、あるとき「お父さん、許してやるよ」と、息子が引きこもりをやめたという。
親子関係が「再生」する感動のドラマである。
・・・か?
引きこもりにも、いろんな形、理由があるから、学校に原因があって、自宅がシェルターになることもある。もっと攻めの家族なら、砦か前線基地か、何か次のアクションを起こすための充電スタンドにもなるかもしれない。
が、親が原因だと思っていて、その親が築いた家に引きこもってネガティブな自己表現に浸るというのは、なんだか哀しい。
こんな引きこもりから足を洗えたのは何よりだが、そりゃアホらしくなるだろう。
いっそ彼女の部屋に転がり込む方が、なんぼか健全だし、彼女が大人の女性なら、何か得るものはあるのではないかな?
それにしても、言うに事欠いて「許してやる」とは、なんちゅう捨てぜりふだ!(笑)
なんだか、「ふりだしに戻る」みたいな展開ではないか。
「そうか、わかってくれたか・・・じゃあ、学校に行ってくれるんだね息子よ」
「あぁ、行ってやるよ。許してやるよオヤジ」
「そうか、では行っとくれ。・・・だがな、二度と帰ってくるなバカモン!」とぶんなぐってやれる気骨は、もう日本の父親に残っていないのだろうか。
ドラマ好きなカウンセラーなら、「精一杯の闘いを終えた我が子を叱りとばすのではなく、やさしく抱き締めて上げるのも、親の改心を表現するメッセージとして映るものです」なんて間抜けな感慨にふけって陶酔しているかもしれないが。
上の不登校克服ドラマは、どうしも「親をなめた息子」と、「息子に媚びたオヤジ」に要約されてしまう。
そう指摘する客観的な第三者がいないことこそ、不幸な状況だ。マスコミは涙の物語が好きだから、なんでもかんでも「絶望と再生」におとしめたり持ち上げたりするし、職業カウンセラーは寄り添ってくれないし、宗教ビジネスは救済してくれない。
いてほしいのは、幼いままの王子様に「きみ、何もわかってないね」とグサリやってくれるスナフキンのような村人だ。
そんな村人を「はみだし者」「風来坊」として消し去ってしまった社会で、似たような三文ドラマが再演され続ける。
陰陽道
at 2004 05/19 19:46 編集
身内の子供をダシにキティちゃんコレクターをしている(のではナイ!と本人は弁解する)ムッシュDがまが、今度は「日記のネタにいかが?」と、わが日記をダシに、コスプレ喫茶店に誘ってくる。
しゃーないなぁ、と渋々ご同伴さしあげた。
うちから徒歩20分の庭先だが、もちろん、こげなマル秘スポットができているなんぞ知らなかった。
ムッシュDがまは、はるばる日本列島を縦断して、もう2度目だそうな。ご苦労さん。
出し物は普通の喫茶店で、コーヒーを2杯たのむ。ほかにはケーキとピラフ類。調理する店員はいないようだ。
メニュー冒頭には、「携帯を含むカメラ撮影厳禁」とクギをさしている。
よほど、おマニヤさまが集まるのだろう。
で、店員のコスチュ〜ムは・・・
これまた、なんといえばよろしいか、わからない。まぁ、「めるへんちっく」やねぇ・・・としか、いいようがない。
ケバいわけでもないし、大真面目にやっているので、ただただ恐縮するばかり。おじさんは老婆になって「夏、暑いことないか?」「和式便所、無理ちゃうかい?」とねぎらいたくなった。
「こりゃ昔あった美人喫茶の現代版やね」というと、ほとんど同世代のくせにムッシュDがまは知らない。
歴史をひもとくと、美人を見せる喫茶店や音楽を聴かせる喫茶店、ノーパンを見せる喫茶店(笑)等々、喫茶店の出し物は、「時代が変われば品変わる」のである。
だから、コスプレ喫茶も当然ありだろなーと、あまり驚きはしなかったが、開店当初は「行列のできる喫茶店」だったらしく(並びよったのだ)、その姿を想像すると、俺は森田健作になる。
これがもし「Arashi喫茶店」だったら、やくざが「荒らし」に来るボケはご勘弁願うとして、少女ファンが嵐にお茶を出してもらうために行列をするだろうか。
そんな秩序は考えにくい。
女性ファンの世界は、出し抜く、引っ張る、おどかす、蹴散らすのオンパレードで、たとえば氷川きよしをめぐって血みどろの声援レースがくりひろげられている(笑)。「ズンドコ節カフェ」などできた日にゃあ、どすこい級のファンが店を仕切ってしまうだろう。
ところが、かつてはラムちゃんだ聖斗士聖夜だセーラームーンだの類(今のトレンドさぱりわからん)の男性ファンは、案外うまく統制がとれていたりする。
「みんなで仲良く応援してます僕たち」という乗りで、親衛隊ができるのもよくある話。僕の周囲にはうじゃうじゃいた。
鉄壁の横並び主義という感じで、僕には別世界だった。
おまけに鉄壁のファンタジーを共有しているから、「真夏にブーツ、絶対ありゃー足くさいでぇ」と突っ込もうものなら、「余計なこと言うなバカヤロー!!光線」が突き刺さってくる(ごめんよー)。
こんな世界の頂点が、ディズニーだろう。
ミッキーが頭を脱いで煙草を一服。
など、絶対ありえない(ことになっている)。
それはそれで、夢のある楽しい幻想世界だからいい。
これを表のファンタジーとすると、表裏一体のように、宗教社会学でいう千年王国論や陰謀史観という世界も生まれてくる。
太陽暦に対する太陰暦もしかり。
舞踏会に対する仮面舞踏会もしかり。
ドレス・コードに対するヌーディズムもしかり。
アメリカだけで、数千人もの神父や牧師に小児同性愛が発覚したのは、氷山の一角だろう。
裏の世界を見ないでいると、どこかで幻滅させられる。
だから、幻滅から世界と向かい合う方がええんちゃうかと思う。
「学校で真実を教えてくれると幻想を持つな」とか。・・・これは恩師の至言だった。
睡蓮
at 2004 05/20 13:23 編集
まったくもう、困ったことに、明け方また「バスタブが寝床」になってしまった。
ラジカセをかけながらつかっていると、寝入ってしまう。一度や二度や三度や十度のことではない。
そのうち、溺死か冬なら低体温症で逝ってしまうよ!と叱ってくれた女性がいたような気もするが、すでにそれを記憶した脳細胞が死滅してしまって(笑)わからない。
どうも、人々が楽しく談笑している声を聞いていると眠くなるようで、これ「居酒屋の法則」でもいえばいいか。
わが風呂に咲いていた話の花は、ひょっこり出てきたサイキックの録音テープだったが、猿岩石がはやっていたころの放送だから、けっこう昔というか、案外つい数年前かもしれない。
90年代デビューのお笑いタレントは、あぶくのように消えて行くのが多い。淘汰といえばそれまでだが、つぶやきシローは個人的には悪くなかった。吉本の島田珠代がテレビから消えたのは、どうしても納得できない。
復帰嘆願書でも書いて、署名を集めようか?
そんなことをウニャウニャつぶやきシロっていたら、また眠くなってくる。昼寝して、再出勤するか。
Kill me softly
at 2004 05/21 15:20 編集
宇都宮の監禁事件、結局2人とも死なせてしまって、何のために警察が説得だ突入だと騒いだのかわからん、空しい結果に終わった。
短絡的に考えると、窓から姿を見せた瞬間に狙撃すればよかった、という人もいそうだが、実態は監禁事件というより、二人で自決したようだから、かりに片方を救出しても、いずれ死を遂げたかもしれない。
それでも、時間をかけて追いつめたことが、自決への花道になってしまった可能性はあるのではないだろうか。
日本の裁判は長すぎると不評だが、警察も緩慢すぎる。「被害者が出てから捜査」は小役人ポリスの常識だし。
射殺は穏便ではないし誤認射殺は取り返しがつかないから、強力な催眠ガスを室内に注入するとか、頭を使えば被害を最小限にくいとめて犯人逮捕ができるんちゃうか?と、素人なりに考えるのだが・・・。
こんなときに備えた化学兵器を開発して、活用すればいい。
バイオテロや化学兵器は無気味なイメージもあって拒絶反応もあるだろうが、テクノロジーは必ず進んで流出・拡散するものだから、タブーにするのではなく開発しつつ管理するしかないと思う。
毒ガス開発者も、吸うと世界が美しく愛しく思えてたまらなくなるガスや、怒りが消えて笑うしかなくなるガスなんてのを開発してほしい。もしかすると、すでに開発されているのかもしれないが。
眉唾ものの「超ストロング媚薬」の類が男性誌の広告にあふれているのを見ると、世界の老若男女の期待はつい「そっち方向」に傾いて行くんだろうなぁ・・・。
かえって、隠すことでロマン(?)になってしまうのが、UFO神話。あんなもの、僕は欧米で開発された新型兵器だと思っている。ヘリコプターだって、最初はそうだった。
兵器となれば秘密が守られなくなるし、軍拡につながるから、「宇宙人の乗り物」ということにしといた方がカムフラージュになる。
それはそれで楽しめるし、UFO関連消費もGDPに少しは貢献しているかもしれない(笑)。
ね?韮沢さん!
北の国から
at 2004 05/22 16:59 編集
拉致被害者の家族が帰って来るそうだが、それはもう日中友好パンダ以上の見世物報道が過熱するのではないだろうか。
僕もテレビで見る決意(笑)であるが、「ビートルズ初来日タラップシーン」のような騒ぎになり、やがて飯を食った、学校に入った、散歩した、買い物に行った・・・と、プライバシー皆無の張り付き報道は当然予想される。「本日の蓮池さんコーナー」、「時報のあとは池村さんコーナー」ができたりする勢いで。
それにしても、「お帰りなさい」といえばいいのか、「ようこそ」といえばいいのか・・・。
顔立ちはよく似ているが、北のテレビでは「米帝の有害思想に毒された敵国イルボン」として教育されてきた日本社会で、「在日日本人」として暮らす大学生は、たいへんなストレスもあるだろうと思う。
うまくなじんでくれたらいいなぁと願うばかりだが、それが幸せなのかどうかは、ご本人家族が判断すること。
その家族にしても、久々に再会できた親は日本語をペラペラしゃべっているし、一体この現実は何なのだ???と戸惑うかもしれない。
何をしてあげようか、鶴橋コリアンタウンに連れてってあげようか・・・等々と世話好きな日本人は考えるだろうし、僕も北のコリアンフードと本邦コリアンフードの対決ジャッジは聞かせてほしいなぁと素朴に思う。あと、偉大な将軍様が育てた喜び組と、つんくプロデュースのジャパニーズ喜び娘との対決評も。
まぁ、勝手な期待はさておき、大切なのは、そっとしておくこと、SOSがあれば必要な支援はすることぐらいで、あとはジュニアたちがカルチャーショックを自分の将来に活かして行けばいい。
日朝友好の役に立つ人材になってくれるかもしれないと期待するのも大きなお世話だろうが、しかし・・・もしも焼き肉屋や冷麺屋でも開業すれば、大繁盛しそうだ(笑)。
ふと、『パパラギ』を連想するのは失礼かもしれないが、蓮池さんジュニア、池村さんジュニアたちの「アウトサイダーから見た日本観は、日本の薬になると思う。
あえてアウトサイダーになってみて、目からウロコを落として自分の周囲を観察するエスノメソドロジーという企てを立てたのが、往年のカリフォルニア大学の社会学者たちであったが、いま国も企業もアメリカも信用できず浮遊している日本人は、案外アウトサイダーと共感できるところがあるかもしれない。
大峰山
at 2004 05/23 18:28 編集
初夏の日ざしに緑したたる・・・がぴったりの山へ、ドタバタ登山隊3名を召集して出かけてきた。
廃線跡ウォークが静かなブームになる勢いで、一般人の鉄分を高める効果を発揮している(?)関西では有名な渓谷へ。
緑の美しさにみとれているうちに、知らんうちに山頂を通りこしてしまい、「登頂って実感がほしかったわぁ」と女子部長が嘆く。
最初「大峰山って、女人禁制ちゃいましたか?」と心配していたが、宝塚の大峰山は修験の山ではない。「あ〜ら神サマ、お堅いこと言わないの言わないの!プルンッ」と祈祷しておけば大丈夫やで、とおバカな戯れ言をほざきながら歩いていたら、それみたことか道に迷ってしもたがな。
遭難か?食料はあるから大丈夫やな!と不吉なことも想像しながら道を探して、結局もう1つ登頂したような徒労感。
この前の連休に、初めて携帯を買い替えてGPSつきというのにしたのはいいが、緯度経度を測位しても地図がないわい。山道のサイトもないし、経緯を引いた地図も持ってなかったので、役に立たんわい。
谷筋で肝を冷やしたり、崩れかかった山道にてこずったりしながら、結局オーソドックスに方位磁石と勘で下山でルートをさぐって、なんとか下山できた。
プリムスに着火して、大沢シェフ特製配合カレーうどんに腕をふるう。ふるうったって、麺とカレーをぶちこんで煮るだけ。どうも配合は失敗だったようで、マウンテンバイク部長と女子部長は、そろって複雑な感想をもらしていた。
ま、今後の課題としましょう。
この暑さだと、ハイキングはそろそろ夏季休業としようか。「頂上よりバーベキュー」にシフトするのがこのころだ。
今年は穂高へ!と、カヌー部長と気合だけ入れてきばる初夏は、もう3度目になるだろうか。
彼の新妻は元教え子だから、未亡人にするのも気の毒だしなぁ・・・。
ノース・ラポール
at 2004 05/24 17:23 編集
予想した通り、出てきたぞ「拉致被害者家族へ心のケア」論。
おいおい、あの子たち、すでに病んでるわけか?
首相と同じジュースを飲んでも許されるどころか、ジャパニーズ喜び組の飲みかけジュースなんぞ争奪戦になるとか、
ローンに縛られて自殺するプロレタリアートがいるとか、
専業主婦という生き方ができるとか、
プロレタリアートの平均日給ぐらい払えば、春も買えてしまうとか
・・・
いろいろ驚愕の事実は見るだろうと思う。
そのせいで精神的に変調をきたすというなら、カウンセラーの出番かもしれない。
ちょっと敷居の高い異文化適応をせんといかんのは確かだが、日本人が普通に暮らして幸せな姿を見せればいい。そこで「気配り」をすれば。
「ケア」とか「サポート」というと、「専門家の仕事」と誤解される危険がある。「アセスメント」「インターベンション」等々になると、なおさらだ。
専門家まかせの風潮は、実績がほしいカウンセラーにとってはありがたいだろうけど。
日本移住した子供たちから、これから星の数ほどのナゼ?が噴出すると思う。
ナゼ?に答えないカウンセラーは、かえって悩ませることにならないだろうか。
「なぜ日本人は死ぬほど働くの?」
「なぜ日本人は死ぬほど働くのか、あなたの疑問はよくわかりますよ」
「だから、なぜなの?」
「疑問を持つのも、ごもっともですよ。それでいいんですよ」
「だ・だ・だから、なぜなの!?」
というような、トンチンカンな場面がなければいいが(笑)。
またまたデジカメ
at 2004 05/25 12:06 編集
夕方にFAXで注文したデジカメを、翌朝いきなりクロネコが配達してくれよった。東京から。
早いにもホドがある!と、怒っているどころかアッパレ気分なのだが、店の屋号もよろしいねぇ。「賞栄堂写真機店」と風格があって。
ソフマップの中古品より1000円高いだけで新品が買えた。価格ドットコムさまさまである。
アングルフリーになる「板型デジカメ」は、フィルムカメラには絶対できない構造なので、エッギィに始まって3台目なのだが、どうせなら、デジカメはデジカメならではの利点を発揮してほしいわなぁと思う。
フィルムカメラは光軸がフィルムに直角に入らなくてはいけないので、「薄いカメラ」には限界があるし、レンズ設計にも制約がある。
デジカメだとCCDと記憶素子と光軸は切り離せるから、板型カメラを作った場合でも薄い方の辺にレンズをつけることができる。
広い方の面にレンズをつける発想は月並みすぎるし、画素数何万とフィルムカメラを意識しているわりには、フィルムカメラの呪縛から解放されてないなぁと思う。
現実には、大事な記念写真でさえ「写るンです」で満足していた膨大な消費者は、携帯カメラで満足するだろうから、「写真は携帯で」が普通のスタイルになって行くだろう。画素数も、かつて車好きをこだわらせたエンジン排気量ぐらいの意味しか持たない記号になって行くような気がする。
デジカメがフィルムカメラを追っかけているうちは、なんだか奴隷根性が匂ってきて好きになれないし、どう金をかけたってライカやハッセルブラッドのプレゼンス、オーラ、神話性は、デジカメには宿らないと思う。
「便利でいい」だけで一辺倒になれる人は、たぶん便利な食事、便利な友達、便利な快楽、便利な旅を追求して、ご自身も便利屋さんになって行くのだろう。便利な彼氏、便利な彼女・・・レタッチできます消去できますコピペできます・・・てか?(笑)
けれども、イ