solosolo@JUGEM

そろそろ、ゆっくり、こっそり革命!
2004年12月の日記
スカートもスキーも…

at 2004 12/31 15:21 編集

ショートスキーを買いに老健ワーカー君をハーバーランドに案内する。
スキーをやって、ボードをやって、次はショートスキーとまぁ、好奇心旺盛でけっこう。
おまけに、用具は安くなっている。
僕が長い板からショートに浮気した3〜4年前、あんなちゃちな短い板がなんで3万もするんや!?と憤るしかなかった。選択肢もほとんどなかったし。

でも、使ってみると、「これで充分やがな」と目ウロコ気分。
ビンディングはドイツ製で、ブーツはイタリア製で…とこだわっていた我が身がばかばかしくなる。
これで滑れないところは国内にはないと思う。日本一の斜度だという45度のコブ斜面も、トランポリンをしているような感覚で滑り下りられるし。
長くて重い「前世紀の遺物」は、使わなくなって何年も、まだ玄関脇につっ立っている。

さすがに、長い板や強靭で微妙な力を扱うビンディングは、ヨーロッパ製の天下だが、ちゃちなものは激安で造ってしまうのが中国である。
「なんちゃって品」を平然と粗製乱造するイメージもあるものの、ことショートスキーに限っては、いくらブランドものといっても、あの短い板とハリガネだけのビンディングで1セット3万円という相場価格は高すぎる。「ニホエンデ、ゲンカ500エンデ、デキルヨ」という乗りで請け負ったのではないかと思しき中国製を、ワーカー君は7000円で買って、喜んで帰って行った。
正月明けに、一緒に223系に乗って(お互い鉄分が濃い!笑)試し滑りしに行きましょう、ということになっている。

暖かくなったり都市型お楽しみスポットが増えたりして、スキー人気が凋落の一途をたどっているとかで、業界人は大変だろうが、けっこう初期投資がかかるのもネックだろうなぁ・・・と、僕は大日本スキー教教祖として憂うる冬である。
テニスなら、ジャージだけ着てれば、ラケットもボールもどこかから回ってくるものなのに、スキーウェアは何万円もする(僕はダイエーのフリースに、秋から春までふだん着のヤッケを重ね着するだけだから安上がり)。
レンタルスキーは1日数千円、自前で「危なくない」レベルのを買うと1セット5万。
一般人なら、いつモトがとれるやら…とため息をつくだろう。家庭を持ったりすると、モトは回収不能だ。
いまだに、バブリーな時代の、リオのカーニバルなみラメ入りピンクのスキーウェア(そんな恥ずかしいもん二度と着られない)をたんすの肥やしにしているオバサンも多いと思う。

そう考えると、ショートスキーは福音になるんだがなぁ。
あの、履いてるか履いてないかわからないような短い板は、ファッションに凝る必要がない。というか凝っても無駄だから、雨合羽でもよろしいのだ。
それに、せまいゲレンデで小回りがきくのも重宝する。半径50cmのウェーデルンなんて芸当は、そこのサロモンレーシングモデルのおにーさん、真似できんでしょう?
都心でトロトロもたもた走っているフェラーリより、自転車が速いのと同じ理屈だ。

日本国には、自転車とショートスキーが似合っている!
脱亜入欧は愚者の発想!
と、愛国メッセージで今年の日記をしめくくっておこう。


ハーバーパトロール

at 2004 12/30 06:19 編集

今年も寄りつかないまま、ルミナリエが終わってほっと一息。
この2週間、「徘徊重点エリア」は、三宮〜元町からハーバーランドへとシフトしていた。
そのわりに、プロメナのお向かいの新装開店ビル、ビーズキスに行ってなかったので、愛車をこいで視察してまいった。

スタバが出て行ってシアトルズベストが入り、ハードロックカフェと入れ替わりにファミリーマートが開店して、何だか全体にコンビニエントでファストな店が多い。

地階にあるスイーツハーバーは、ずいぶん前評判もにぎやかで、西日本最大級のスイーツのテーマパーク!!と雑誌やテレビで騒いでいたけれど、前も要するに「地階飲食店街」だったので、装いがスイーツに変わっただけで、大革新というわけでもない。
横浜中華街のような規模を想像してくる人がいれば、拍子抜けしやしないだろうか。となりのビルにある映画館では、「スーパーサイズ・ミー」ほやらないだろうなぁ・・・
まぁ、職人さんたちが一ヶ所でしのぎを削るスポットというのは、見ごたえ+食べごたえがあると思う。

甘味どころは、怪しいオッサンが一人で徘徊すると、どこかの業界のスパイかと思われるのがオチだから、今回は通過。

しかしこのビルにしても、渡り廊下でつながっているプロメナにしても、よくいえばゆったりしているというか、テナントで埋まっているわけではなくて、間延びした感じ。もったいない。

トイレを探してフロアの隅の方に迷い込んで行くと、ひとけがなくてひっそりしている工事現場のような空間に出くわしたりする。
そこから眺める夜景の美しいこと!(笑)

案外、集客の狙いがはずれたファッションビルに、穴場的くつろぎスポットができたりするもので、今がチャンス(何のや!?)かもしれない。
次の「年末パトロール」先は、どこにしようか・・・


津波感覚研究会

at 2004 12/29 16:44 編集

スマトラ大地震で被害に遭った日本人リストの中に、「中心感覚研究会」というグループがあるのを、ワタクシは見逃さなかった。
犠牲になられた「研究員」にはお悔やみ申し上げるばかりだが、検索してみると、この研究会、ヨガをまじめーに研究しているらしい。東京には道場がある。
ヨガの道場は珍しくないが、「中心感覚」というネーミングがいい。

たぶん(いや絶対)意味は違うだろうけど、災害の被災地に暮らしていると「我こそ経験者」という中心感覚に不意に襲われることがある。それはたぶん、深刻な被害に遭わなかった幸運な立場だから持てる感覚だと思う。
世界中から注目されて、支援の手が差し伸べられて、ひととき話題の中心にいるような感覚。

芸能人ではない普通の農山村の住民にとっては、騒然とした支援の渦が引いていったあと、いいようのない孤独や絶望の大波に襲われる。
精神医学者がポスト・フェストゥムと呼んだこの精神状態にポッカリ空いた空洞に、心のケアという飴玉が大量投入され、それが当然と思われて全国の大学で飴玉が量産されている。

なんでこんな災難に遭わなければいけないのか。
そんな不条理に、真正面から答えられる人は、なかなかいない。ボランティアも医者も政治家も学者も。
災害救援や精神科救急を論じておられるある精神医学者は、被災者が怒り、悲しみ、絶望するのを邪魔してはいけない、と主張する。
心のケア専門家が敷いたレールの上で悲しんだり立ち直ったりさせられる被災者を見ると、なんだか論文のネタにされているだけのようにも見えてくる。何割かのカウンセラーにとっては、災害や犯罪の被害者+ご遺族は、「事例」であり「素材」なのだ。

避難所で、
「おねえちゃん、私らのことはええから、はやく家に帰らないと親御さん寂しがるよ」
「こんなことしてて、就職は大丈夫?」
とボランティアをねぎらっている被災者を見ると、相手を奥深く見抜いているのはどっちだろうと思う。

重いものを運ぶとか、シモの世話のような「3K作業」は素朴に助かる。「お疲れさま」「あぁしんど」「何も出せないけど、お茶飲んでって下せえ」ですむ、さわやかな関係だ。
けれど、全身全霊を注ぎ込んでのケアが評価されないときのケア屋さん(実際、粛々と仕事をしている真面目な善人が多い)の不完全燃焼感は、これまたケアが必要だったりする。ケアが必要な御自身が他人をケアしようと猛勉強(盲勉強)している状況それ自体が、ケアされなくてはいけない。
一生治らない――ように見える――クライアントもいる(表面上はカウンセラーだが)。こんな種族が「スピリチュアルなケア」とまで口にするおこがましさ、傲慢さは、どこから出てくるのだろうか。

はるかインド洋から所かわって、女児誘拐殺人のあった街では、かけこんで助けを求められる家や店にポスターを貼ったり、地域で配達の仕事をしているドライバーに「子供たちに目配りして下さい」と号令をかけたりしている。
それはそれでけっこうなことだと思うけれど、それって昔の街角や路地に普通にあった習慣ちゃいまっか?と首をかしげてしまう。コミュニテまるごと、自然にケアがやりとりされる空間だったのが、「玄関ドア一枚隔てた外は危険地帯」になってしまった原因は、どこにあるのだろう。

ニュータウンに小ぎれいなマイホームを買うのが夢でしたという住民に鞭打つつもりはない。
けれど、ローンを背負ってニュータウンに寝に帰るだけのサラリーマンの奴隷的生活とか、家の周辺の街のあり方まで考える住民は、凄惨な事件が起きる前にどれだけいただろうか。

人の欲望を発散させる装置がない、漂白された街――これがニュータウンだ。人間まで漂白されて行くが、そのプロセスは行政の思惑通りに行かなくて、人によってさまざまな歪みを見せる。
酒鬼薔薇の住んでいた街と、いま住んでいる街を結ぶ地下鉄に乗ると、漂白されたようなおとっつぁんと、ブヨブヨの坊やと、ピカピカのおねえちゃんと、ピカピカのおねえちゃんと、悶々のおばさん(笑)に満ちている。後の2タイプをフィールドワークしたのが宮台真司の『まぼろしの郊外』で、欲望を発散させる装置がアンダーグラウンド化している実態を描いている。歪み、腐っている実態を小ぎれいに見せる装置が、援助交際という記号だったりする。

なんだか脱線してしまったが、「中心感覚」があれば周縁感覚もあるわけで(強引なこじつけ)、郊外が病理の巣窟になっているのは現実。
歴史的にも、革命は周縁からノロシが上がるのだ。

津波で打ち上げられる車や家屋を見ると、「船頭多くして舟、山に上る」の格言を思い出してしまった。
あまり災害になぞらえるのは不謹慎かもしれないが、歪んだケア文化やケア利権を洗いざらい押し流すような大津波が到来しないものかと思う。


ひょっこりビンボー島

at 2004 12/28 09:58 編集

ゲレンデのライブカメラの画像が白く白くなって行くのが楽しい反面、「コタツにもぐりこんでミカン」という風情も悪くない。
コタツは持ってないが、「まったり系・垂れ込め系の休日消化」は、猟書と読書に限る。
前川つかさ『大東京ビンボー生活マニュアル』が、もう講談社漫画文庫版が絶版になっているのか、新品ではさっぱり見かけなくなって寂しい思いをしていたら、全5巻のうち2巻目だけ、ひょっこり古本屋に出ていた。
ちょうど12月のストーリー(といっても、ストーリー性がほとんどないフリーター生活の点描だが)から始まっている。お買い上げ。

この、バブル真っ盛りの時期に世に出た「6畳風呂なしアパート暮らし」の読み切り短編集は、文庫になっているのを阪神大震災の翌月ぐらいに初めて出会った。
主人公の住むようなアパートは神戸にもたくさんあって、ことごとく震災でつぶれるか、燃えてしまった。風呂あり6畳に住んでいた僕も、引っ越し先を探し回っていた。
かろうじて残った安アパートは、こわがってだれも入居しない。
別に、読んだばかりの『大東京ビンボー生活マニュアル』を実演してやろうと思ったわけではないが、傾いたままのアパートを、僕は選んで棲みついてしまった。

『大東京』の世界は、作者の前川さんが中央大の学生だったころを投影したような世界で、奇妙にノスタルジックで新鮮だ。
『男おいどん』ほど生々しくもなく、『マカロニほうれん荘』ふうのスラップスティックでもなく、とても自然にリアルだから、「そう、そう!」と共鳴するところもあちこちにある。
しみじみと読みふける。

震災を知らずに生まれた子供が、もう小学校高学年。
長いようで短い丸10年を迎えようとしている。
あれから、経済復興はなかなか進まず、「清貧の思想」の中野孝次さんは世を去り、スローライフがはやり、介護保険が始まった。

寒い日本を脱出して、手軽にプーケットにもペナンにも行ける豊かさ。の反面、プーケットやペナンに行けるのは年末年始とGWだけ。せいぜい1週間で、脱出したくなる国に帰って来なくてはいけない日本人は、60年代から進化していないようにも見える。
だから、「バブルよ再び」と夢見る庶民は多い。生産からリタイアして、築いた資産を消化しつつ余生を過ごす高齢者も手伝って、「資産バブル期待」も災いしている。

今の高齢社会というのは、人口構成の問題ではなく、老若男女全体がジジババ化していることだと思う。
生産より消費に熱心なのは、六十代以上ばかりではなく、若い世代も同じ。資産は、働いて築くものではなく、「見つけてしゃぶりつくす」ものになっているようだ。

『大東京ビンボー生活マニュアル』は、「懐かしい遺物」でしかないのだろうか、来るべき未来なのだろうか。
バブル再来はハゲタカやカラスが飛び交ういやーな世界になりそうだから、「神田川の世界」で、青い鳥を探したいのだが。


海と山

at 2004 12/27 14:32 編集

日曜日の朝、「山、行かへん?」と電話をもらって、「12時待ち合わせで」と、のどかな提案。「ちょっと遅いなぁ。日が短いし、11時半にしよう」と返すと、「ほな、11時45分ということで」と微妙な折衝(笑)になったあげく、ぽくぽくと新神戸から山に入る。
目を閉じても歩けるほど歩きなれたコースだから、のんびり登ってフタタビ公園でタコヤキを食って下山。

あぁ、裏山散歩はええなぁ・・・
と、心地よい疲れで熟睡して夜が明けると、スマトラ大地震。
海はこわいなぁ・・・
と的はずれな感慨にふける僕は海の記念日生まれだが、ビーチ・リゾートというのは、旅人が一番無防備で緩みきった姿でいる場所だ。津波が来るとわかっても、サンダルだと逃げ足だって遅くなる。

「武装」して出かける登山と、ヨットやサーフィン、海水浴とは、ある意味、気持ちが反対方向に向いているのかもしれない。山には「対決」しに行くような意識が働くのに対して、シーサイド・リゾートに、好き好んで「サバイバル」「危機管理」をしに来る人はいないと思う。
とはいえ、六甲も豪雨の爪痕があちこちに残っていたから、天災となると、登山だって危ないだろうが。

一人でも多く救出されるようお祈りしつつ、ひょんなきっかけでクローズアップされてしまったウィッキーさんが懐かしかった。


コピーキャット

at 2004 12/26 11:20 編集

クローン猫が500万円というニュースは、なにげなく「夢のある話ねぇ」と聞いていると、次に「パンドラの箱」から何が出てきても衝撃にはならないだろう。
僕もかじりかけたが、バイオエシックスという学問が何十年も議論してきた倫理問題は、「現実」1匹、そして「現実の一人」が出現すると、あっけなく吹き飛んでしまう。
「倫理上、問題がいろいろある」ったって、「すごい!」「すばらしい使い道がある!」「でも悪用しちゃいけないよね」の二言、三言ですんでしまいそうだ。

大腸菌あたりのクローンの技術水準にくらべれば、猫で成功したということは、もう「人間でもOK」と答えが出ているに等しい。
とすれば、偉大な将軍様やサダム某が輪廻転生を考えて、億単位の金を積めば、請け負ってしまう科学者はいるだろう。
遺体が保存されているレーニンだって、復活させられるかもしれない。

ただ、我が国のバイオエシックスのパイオニア米本昌平さんがどこかで書いていたように、クローン人間といっても、「年のはなれた一卵性双生児ができるだけ」なのも確かだ。幼くして亡くなった子供のクローニングならともかく、もし「偉大な将軍様」のクローンができたとしても、六十数年たって今の将軍様と同じ個体が21世紀後半の地球上に、存在していられるかどうかはわからない。

猫は1年かそこらで成熟するから、愛猫が亡くなってもクローンで誕生した子猫は約1年で「少し若返ったな」と見えるものの、夢の再会になるかもしれない。
ところが、人間の成長曲線は犬や猫以上にナイーブだから、環境因子まで統制しないと、ドナーとクローンのシンクロは成り立たないはずだ。たとえば、僕と四十数歳はなれたクローンベビーが誕生したとしても、彼は1960年代を経験することも、阪神大震災に遭うこともないから、自分の分身だと思って接すると、実は「違いすぎるやつ」だったりするだろう(笑)。

クローンの用途(いやな言葉だ)で期待されているのが臓器移植だが、これとてクローンだから必要なパーツだけ摘出してしまえばいい、というわけにはいかないから、成長して、腎臓の片方とか肝臓の一部をあげます、と申し出てくれるダンドリに導くのだろうか。
その前に、そもそもクローンとして自分が作られた理由を知ったら、気が滅入るでしょうなぁ・・・と思う。
それに、遺伝子が同じなら同じ病気を発症する確率が高いし、性格が似ていれば、「臓器をほしがる者同士」で骨肉の争いになったりしないのだろうか。

せいぜい、ペットのクローンぐらいにとどめておいた方が無難だと思うのだが、悪知恵の働くやつは「ペ・ヨンジュンのDNA」なんて商品を発売するだろうなぁ。


教会

at 2004 12/25 13:34 編集

幹線道路をわたって、神戸教会、聖公会、栄光教会と、駅まで「神聖スポット」をはしご。ちょうど今の時期は、窓越しにキャンドルサービスをやっているのが見える。
外から眺めながら「御利益」にあずかろうという不精というか、背徳というか、セコさは、いつ身についた悪習なのか、情けなくなってくる。

幼いころは、バザーが夢のような世界で、おとぎの国に来たようで楽しくてしかたなかった。家の向かいに教会があって日曜礼拝には通っていたが、バザーはとなりの区の教会まで行っていた。
いろんな子供たちがいて、いろんなお兄さんお姉さんがいて、甘い音楽とお菓子が子供を魅了する世界は、大げさだが理想郷のように表象化されて僕の中に残っている。学校で楽しい思い出はほとんどないのに、教会には楽しい世界があって、歌やスポーツが下手でもほめてくれて、いじめっ子はおらず、身構える必要がない。

それは現実と違うからこそ理想郷なのだが、もしかすると、どの国でも、争ったり競い合ったりする必要がないムラ社会ののどかな田園生活にはあったはずの「平和」だっただろうと思う。
それが、通りすがりのおじさんが、なにげなく子供に声をかけただけで110番通報される世知辛い世の中になると、教会のような「お仲間世界」の絆と安全性がありがたく見えてくる。「世の中まっ暗闇」にも見えるほど、光が灯っている場所は、人をひきよせる。

ただ、聖職者と信徒と非信徒との絶対の序列や、そこから生じる排他性、選民思想は、なかなかアジア人うけしない。そこはさすがバチカンも国教会も考えて、非信徒にも、教会やミッションスクールや病院は非信徒にも開放されている。
その総決算が、クリスマス騒ぎだろう。

クリスマスデートに燃えているカップルどもは、「クリスマス騒ぎ教」の信者同士、共感なり絆なりで結ばれていただきたい。
しかし、「行列のできる連れ込み」で待合室におとなしく並んで、見てないふりして見くらべあっていたりする(笑)のが現実でございましょう。イライラ半分モンモン半分の気分で、「俺たちの方がハイレベルだ」「あたしの座ってる助手席なんか右なのよっ」・・・と、変な溝を掘りあっているのではないだろうか。あくまでも想像でしかないが。
行列なし即OKの相部屋もあればいいのに。
そうなれば、ある種の聖地となって、そこから「愛の家族」が増殖するだろう。


クリスマス・イフ

at 2004 12/24 13:23 編集

中越地震から2ヶ月。
村民全員が退去した山古志村(すごい!ザウルスで一発変換できた)の方々が、ようやく仮設住宅に入居できたのを追いかけるように、雪が積もり始めた。

そんな様子を、ラジオのインタビューで聞いていると、牛が家族の一員のように愛されている農家の様子が伝わってくる。
たまたま登場していた農家のご主人が飼っている牛が「孫兵衛」くんというそうで、ヘリで避難させてもらって元気にしているんだとのこと。なんだか、心温まる話だ。

その一方で、少し前のテレビでは非情なシーンが映っていた。一時帰村した村民が、倒壊した我が家で、建物の下敷きになって息絶えている牛と対面して「マメタローーーッ!!」と号泣していたのは、胸を打つ場面だった。
「マゴベエくん、マメタロウくんの分までがんばって生きようね」
と、妙に親しげな(笑)エールを送りたくなる。

山古志村には、ペットの犬や猫たちが置き去りにされていて、何かの用事で短時間だけ帰村した住民にもの悲しくなついてきて、別れて帰るのがつらくてさ、と「孫兵衛くんのご主人」はしみじみ話しておられた。
もし、これから雪に閉ざされるゴースト・タウンに、このまま犬や猫が取り残されたなら・・・と僕は気がかりでならない。
牛は大変だとしても、飼われていた犬や猫の避難施設というのも必要ではないだろうか。「新居に落ち着かれるまで、うちで預かりますよ」という申し出をするのも、立派なボランティアではないかと思うのだが。

もし都会のマンション住人が「牛を預かってもいい」といい始めたら、それはなんというか、立派すぎるボランティアみたいだが、まさかうちのマンションじゃないだろうな・・・と不安が胸をよぎるだろう。
いろんな「もしも」が思い浮かぶ被災地の冬景色である。


うま湯

at 2004 12/23 14:24 編集

クリスマスまでは、暖房なしでがんばろう!と思って耐寒訓練をしていた。
わけではなく、ただストーブがガラクタの山に埋もれていただけで、ひと仕事してストーブを掘り出した。寒波でも来ないと、なかなか片づけ作業に腰が上がらない。

「冬の友」は、一番小さいファンもついてない四角いガスストーブだから、春になるとすぐガラクタに埋もれてしまうのが欠点だが、上にも前にも熱が出るので、上で餅を焼いたり、ヤカンをかけたりしていると、茶釜や網が乗っていた生家の火鉢を思い出す。

本物の火鉢の情緒はない代わりに、一瞬にして暖かくなるのがガスのいいところ。
消えかかるような弱火にして、ヤカンをかけて湯をトロトロ沸かす。沸騰するのに数十分かかる。

僕はコーヒーがほしくなると、一回一回湯を沸かす。毎日3回か5回。
手間はかかるが、面倒くさいどころか、ちょうどいい「小さな儀式」になっている気がする。
ところが、ものの本に「コーヒーは熱湯で入れると苦みが出てうまくない」と書いてあって、あらためて注意書きされると、たしかにそんな気がする。
そこで、微妙に冷ました湯でコーヒーを入れる工夫をしているのだが(これは面倒臭いくさい)、トロトロと沸騰させた熱湯で入れると、明らかにコーヒーがうまい。湯が、熱いのに甘いのだ。

水道水に入っている化学物質がどうにかなる・・・ような説明はつくのかもしれないが、サイエンスは横においといて、「時間」が喫茶の大切な要素だなぁ、とあらためて考えさせられる火入れ式になった。


ジングルウェディングベル

at 2004 12/22 16:24 編集

保険屋の知人から電話で「昼飯でも食わへん?」という話で、待ち合わせの段取りを相談していたら、「本部の人が同席したい言うから、話だけでも…」という流れになった。
いや、すでに「そろそろ上役が登場して保険契約説得」という第二幕が、伏線としてあったとしても不思議ではない。
「その話は抜きで」とクギをさして、「これ以上生保に入る余裕ないし」と木ネジをねじこんで、とりあえず無難な昼飯になった。
まぁ、あんなこんなのバカ話をして終わり、というのが無難でいい。

大学の同級生で、アムウェイにはまって僕にアタックしてきたおねーちゃんは何人もいるが、もし色仕掛けで勧誘してこられて(笑)「やっぱり、やめとくわ」てことになれば、刺し傷の1つや2つは覚悟しなければいけない。
もし相手がトム・クルーズだったら、目当てを達成できなくても「いい思い出」ぐらいは残るだろうが、僕に色仕掛けして得るものがなければ、深い深い被害意識しか残らない。
そんなの、勝手に「この人は金持ちだが孤独」と誤解する方が未熟でした、というだけの話なのに。

近ごろ、横田濱夫の年収100万円生活論や、森永卓郎の年収300万円礼賛論の類が、冗談抜きで本気で読まれているようで、けっこうなことだと思う。ちゃんとした金融なり財政なりの専門知識と現場経験を持つエコノミストの生活感覚は、骨太で効果てきめんだと思う。
ただ、よく家事評論家が得意げに開陳する「ティッシュの空き箱は文庫本立てにぴったり」てな類の節約豆知識ほど、敷居は低くない。
いくら森永さんに「人生の3大不良債権」だと断定されても、今さら慣れ親しんだ専業主婦とマイホームとマイカー(だったかな?)を捨てて元気に生きて行ける殿方は、いるだろうか。もう、債権放棄するしかないわいな。

食後のコーヒーをすすりながら、「ところで、いくつになったん?パートナーはいらんの?」と、四十路になった保険屋さんは尋ねてくる。
いったん、今度は「孤独な老いと病床の恐怖心」から攻めてくるかえ?と思ったが、そういう腹でもなかったようで(海老坂先生流に「必要から愛は生まれるであろうか?」と腕組みしながらつぶやくのも、返し技になったかもしれない)、「オレ、身を固めることにしたんだわ」と切り出してくる。なーんだ。
さんざん、「人生の不良債権」話をしてきた後だったので、気の毒な話の運びになってしまった。「人生の最後は煉炭が楽だろう」なんて話をしていたからねぇ…。
最初から、家庭を持とうとしている友人とわかっていたなら、「いやー、めでたいめでたい!人生の伴侶ですか、ウラヤマシーッ!」と持ち上げておくのに(笑)。

ヒトサマの人生の貸借対照表を扱って、さんざん悲喜劇も見てきた立場だから、手放しで我が人生バラ色!と有頂天になっているわけでもなく、苦渋の選択(失礼!笑)だっただろう。
どこか後ろ髪を引かれるような不完全燃焼感をかかえて「家庭の人」になるためらいは、男女ともにあるだろうと思う。
「ためらい続けて40歳」という人も多い。今なら、黒田さま紀宮さまカップルが、ある種の「ライン」になっているかもしれない。

最近、「よろめいてためらって立ち直って半世紀」という元同僚に花屋でバッタリ会ったときには、その美貌にこちらがよろめきかけたが(笑)、そう易々と神様のイタズラに乗らない分別もついてしまった。
神様にイタズラさえけしかけられなくなったら、いよいよ・・・だろうか。


はるか・・・

at 2004 12/21 10:51 編集

やっと仕事納め。
浪花の街とも、3週間お別れである。
今年の夏ごろまでは、新大阪駅構内の本屋で、毎週決まった時間帯に宮崎哲弥を見かけて、「いやはやー、小柄やなぁ」と親近感を持ったりしていたのが、ぱたりと見なくなった。なにか番組出演のスケジュールが変わったせいだろうか。

その代わりに、きのう行きつけの喫茶店でボケーッとお茶していたら、遥洋子がとなりの席にやって来た。
上野千鶴子の弟子である。
思わずびびりかけたら、これがかっこいいのである。「元タカラジェンヌ男役」といっても通用しそうなハンサムで「小顔」な姐御だ。どこかで読んだが、肉体も鍛えているとか。とても44歳には見えない。
さすが、人類の半数を敵に戦う(笑)闘士は、磨きあげられたF16のような「怜悧な美」を身につけている感じ。
マネジャーらしき女性と、スケジュールの調整をしていたが、静かな喫茶店で声をひそめていても、芯のあるしっかりした声がよく通る。

宮崎哲弥との共通点は、歌でも芝居でもない、「売れる言論」を武器にしているところだろうか。
だから、「やや右」の宮崎氏と、「あえていえば左でしょう」の遥洋子に、ぜひ対決してほしいものだ。まさか駅構内の喫茶店で、というわけにもいかないだろうが。

フェミニストといえば、田嶋陽子がかなり同性の反感を買っていたように思うけれど、「華」のような部分も、あった方がいいのかもしれない。論文で評価される学者はともかく、マスコミ界で勝ち残るには、やはりそれなりの見栄えも必要なのだろう。

そんな男の視線こそ、私たちの敵なんです!と斬り捨てられるのはわかっているが、遥洋子姐御に斬られてもいい!いい!と麻酔状態の喫茶タイムであった。


萌えるな、いい女

at 2004 12/20 15:22 編集

街にイカモノがちらついて見えてしかたない年の瀬である。
夕食後のデザートをいただいていた昨夜のモスでのこと。
どかどかどかっ!と、十数名のミドルティーン少女グループが入ってきた。キャリーカートやらダッフルバッグやら、みな荷物がでかい。ミニスカート姿とワンセットで、家出少女に見えなくもない。
でも、妙に統制がとれていて、「オーダーまとめ役」「点呼役」がちゃんと決まっている。てきぱきと注文してから、会議らしき行事(笑)が始まった。

「あの人なー、人に上から命令することで自分の地位をカクリツしてるだけなんよ」
「パンフ手に取ってくれた時点で、お客さんなんだから、そのつもりで応対しようよ」
「ちゃんと規約守らない人は、会館使う資格ないよ」
なんて発言が飛び交っている。
別に盗み聞きしようと思わなくても、モスバーガーが「生徒会役員会議」になっていれば、目立つというか耳立つわいな。
どうも、同人誌サークルのようだ。

それ自体は珍しくないグループだが、それにしても怪しいのが、「黒一点」の野郎であった。
推定29歳・長髪・細身・ソバカス。奥目ではないのに、おどけたような目が奥まって見える。
あぁ、こういうのが増えとるよなー、「萌えてる男」が。

「しゃべり場」風味のグループで、この陰気な野郎は何をしておるのか。黒幕か?(笑)。
本人は「プロデューサー」とか自称しているかもしれない。名簿を管理してたり、メルマガ発行してたりして。
いやはや、怪しい。
「プロデューサー」でなければ、少女たちの通う塾の講師とか(これまた危うい)。
疑うのは勝手だから、勝手に決めつけて、大いに疑惑の念を持たせていただこう。

ひと昔前に、この店で僕も「14歳女子」数名を指揮カントクして(笑)同人誌編集会議をしていたから、たいそうなことはいえない。ただし、萌えたりなんかせずメラメラと燃えてたが。
張本人だから、カラクリが見えてしまうことはあるが、萌えてる男の腹の底は闇だ。
ただ、「女子」に囲まれて、「僕って、話のわかるお兄さんでしょ」てな顔をしている野郎ほど、気恥ずかしくなるものはない。
この類は、即「29歳オタク」とは限らない。
昼下がりの奥様たちに囲まれたテニスコーチ、
居酒屋で女子大生に囲まれた教授、
NGOもSOHOも混同している主婦を組織しようとしているNPO幹部のおとっつぁん
・・・なんてのにもつながる、男が陥りやすい危険地帯だと思う。
どれも少しずつかすめてきた経験者だからわかる(僕はラケットの代わりにストックを持ってたけど)。

願わくば、あの同人プロデューサー君の守備範囲が広がってくれれば、出生率低下に歯止めがかかるかもしれない。同年代は「計算高いお局世代」だったりするから、U15に最適化された彼の設定が、「U30にクロック倍増」するのは、かなり大変かもしれないが。

昔々、世良正則とツイストだったか、「燃えろ、いい女」をヒットさせたが、今は「萌えろ、いい女子」を叫ぶヤローが繁殖している。
おかしな男子とおかしな女子は、合わせ鏡のようなもので、ペーさま追っかけおばさんも、ピーピーキャーキャー戯れてばかりの女子アナも、萌え系かもしれない。
「卒業」すると、すぐ先にじじむさい・ばばくさい初老期しかないから、いつまでも若づくりにしがみついているのかもねー、日本の三十代・四十代は。
そう思いませんか、中尾彬アニキ!


日曜喫茶室聴き納め

at 2004 12/19 21:40 編集

やたら暖かいもんだから、「今年最後の放送になりました」という番組を耳にして、なんとなく年の瀬気分になるばかり。
総集篇とか拡大スペシャルになるのも多くて、「これをふだんもっとやってくれよな」と思うネタも久々に登場する。

ふだんはすっかり「政見放談」になってしまったTVタックルで、とんと御無沙汰になっているネタが、オカルトもの(韮沢編集長、お元気ですか?)。
オウム騒動のころは、ずいぶんオカルトバッシングをやっていたはずだが、喉元すぎればなんとか。ノストラダムスあたりからエンターテイメント風になって行って、今はほとんど「カリスマ癒し人のショービジネス」がテレビにあふれかえっている(のだろうか?)。
オカルト暴露より、江原啓之や細木数子の方が視聴率をとれるせいだろうなぁ。

いくら大槻教授や松尾貴史が正論を通しても、イカモノの方が「役者」揃いで大衆ウケするから、結局オカルトバスターは脇役になってしまう。
教育テレビで立命館のオカルトバスター安齋教授の連続講座がスタートしているが、種証しが見え透いているから、ナルホドと思うものの「おもしろくない」。あ、僕も「おもしろい」ものを求めているわけか。

こんな世の中だから、オウムの後にも、スピリチュアリティを売り物にする商人は後を絶たない。
「涙と感動」は商品になる。
テレビからもらって、テレビに投映して、あの手この手こんな切り口そんな手口で涙を搾りとるドラマを求め…。災害映像や復活のドラマ、夜回り先生、死を看取る医者、薄っぺらい死と現世の断想を文学作品めかして書く人あたりのよさそうな坊主、心のケアが必要なカウンセラーetcetcetcが、パッケージになって、国民に購買・消費される。
「そっと見守る」風習は、どこに消えたのだろう。
「だれかがきっと見守ってくれている」と感じさせる世の中を崩壊させたのは、一体だれなのか。

「かせぎ終わったやつが説く心の豊かさ」
がんばって成功したやつがささやく「がんばらなくていいんだよ」

こんなのを口先で叩き斬って、「識者」の末席に連なる機会をいくつも棒に振った1年だった。
来年こそ、イカモノを暴く剣に、磨きをかけねば!(→反省しとらん)



雪や来ん来ん

at 2004 12/18 12:58 編集

あと1日出勤すると冬期休暇。
なのに、ゲレンデがオープンしない。ホームページには「待っててね」メッセージが寂しく載り、現場写真も「土!」のまま。
瀬戸内気候帯ののんきな住人の僕など、中越地方は避けて寒波がドカ雪を運んでくれる日を、都合よく(?)待っているのだが、もちろん雪国の一般住人の方々にとっては、憂鬱な季節だろうなとお察しする。

でも、雪国の人たちにしても、本心から雪を厄介者扱いしてないはずだ!!とも思う。
僕が何度もテント登山してきた妙高は、「標高差日本一」のゲレンデが魅力で、リフトも1本ずつがやたら長い。それに乗って豪快な沢を渡ると、巨大な天然の貯水池になっていることがよくわかる。この山だけ見ても、1年の半分以上は雪を被っていて、少しずつ川に、湧き水に、地下水に溶け出して、米どころ・酒どころを潤している。

極楽スキーに、至福の名酒・・・日本から世界から、新潟県に幸福を買いに来る観光客が、経済復興を後押ししてくれるよう、はるばるお見舞いするばかりだ。
雪よ、まだか!?


ぜいぜい

at 2004 12/17 14:40 編集

まわりの所帯持ちは、ぜいぜい言っている。
素人の僕から見ても、税制改定大綱とやらは、とにかく「取れそうなところから取る、お目こぼししてやってたところからズシリと取る、漏れているところから漏らさず取る」という気合だけひしひし伝わって。ビジョンのない「なりふりかまわず増税」に見えてしかたない。

おまけに、「フリーター課税」というのも、なんだか気の毒な話。
脱税があればきっちり追徴課税すればいいが、フリーターを即「税金・社会保障拠出を負担せず公共サービスは受けるフリーライダー」と見るのはいかがなもんかと思う。

源泉徴収されてしっかり所得税を前払いさせられている割合は9割に上るだろうが、年末調整か確定申告で還付手続きを取っているフリーターは絶対に9割いないはずだ。
この差が、政府に「濡れ手で泡」で入ってくる税収――いわば無知税――になっているわけだから、フリーターが本気で怒れば、取り戻し熱が沸き上がるよ。僕も「所得税って何?」なんていう少年少女に、毎年数百人ずつ年末調整と還付申告を懇々と教えているから、税務当局からは「よけいなことするな仕事が増える」と煙たがられるかもしれない。

国民が議論してできた「あるべき高齢社会」のビジョンがあれば、フリーターでもパートタイマーでも、就労形態は自由選択すればいいから、みな働いて国民の義務は果たしましょう、という明快な立場を打ち出すのがフェアな施政方針だろうと思う。

僕が21世紀の偉大なる将軍様サダム・大沢だったら、フリーター課税なんか撤廃して、パラサイト税を搾り取る。これで、夢を追う「清貧のフリーター」と、乳離れできない成年幼児は区別した方がいい。
「主婦税」は僕の長年の懸案だが、あんまり主張すると大根で殴られそうだから(姉から絶縁されるかも)、「人さまの介護をすれば課税免除」としておけばいい。

介護といえば、保険の使い道も、洗いざらい公開すれば若い世代の反発は免れないだろうと思う。
タクシー代や、介護帰省の飛行機代まで、国民がカンパしなくてはいけないのか?
そんなツケのまわし方は、社会正義に反する悪制だと僕は思うのだが。

演説や政争はどうにでもウソや猿芝居でごまかせるが、法律と税制は、国家意思を明々白々に表している看板だ。
こんな税制改定で、政府は若者を生殺しにしたいのだろうか、国外逃亡してほしいのだろうか。


お姉さん修復

at 2004 12/16 14:50 編集

このところ、お姉さんたちが壊れかかっている事件が目につくなぁと感じるのは、僕だけだろうか。
FM802の女性DJにストーカーして「しばくぞ」と脅迫した女性ファン、食堂経営者の老夫婦宅に放火した容疑者、18歳ラグビー少年に一目ぼれしてストーカーしていた 36歳、ドンキホーテの防犯カメラに映っていた不審な女性・・・ドンキホーテ犯はまだわからないが、共通するのは三十路の女性だということ。

別に統計的な検定をしたわけではないし、変な四十路男だってここにいるから、偏見はご法度だろう。
とはいえ、偏見のない人間はいないし、わたしゃデータを出力するマシンではないので、偏見と独断と先入観と予断でベトベトの断定をする。

恵まれないお姉さんに愛の手を!

「都合のいい女になるもんか」と誓う女性には、都合よく扱いやすい坊やを支給すればどうだろう(アシモ君でもいいか)。お好みの彼氏にと自由にプログラミングできていいぞ。
近ごろの犯罪の変調は、80年代に繁殖したオタクのミームが、当時思春期を迎えていた女性に、今ついに感染しつつある兆しだ!!
かどうかはわからんが、そういうことにすればエキサイティングではないか。ね、小谷真理さん。


念賀状

at 2004 12/15 18:36 編集

「年賀状の受け付けスタート」というニュースを聞いても、肝心の年賀状のそのものを買ってなかった。
手書き派なので、まとめて書くことを考えると面倒くさいのは確かだが、この「手間」が、「それならやめとこう」と「それでも出そう」とに知人を塗り分けるリトマス試験紙になっている感じ。

今年の年賀状売れ行きは、インクジェット用葉書が過半数になったそうで、これも時代の流れだろう。

年に一度の「大量葉書印刷」のために、プリンターや葉書作成ソフトが売れるのだと考えると、かりに20万円の設備投資を100枚の年賀状作成に使うと、1枚2000円。いろんな書類や手紙の作成で1000枚生産するとしても、単価は200円。高いなぁ。
それなら、パソコンで年賀状ひとつ作成しないお前は、宝の持ち腐れをしてるではないかと言われそうだが。

それでも、年賀状は手作業をしたい。
例年のやりとりで100枚程度のサンプルから見る限り、手書き派は女性に多くて、男性の9割は印刷派だ。
「印刷では心が通じない」などとは思わないが、「込める気持ち」が、流れ作業だと均一になってしまう。まさかプリンターに向かって「この人にはこの気持ちを」と念波を送っている人はいない。
手書きでもらうと、「この文面を書いていたときの心境」を想像してしまうのも、楽しみのひとつだ。

だから、プリントアウトするなら、全部違う文面で年賀状を作成してみるばい!と意気込んでいるのだが、そうすると気づかれにくいのが難点。
長編を書いて100篇に小分けして、番号をふるか?


ルミナガタ

at 2004 12/14 19:42 編集

昨夜から地元で灯がついた「電飾ホコ天」のおかげで、晩飯を外食するにも満席だらけで迷惑しちょる。

とはいえ、経済波及効果で潤っている地元商店もあるから、「とりあえずウェルカム」ではあるけれど、浮かれ気分が冷めると、光のすきまの闇に目が向く市民もいるはずだ。

まず、「瓦礫の街に復興のともしびを」で始まったルミナリエは、いつからバカ騒ぎに変わったのか?が闇である。

「震災復興のため」なら、なぜ今岡寛和プロデューサーは、新潟にルミナリエを灯さないのか?も闇。神戸の次に東京に手先を延ばしたのは、いかにも商業主義を匂わせるが。

わが街限定にならなくてもいいから、被災した街と人が打ちひしがれているところにフットワークで「移動祝祭」をしに行ってほしい。
それでこそ、「神戸からのともしび」とかなんとか、ブランドになると思う。

ほんと、ゴーストタウンになっている山古志村にかがり火でも灯してあげたいものだ。


別れ話

at 2004 12/13 16:31 編集

飲んだ後のちりちりと引きずる頭痛が、夜中にひいてきて、あとは風呂に入って寝るか・・・というとき、あるOLから色恋沙汰相談メール。要は「ふられた理由がわからない」とのこと。

こんなテーマについて、「250字以内で答えて」と、おそろしいメタ・メッセージ込みで来るのが携帯メールだ。
明快な冒頭メッセージは、「あなたとは恋愛感情がおこりえないから相談にのって」とグサリ(笑)。まぁ、わかりやすくてけっこうだが。

彼女とは、もう5年ほど前に出会ったときから、スキのない化粧を決め、男性を警戒し、「私を守るのは私」とバリアを張っている感じがした。
まぁ、僕が女性ならこうなるだろうなぁと思うから、とやかく裁くつもりはない。

そもそも、イントロの第一声から、答えが出ているような気もする。
「この人は、こう扱う」と決めた通りに、人生うまく運ばないものだろうに、「異性=タスク」として映っているのかもしれない。ご本人は、仕事では大病院でナレッジマネージメント・システム導入をしようとしている推進者だが。

出会った相手を「発展する相手」「利用する相手」というフォルダに振り分けるのは、もし反論されたら男だってやっていることかもしれないが、地球上の「私は何なの?」という問いと、「俺は何なのだ?」という問いは、8:2ぐらいの割合じゃないかと思う。
職場でどのへんのポジションにいるか、敏感な男性は多いだろうけど。

「自分がどの位置に見られているか、気にしている彼女の心中が気にならない彼氏」というのは、ごく普通にいる。そんなもんだと思う。
かりに「君はブルペンピッチャー」とか「あんまり気が利かないと二軍落ちだぞ」なんて明言したら、それはそれで火種になる。20年、30年たっても「あのとき私を傷つけた言葉」として、くりかえしくりかえしくりかえしプレイバックされる。
だから、言わないのも知恵かもしれない。
そんなもんだ。


冬枯れリゾート

at 2004 12/12 22:32 編集

いつもは登山して行く六甲森林植物園に、ドライブで…というのも気分転換になった。
しかしまぁ、クルマで行くとなんと近くてあっけないことか。

園外で、焚き火とガスコンロの「ダブルファイアー」で昼食。炭火の焼きイモは、ほくほくして上出来だった。
ちょうど腹一杯になったころ、ポツポツと雨が降り始め、あわてて下山。
芦屋で「第二部」開幕である。ちょうどフィーリングカップル3対3で、最初から「枠の外」の僕は司会と決まっている。

このグループは、もう10年以上つるんでいるが、ひと昔前だと「配偶者候補を見つけに来たのよっ!」という熱いオーラが火花を散らすほど満ちていたものだが、近ごろはどうもおとなしい。
今の時期の「本題」は、冬遊びのプラン相談と決まっているのだが、雪山以外に遊び場はいくらでもあるから、「板はデモを買ったぞ」「カービングの使い心地はどうだ?」なんてコアなスキー談義は消滅してしまった。

ま、いろんな余暇のありかたがあっていいと思うが、カッと没頭できる仕事があれば、スカッと発散できる余暇も手に入るんじゃないかと思う。
リゾートの低調は、景気の問題より、どこか燃えきれない勤労者心理にありそうな気がするのだ。
せめて、手近な山歩きを大切に楽しむとしよう。


ふりふり詐欺

at 2004 12/11 12:37 編集

電話でのイタズラは、昔からあったもので、野郎がひっかかるものと相場は決まっている。
女性が「わ・た・し!わかる?」とふっかけて「ヒトミか?」「そうよ、ヒトミよ。大変なの、事故っちゃって示談が・・・」という筋書きもあったし、最近――といってもひと昔ほど前 ――は、テレクラや伝言ダイヤルにボイスチェンジャーを使って電話してスケベ野郎をだます野郎(笑)というのもいた。

どんな手段でも、いつの時代でも、だまされる層は一定割合いるだろうけど、問題は、痛い目に遭って、高い授業料を払って、免疫がついているかどうかだ。
大の大人にとっては、不運を乗り越える稼ぎも年月もあるが、高齢者に高い授業料や痛い思いを強いるのは、あまりにもせちがらい。

抑止効果になるのかどうか、「おれおれ詐欺」が、「振り込め詐欺」に呼び名を変更されたそうな。
バリエーションが豊富になって、「オレオレ」で始まるとは限らないのも一因のようだが、ドラマ仕立ての役割分担もあるようだから、一度聞いてみたいものだ。こっちも合わせて「えーーーっ!!わしの息子に限って・・・」と、取り乱してみたり、涙声で「なんとか、助けてやってくださらんか」と懇願してみせたりしていると、どんな気分になって行くのだろうか。
振り込みはしないから、催促の電話がまたかかってくる。
「いんにゃ、振り込んだぞい。白い服来た偉い人は、ワシのことアルツハンマーとかいうちょるが、ものおぼえはええんじゃ」
とか、こっちもレベルアップした演技をみせてやれば、あきらめてくれるのではないだろうか。

向こうにもさんざん演技につきあわせた後「あー、楽しかった。でもキミの演技力では成功率60%だな。だめなポイントはこれこれ」とオチをつけることができればいいが。
ヤブヘビになりそうだから、やめとこう。


韓流フィギュア

at 2004 12/10 14:33 編集

せっかく韓国に建てたヨンさま人形が、大ブーイングで引き倒されそうな気配。
韓国民の不平は、「顔が大きすぎる」「眼鏡とマフラーすればヨンさまになるわけではない」「日本人が気持ち悪がってマイナス効果だ」・・・等々。ごもっともだと思う。僕には、「眉毛だけ柳葉敏郎」に見えてしかたなかった。

でも、あんな人形でおびきよせられると見込まれた日本人ファンというのは、相当なめられているということではないんだろうか?
為替レートを考えると、単価はほぼ10倍だから、おいしいカモなのだろう。
日本の巷では、ヨンさまマフラーにヨンさま巻きがはやりだとか。ルミナリエもミレナリオも、ヨンさま柄が登場しそうな勢いだ。

ふと、いつものくせで解体してしまうのだが、ペ・ヨンジュン単体は、ただのヤサ男なのだろうが、くさいセリフ、それに心を打たれて見せるチェ・ジウの存在、それに冬という舞台設定の3点セットが、「ヨンさま世界」をつくりあげているように見える。
日本だったら70年代風味のくさいセリフを、しゃーしゃーとのたまう度胸は、冷めた現代人にとっては「うらやましい自己陶酔」だし、チェ・ジウみたいにクサい殺し文句に心の中で「チェ」と思いつつも、「ペ!」と唾棄せずつきあってくれる乙女はおらん。
日本のファンは、ないものねだりを投映しているのだろうか。

いっそ、韓国にはヨンさま追っかけオババ人形までそろえて、ジオラマを作ってほしいものだ。万札をにぎりしめて、ワゴンのヨンさまグッズに殺到しているシーンとか。
そういうファンが発酵している日本の夫婦なり家族なりは、ちょっとシリアスだから、ふれてほしくないけど。



愛BM

at 2004 12/09 07:52 編集

へー、ゲートウェイが再上陸するか!と思いきや、IBMのパソコンが中国企業に買収されるのは驚いた。東芝が買い受けを断わったためらしいが、時代の流れとはいえ「どうだかな」とも思う。
Thinkpadユーザーとして「中華風味」がいやだというつもりはないが、ちょっと考えれば、軍事技術の精度が上がるのでは?と当然予想できる。原子力潜水艦なんか乗組員の「鼻」に頼って航行していたのが、「電算機」でナビゲーションするようになるぞ。
IBMの技術は、ダジャレではなくICBMにも転用される。隣国日本としては驚異だ。
ま、Thinkpadの新バージョンが開発続行されるよう、期待するばかりだが。

IBMといえば、Windows 95の時代に、経営学の先生が「アメリカ人みな週給ベースで働いてるわけやなくて、IBMは80年代まで終身雇用やったんよ」と、例に出してくれたのが記憶に残っている。
どこかで広い読みしたガスリー会長の語り下ろしも、良くも悪くも父権主義的な、おおらかな「社員みな仲間」意識を感じさせた。

とはいえ、コンピューターのパーソナル化を推し進めたIBMは、日本メーカーが台頭するおかげで、終身雇用どころではなくなってきたんだから、皮肉なものだ。今は日本でも成果主義、能力給、年俸制…と企業が浮わついている。ハイテク分野の経営は、売れるときに一気に売ってしまって、下火になったら撤収してしまうのが得策♪ということなのだろうか。
場当たり的な「ヒット商品どんどん投げ売り」路線のノートPCマーケットの中では、頑固なまでのThinkpadの風格は抜群だ(だから波に乗れなかったのか?)。
乙女が腹這いになって「あたしリビングでインターネトしてま〜す」てな場面のCMが最も似合わないのが、真っ黒なThinkpadだ。
「宣伝部長、腹這いになってキーボードは打てません」とクールに分析してくれる忠実な部下という感じで、それがかえって「信頼できる人間くささ」を感じるのだが。

人間くさいIBMといえば、8年前に妙高高原のロッジで出会った赤瀬川原平そっくりの紳士が、日本IBM東京本社の管理職だった。「ものすごく和風な外資系さん」だ。もしかしてIBN(インターナショナル・ビジネス・なんちゃって)という会社だったのだろうか。
一人客はまとめてタコ部屋に同室になるスキー宿で、IBM赤瀬川さんと早稲田の体育専攻の学生と愛知県の中学教諭と一緒にバラバラの4人、あっという間に仲良くなった。
このIBMさん…というか、赤瀬川さんが、無類の酒好きで、「このあたりの幻の銘酒ですよ」と買って差し入れてくれたのが雪中梅。当然、連夜の酒盛りになった。

このタコ部屋は、そもそもバッジテストの講習合宿で、よりによって翌日が検定日だった。
IBM さんは二日酔いで棄権、教諭は二日酔いで転倒負傷、早稲田クンは酔わずに合格、僕はアルコール燃料(笑)のおかげで合格――という結果に終わった。赤瀬川さん(あ、モリタさんという名前を思い出した)は「私もうトシでだめだね。皆さんを応援してますよ」と、人なつっこい笑顔で応援してくれたので、彼の人徳のおかげだと思う。
感謝の気持ちを込めて、僕はIBM PCを…ではない、間もなくコンパックを買ってしまったのだが。
日記だって、これはテリオスで書いているし、ふだんはたいてい電車内でザウルスでポチポチ打っているから、すっかり「シャープお得意さん」と化しているのが現実のワタクシだ。
不義理きわまりないな。
せめて、Thinkpadを大事に使おう。


白日夢

at 2004 12/08 11:58 編集

なんだかリアルすぎる夢だった。
友だちが「会ってみない?」と紹介してくれた乙女に会いに行ったら、父親が同伴していた。
こんな場面で「かしこまる」どころか、「かしこまってなるもんか」と奮い立ってしまう歪んだ性根だから、それが災いしてしまう。
会食の後、「礼儀がなってない男だ」と酷評されて、結局当の本人の肉声は一声も聞かずに別れてきた。
とまぁ、これだけの顛末だったが、ずいぶん美しい街だったなぁというのが印象的だった。
きれいな薔薇にはトゲがある、という教訓だろうか。
「いや、おまえの欲求不満だ」と天の声に一喝されそうな気もするから、あれこれ分析しない方が身のためか。

もしこの夢物語が、ママご同伴だったら、「ご成婚の運び」になりそうな気もする。
というのは、あの冬ソナ熱である。
韓流俳優は、どれもこれも、なんだか「ふた昔前の日本のハンサム」を踏襲していて、なんだかヒタヒタと日本を追いかけている影のように見える(そのうち韓流つんくが出てくるにちがいない)。

それでも人気沸騰しているのは、オババの青春の不完全燃焼感がマグマのように鬱積しているせいではないか?とも読める。バブルの前は女子大生ブームもあったし、もててチヤホヤされて光り輝いてたのに、いま旦那はリストラ不安、夫婦はセックスレス・・・と勝手に決めつけるのはいかがかと思うが、「ときめきたい半熟女」は推定800万人はいるだろう。
レトロ男がもてる時代なのだ。
だから、若いのに礼儀正しいズンドコきよし、
クラシックなのにサンバを踊る松平健
なんてのも、ファン層がペさま追っかけ隊と重なっているのではなかろうか。

クラシックといえば、ワタクシが大本命だ。
歴史の本に写真が載っている神風特攻隊には、僕の双子のような顔がズラリとならんでいる。茶髪は絶対に似合わないが、刀とかハチマキはぴったり似合う顔つきなのだ。

よし、この線で「還暦前後」の線をウルウルさせるアルペジオを奏でるか。もちろん、「うちの娘と・・・」へと展開してくれないと困る。「私と・・・」になってしまう不安もぬぐえないけど、母親というのは「あぁ娘は将来こうなるんだ」とわかる未来予測図だから、魅力的なオバサマとはどんどんお茶(まで)するがよし!と、ご同輩に声を大にしてよびかけたい。

乙女とお茶しても退屈するか疲れるだけだから、黒木瞳とアフタヌーンティー」という、限りなく悩ましいんだかストイクだかわからん路線は、悪くないと思う。罪でもないし。
目が覚めてから夢見る妄想の方が、夢物語・・・とは、これいかに?


追っ手と逃げ足

at 2004 12/07 16:57 編集

関東で夏日、北海道では大雪に地震。日本列島どうなってるんでしょう!?
と、千歳空港から羽田に飛んだだけの客は、赤道を越えたような感覚でキョトンとしていたのではないだろうか。

台風で大きな被害が出た豊岡では、大雨でまた川があふれて、市は自主避難を540世帯1700人によびかけたらしいが、応じたのは1世帯3人だけだったという。
避難しなかった99%以上の住民をとやかくいうつもりはないが、この勇敢な・・・というか敏感な・・・というかフットワークのいい一家は、ぜひ名乗り出てほしいものだ。表彰されてもいいぐらい。

天災があれば、避難勧告や避難指示が、公権力の濫用と言われるせいか、及び腰なところに犠牲者が発生するわけだから、もっと踏み込んだ避難誘導をしてもよろしいのではないかと思う。
1700分の3というのは、あまりにも寂しい。
ペーさまを追っかけて韓国にまで行く身軽なオババが、あれだけいるというのに・・・。


JRとNTTに続け

at 2004 12/05 13:05 編集

与野党が互角で大統領選を闘って、国論が二分されているウクライナは、本当に分裂しようとしている。
こんなことは、日本ではありえないが、ありえたら(不謹慎だが)おもしろい。

ウクライナは国の東と西できれいに支持勢力が分かれているから、「おーし、それなら東と西に分かれて独立するからね」とまぁ、世論の動きはわかりやすい。
同じ動きが、もし日本で起これば・・・?

「いじわる婆さん都知事」と「横山セクハラノック府知事」があいついで誕生したころ、にわかに大阪帝都待望論が盛り上がったことがあった。別に二人が敵対していたわけではないから、日本が分裂することはなかったけれど、もし今の太田フーミン府知事がガチガチのフェミニストで、鷹派都知事と激しく敵対すると、「東京は首都、大阪が首府!」と宣言して、「完全男女共同参画の西日本共和国」を造ってしまうかもしれない。
おもしろい。

女御、更衣のポストを新設して、京都の芸妓さんを起用する。
義務教育では英語をやめて古文で読み書きする。
背広とカバンなんかやめて、みんな和服と風呂敷で通勤・通学する。
もう、世界中から留学生が殺到するね。学びたい!溶け込みたい!と。
黒木瞳を、宝塚でも博多でもいいから呼び戻して、官房長官にすれば、ワタクシはひざまずくよ。

ここで微妙な立場が、「国境」エリアにある名古屋だがも。
なにしろ味噌とカツを煮込む土地だ。コロッケとラーメンを同居させるマルチカルチャリズムだ。
案外、そんな寛大なごった煮風土が、僕は好きだが。

現実的に考えれば、沖縄と北海道は独立できそうな気もするが、そうなると、僕は沖縄に住んで夏川りみのような連れあいと人生を送りながら、ちゃっかり北海道の味覚と雪遊びを楽しんでいるかもしれない。分裂している東日本帝国と西日本共和国の頭越しに。

研究発表の場を目前に、香山リカの『私の愛国心』(ちくま新書)を3時間で特急読みして、つい、そんな夢想をしてしまった。
香山センセイからは「幻想ね」と笑われそうな気もする。


タスクトレイ

at 2004 12/04 12:12 編集

ちゃんと朝食をとって、遅刻せず出勤して、特にミスもなく、タスク達成100%の1週間やったなぁ…としみじみしていたら、JRの不手際できのうの夜勤に遅刻してしまった。「画竜点睛を欠く」という感じ。

「そっちの電車が送れているから、こっちが早いよ」と電光掲示が出ているから、「こっち」に乗っていたら、「あっち」のホームの新快速がまず発車。おまけに、「そっち」に普通が入ってきたと思ったら、先に発車しやがった。
憎悪の視線を電光掲示板に向けると、ちゃっかり「実はそっちが早くて、こっちに乗った客はバカでした」と書いてある。くそーーーっ!
1分でも2分でも早く行けないと困る客がおるのがわからんかJR!次の駅は新大阪だぞ。

災難とはいえ、「タスク達成率99%」ぐらいに下がったのが惜しい。
そうなると、不思議なもので、「そういえば出版原稿に脱字があったっけ。修正しとかにゃ」「あの書類を返し忘れてたな」・・・と、ミスがポロポロ見えてくる。

些細なことに気づかないぐらいに「怒涛の全力疾走」ができたらいいのにと思うが、ふっと我に帰る瞬間が訪れるのは、神様の恵みかいたずらか・・・
明日の研究会に向けて、また「1昼夜で1新書」を読んでレジュメを打たなくてはいけない。
神様がほほえんでくれるだろうか。


路地復権

at 2004 12/03 14:38 編集

駅に向かう途中、兵庫県警本部の石垣にあの沖縄の平良さんに似たおばーちゃんが座って、ぽわーっと息抜きしていた。前かけみたいな割烹着みたいな、いかにも「台所仕事の途中です」という感じで。

なんで県警本部に、なのかはわからんが、なんとなく、あてどなく、よんどころなく腰かけてひと息・・・というのは、老人の「至福のひととき」のようだ。僕の祖父も、つえとキセルと、ときどき孫を足して(笑)黄金の3点セットで町内を散歩していた。お寺の石段や、幼稚園の庭石が定番の「立ち寄りスポット」だった。

こんな老人の止まり木が、町から消えて行くのと、子供が路上で狙われる物騒な世相は、連動しているような気がする。

子供は外で遊びたい生き物だし、家でドタバタ騒いでいると、狭苦しいから「外で遊んでなさい」と言われるほど(6畳二間の長屋に6人家族で住んでいた我が家だけの話ではないはずだ)。
老人だって外の空気を吸って、あてどなくいろんなものを見つめたり覗いたりするものだ。

70年代のモータリゼーションから、ぼちぼち街が物騒な世界になってきたのではないかと思う。
それでも、「路地」は子供の天国で、かならずどこかで近所の人の視線が防犯カメラの役割を果たしていた。

ところが、今は「危ないから外で遊ばないで」と言われかねない時代で、家の中にゲーム機やDVDや遊び道具があふれていて、外よりエアコンのきいた家でおとなしく遊ぶ、ハムスターのような子供ばかりになっている。
老人が通う福祉施設も、送迎までしてくれる。
路上は、ご近所さんがウロウロしながら憩う世界ではなくなり、公園はペットの便所と化している。

そんな今だからこそ、なんでもないことだが、街にベンチをどんどん増やせばいいと思う。
何か事件が起きて犠牲者が出てから、ボランティアで立ち番したり子供の登下校に付き添ったりするのが「定番」になっているが、ほとぼりが冷めたら皆めんどくさくてやめてしまう。

自然に、路上に「人の目」を呼び戻すには、死角ができないぐらいにベンチをあちこち設置すればどうだろうか、と思う。ライオンズクラブでもロータリークラブでも会社のPRでもいいから、ベンチやパラソルを出してみてほしい。
住民が路上で憩える街は、自然な形で治安がよくなるのではないだろうか。


潮風写真家

at 2004 12/02 12:37 編集

古本屋で、浅井愼平さんの写真集を見つけた。
今年の夏に出ているから、「新品の古本」か。
エッセイ半分の「写文集」は、沢木耕太郎や藤原新也が切り開いたジャンルだと思うが、それに触発されたのか、写真家としてはうんと先輩の浅井愼平が、「写文家」のようになっている。今の学生世代から見ると、コメンテーターとして映っているかもしれない。へー、浅井さんって写真もうまいんだ!とか(笑)。「サンコンさんのフランス語ペラペラ」に驚くようなものか?

僕に写真を教えてくれたわけではないが、「骨の写真家」だった亡父のお気に入りが、浅井愼平さんのカリブ海の写真を使ったカレンダーだった。「これは浅井愼平やからな。ええなぁ」と、父が具体的に名前をあげて称賛した唯一の写真家で、僕が初めて記憶した写真家名でもある。
それから25年以上たち、父は天国に行ってしまったが、よくテレビで見かける浅井愼平さんは、まったくといっていいほど容姿が変わらないのは、驚くようなばかり。
加山雄三よりずっとヨットが似合いそうな感じがする。

シンペイさん、と呼んだ方がしっくりくる、このクールでドライな写真家は、同年代の写真家が「大家」になってごちゃごちゃと役職や肩書きを飾りつけるのとは対照的だ。「潮風に吹かれていたい」とでもいいたげに、房総半島にプライベート・ギャラリーを建てて、「自分の風」に自分をゆだねているように見える。

写文集のあとがきには、僕は宇宙を求めていて、宇宙そのものになること、体の中に宇宙を持つことを心がけている・・・といったようなモノローグが書かれている。ちょっとスピリチュアリティに流れそうな印象も受けるが、神だ波動だ霊だ真理だというところまでは「行って」しまわないところが、クールでいい。

そろそろ、「女の子写真」で売り出したが飽きられて次の手を考えるおねねさん写真家あたりが、「スピリチュアル・フォトグラファー」とか銘打って降臨しそうな予感もする。
デジカメ時代、携帯カメラ時代だから、写真のありかたは考えるほど難しい感じがする。お宝画像だとか「ネガを返して!」とか(なんだかトラブルメーキングな写真ばかり思い浮かべてしまう)、そんなオリジナルソースの持つオーラが消えてしまったから。
複製時代だから、「用途」も加工のおもしろさも広がるんだろうけど、だからこそ、複製でも加工でもないオリジナルだ、私が原版を所有する原作者だ、という証明は難しい。
著作権で理論武装しないと、写真家が写真だけで稼ぐのは難しい時代だろうなぁ・・・と、ふと思う。


ケニー!

at 2004 12/01 11:53 編集

カメラも本も家もCDも・・・の我が中古ライフも、時代の先端に一応いるのだろうか、なつかしいコンサートビデオが、りずむぼっくすDVDコーナーに出ていたので、2600円「即払い」してしまった。
りずむぼっくすのスタンプもちょうど一杯になって、3000円分買い物に使えるのも、ささやかにうれしい。

89年のケニー・Gは若い若い。
サンディエゴで、薄暮のあたりから夜にかけて、マリーナをバックにした野外ライブは、あぁ80年代AORの時代の残り香が漂ってるなぁ。

あらためて感動するのは、ゲストで出てきたどこかシリアスな表情のダドリー・ムーアが、華麗なピアノを披露してくれている1曲。
日本ではクリストファー・クロスの歌うテーマ曲の方が有名になってしまった「ミスター・アーサー」で、コミカルな役を演じたB級脇役かと思いきや、ムーアさん、実はオックスフォードで作曲の学位をとったクラシック・ピアニスト出身だ。
160cmという小柄も喜劇俳優の道へのきっかけになったのかもしれないが、幼いころ内反足を友人にからかわれて、音楽の世界に逃避したのだとも伝えられている。
ともかく、ケニー・Gと親子ほどの年齢差もありながら、英国人らしいクールなピアノと軽快なインタビュー・トークは、美しい「中年の星」という印象だ。

楽しい映像や名演奏はこうしてDVDに残るが、ダドリー・ムーア本人は、つい昨年、まだ70歳に届かない若さにして、天国へ旅立ってしまった。
5年前に、彼がやっているというレストランバーを、LA郊外ベニス・ビーチだったかサンタモニカだったか、リゾートタウンに捜し当てたけれども、ほとんど開店休業状態で人気はなかった。
あとから記事を追うと、すでに闘病生活に入っていたようだ。

お元気なうちに、ボズ・スキャッグスのやっているレストランにも行っておきたい。

名優がやっている店というのは日本のあちこちにあるけれども、行ってみたいような、期待を砕かれそうな複雑な気持ちになってしまうのは、元モロボシ・ダンが湘南でやっているという「ジョリー・シャポー」と、アンヌ隊員が夫婦でやっている中華料理屋(なんとか飯店というらしいが忘れた)だ。
森次晃司はモロボシ・ダンのあと、時代劇で悪代官をやってたのを見たので、ある程度、トホホな「その後」に免疫もできている。
アンヌ隊員は、あのままでいてほしい・・・
同年代の殿方諸兄に共通する、夢まぼろしファンタジーではないだろうか。
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