2005.05.31 Tuesday
追悼ワカさま
at 2005 05/31 15:32 編集
貴ノ花親方の訃報は、「いつかは・・・」と思っていたとはいえ、どうにも早すぎる。
数カ月前に、息子たちが見舞って、「会話はできないが、手を握ると握り返してくる」状態だと聞いたとき、臨終の父と子が最後の会話を無言で交わしている様子が、胸に突き刺さるように伝わってきた。
そして、世間も身内も、少しずつ覚悟はしているのだろうと思った。
生き急がされた人生という感じもする。関取一般に、そんな印象がついて回る。
ガッツさんのように楽しくいけばいいのに。仏の顔も三文の得だろ?てなノリで。
そんなガッツさんより若い親方は、55歳にしては貫禄がありすぎて、老成するのが早すぎた。
長男がアメフト選手にかつぎ出され、次男が洗脳され、女房が不倫したり脱いだり(笑)、つまり家族まるごと笑いのネタにされても、じっと耐えていた。よくも悪くも、「日本のお父さんやなぁ」と思う。
ホリエモンのように、口から先に生まれてきたような男だと(ホリエモンの風体だけは、昭和のおとっつぁん風だが)、反論だディベートだ対案だと騒ぐだろうに、伝統の日本のお父さんは、「男は黙ってサッポロビール」なのだ。
それが男の美学のようなものかもしれない。
が、ただ口下手なだけかもしれない。
天下国家を論じるように、我が社のビジネスを語るように、おとっつぁんというのは饒舌になれないものだ。
そこが、なおのこと不憫だと思う。
あとはただ、安らかに、とご冥福を祈るばかり。
憲子もと夫人は、線香ぐらいあげに行くのだろうか。
それぐらいはしてあげないと、だれかが「仏の顔も三度の飯だろ」と怒りだすかもしれない。
沢野絵
at 2005 05/30 13:46 編集
たしか角川文庫版で買っていた沢野ひとし怪しい探検隊員の『休息の山』が、古本で出ていたので、500円也でお買い上げ。
単行本で買っていて、文庫が出たら買い直して、でかい単行本はsabato財閥へ・・・というのが定番の図書流通で、単行本を買い直すのは
やはり、画文集は大判が合う。大判といっても、『休息の山』はソフトカバーだから、重苦しくない。
沢野さん独自の飄々とした色鉛筆画は、絵の中の世界に吸い込まれるような細密画とは逆に、見る者の想像力を絵から拡散させてくれるような感じがする。日常世界にぽっかり開いた「異次元ドア」という感じ。
簡単なタッチに見えて――いや実際そうなんだろうけど――雨の描写など、安藤広重を彷彿とさせるぞ。さーーっと雨音が聞こえてくるようで。
いつもカメラで簡単にスケッチしてしまうからこそ、こんな山旅も、できたらいいものだと思う。
八ヶ岳の相棒が、初めてデジカメを買って、「はりきりメール」を昨晩くれた。取説と格闘しているそうだ。
おととしだったか、テントかついで妙高へ一緒に登ったとき、山道で僕がシャッターを切っている四半世紀昔のペンタックスの、拍子木みたいな音を「かっこえー!!」と笑っていた彼も、今さら重たいフィルム一眼を買うほど酔狂ではないのだ。そりゃ当然だろう。
僕だって、ふとザンゲしてみれば、デジカメは次々に5つ買い替えてきたくせに、どうも未だデジカメなんちゅうものに、心を許せない意固地なところがある(笑)。
撮って帰ってからの処理が面倒、選別も悩む、レタッチしはじめるときりがない(永遠に完成しない)・・・と、デジカメの利点は難点と背中合わせ。
つまるところ、消去もコピーも含めて「加工が簡単」なのがデジタル写真だから、いってみれば「鉛筆で書いた契約書」みたいなものなのだ。永遠に完成しない。いや、最初から、そのときそこにいて撮影しなくても、どうにでも作り上げられる。
ある批評家にいわせると、いくらでも後から加工できる点では油絵と似ているのだとか。もう、デジカメと画像ソフトは「描画ツール」としてとらえた方がいい・・・という意見には、思わずうなずいてしまう。
でも、沢野絵は、色鉛筆でしか描けない世界だ。
俺の手、俺の頭でしか。
コピーもレタッチも受けつけない、こんな表現を手に入れたいものだ。
心斎橋
at 2005 05/29 13:58 編集
あっけらかんと「24回目の誕生日なんですよ〜お祝いして下さい」とリクエストをうけてノコノコ出かけてきた。「たまには心斎橋もいいでしょ?」と場所も指定されて、人込みでごったがえすミナミへ。彼女の気に入ったイタメシ屋があるらしい。
お仲間と待ち合わせて、4人で海鮮パスタを山分けしつつ、楽しいバースデー晩餐になった。
24歳から29歳まで、ピーチクパーチクとかしましい輪の中で居場所がなさそうだぞこりゃ・・・と不吉な予感があったので身構えて(笑)いたら、なごやかに普通のサークルバレーボール風になったのはよかった。
こんなこと、「説教くさい・カネ出さない・セクハラ満載」の僕には、一生に一度しか訪れない珍しい宴席である。
仕事人ばかりだから、世代も職種も職場も違えど、めざしている境地は同じ。
だから、それぞれの問題を持ち寄って、ユーモアまじりでつつきあって、堅苦しくならない肥やしにするような「談話の作法」を、みな自然に身につけている。
美酒美食で話は泉。いい夜だった。
ま、皆さんがんばって下され!
と言い残して、日付けが変わるころ家路へ。
土日をまたいだFM番組「ジャズ・トゥナイト」が、ばっちり留守録音できておった。ジャズ・ギター特集だったので、どうしても聞きたかったのだ。
DJの渡辺香津美あにぃの同時代ギタリストで、フュージョン・ブームの真ん中で華麗に超絶技巧を誇っていた貴公子といえば、リー・リトナー。
番組では下世話なゴシップは話してくれなかったが、最近、このリー・リトナーが、杏里と結婚した(する?)というニュースには驚いた。
意表を突くというか、「でもけっこういい感じ」と、しみじみ感じる。
ともに70年代デビュー組。
杏里は最初からニューミュージックふうでもなく、いわゆるJ-POPにも行かず、女優の方向にも行かず、演歌への仰天転向もせず、なんだか独特の位置にあった。杏里といえば「オリビアをききながら」のイメージが強すぎて、その後のはまり位置が難しかった。
同世代というと、松田聖子、黒木瞳、浅野ゆう子、浅野温子・・・おぉ、だれ一人として、「同類」とくくれない独特のキャラクターばかりではないか。できあいの「ジャンル」にも、どうにも入れようがない。
個人的には、生まれて初めて、コチコチになりながら自分で足を運んだ喫茶店で、同級生の井上雅文君が大事そうに持っていたLPレコードを見せてもらったら、それが杏里だった。キョウリ?アンズリ?と間抜けな読み方を是正指導(笑)してもらった思い出がある。
このころが、なぜか西海岸ブームで、西海岸テイストのサザンにはまるやつ、濃いやつになるとイーグルス、本場の本物サウンドを聞きたいが英語の歌詞はわかんねーよ!という中途半端なやつはフュージョン・・・と、なんとなく分かれていたように思う。もちろん僕は中途半端だった。
サザンのように開き直ってしまえば、もう大御所の「四十代実力歌手」になっていたであろう杏里ご本人は、独自の路線を邁進。
ただ、踊り歌う四十代といえば、復活ピンクレディのインパクトが強すぎて、タップダンスを踊る黒木瞳も光り輝いていて、大地真央にまで「カルメ〜ン!!」と踊られては、音楽性を究めるしかない。
それで、「日本に安住していないわ〜私♪」の気合いで、スーパースターギタリストと結ばれたわけか?
それはそれで、ますます尊敬する。
リー・リトナーとのコラボレーションからどんな音楽が生まれるか、楽しみだ。第二デビュー作「リトナーをききながら」とか。
それにしても、カリフォルニア一派のジャズメンと大和撫子との結婚は、けっこう多い。故エリック・ゲイルもそうだったし、ルー・タバキンより有名になってしまった秋吉敏子は現役のジャズ・ピアニスト。
マイケル・フランクスは、神社で神前結婚式をあげたらしいし。
リー・リトナー世代はフュージョン(融合)と呼ばれ、少し前のクリード・テイラーやジョージ・ベンソンの時代にはクロスオーバーというジャンル・・・というかジャンル崩しが生まれた。
だから、ヨーロッパから見た「東洋ブーム、オリエンタル・テイストの日本」というより、カリフォルニアの西にある日本が、新しもの好きな西海岸ジャズメンの目に留まるのかもしれない。
「新世界」は、西海岸の専売特許ではない。
僕の好きな東海岸ジャズ一派にボブ・ジェームスというおっさんがいて、彼が自分のレコード会社を創立したときのレーベル名がタッパン・ジー。会社近くの川にかかる橋の名前だったそうだ。
こんな調子で、どんどん架け橋もかけて、クロスオーバーしあったりチャンポンしたりしながら、いい音楽が生まれてほしいものだ。
日本でも、心斎橋レーベルなんてのが生まれないものだろうか。
浦島太郎上等兵
at 2005 05/28 12:54 編集
またまたフィリピンで見つかった旧日本兵、栄養も治安も悪いところで、よくまぁ90歳近くまで長生きしておられたものだ。
身元を保護して、労をねぎらってあげられればと願うばかり。
そして、ゆっくりと、この邪悪にまみれた(笑)21世紀ニッポンを確認してもらおう。
ご無礼かもしれないが、なんだか未来のチンパンジーが現代アメリカを観光して回る『猿の惑星』の続編を思い出す。
昔の日本にも、今のフィリピンにもないものは、どう見えるだろうか。
たとえば、普通に街にあふれている茶髪。「毛唐の真似などしおって非国民!」と憤慨するか?
ましてや、生き残りのヤマンバと遭遇したら、卒倒すると思う。
女性のミニスカートを見たら、90歳にして青春がよみがえり、19歳へとワープしてしまうかもしれない。
阿鼻叫喚の都会を逃れて、自衛隊の基地か演習場かで古巣に戻った気分でホッと一息つけるかもしれないが、米軍基地が日本国内のあちこちにあるのを見ると、卒倒するかもしれない。
皇軍感覚がよみがえって、「天皇の御真影を掲げたまえ諸君!」と、思わず檄を飛ばしてしまっても、まぁ、察してやってくれたまえ諸君。
そして、テレビの皇室アルバムなんかに気軽に出演しておられる「あのときの皇太子様(現陛下)」を見ると、まぶしくて直視できなくて、土下座したまま顔を上げられなかったりして。
テレビやクルマや旅客機なんかはフィリピンでもなじんでいただろうから、浦島太郎状態といってもハードウェアそのものの進歩には驚かないと思うが、ソフト面の変化にはなかなか慣れないだろう。
小野田寛郎さんも、横井庄一さんも、そうだった。そして横井さんはブラジルへ行ってしまったっけ。
60年の空白を経て祖国に帰ったとき、我々だったらどんな感じがするか。
逆に、今の感覚で60年さかのぼってしまえばどうか。
こんな空想は、実はアメリカ生まれの社会学エスノメソドロジーの実験手法でもある。
たまに僕もインスタント実験をしてみることがある。
地元にいるのに、関東人のふりをしてみるのだ。これだけのことで、関西人同士と了解しあっている間柄では出てこないキャラクターが出てくるのがおもしろい。
「食い倒れの街って聞いたんだけどさー、ファストフードとかコンビニばっかで、東京と変わんないよねー」とでも嘆いてみたら、大阪人の営業精神に火がついて、濃厚サービスにありつけるかもしれない。
僕のはまり役「日本語が流暢なフィリピン人」になりきって、日本人ミナイイヒトデス、デモ日本女性ハ心ユルシテクレナイ!!と嘆いてみたら、何かいいことでもあるだろうか(笑)。
帰国された老境の元兵士は、邪悪にまみれた現代の祖国になじむには苦労されると思うが、「わしら浦島太郎じゃ」と割り切って、驚きを楽しんでいただければと思う。
その前に、空港でアメリカ機のパイロットに、発作的に殴りかかってしまうかもしれない。スチュワーデスに羽交い締めされてときめきつつ(笑)。
逃避行
at 2005 05/27 15:10 編集
「中学教諭、駆け落ちで欠勤」という朝日新聞の見出しに、もう物珍しさは感じないご時世って、どうなっちょるのだ!?とも思いつつ、チェックしてみると、想像と事実はちょっと違っていた。
よくいるロリコン先生と敬老少女の逃避行か?と思いきや、センセイ同士の火遊びだったのだ。
ともに32歳の、同じ学年を受け持つ教諭同士が駆け落ちして、九州各地を3日間クルマで転々としたあげく、戻ってきて停職処分。
なんだかなー・・・。
いい大人がねぇ。
かけおちしなくても、コッソリと・・・というのもいかんが、大人同士、もっとスマートかつ合法的にコトを進めてほしかった。
退職して仕事を引き継げたら、あとは大人の責任で好きにすればいいと思うが、退職届すら出せないほど切羽つまったというか、いきなり発情してしまったのだろうか。
あたたたたた・・・と思うのが、男性教諭には妻がいるそうで、あぁこれで家庭を失うかもしれないし、下手すると職を失いかねないし、代償は大きい。
免職を免れて退職したとしても、32歳だと退職金も大してもらえない上に、共済年金もまだつかない。お先真っ暗というか、真っ白というか(笑)、一体どうするおつもりか。
お間抜け教諭たちに教わっていたチュー坊たちは、そんなにトチ狂うほど、燃え上がった二人なのか?と詮索してしまって、受験勉強も上の空だろう。これも罪つくりだ。
校長センセイは、全校集会でどう釈明するのだ?
いま、問題の男性教諭の方は停職で研修施設送りになっているそうだが、「色恋沙汰で職務放棄」など、会社員なら即刻クビ。
犯罪をおかしたわけではないとはいえ、教諭というのは、つくづく過保護な特異種族じゃのぅと思う。
地元の納税者からすると、どうせなら納税した甲斐のあるエンタテイメントを見たいから、「失楽園まで行ってみせろ!!」と、野次も飛ばしたくもなるってもんだ。
厚労省としては、「少子化に歯止めがかかればいいから、もっと行け行け」という気分かもしれないが。
ドタキャン
at 2005 05/26 11:59 編集
中国が動揺している。
4000年の老獪な政治大国だから、日本を手玉にとることぐらい簡単だろうにと思うのだが、首脳会談を来日してからドタキャンというのは、前代未聞。
子供の「もう、帰る!」と同レベルではないだろうか。
それほど、老いて子供帰りしている証しかもしれないし、もしかすると逆に、深い計算があるのかもしれない。
アジア諸国は、どこも日本からの戦争被害を恨んでいるだろうが、「靖国神社ぐらい、勝手に参っとればよい」と構えているのが大人の国というものだ。
外国の癇に障る部分もあるとはいえ、政治家の神社参拝というのは内政問題だから、苦々しくは感じても首脳会談ドタキャンの理由にまではできない・・・と、常識的な国なら考えていると思う。どうしても気になるなら、最初から首脳会談を持ちかけなければいい。
とりあえず、靖国参拝はしない方がいいと個人的には思うし、一歩引いた方が言いやすくなることもある。
「押してもだめなら引いてみる」の要領で。
「日の丸を燃やす抗議行動は、国際法違反の犯罪だぞ」
「日本から多額のODAをもらって核武装している国には、もうビタ一文あげません」
「選手の安全が心配な北京オリンピックも、ドタキャンしよっかな」
「中国人へのビザ発給、どうしよっかな」
小細工もいろいろ思いつく。
野口みずきは、42.194km走った地点で抗議の棄権をするとか。
男子マラソンに、人民服を着せた目立ち屋さんを沿道からから乱入させるとか。
水泳は、例の「大磯ロングビーチ作戦」で、ライバルを骨抜きにする。
かように、外交カード「オリンピック部門」は、いくつも使えるぞ。
使うかどうかは別として、ちらつかせることはできる。
いやらしいかもしれないが、これが外交交渉というものだと思う。
オリンピック・ボイコットといえば、モスクワの教訓があって、できれば避けたいと思う素朴な国民感情はあるようだ。
ちょうど僕は予備校生だったから、おかげでテレビに目を奪われることもなく、ボイコットさまさまだったのが幸運だが(僕以外の受験生のために、つい見入ってしまうオリンピックが開催されていたら、もっとよかった)、今は経済的な損失も大きいから、ボイコットは難しい。
ただ、「スポーツの祭典を政治で動かすな」というのは甘い幻想というもので、政治力なくしてオリンピックも国際試合も成り立たないし、スポーツそのものが政治と宗教のチャンポンだったりする。
IOCもJOCも日体連も日本陸連も高野連も――まぁどこの組織も同じように――まるでミニ政府、ミニ国家で、政治が選手を動かしているのが現実。だから、選手の選考と政党の人事は、そっくりなのだ。
オリンピックや世界選手権クラスの選手は、もう「スポーツ外交官」と言ってもいい。
だから、外交に影響されるのは宿命というもの。
あぁ、ミッションに向かう途中で撃沈された戦艦大和なのか選手諸君は!(笑)。
もちろん、自費で行くのはかまわんし、カンパを募ってもいい。
個人的には、キューちゃんのリベンジ・ランを見てみたい。800円カンパするぞ。
金で配当10倍、銀で5倍、銅で2倍、無冠でゼロ配当・・・。
「北京ギャンブリンピック」になってしまいそうだ。
ハウツー道楽
at 2005 05/25 17:06 編集
神戸の玄関口にあたる阪急電車の駅構内東口に「ブックファースト」ができたせいか、昔からある西口の本屋がつぶれてしまった。
僕も、待ち合わせのひまつぶしに使っていたようなところがあるから、なごりを惜しむ資格はないのかもしれないが、小さくて手狭なわりに、品揃えはけっこう工夫されていたのになぁと一抹の寂しさを感じる。
駅の改札脇だから、タウン情報誌やマンガ週刊誌を大量に積んでさばくのが、売り上げ確保の定石でもあっただろうに、そんな傾向はなかった。
もっと店の個性なり、経営者のメッセージなりが打ち出されていてもよかっただろうに・・・と今さら応援しても、後の祭りか。
それでも、ミニ書店応援団員の僕は、ある種のメッセージは感じていた。
毎号立ち読みしている(本屋さんごめんなさい)『アドリブ』という雑誌があって、たいていの本屋さんでは近くにPATIPATIとかカラオケファンとか、音楽雑誌がゴチャゴチャゴチャッと集められている。小さい店だと、クラシックとか演劇とかJ-POPとか、分野ごとにタグをつけて区分する余裕なんてないのだ。
このゴチャゴチャ棚の、しかも大判が多い音楽雑誌の背が並んでいる棚に、いかにも肩身がせまいというか、背が低いというか、新書がこっそり並べられていた。
元東フィル指揮者の大町陽一郎マエストロの『クラシック音楽を楽しもう!』だった。
どことなく、「雑誌も買ってほしいけど、じっくり音楽を聴く手引きもいかがですか」というようなメッセージが伝わってくるではないか。
気にはなりつつ、いずれ買おう買おうと思っているうちにいきなり閉店になってしまい、「まぁ、絶版でもないし、別の店で探すか」と思っていた今日このごろだった。
きのう1週間ぶりかに出かけた「10万冊古書店」は、一週間でずいぶん品揃えが変わっていて、その中に、マエストロの新書が「新古本」状態で入っていた。
数百m東の駅構内で閉店してしまった書店には、財産の保全管理の貼り紙はなかったから、もしかして、そこから回ってきたのか?
何かのご縁かと思いつつ、即お買い上げ。
このマエストロの手引き書は、初版が1965年だというから、ちょうど40年
売れ続けているわけで、すごいロングセラーだ。マエストロ34歳、東フィルの指揮者になって5年目の年に上梓された一般向けのクラシック案内書だったらしい。
ただのマニュアル本ではなくて、演奏家の気持ち、名だたる作曲家の人となりとその時代社会、音楽界を取り巻く文化、音楽の都のスケッチなど、さりげなく書かれたエッセイでもあって、敷居が低くて親しみやすい。
とはいえ、中には1本筋が通っていて、それは「音楽を楽しむ方法」である。音楽を楽しむための音楽の歴史、楽器の知識、音楽学の基礎が静かに語られていて、説得力がある。
65年の初版時にはなかったカラオケやCDについても、近年になって加筆している。時代に適応した、こんな寛容さも、長年売れ続けている秘訣なのかもしれない。
音楽の楽しみ方なんて、「ご自由にどうぞ」としかいいようがないけれども、簡単な趣味の楽しみ方を、おもしろく・わかりやすく・目からウロコを落とすように書けるプロというのは、めったにいない。
たとえば、マエストロは演奏家の立場で、コンサート会場ではコートを持ち込まずクロークに預けるよう、やさしく勧めている。それがヨーロッパでは常識で、コートの持ち込みを許さない会場もあるという。
その理由もちゃんと書かれていて、「赤ん坊同伴でコンサート鑑賞はいかがなものか」以前の、文化の常識が、エレガントかつ折り目正しく説かれている。
「方法」こそ趣味のエッセンスなのかとも思い知らされる。
どんな音楽を聴くのも自由だから、それ自体は趣味というほどでもない。それが、「私はレコードを蓄音機で聴くことにこだわるのだ」とこだわると、かなり濃い道楽になる。
また、模型マニアが、製作用と保管用に、パッケージを必ず2つ買うとか。
聴き方、買い方、集め方、食べ方・飲み方にこだわらず量と数だけ追求しても、それは動物的な物欲にすぎない気がする。
豊かな時代だから、こだわって手に入れた逸品を大切に頬ずりしつつ(笑)愛蔵したいものだなぁ・・・と思う。
LPレコードをなかなか捨てられないのも、どこか感情移入してしまったせいかもしれない。
趣味はアニミズムである。
とすると、「マイ宗教」でもあるのだろうか。
カレーなる採点
at 2005 05/24 08:47 編集
とりあえず、通勤経路周辺の全カレー店は点検することにしているので、最近リニューアルして「インドカレー」を大々的にアピールしている某店に、試合を挑んでまいった。
ごていねいに、INDOカレーと看板をかかげている(メタル印度カレーのテイストでんな)。
「関西の玄関口」の改札口を出て真正面にあるので、責任重大だぞインドは。
毎日のように挑戦状をつきつけられている気がしていたので、いざ出陣である。
なにやら、能書きがカウンターのあちこちに貼ってある。
「トワイライトエクスプレス」の食堂車「ダイナープレアデス」をクリエイトしている総料理長が厳選したカレー・ルー使用!!
だそうな。
おいおい、なんじゃい、そのクリエイトちゅうのは?
最近よく聞く、わけわからん「プロデュース」の上を行って、はぐらかされているような気もする。
クリエイトとは、ご大層にも「天地創造」の「創造」だぞ。
それに、「厳選」とは何することであるか。わしらが、たとえばボンカレーとククレカレーのどっちがうまいかしらんとスーパーで厳選する客と、どう違うんじゃい?
てな揚げ足取りはさておき、肝心のカレーライスだが、採点は首をひねってしまった。自分のゴールにシュートしてしまいよったチームを見る気分といえばいいか。
たしかにルーは「準絶品」で、カレースタンドにしては上出来だ。
ただ、ご飯がパサパサで、おまけに天井のエアコンからの強冷風で、すぐ冷や飯になってしまうのだ。
おおざっぱにクリエイトなんていうからには、店内の空調やご飯にまで、気配りの広さみたいなものが問われるのではないですかい?「カレールー以外にはこだわってません」では、クリエイターといえぬわ。
と、僕は海原雄山になった気分で採点するのであった。50点!
極楽カレースタンドを訪ねる終わりなき旅は続く・・・
つつじフェロモン
at 2005 05/23 14:00 編集
「裏山を案内するように」との仰せで、おねーさん二人組を山へ連行した日曜日。
僕のいつもの散歩コースを逆に回る形で、新神戸から元町へ、山を大回りして向かう。
「接待」にしてはあいにくの小雨しとしと。
潤いをもらってか、路傍のつつじが生き生きしていて、あたり一面に香りをふりまいている。
こんな小雨の中の山歩きは悪くない。
雨が草木に降る音、地面に降る音は、感性の「解像度」を高めると、一粒一粒が聞き分けられるようになる気がする。
ふと、子供たちに座禅を組ませ、「耳を澄ませて、心を澄ませて・・・」と明鏡止水の境地に置いてから授業を始めるのを儀式のように続けていた塾の経営者先生がいたのを思い出す。
それだけで、特に宗教色はない淡々とした補習塾だったが、当たり前のことを忘れさせないというのは、大切なことだと思う。
とはいえ、僕はじっと水面を凝視し、天を仰ぎつつ思索にふける風流人ではない。つい、トットコトットコ歩いてしまい、初ハイカーを置き去りにすること度々。
そのせいか、3人そろって平等に尻もち転倒1回ずつ。こりゃ引率者失格かもしれない。「もう懲り懲り」と思われてなければいいが・・・。
なんとか無事に、5時間ほどの裏山逍遥を楽しんで、雑踏へ下山。
心地よい疲れが残った。
「下山して有馬温泉」というのは身近な極楽だが、それはまたの機会にということで、家風呂でさっぱり。
これぐらいの山歩きが、日曜日にはちょうどいい。
あらためて、紫陽花の季節が楽しみだ。
高田みずえ「私はピアノ」
at 2005 05/22 10:20 編集
いま話題のレッサーパンダは、中に人間が入っていて、「四つん這いばかりだと疲れるわい」とばかりに、よっこらしょ!と背伸びしているように見えてしかたない。
旭山動物園の成功を横目で見て、「うちにも目玉がほしい」と思ってしかけたネタのようにも見える。うちで代々飼っていた猫だって、じっと立つぐらいはしていたし、ましてや熊だと珍しいしぐさでも何でもない。
みんな、ヒマなのねぇ。
しかけといえば、もっと匂うのがイギリスのピアノマン。
そっくりな話の映画が「たまたま封切り間近」だというから、これは前宣伝の疑惑を持たれて当然で、このニュースを聞いたヨーロッパ人も、眉に唾しながら、「だまされているかも」気分込みで楽しんでいるのかもしれない。
もちろん、本当に記憶障害の患者さんかもしれないから、そのつもりで徹底的な治療計画を立てて、公言すればいい。映画宣伝のネタだったら、会社も役者も「これはヤバい」と降参するだろうし、本物の病人だったら救われる。
こういう追い込み方は、仮病を訴えているかもしれない子供に「注射してもらおうか」と迫る親の発想と似ている(笑)。
かえって、クロシロはっきりつけるより、灰色を楽しむのがミステリー文化だったりする。
コトの舞台がイギリスというのも、「なんだか・いかにも・いやはや」な感じ。あのBBCは、昔から4月1日に大ウソを放送する(ロンドンの鐘ビッグベンが落ちましたとか、王室ネタもあったっけ)ことで有名だった。視聴者もそれを楽しんでいた。
ピアノマンねたも、僕が限りなく「ねた」と疑うのも、それで国が動くとか、だれかに迷惑がかかるような面がなくて、それどころか、いろいろな楽団や大道芸人の名前が出て波及宣伝になっている面が見えてくるから。
それはそれで、種明かしされてから、「なーんだ」と笑ってすませればいい。
逆に、本当に記憶障害の患者さんなら、オチがないというので、がっかりされるかもしれない(笑)。
BBCの上手を行くメディアが、「ピアノマンが、映画の宣伝であることを自供しはじめました」と報道してみれば、何かが動き始めるかもしれない。
大スポ(東スポ)みたいなタブロイド新聞がたくさんあるイギリスだからこそ、すでに鵜の目鷹の目でいろんなシナリオが開陳されているかもしれない。
日本のメディアは、鋭いえぐりもユーモアもイマイチなのが残念。
妙に道徳的な「投書オヤジ」や「PTAおばさん」が多いせいか?
シンタロー・アイランド
at 2005 05/21 13:08 編集
東京都小笠原村沖ノ鳥島に乗り込んだ慎太郎は熱かった。
「日本国」と明記された石碑にキスするわ、スキューバダイビングして「透明度は最高」と海の男ぶりを見せるわ、しめくくり会見では「あれは領土だ。文句あるか!」と息巻いていた。
このパフォーマンスが受けている面は、たしかにあるだろうな。
しかしねぇ・・・2つ合わせて9平米というと、6畳そこそこ。これでは、「定住して経済生活」を営んでみせるのは至難の技ではないか。
個人的には、国土を守りたいし、中国の領海侵犯はけしからんと思うが、沖ノ鳥島に限っては、中国もいうように島というより「やがてなくなりそうな岩」に見えてならない。
日本としては、「住めるが、たまたま今は無人島」というところをアピールしなくてはいけない。
国家主権の問題を、「領海侵犯」して、自治体の首長としてやってしまうのがシンタローの熱い持ち味だ(笑)。
そこで、環境保護はさておきシンタロー特区でもつくって、居住できるよう改造する。
地下10階ぐらい掘り下げた上で、超高層ビルでも建てれば、小さな村ぐらいの人口は暮らせるかもしれない。台風が来れば地下(海底?)に避難するとして。
ふだんは、どのフロアからも、釣り糸を垂れたら新鮮なおかずが入れ食い状態。魚好きにはたまりまセブン!!(という古いフレーズがあったような・・・)。
ただ、海に囲まれて庭も緑地もない孤島の「鉛筆ビル」に閉じ込められると、拘禁反応も避けられないだろうから、精神科医も常駐しなくてはいけない(ドクター自身が変調をきたすかも)。
こんな不安も、愛国心で乗り切れる都知事さんご自身が、ぜひ手本を見せてほしいものだ。72歳でダイビングしてみせた、山下汽船の御曹司・・・生え抜きの海の男ではないか。たしか『海の地図』という小説も、僕は読んだことがあるぞ。
海のロマンにちなんで、海が好きそうな加山雄三、鳥羽一郎を、助役と収入役に任命して、一所に連れて行けばいい。
シンタローの次の手は、「ここは我が東京との領土なんだから、警備員の代わりに海中機雷を沈めておいてかまわんだろう。警官は拳銃を持っているじゃないか」という理屈で、東京都vs原潜を持つ中国海軍の「太平洋海戦」になるかも????
指令長官石原慎太郎が、「大和も建造したらいい」と口走ったりすると、角川春樹が映画づくりに燃えて、戦費は興行収入でまかなえるかもしれない。危うしシベリア超特急!!
結局、キティホークが出撃でもしないと、中国は引き下がらないだろうから、日米安保に頼ろうというのが小泉さん、米軍なみの軍備を持つべしというのがシンタロー。
西村眞悟やシンタローやアーミーおたく石破茂etcetcと並べてみると、小泉首相がずいぶんハト派に見えてくるのも、不思議な錯覚だ。
夢の夢
at 2005 05/20 13:26 編集
まさに目が覚める1分前に見ていた夢が、おもしろい展開になりそうだったのに、起床せざるをえなかった。
残念!
出てくるのは、あの人と、この人と・・・と具体的に現実社会におられる面々で、なぜか一緒に民宿に泊まることになって、洞窟の奥のような狭い狭い階段を降りて行くはめに・・・。
なんじゃこりゃー?というところで、幕。
もう、30cm四方ほどの隙間にもぐりこむような奈落の底への階段だった。
なんだか、これからの人生を暗示しているようで(笑)こわい。しかも、この宿を選んで友人たちを招いたのは僕自身である。あぁ、罪な話。
もしかして、夢の世界の魔王が「罪のない友人を、お前の奈落人生に引きずりこんではならぬ」と戒めてくれたのか?
謙虚に受けとめなくては・・・
しかし、もっと幻想的というか、それこそ夢見心地の夢というのを見たいものだ。トム・クルーズになって、黒木瞳と海を越えた不倫の恋の物語りとか、ジローラモになって山口もえにいたずらするとか。
実際わが夢の世界など、リアルすぎて「あぁ、あの町この界隈やなぁ」と思い出せる眺めばかりだから、夢であって夢がない。
どこか闇の世界の大魔王に「託宣」を突きつけられているような気にもなる。
だから白日夢が豊かになるのか・・・妄想癖と笑われておしまいだが、なんとか大スペクタクルや大河ラブロマンというのを見てみたいものだ。
通販で「夢見マシン」でも買えないものだろうか。
さぁご飯ですよ
at 2005 05/19 09:18 編集
「めし」は腹持ちがいい反面、腹にもたれる感じで、忙しくてバタバタしているときは、なかなか落ち着いて茶碗と箸を持つ構えになれない。
で、ついサンドイッチやトーストとサラダか何かのセットを、喫茶店でかきこんだりしているのだが、そうすると「1日1回は必ず飯を食わねば!」と強迫観念に襲われてしまう。
手軽に腹を満たしたい若い子がハンバーガーの類に飛びつくのもわかる気がする・・・とはいえ、ファストフード屋を横目でみると、どなたもまったり落ち着いていて、別に「ファスト」で食い急ぐ必要もないんちゃうの?とも思う。
ファストでも一応まともな食事に近いのはミスタードーナツの飲茶セットのような気もするけれど、ミスドは最近なにかとトラブル続き。ぜひ仕切り直しをして、立ち直ってほしい。
中華系は豪華な方に行くと天井知らずだし、ミスドやパンダのようなファストフードにも合うし、変幻自在なところはすごい!と思う。
和食党の僕でも脱帽するしかないが、和食もがんばってほしい。
二十歳前後の少年少女に「サバ定食はうまいよー」「冬は粕汁やねー」「たまに変化球でカレイの煮付けもいい」・・・とPRしても、重苦しい印象はつきまとうから、片手でホイホイ食えるような和定食を開発してみてもいいと思う。カウンター形式のお茶づけ屋でもいい。
こんなふうに、僕が追求している「安くてうまい和食」がどんどん普及してくると、和食は昔から晩ご飯―つまり日本人の正餐―のイメージが強いから、家族団らんの求心力が低下して行く心配も、あるにはある。
昨夜の仕事は、大卒者ばかりのセミプロさんグループとの対決(笑)だったが、僕の定義する「家族」を問われて、ふと考えさせられてしまった。
具体的に「だれを家族と見るか」は、まだ答えやすい。人によっては法律的に定義するかもしれないし、僕はとりあえず「腎臓片方あげられる相手が家族」と答えた。
ただ、家族という場なり、ドラマなり、現象なりは、もっと曖昧模糊としていて、「何が家族を家族らしくしている力か」というのは、難問だ。
インセスト・タブーだ嫡出の原理だ配偶契約だと、もっともらしい概念を手際よく説明することはできても、ルールで定義づけて「おぼえなさい」というのも、どこか逃げている感じがする。
身近な世界に立ち戻って考えれば、やはり食事を共に囲む場のようなものが、家族のような気がする。
子供が塾、旦那が残業と赤提灯・・・というのが自然になってしまうと、それは何のための家族なんかねー?という気がする。
そうなる以前に、「食堂の達人」と化してしまうと、家庭に寄りつかないで外へ外へとさまよい出てしまう癖が治らないので困る。
親元に深く深く錨を下ろしているパラサイトさんたち、すっかり女房に調教されている働き蟻さんたちと、家庭なり家族なりのとらえかたは、なかなか一致しそうにない。
僕のような食堂族は、決して例外ではなく、増える一方ではないかと思う。
こんな世の中で、個人の意思表示がなくても、家族が「あげます」といえば臓器を摘出される法改定が、国会で審議されている。
議員センセイたちにとって、家族は個人より優先していいほどに神格化された「ご本尊」なのかもしれない。
個人があって家族があるのか、家族が合って個人があるのか・・・
難問はすっきり解けそうにない。
いらっしゃいマンセー!
at 2005 05/18 17:26 編集
万景峰号が正式な手続きをして入港しているのに、定番の反対運動。
別に僕は北シンパでもないけれども、感情的な反発はどうかと思う。
あの船の入港を阻止すれば、拉致被害者が帰って来るのか?日朝友好になるのか?北の脅威がなくなるのか?
と問いかけて行くと、どれも効果が疑わしい。
どころか、「とにかく反対」というのは、拉致問題をこじらせてきた某政党の発想と似ている。
国民感情としてはわかる面もあるとはいえ、これでは中・韓の反日デモをとやかくいえないし、大人気ない態度を諌める大人になれるのか日本は!?と、つい憂国の士になってしまうぞ。
むしろ、怒りの矛先は年金対策や警察不祥事、公務員厚遇問題に向けるべきだろうに、船一隻にお決まりのようにシュプレヒコールをあげるのは、マスコミがターゲットを設定しているのも大きな理由だろう。報道に躍らされている印象が拭えないのだ。
報道されなくなれば、岸壁で声を張り上げていた人々は、潮が引くように消えて行く。薬害エイズの問題で厚生省を取り巻いた人間の鎖は、今どうしているのだろうか。
マスメディアの「議題設定効果」は、メディア社会学で言い古された説ではあるけれど、ネット社会になっても基本的に放送局の優位は揺らいでいないような気もする。
ブログばやりとはいえ、ブログがニュース性を持てば持つほど、読み手の時事的好奇心は星の数ほど分散して行くから、やはり放送と新聞の力が相対的に強大になって行くのではないだろうか。
せっかく個人で「発信」できるブログなんだから、大手報道機関にできないような「報道」をすればいいと思う。
「JR事故の加害者はスピードを求めた利用客みんな」だとか、
雅子様の不倫願望(!?)をスクープする「皇スポ」とか、
例の「北の船」なら、熱烈大歓迎するメディアもあっていいと思う。
敵視ばかりしていると、反日思想を支えにしている国には励ましになるだけ。
だから、日本に来航した船員を、上げ膳据え膳・酒池肉林で接待漬けにして、「もう北に帰りたくない!亡命しますっ」と言わせるまでとろけさせれば(笑)、日本に行くたびに船員が消える万景峰号は、そのうち来なくなるぞ。
なんだか、チョコレートで日本の子供をとろけさせたGHQみたいな発想だが、「日本よいとこ国交回復」と思ってもらえれば、交渉も前に進むだろうて。
甘いかな?
ミニらも
at 2005 05/17 15:06 編集
駅は、出会いと別れの舞台である!
・・・なんて気取らなくても、人間模様があふれかえっていて、なかなか飽きない。
いやまぁ、玉石混淆、まるでニンゲン見本市である。
駅の食堂街で、いつもの炊き込みご飯定食を目当てに入った店には、でんと酔っ払いが座ってクダを巻いていた。
昼の1時すぎに、もう真っ赤な顔でマドラーをもてあそんでいる。中島らもを縮小して若返らせたような感じの小太り君(推定38歳)。一応、スーツにビジネスバッグ姿だ。
なぜか関東弁で、「俺ってさぁ、普通のサラリーマンには見られないんだよね」と店員を捕まえてはからんでいる。
「ねーねー、俺何に見える?よく芸能関係とか、医者とか弁護士に見られるんだけどさー、当ててみてよ」と、むやみに馴れ馴れしい。
昼間から飲んで自由人になった気分は、それはそれで勝手だが、芸能人、医者、弁護士という発想がプア〜である。キミのような自由人」はいるかもしれないが、それでは仕事にならないから、プロフェッショナルといえるかい?
ミニらも周辺には、あんまりかかわりたくない空気が漂っていて、注文追加のたびに行かざるをえない店員は、つかまっては手を焼いていた。ここはスナックではない、昼の定食屋なのに。
そこは、大阪のおばちゃんパワー!!
店のおかみさんが、
「何に見えるゆうたかて、普通のサラリーマンちゃいますの」
と直球を決めた。
魚雷をくらった成り金のクルーザーは、「ナメクジに塩」と化して行く。
「あた〜り!!ただのサラリーマンですっ」
「学者さんとか弁護士さんやったらね、ちょっと話しただけでわかりますわ」(あんさんそうは見えまへんで!の婉曲表現)
と言われたミニらも君、今度は、へりくだりモードに入って「慰められたいのボク」男になりよった。
「こんなふうに昼間っから酒飲んでる俺って、最低だよね。余剰人員だよね」
と、ヨイショを乞うような、不遜な謙譲。
さすがは百戦錬磨のおかみさん、さわやかに返していた。
「でも、ええ会社ですやん(昼から酒を浴びているあんたを雇用しているなんて、ありがたい話よね)。甘えてたらあきまへん」
「・・・ねぇ」と、いきなり僕に振ってきましたがな、おかみさん!
そうだそうだ、と僕は全面的に「働くおじさん」モードに入って、酒に逃げちゃーいけませんぜミニらも!とテレパシーで檄を飛ばしておいた。
そして定食屋の仁義を守り、15分で炊き込みミッションを完了して店を出たのであった。
階上の待合室で、食後のコーヒー。
この片隅に、NTTのフレッツスポットというのがあって、使い放題の端末が並んでいる。
そこで調べ物をしていた、坊主頭の推定ドイツ人バックパッカー君が、次は公衆電話をかけて何やら懸命にシステム手帳にメモ書きしている。
おそらく、片言の日本語で宿と交渉して、ドイツ語でメモっているのだろう。逆だったらすごいのに。ドイツ語で民宿かどこか強引に交渉して、日本語でメモ書きしているとか。
海外でトホホな顔をしてイエローページをくりくり公衆電話で宿探しをしていた僕と、似たことをやっているなぁ・・・と、ほほえましく眺めてしまった。
ようやく一件落着したバックパッカー君の、不安が洗い落とされたような軽い笑顔は、とてもまぶしかった。
いい旅してるなぁ・・・と思う。
それにしても、なんだかヘドロの海底から石垣島へ移動したような感じ。
季節柄、この新幹線駅には外国人旅行者をよく見かけるが、けっこうな熟年夫婦でもバックパッカーが多い。尊敬してしまう。
ミニらも君も、しゃきっと旅に出て、風に当たってきてはどうかね。
職場→同僚と飲み屋のレールも、思い切って脱線して、職場の違う飲み友達を持つのも、旅みたいなものかもしれない。
もっとも、同僚に飲み友達ゼロの僕は、職場に人生のレールを敷いてもらって走らされている貨車の立場は、よくわからない。
犯罪はよくないとしても、人生の脱線は大いにけっこうだと思うのだが・・・
ダイヤ革命
at 2005 05/16 15:38 編集
スピード優先のダイヤを見直そう、というので、JRはわざわざ所要時間を遅くするダイヤ改定を検討しはじめた。
たしかに、停まる駅が増えて時間が同じということは、それだけ猛スピードで走っているからで、利用者だれもが気にはなっていたんではないだろうか。
JR西日本のドル箱路線の大阪・神戸間は、30kmで20分(新幹線と5分しか違わない!)。停車時を含めて単純平均しても、時速90kmになる。
こりゃ速すぎる・・・とはいえ、僕は乗るとコックリコックリ安眠しているから、慣れというのはこわいものだ。
なんだかんだ言っても、鉄道会社に「とにかくスピード!!」と求めてきたのは、ほかならぬ沿線に住む利用客で、あと5分早起き早発ちすれば、安全ダイヤで通勤できるのだ。
ところが、巷のプロレタリアートの出勤場面は、たぶんバタバタと忙しくて修羅場になっているだろうと思う。
「あなた今日は遅いの?」とか、
「ねぇゴミ出してきて。あっまだ詰めてないのがあるからそれも・・・(用意しとけっちゅうの!!)
とか、企業戦士スクランブル発進の出鼻をくじく嫁にも一因があるのではないだろうか(八つ当たり?)。
そこで、こんな朝の修羅場はそっとしておくとして、ダイヤ改善案を提案してみたい。
1.阪急も阪神も一斉に遅くする。こうすれば、「客が逃げるんじゃないか」と恐れてスピードダウンできないってことはない。
2.全般にスピードダウンしてもよろしいが、大阪〜神戸間ノンストップの「超快速」も走らせる。たしか昔はあったような記憶がある。
「うちにも停まってくれ」という駅に応じていたらキリがない。芦屋も尼崎も、あきらめて下さい。
ついでに、飛行機に対抗しようと思えば、東京―大阪―博多だけ停まる弾丸列車を走らせればいいのだ。飛行機は、羽田〜横田〜名古屋〜伊丹なんて鈍行立ち寄り飛行はしないでしょうに(でも、あったら楽しい。DC-3か何かで)。
3.これが一番かしこくソフトな改善策だと思うけれど、なかなか進まないのがフレックスタイム出勤制。
1分、3分の時短や遅延に目を血走らせたい熱血サラリーマンだけ、いわゆるラッシュアワーに乗ればいいし、鈍行でゆったり通勤通学したい人は時間をずらせて乗ればいい。
安全とゆとりの見直しのためには、ダイヤ「改正」で遅くするという逆転の発想は、悪くないと思う。
もし、それを許さない「1分たりとも速く!!」の産業社会があるとすれば、そっちの方がおかしい。鉄道会社を敵にしてカタルシスをしていただけだと、本当の社会病理は治らない。
過労死も鬱自殺も、日勤教育におびえるJR乗務員も、同じ根から出ている被害者かもしれない。
猫と狐と狸
at 2005 05/15 13:01 編集
母の飼っている猫が、業者にシャンプーやら爪切りやらしてもらっているんだとか。
その業者が、毛玉取りだけはできないという。「暴れると危ないので、獣医に麻酔の注射を打ってもらって下さい」ということになっているらしく、どうしたもんかねーというので、「やめとき!」と一喝してきた。そうやねぇ、注射うってまでねぇ・・・と、愛猫のタヌキ顔を見ながら納得していたようで、何もわかってない猫は、きょとんとしている。
これ、いかにも獣医とペット業者の結託が透けて見える構図ではないか。
でなければ、ただ業者が低能なだけ。
市場サバイバルできまへんで〜!!
そもそも、毛玉で死んだ猫というのは聞いたことがないし、ただマスコットをキレイキレイにしてこねくりまわしたい買い主心理をくすぐる商法が、あれこれ乱立しているのだろう。
実にうまいタイミングで、認知症の老姉妹が、カモに群がる悪徳リフォーム業者に過剰工事で4000万円むしり取られたニュースがテレビから流れてきた。
「こわいなぁ」と眉をひそめる母は、「私は大丈夫」とタカをくくっている、典型的なカモ候補かもしれない。
ペットを思う気持ちはわかるとしても、「ペットぼけ」で判断能力が低下してしまう健常者は多い。
過剰な栄養、過剰な薬、過剰な毛づくろいetcetcで温室育ちしてしまった犬や猫の方も、ガンや痴呆など人間の病気で命を落とす割合が高くなっているという。お気の毒な話だ。
高齢者イコール判断能力なしというわけではないが、「親切にしてもらったから、つい」というだけの動機で、不要な契約をしてしまうことは、よくある話だろう。
・孤独と隣り合わせの身の上
・・・に、
・サービスや商品が日に日にわかりにくくなっている
・・・と、
・業者、店員の親切を信用してしまって、つい「お任せ」
というシナリオは、さんざん全国各地で悲劇を生んでいるのに、なかなか後を絶たない。
せめて「その場で判断せず、だれかに相談する」ぐらいのクセがあれば救われると思うのだが・・・。
幸い、母と同居する弟も僕も「安全第一野郎」で(笑)、ダブル・チェックマンとして働いているから、今のところこれといって被害はないが、それにしても世知辛く、物騒な世の中やなぁと思う。
携帯ぐらいの身の回り品でも、油断できない。「着信履歴が画面に出ていても、知らない番号に絶対コールバックするな」と注意しておかないといけないし、いつどこで引ったくりに遭うか、油断もできない。
骨折して寝たきりにでもなれば、ゆっくり殺されているようなものだから、ほんと高齢者を狙う犯罪は極悪非道だと思う。
大半のペット業者は、まだ「過剰」なだけで、詐欺とまではいえないからいいとしても、露骨に高齢者を食い物にするリフォームまがい業者や振り込め詐欺師などは、つかまえて特養の人柱にしてしまえばいい。
未成年者は、いくらしっかりした高校生でも法定後見の対象になっているんだから、一定年齢以上の高齢者は包括的に成年後見の対象にして、「補助」を適用すると決めれば、こと詐欺(的)被害については、激減するはずだ。「施設から地域へ我が家へ」とうたうなら、目に見えない制度的なガードで高齢者や障害者を守るしくみがあって、実際しっかり活用されていないと困る。
気丈夫な高齢者なら、「私の年金を私がどう使おうと、自己責任じゃい」と息巻くだろうけど、実際だまされたりすると、自責の念や身内への気がね等で深く落ち込んでしまったりする。
こんな後遺症まで考えると、ちょっとしたつまづきも、罪つくりな事件だと思う。
「自己責任」は、否定しないけれども、やりなおしがいくらでもできる若い人の論理ではないのだろうか。
男と女の色恋沙汰など、「キツネとタヌキの化かしあい」だから、くやし涙に流せばそれでいいとしても、高齢者や子供をだます商売は「別格の悪行」という気がするから、ゴルゴの出番だ。
ムフフフフ
at 2005 05/14 14:03 編集
カーペンターズ・ライブ、白い巨塔テレビ版、ウルトラセブン・・・!!
DVDのおかげで、なつかしい映像がどんどん復刻されている。
もちろん、買えば買える値段ではあるものの、いけませんなぁダビング癖は。
そんな不埒なやつに対抗して、コピーガードがつけられるのもデジタルメディアの利点ということになっているが、「フリフリ」グッズが続々と出ているのも現実。しょせんはイタチごっこなのだ。
私的複製や私的編集がどこまで許されるのかは問題として横に置いといて、なんとか「フリフリ」を手軽にやれないものかと、貧乏ったらしいことを考えてみた。
ビデオ信号を高周波に変調して、またビデオ信号に復調すればよろしいのではないか?・・・21世紀のレオナルド・ザ・ピンチにひらめいた仮説である。
むさくるしいだけの我が部屋は、ときには宝が埋もれている魔界でもある。
ビデオ入力端子がなかったころのテレビにビデオを映すためのRFモジュレーターという80年代グッズが、ころがってましたがな。
これをかまして、僕は83年型テレビを2004年まで使っていたのである。
思い立ったが吉日!で、さっそくやってみたところ、あっけなく大正解。
コピーガード信号は消えて無力化していた。
VTR1で再生したDVDを、わざわざ電波に直して、それをVTR2で受信する回り道をしているわけで、理論上は画質の劣化が避けられないが、見た目ではわからないほど忠実に再現されている。
こんなRFモジュレーターなど、今どき売っているのかどうかわからないが、電器屋街に行けば二束三文で在庫一掃しているのではないだろうか。
同じ理屈で、5000円ほどで買えるビデオトランスミッターも使える。
「画像安定化装置」と銘打ったダビング用アダプターは、保証してくれるのかどうか怪しげなメーカーが、怪しげな値段で、怪しげな店で販売して荒稼ぎしているアングラ市場のヒット商品だから、抵抗感はぬぐえない。
そこは、ちょっとした発想の転換で、あっけなく夢はかなう(なんて大げさな!!笑)のであった。
めでたしめでたし。
ポケットの中のオアシス
at 2005 05/13 16:00 編集
連休明けの文庫発売第一波は、今柊二『定食バンザイ!』で買い衝動を直撃してくれたちくま文庫(+ちくま学芸文庫)が豊作だなぁ・・・と思っていたら、講談社文庫も多彩な献立てになっていてうれしい。
アリエス編集部が、在日界随一のイケメンとの誉れ高い東大教授にインタビュー構成した『姜尚中にきいてみた』は、堅苦しさ一色なのが少し難点。せっかくだから、「カンさまの好きな花は?」とか、「プロポーズのお言葉は何でしたか」という女性誌テイストも少しあれば、めりはりがついたと思う。
少々悲観的な日本社会論には、大前研一氏のあいかわらず前向き楽観的なビジネス説法『やりたいことは全部やれ!』で、いいバランスがとれそうだ。
悲観も楽観も、どっちにしても疲れるから、「脱力系」で椎名誠&和田誠『やぶさか対談』が気持ちいい。
この「ダブルまこと」は、別の単行本に『ビールうぐうぐ対談』という、タイトルからして名著があるが(著といってもビールをうぐうぐ呑みながら酔いどれトークしているだけ)、いやはや日本のサラリーマンをくつろがせる名人と鉄人だと思う。
永遠の少年のように見えるご両人も、すでに六十代。読者層であるサラリーマンのほとんどの上司より、さらに年上だ。
ぜひ、中堅クラス〜若手の「うぐうぐ脱力系」のモノカキが後に続いてほしいものである。
たとえば、綱島理友さんの80年代ポパイ的コラムなど、僕はアニキと慕って愛読していたのに、最近あまり見かけないのは、どうしたコトであろう(=ちと綱島さん語法の真似)。
まぁ、皆さんジュニアの進学だ就職だと心休まらない時期なのかもしれない。
それより若いコラムニスト、エッセイストなどの「文筆系」というと、もうブログの方に行っちゃってるのは時代の流れというものか。
でもなぁ・・・やはり、仕事がひけて疲れた体を駅の本屋さんに引きずり、「ガソリン補給」して心が潤う感覚は、文庫本であってほしい。「画面で読書」なんかしたくないのだ(論文やEジャーナルは抵抗がないのに不思議)。
もしかすると、コミックの世界にこそ、そんな文化が濃厚に残っていて、毎週、出たばかりのジャンプ、ビッグコミック類が山のように百均露店に並んでいるのを見ると、やはり紙の上に目を走らせたい欲求みたいなものを感じる。読んで捨てて、拾われてまた売られる雑誌の山また山、波また波・・・!!
製本された紙の束は、ただのメディアではあっても、「それなら電子化して画面で読んで課金」とはならないアウラのようなものは、やすやすと消去できない。
今月はしばらく、ちくま文庫と講談社文庫を読み終えるたびに、次々に1冊ずつ通勤カバンに入れておくだけでも、なんとなく「オアシスを携帯している」ような気分になりそうだ。
脳天気というか錯覚というか、まぁ安上がりな幸福ではある。
大阪人ゴルゴ十三
at 2005 05/12 12:48 編集
イラクで襲撃された日本人警備会社員があれこれプロファイリングされているのをみると、「ゴルゴのような人物が実際いるものだ」と妙に感心してしまう。ともかく無事を祈るばかりだが。
ズドン!・・・「俺の後ろに立つな」
を、地で行っていたのだろうか。
いや、それはイラク武装勢力の側か。
これで、また外人傭兵部隊の存在が知られて、志願するフリーターが出てきたりすると、尻ぬぐいに追われる外務省としては気が気じゃないだろう。
冗談で、のほほんとしている若い子が「自衛隊で鍛えてもらえ」と言われたりする。まるで「お金をくれて資格も取らせてくれる国営トレーニングジム」のように見られる自衛隊も、迷惑していることだろう(笑)。
僕も、救急救命士の卵に「イラクに赴任すれば毎日が救急救命」と発破をかけたりするけれど、温厚な日本人がうかつに戦闘地帯に踏み込むべきではないとも思う。
命懸けの仕事は、やりがいがあるだろうが、「命あってなんぼ」だから。安全第一で命を懸けてほしい(笑)。
カメラ片手にイラクに進入したフリーター香田さんの悲劇も、記憶に新しい。
根無し草の気分でいても、日本国籍を離脱していない限り、世論を気にしてか、外務省は国税をかけて法人の保護・救援に追われるのである。
ゴルゴになるならなるでいいと思うが、「祖国の国民の皆さん、僕に何かあったら税金で助けてね」ということになってしまうしくみは、念頭においてほしい。健康保険に加入して暴走運転するようなものだから。
血なまぐさいところに惹かれて行く「若気の至り」というのは、わからなくもない。死と隣り合わせる陶酔感のようなものがあるのかもしれない。
中近東にまでは行けない「冒険野郎」を惹き寄せる身近な魔界が、高い山だったりする。
僕も安全第一の軟弱山男である。それでも、安全運転男を全うした亡父にいわせると、単独登山するだけで「危険!」と採点されていた。
安全人類が眉をひそめる山岳遭難話を直接・間接に聞くと、遭難は「みっともない」「迷惑」「人騒がせ」なだけで、植村直巳さんのように美化されるケースは、めったにない。
ただ、遭難は単独でもグループでも起こり得るので、僕は「安全のためには集団行動」とは考えなかった。僕の前提は、「事故・遭難はいつか・どこでも・だれにでも起こり得ること」だから、そうなったとき友人を巻き込むかどうかと考えてしまう。
それが、「相棒に迷惑をかけたくない」と友人を思いやる憚り心理なのか、ただの身勝手なのか、自分でもわからなくなってきた今日このごろではある。
たとえば、個人装備として地図さえ持たずに山に同行しようとする仲間はどうにも受け入れ難いし、お互い荷造りしてから険悪なムードになって出発を断念したこともあった。
「それは危ないよ」と説得する一方で、「コース判断もこちらに任されて責任を負うことになるのはかなわんなぁ」という口調になっていたのかもしれない。
「命がもったいない」「危ないことして何の得になるんや」と、浪速の発想になっている自分に気づいて苦笑してしまう。
ご縁はないが、もしかしてゴルゴ13は、「淀川区十三」出身だったのか?
運転士からアナウンス
at 2005 05/12 23:48 編集
事故後、JRへのいやがらせが急増していて、女性運転士が蹴られて負傷する例もあるという。お気の毒に・・・。
八つ当たりしたい庶民感情はわからなくもないし、会社組織全体の問題といえば怒りのやり場がぼやけてしまうから、結果的に最前線の駅員や乗務員が標的になるというののは、なんともやるせない。
事故後、上司の命令ではない宴会をしていた・ボウリングを楽しんでいた・ゴルフに出かけていた社員は、矢面に立って罵詈雑言や暴力やツバを浴びている同僚に対して、どんな気持ちでいるのだろうか。
事故は事故として、その後の対応が、レジャーにふけるなど人として非道なことであれば、その方が罪は重い。
ANAの元機長だったという内田幹樹さんの『機長からアナウンス』(新潮文庫)は、人間くさいコックピットの様子を軽妙洒脱に書いたエッセイで、「人間パイロット」の素顔がうまく描かれているような気がする。
パイロットも、もちろん客室乗務員も整備士も、人間なんだと思う。
ロボットのような正確な仕事を期待するのも酷・・・というより、非現実的ではないだろうか。
楽しくて、やりがいがあって、誇りに思えて、結果として安全で便利なプロフェッショナルの現場は、いやがらせや八つ当たりではできあがらないだろう。
鉄道マンの正直な声も、聞きたいものだし、素の声でアナウンスしてもいいと思う。
「ただいま駆け込み乗車がありましたため1分遅れで運転しております〜」ではなくて、
「あのね、いま駆け込んだ赤い服のお客さん!!気持ちはわかるけど、やめなさいよっホント。危ないったらありゃーしないプンプン!!」
てなふうに(笑)。
人間車掌と人間運転士、人間駅員に人間保線員etcetc・・・が鉄道運行を支えているのだと、当たり前のことを思い知るきっかけになるのではないだろうか。
母校ドットネット
at 2005 05/10 16:46 編集
大学同窓会が発行しているメールアカウントというのを取ってみた。
「3月中はオンラインでの申し込み停止」というので、「年度の変わり目は申し込みが殺到しているのかな」と思いつつ、その表示が黄金連休になってもそのまま。
しかたなく電話で問い合わせると、FAXで承りますというので、送られてきた用紙に書き込んで、「くちゃりくちゃりとFAX文通」で申し込んだ。
希望のアカウントがとれたかどうか、オンラインだと即座にわかるのに、アナログな方法だと、妙な間が開いてしまう。
連休をはさんで、やっと完了通知が郵便で届いた。
あっけなく、「名字そのまま@大学ドットネット」のアドレスが決まっていた。
おいおい、同窓生20万人らしいが、同姓の同窓生で、ストレートな名前でアドレス取る人おらんのかい!?と、首をかしげてしまった。そんなに珍しい姓ではないのに・・・
「サバト」なんてのも確実だろう。
同封のマニュアルというのも、カラーコピーを綴じて製本テープを貼っただけの、まるで同人誌のような、手作り風味満点(笑)。まぁ、初期費用ただ、月料金500円に見合った節約ぶりというところか。
プロバイダーの盛衰も親会社の動きも先行きがよくわからないご時世だから、パーマネントアドレスがほしいと思えば、大学ドメインの方がまだ大丈夫かな?と思うが、なんともいえない。
国公立大学でも、商船大学や小規模なところは、統合で母校名がなくなってしまうから、倒産しない程度の安定経営の私大の方が、まだ安心というものだ。
12〜13世紀から続いているオックスブリッジのような大学なら、ドメインの恒久性はもっと確実だろうが、凡人にはおいそれと「.edu」ドメインのアドレスはもらえない。
凡人の僕は、個人的には@berkeley.eduにあこがれる。オックスブリッジやスタンフォードとは違って、街の名前であり大学の「分校」の名前、わかる人にしかわからないところが通好みだから。
そのあたりの心理をくすぐるドメインビジネスも、現実にあるとは思うけれども、商標権の関係もあって、きわきわのドメインネームになったりするかもしれない。
カップリングパーティーでもてたい男向け商売で、医科大学っぽいドメイン名(@なんとかikadaigaku・・・うさんくさいっ!!)とか、なにがなんでも「UCLA出」になりたかった世間のコガジュン男たちのために、「気分はUCLAよく見るとLAじゃない@uc1a.com」とか(笑)。
コガジュンやサッチーは、みっともない「なりきり」にすぎなかったが、日本の学生の中には、「本命は東大だった慶応大生」という類が少なからずいる。こんな諸君のために、@rokudaigaku.ac.jpドメインのアドレスを発行してあげるのはいかがなもんか?
でも、@***.u-tokyo.ac.jpの学生はわざわざ六大学ドメインなんて取らないだろうから、この聞きなれないドメインのアドレスは少なくとも東大生ではない、というしるしになる(あぁ、じれったい!!)。
そこ行くと、関西なら@kankandouritsu.ac.jpが実用的かもしれない。
「ダンゴ、まんじゅう、ようかん、大福」みたいな4大学だから、どの大学にも、「おっ、@kankandouritsu.ac.jp、ええやん。いただき」てな学生が一定割合いると思う。
万一どこかが倒産しても、アドレスはそのまま使えるから、この「ひとくくりドメインネーム」は名案じゃないかと思うのだが・・・?
おとなりさん問題
at 2005 05/09 08:09 編集
盛大に在宅10連休を満喫した僕の部屋のすぐ近所では、マンションの新築工事が始まっていて、この現場は律義にカレンダー通り仕事をしておられる。
晴れたら月曜から土曜まで、朝9時から夕方6時まで。
その工事関係者の詰め所のような使い道で、長らく空室であった隣室がふさがった。
これが、ちょっとドタバタやってくれる頭痛の種なのである。
大家さんにとっては、とにかく空室をなくすのが経営問題だというのはよくわかる。
巷の不動産広告でも、事務所可、ペット可、ルームシェア可、保証人不要・・・と、あの手この手の「条件緩和」が売りになっている。
なにやら格安航空チケットの投げ売り状態に似ている。
ただ飛行機は、どんな客と乗り合わせてしまっても、せいぜい10時間ちょい辛抱すればすむ。
それが集合住宅暮らしとなると、事務所や土建業の詰め所が同居するのは、どんなもんだか・・・という感じもする。
大声での業務電話、ガチャガチャと機具を出し入れ(?)したりする音や振動が響く土建業者の詰め所も、壁1枚隔てた隣りにいてくれるとかなわんなぁ・・・と思う反面、夜は完璧に無人で静か。当たり前だが、生活の気配は皆無だから。
ものごと、考えようなのか。
前に住んでいたマンションは、真珠加工会社が半分ぐらいを占めている半オフィスビルのような物件で、案の定うちのとなりでも昼間はドリルを回す音が響いていた。
もちろん、そこも夜中は無人だから、夜の静けさが保証されるなら事業所の隣室というのも割り切れるものだな・・・と、少しは大人になった(のか??)。
何かの熱心な信者さんとか、パンクロッカー、声の大きいラブラブカップル(笑)なんてのも、リスクレベルはミドル級だ。
幸運なのかバカのなせるわざなのか、僕は最上階にしか住んだことがないので、「朝から夜中まで元気な子供が住んでいる2DKの直下」なんて悲劇は未体験なのだが、こういうのもリスクではある(しかも、子供はそんなもんだと言われれば、子供公害は打つ手がない)。
いくら広い部屋に家賃を払う余裕があっても、ファミリー物件の一隅に閑居するのをためらう思索家(笑)が世間にいるのはよくわかる。
部屋の両隣りが、残業をまるでしない、定時にからっぽになる役所だったりすると、火の不始末は心配ないし、夜の静けさも完全だからありがたいが、まぁそんな物件はない。
でも、ないものだろうか。つい、ないものねだりをしてしまうぞ。
商業ビルの、たとえば六本木ヒルズの、あらゆる窓から遠い中心部分に部屋があって住むことができたら、これは神秘的で楽しいだろうなぁ・・・と夢見ることもある。
夜景が見えないどころか、照明は絶対に欠かせないから、電気代もかかるし、それとひきかえに家賃は格安になるはずだ。
僕にはワイングラス片手に美女をはべらせて夜景を眺める趣味は絶対ないので、だれもがあこがれる要素を逆手にとって、「ナイスビュー・ゼロで家賃格安」の方をとる。
たしか、地下室は建築基準法で居住用の部屋を造ってはいかんことになっているはずだが、「ビルの脊柱部分の窓なし密室」はどうなのだろう。実際、そんな物件は見たことがないから、法規制の抜け道になっているかもしれない。
倉庫を演劇やバンドの練習に使ったりアトリエにしたりする流行も一時あったように思うが、最近はどうなっているのだろう。運河に面したハードボイルドなスタジオというのも、悪くない気がする。藤原新也ふうの写真家なら住んでいそうだ。
こんなハードボイルドな夢想にふけっていると、必ず反動がくる。
黒木瞳ふうシングルママが引っ越してきて、その娘がやたらなついてしまうという筋書きも、あっていい。
「あのねぇ・・・あたしのパパになって」と、ある日ふいに出てくる小さな告白。
「君のパパにということは、ママのアレということで、あぁそんなことって・・・およよ!!」
てな展開が楽しみというか、妄想過剰というか。
面影
at 2005 05/08 12:18 編集
深夜に近い静寂に浸されたイスラム・モスクの前の歩道で、「ダゴさん」とすれ違った。
チリから神戸へ移住して数十年のダゴベルトさんは、日本人の奥さんと「グラン・ミカエラ・イ・ダゴ」という南米料理屋を中山手通りに開き、息子さんも手伝って、繁盛していた。
道1本隔てたブロックに住んでいた僕は、「接待用」の店の1つとして、何度か食べに行った程度だった。かんかんに熱く炒められたパエジャは、元気をもらえる家庭料理だった。
そして、あの大震災で、店は半壊状態。その後、仮店舗へ移り、さらに移転してしまった。
いくつかの「接待用」の店も、街から消えた。僕も1kmほど西へ引っ越した。
それからちょうど10年。
当時すでに還暦は越えていたであろうダゴさんは、不思議なことに、昔のままだった。
なんとテンガロンハットに、キラキラ光る白いスーツ上下というおしゃれすぎる姿(笑)で、愛犬を散歩させていた。
さすがに、愛犬は代わっていた。
「野生のライオンが神戸を走っている!?バカな!!」と、探偵ナイトスクープに依頼が舞い込み、桂小枝がロケをしに来ていたのは、このダゴさん宅の、胴体丸刈りに散髪されたミニコリーだった。とても人なつっこくて、放し飼いにされて、近所のアイドルになっていた。
いまダゴさんが連れている犬は、ちゃんと縄で引かれて、ダゴさんは「糞始末セット」を携帯していた。
ドッグイヤーという言葉があるように、犬にとって10年というのは、人生の半分かそれ以上を経過する年月なのだろう。
わが実家にいた猫たちも、みな今はこの世にいない。
しかし、スーツで小走りするダゴさんのお元気ぶりには、人間の生存力のようなものを感じてしまった。
地域に根を生やす力が強いのかもしれない。
自分の意志で、この街に暮らすのだと決めた住人に、日本人も外国人もない。
むしろ、行政の都合で、立ち退きだニュータウンだ特養だとベルトコンベアのように動かされる無辜の民より、我を張って、誇りも責任も持ってそこに暮らす人が、血の通った街を創るのだと思う。
明らかにイスラム教徒とクリスチャンとユダヤ教徒が、こんなに接近して共存して暮らす街も珍しいと思う。ハンチントンのいうような「文明の衝突」は、少なくともこの界隈では見られないというか、目立って表面化はしていない。
中国各地で反日デモが頻発していたころ、中華同文学院の前には24時間態勢で警官が常駐していたが、ほとぼりが冷めたのか、今は警備も解かれている。
あんまり難しい理屈を掲げなくても、「いろんな人おって楽しいやん」程度のノリで保たれている、この自然な「平和共存」を、大切にしたい。
オルグ!
at 2005 05/07 08:20 編集
JR事故の被害者ご遺族の一人が、「同じ境遇の方々で団結しましょう」と、被害者の会を呼びかけておられる。
気丈夫だなぁ・・・と感心しつつ、陰ながら応援したいと思う。
こうした立場の、この世のどん底に突き落とされたような立場の人々を救えるのは、受験秀才の臨床心理士でも精神科医でもない。
同じ立場の仲間が集う「場」なのだ。
それを、被害者の側から創ろうと動く姿には、敬服するばかりだ。まだ事故のショックも癒えない日々だろうに・・・。
ところが、こうしたオルグを阻む最大の敵が、ほかでもない、事故を起こした西日本旅客鉄道株式会社そのものである。
事故直後のボウリングやゴルフコンペや宴会にはずいぶん熱心なのに、被害者の自主的な救済活動には、手のひらを返したように冷酷なのがよくわかる。
「プライバシーの観点から、被害者の連絡先は教えられない」という言い訳も、開いた口がふさがらない。アホかいな。
正直に「被害者が団結してもらっちゃ困るんでさぁ」と言えばいいのに。
企業のこんな反応は、ホリエモン風にいえば「想定の範囲内」で、むしろ、何をされたら困るのか、企業体質が陰画のように浮かび上がってくるかのようだ。
at 2005 05/31 15:32 編集
貴ノ花親方の訃報は、「いつかは・・・」と思っていたとはいえ、どうにも早すぎる。
数カ月前に、息子たちが見舞って、「会話はできないが、手を握ると握り返してくる」状態だと聞いたとき、臨終の父と子が最後の会話を無言で交わしている様子が、胸に突き刺さるように伝わってきた。
そして、世間も身内も、少しずつ覚悟はしているのだろうと思った。
生き急がされた人生という感じもする。関取一般に、そんな印象がついて回る。
ガッツさんのように楽しくいけばいいのに。仏の顔も三文の得だろ?てなノリで。
そんなガッツさんより若い親方は、55歳にしては貫禄がありすぎて、老成するのが早すぎた。
長男がアメフト選手にかつぎ出され、次男が洗脳され、女房が不倫したり脱いだり(笑)、つまり家族まるごと笑いのネタにされても、じっと耐えていた。よくも悪くも、「日本のお父さんやなぁ」と思う。
ホリエモンのように、口から先に生まれてきたような男だと(ホリエモンの風体だけは、昭和のおとっつぁん風だが)、反論だディベートだ対案だと騒ぐだろうに、伝統の日本のお父さんは、「男は黙ってサッポロビール」なのだ。
それが男の美学のようなものかもしれない。
が、ただ口下手なだけかもしれない。
天下国家を論じるように、我が社のビジネスを語るように、おとっつぁんというのは饒舌になれないものだ。
そこが、なおのこと不憫だと思う。
あとはただ、安らかに、とご冥福を祈るばかり。
憲子もと夫人は、線香ぐらいあげに行くのだろうか。
それぐらいはしてあげないと、だれかが「仏の顔も三度の飯だろ」と怒りだすかもしれない。
沢野絵
at 2005 05/30 13:46 編集
たしか角川文庫版で買っていた沢野ひとし怪しい探検隊員の『休息の山』が、古本で出ていたので、500円也でお買い上げ。
単行本で買っていて、文庫が出たら買い直して、でかい単行本はsabato財閥へ・・・というのが定番の図書流通で、単行本を買い直すのは
やはり、画文集は大判が合う。大判といっても、『休息の山』はソフトカバーだから、重苦しくない。
沢野さん独自の飄々とした色鉛筆画は、絵の中の世界に吸い込まれるような細密画とは逆に、見る者の想像力を絵から拡散させてくれるような感じがする。日常世界にぽっかり開いた「異次元ドア」という感じ。
簡単なタッチに見えて――いや実際そうなんだろうけど――雨の描写など、安藤広重を彷彿とさせるぞ。さーーっと雨音が聞こえてくるようで。
いつもカメラで簡単にスケッチしてしまうからこそ、こんな山旅も、できたらいいものだと思う。
八ヶ岳の相棒が、初めてデジカメを買って、「はりきりメール」を昨晩くれた。取説と格闘しているそうだ。
おととしだったか、テントかついで妙高へ一緒に登ったとき、山道で僕がシャッターを切っている四半世紀昔のペンタックスの、拍子木みたいな音を「かっこえー!!」と笑っていた彼も、今さら重たいフィルム一眼を買うほど酔狂ではないのだ。そりゃ当然だろう。
僕だって、ふとザンゲしてみれば、デジカメは次々に5つ買い替えてきたくせに、どうも未だデジカメなんちゅうものに、心を許せない意固地なところがある(笑)。
撮って帰ってからの処理が面倒、選別も悩む、レタッチしはじめるときりがない(永遠に完成しない)・・・と、デジカメの利点は難点と背中合わせ。
つまるところ、消去もコピーも含めて「加工が簡単」なのがデジタル写真だから、いってみれば「鉛筆で書いた契約書」みたいなものなのだ。永遠に完成しない。いや、最初から、そのときそこにいて撮影しなくても、どうにでも作り上げられる。
ある批評家にいわせると、いくらでも後から加工できる点では油絵と似ているのだとか。もう、デジカメと画像ソフトは「描画ツール」としてとらえた方がいい・・・という意見には、思わずうなずいてしまう。
でも、沢野絵は、色鉛筆でしか描けない世界だ。
俺の手、俺の頭でしか。
コピーもレタッチも受けつけない、こんな表現を手に入れたいものだ。
心斎橋
at 2005 05/29 13:58 編集
あっけらかんと「24回目の誕生日なんですよ〜お祝いして下さい」とリクエストをうけてノコノコ出かけてきた。「たまには心斎橋もいいでしょ?」と場所も指定されて、人込みでごったがえすミナミへ。彼女の気に入ったイタメシ屋があるらしい。
お仲間と待ち合わせて、4人で海鮮パスタを山分けしつつ、楽しいバースデー晩餐になった。
24歳から29歳まで、ピーチクパーチクとかしましい輪の中で居場所がなさそうだぞこりゃ・・・と不吉な予感があったので身構えて(笑)いたら、なごやかに普通のサークルバレーボール風になったのはよかった。
こんなこと、「説教くさい・カネ出さない・セクハラ満載」の僕には、一生に一度しか訪れない珍しい宴席である。
仕事人ばかりだから、世代も職種も職場も違えど、めざしている境地は同じ。
だから、それぞれの問題を持ち寄って、ユーモアまじりでつつきあって、堅苦しくならない肥やしにするような「談話の作法」を、みな自然に身につけている。
美酒美食で話は泉。いい夜だった。
ま、皆さんがんばって下され!
と言い残して、日付けが変わるころ家路へ。
土日をまたいだFM番組「ジャズ・トゥナイト」が、ばっちり留守録音できておった。ジャズ・ギター特集だったので、どうしても聞きたかったのだ。
DJの渡辺香津美あにぃの同時代ギタリストで、フュージョン・ブームの真ん中で華麗に超絶技巧を誇っていた貴公子といえば、リー・リトナー。
番組では下世話なゴシップは話してくれなかったが、最近、このリー・リトナーが、杏里と結婚した(する?)というニュースには驚いた。
意表を突くというか、「でもけっこういい感じ」と、しみじみ感じる。
ともに70年代デビュー組。
杏里は最初からニューミュージックふうでもなく、いわゆるJ-POPにも行かず、女優の方向にも行かず、演歌への仰天転向もせず、なんだか独特の位置にあった。杏里といえば「オリビアをききながら」のイメージが強すぎて、その後のはまり位置が難しかった。
同世代というと、松田聖子、黒木瞳、浅野ゆう子、浅野温子・・・おぉ、だれ一人として、「同類」とくくれない独特のキャラクターばかりではないか。できあいの「ジャンル」にも、どうにも入れようがない。
個人的には、生まれて初めて、コチコチになりながら自分で足を運んだ喫茶店で、同級生の井上雅文君が大事そうに持っていたLPレコードを見せてもらったら、それが杏里だった。キョウリ?アンズリ?と間抜けな読み方を是正指導(笑)してもらった思い出がある。
このころが、なぜか西海岸ブームで、西海岸テイストのサザンにはまるやつ、濃いやつになるとイーグルス、本場の本物サウンドを聞きたいが英語の歌詞はわかんねーよ!という中途半端なやつはフュージョン・・・と、なんとなく分かれていたように思う。もちろん僕は中途半端だった。
サザンのように開き直ってしまえば、もう大御所の「四十代実力歌手」になっていたであろう杏里ご本人は、独自の路線を邁進。
ただ、踊り歌う四十代といえば、復活ピンクレディのインパクトが強すぎて、タップダンスを踊る黒木瞳も光り輝いていて、大地真央にまで「カルメ〜ン!!」と踊られては、音楽性を究めるしかない。
それで、「日本に安住していないわ〜私♪」の気合いで、スーパースターギタリストと結ばれたわけか?
それはそれで、ますます尊敬する。
リー・リトナーとのコラボレーションからどんな音楽が生まれるか、楽しみだ。第二デビュー作「リトナーをききながら」とか。
それにしても、カリフォルニア一派のジャズメンと大和撫子との結婚は、けっこう多い。故エリック・ゲイルもそうだったし、ルー・タバキンより有名になってしまった秋吉敏子は現役のジャズ・ピアニスト。
マイケル・フランクスは、神社で神前結婚式をあげたらしいし。
リー・リトナー世代はフュージョン(融合)と呼ばれ、少し前のクリード・テイラーやジョージ・ベンソンの時代にはクロスオーバーというジャンル・・・というかジャンル崩しが生まれた。
だから、ヨーロッパから見た「東洋ブーム、オリエンタル・テイストの日本」というより、カリフォルニアの西にある日本が、新しもの好きな西海岸ジャズメンの目に留まるのかもしれない。
「新世界」は、西海岸の専売特許ではない。
僕の好きな東海岸ジャズ一派にボブ・ジェームスというおっさんがいて、彼が自分のレコード会社を創立したときのレーベル名がタッパン・ジー。会社近くの川にかかる橋の名前だったそうだ。
こんな調子で、どんどん架け橋もかけて、クロスオーバーしあったりチャンポンしたりしながら、いい音楽が生まれてほしいものだ。
日本でも、心斎橋レーベルなんてのが生まれないものだろうか。
浦島太郎上等兵
at 2005 05/28 12:54 編集
またまたフィリピンで見つかった旧日本兵、栄養も治安も悪いところで、よくまぁ90歳近くまで長生きしておられたものだ。
身元を保護して、労をねぎらってあげられればと願うばかり。
そして、ゆっくりと、この邪悪にまみれた(笑)21世紀ニッポンを確認してもらおう。
ご無礼かもしれないが、なんだか未来のチンパンジーが現代アメリカを観光して回る『猿の惑星』の続編を思い出す。
昔の日本にも、今のフィリピンにもないものは、どう見えるだろうか。
たとえば、普通に街にあふれている茶髪。「毛唐の真似などしおって非国民!」と憤慨するか?
ましてや、生き残りのヤマンバと遭遇したら、卒倒すると思う。
女性のミニスカートを見たら、90歳にして青春がよみがえり、19歳へとワープしてしまうかもしれない。
阿鼻叫喚の都会を逃れて、自衛隊の基地か演習場かで古巣に戻った気分でホッと一息つけるかもしれないが、米軍基地が日本国内のあちこちにあるのを見ると、卒倒するかもしれない。
皇軍感覚がよみがえって、「天皇の御真影を掲げたまえ諸君!」と、思わず檄を飛ばしてしまっても、まぁ、察してやってくれたまえ諸君。
そして、テレビの皇室アルバムなんかに気軽に出演しておられる「あのときの皇太子様(現陛下)」を見ると、まぶしくて直視できなくて、土下座したまま顔を上げられなかったりして。
テレビやクルマや旅客機なんかはフィリピンでもなじんでいただろうから、浦島太郎状態といってもハードウェアそのものの進歩には驚かないと思うが、ソフト面の変化にはなかなか慣れないだろう。
小野田寛郎さんも、横井庄一さんも、そうだった。そして横井さんはブラジルへ行ってしまったっけ。
60年の空白を経て祖国に帰ったとき、我々だったらどんな感じがするか。
逆に、今の感覚で60年さかのぼってしまえばどうか。
こんな空想は、実はアメリカ生まれの社会学エスノメソドロジーの実験手法でもある。
たまに僕もインスタント実験をしてみることがある。
地元にいるのに、関東人のふりをしてみるのだ。これだけのことで、関西人同士と了解しあっている間柄では出てこないキャラクターが出てくるのがおもしろい。
「食い倒れの街って聞いたんだけどさー、ファストフードとかコンビニばっかで、東京と変わんないよねー」とでも嘆いてみたら、大阪人の営業精神に火がついて、濃厚サービスにありつけるかもしれない。
僕のはまり役「日本語が流暢なフィリピン人」になりきって、日本人ミナイイヒトデス、デモ日本女性ハ心ユルシテクレナイ!!と嘆いてみたら、何かいいことでもあるだろうか(笑)。
帰国された老境の元兵士は、邪悪にまみれた現代の祖国になじむには苦労されると思うが、「わしら浦島太郎じゃ」と割り切って、驚きを楽しんでいただければと思う。
その前に、空港でアメリカ機のパイロットに、発作的に殴りかかってしまうかもしれない。スチュワーデスに羽交い締めされてときめきつつ(笑)。
逃避行
at 2005 05/27 15:10 編集
「中学教諭、駆け落ちで欠勤」という朝日新聞の見出しに、もう物珍しさは感じないご時世って、どうなっちょるのだ!?とも思いつつ、チェックしてみると、想像と事実はちょっと違っていた。
よくいるロリコン先生と敬老少女の逃避行か?と思いきや、センセイ同士の火遊びだったのだ。
ともに32歳の、同じ学年を受け持つ教諭同士が駆け落ちして、九州各地を3日間クルマで転々としたあげく、戻ってきて停職処分。
なんだかなー・・・。
いい大人がねぇ。
かけおちしなくても、コッソリと・・・というのもいかんが、大人同士、もっとスマートかつ合法的にコトを進めてほしかった。
退職して仕事を引き継げたら、あとは大人の責任で好きにすればいいと思うが、退職届すら出せないほど切羽つまったというか、いきなり発情してしまったのだろうか。
あたたたたた・・・と思うのが、男性教諭には妻がいるそうで、あぁこれで家庭を失うかもしれないし、下手すると職を失いかねないし、代償は大きい。
免職を免れて退職したとしても、32歳だと退職金も大してもらえない上に、共済年金もまだつかない。お先真っ暗というか、真っ白というか(笑)、一体どうするおつもりか。
お間抜け教諭たちに教わっていたチュー坊たちは、そんなにトチ狂うほど、燃え上がった二人なのか?と詮索してしまって、受験勉強も上の空だろう。これも罪つくりだ。
校長センセイは、全校集会でどう釈明するのだ?
いま、問題の男性教諭の方は停職で研修施設送りになっているそうだが、「色恋沙汰で職務放棄」など、会社員なら即刻クビ。
犯罪をおかしたわけではないとはいえ、教諭というのは、つくづく過保護な特異種族じゃのぅと思う。
地元の納税者からすると、どうせなら納税した甲斐のあるエンタテイメントを見たいから、「失楽園まで行ってみせろ!!」と、野次も飛ばしたくもなるってもんだ。
厚労省としては、「少子化に歯止めがかかればいいから、もっと行け行け」という気分かもしれないが。
ドタキャン
at 2005 05/26 11:59 編集
中国が動揺している。
4000年の老獪な政治大国だから、日本を手玉にとることぐらい簡単だろうにと思うのだが、首脳会談を来日してからドタキャンというのは、前代未聞。
子供の「もう、帰る!」と同レベルではないだろうか。
それほど、老いて子供帰りしている証しかもしれないし、もしかすると逆に、深い計算があるのかもしれない。
アジア諸国は、どこも日本からの戦争被害を恨んでいるだろうが、「靖国神社ぐらい、勝手に参っとればよい」と構えているのが大人の国というものだ。
外国の癇に障る部分もあるとはいえ、政治家の神社参拝というのは内政問題だから、苦々しくは感じても首脳会談ドタキャンの理由にまではできない・・・と、常識的な国なら考えていると思う。どうしても気になるなら、最初から首脳会談を持ちかけなければいい。
とりあえず、靖国参拝はしない方がいいと個人的には思うし、一歩引いた方が言いやすくなることもある。
「押してもだめなら引いてみる」の要領で。
「日の丸を燃やす抗議行動は、国際法違反の犯罪だぞ」
「日本から多額のODAをもらって核武装している国には、もうビタ一文あげません」
「選手の安全が心配な北京オリンピックも、ドタキャンしよっかな」
「中国人へのビザ発給、どうしよっかな」
小細工もいろいろ思いつく。
野口みずきは、42.194km走った地点で抗議の棄権をするとか。
男子マラソンに、人民服を着せた目立ち屋さんを沿道からから乱入させるとか。
水泳は、例の「大磯ロングビーチ作戦」で、ライバルを骨抜きにする。
かように、外交カード「オリンピック部門」は、いくつも使えるぞ。
使うかどうかは別として、ちらつかせることはできる。
いやらしいかもしれないが、これが外交交渉というものだと思う。
オリンピック・ボイコットといえば、モスクワの教訓があって、できれば避けたいと思う素朴な国民感情はあるようだ。
ちょうど僕は予備校生だったから、おかげでテレビに目を奪われることもなく、ボイコットさまさまだったのが幸運だが(僕以外の受験生のために、つい見入ってしまうオリンピックが開催されていたら、もっとよかった)、今は経済的な損失も大きいから、ボイコットは難しい。
ただ、「スポーツの祭典を政治で動かすな」というのは甘い幻想というもので、政治力なくしてオリンピックも国際試合も成り立たないし、スポーツそのものが政治と宗教のチャンポンだったりする。
IOCもJOCも日体連も日本陸連も高野連も――まぁどこの組織も同じように――まるでミニ政府、ミニ国家で、政治が選手を動かしているのが現実。だから、選手の選考と政党の人事は、そっくりなのだ。
オリンピックや世界選手権クラスの選手は、もう「スポーツ外交官」と言ってもいい。
だから、外交に影響されるのは宿命というもの。
あぁ、ミッションに向かう途中で撃沈された戦艦大和なのか選手諸君は!(笑)。
もちろん、自費で行くのはかまわんし、カンパを募ってもいい。
個人的には、キューちゃんのリベンジ・ランを見てみたい。800円カンパするぞ。
金で配当10倍、銀で5倍、銅で2倍、無冠でゼロ配当・・・。
「北京ギャンブリンピック」になってしまいそうだ。
ハウツー道楽
at 2005 05/25 17:06 編集
神戸の玄関口にあたる阪急電車の駅構内東口に「ブックファースト」ができたせいか、昔からある西口の本屋がつぶれてしまった。
僕も、待ち合わせのひまつぶしに使っていたようなところがあるから、なごりを惜しむ資格はないのかもしれないが、小さくて手狭なわりに、品揃えはけっこう工夫されていたのになぁと一抹の寂しさを感じる。
駅の改札脇だから、タウン情報誌やマンガ週刊誌を大量に積んでさばくのが、売り上げ確保の定石でもあっただろうに、そんな傾向はなかった。
もっと店の個性なり、経営者のメッセージなりが打ち出されていてもよかっただろうに・・・と今さら応援しても、後の祭りか。
それでも、ミニ書店応援団員の僕は、ある種のメッセージは感じていた。
毎号立ち読みしている(本屋さんごめんなさい)『アドリブ』という雑誌があって、たいていの本屋さんでは近くにPATIPATIとかカラオケファンとか、音楽雑誌がゴチャゴチャゴチャッと集められている。小さい店だと、クラシックとか演劇とかJ-POPとか、分野ごとにタグをつけて区分する余裕なんてないのだ。
このゴチャゴチャ棚の、しかも大判が多い音楽雑誌の背が並んでいる棚に、いかにも肩身がせまいというか、背が低いというか、新書がこっそり並べられていた。
元東フィル指揮者の大町陽一郎マエストロの『クラシック音楽を楽しもう!』だった。
どことなく、「雑誌も買ってほしいけど、じっくり音楽を聴く手引きもいかがですか」というようなメッセージが伝わってくるではないか。
気にはなりつつ、いずれ買おう買おうと思っているうちにいきなり閉店になってしまい、「まぁ、絶版でもないし、別の店で探すか」と思っていた今日このごろだった。
きのう1週間ぶりかに出かけた「10万冊古書店」は、一週間でずいぶん品揃えが変わっていて、その中に、マエストロの新書が「新古本」状態で入っていた。
数百m東の駅構内で閉店してしまった書店には、財産の保全管理の貼り紙はなかったから、もしかして、そこから回ってきたのか?
何かのご縁かと思いつつ、即お買い上げ。
このマエストロの手引き書は、初版が1965年だというから、ちょうど40年
売れ続けているわけで、すごいロングセラーだ。マエストロ34歳、東フィルの指揮者になって5年目の年に上梓された一般向けのクラシック案内書だったらしい。
ただのマニュアル本ではなくて、演奏家の気持ち、名だたる作曲家の人となりとその時代社会、音楽界を取り巻く文化、音楽の都のスケッチなど、さりげなく書かれたエッセイでもあって、敷居が低くて親しみやすい。
とはいえ、中には1本筋が通っていて、それは「音楽を楽しむ方法」である。音楽を楽しむための音楽の歴史、楽器の知識、音楽学の基礎が静かに語られていて、説得力がある。
65年の初版時にはなかったカラオケやCDについても、近年になって加筆している。時代に適応した、こんな寛容さも、長年売れ続けている秘訣なのかもしれない。
音楽の楽しみ方なんて、「ご自由にどうぞ」としかいいようがないけれども、簡単な趣味の楽しみ方を、おもしろく・わかりやすく・目からウロコを落とすように書けるプロというのは、めったにいない。
たとえば、マエストロは演奏家の立場で、コンサート会場ではコートを持ち込まずクロークに預けるよう、やさしく勧めている。それがヨーロッパでは常識で、コートの持ち込みを許さない会場もあるという。
その理由もちゃんと書かれていて、「赤ん坊同伴でコンサート鑑賞はいかがなものか」以前の、文化の常識が、エレガントかつ折り目正しく説かれている。
「方法」こそ趣味のエッセンスなのかとも思い知らされる。
どんな音楽を聴くのも自由だから、それ自体は趣味というほどでもない。それが、「私はレコードを蓄音機で聴くことにこだわるのだ」とこだわると、かなり濃い道楽になる。
また、模型マニアが、製作用と保管用に、パッケージを必ず2つ買うとか。
聴き方、買い方、集め方、食べ方・飲み方にこだわらず量と数だけ追求しても、それは動物的な物欲にすぎない気がする。
豊かな時代だから、こだわって手に入れた逸品を大切に頬ずりしつつ(笑)愛蔵したいものだなぁ・・・と思う。
LPレコードをなかなか捨てられないのも、どこか感情移入してしまったせいかもしれない。
趣味はアニミズムである。
とすると、「マイ宗教」でもあるのだろうか。
カレーなる採点
at 2005 05/24 08:47 編集
とりあえず、通勤経路周辺の全カレー店は点検することにしているので、最近リニューアルして「インドカレー」を大々的にアピールしている某店に、試合を挑んでまいった。
ごていねいに、INDOカレーと看板をかかげている(メタル印度カレーのテイストでんな)。
「関西の玄関口」の改札口を出て真正面にあるので、責任重大だぞインドは。
毎日のように挑戦状をつきつけられている気がしていたので、いざ出陣である。
なにやら、能書きがカウンターのあちこちに貼ってある。
「トワイライトエクスプレス」の食堂車「ダイナープレアデス」をクリエイトしている総料理長が厳選したカレー・ルー使用!!
だそうな。
おいおい、なんじゃい、そのクリエイトちゅうのは?
最近よく聞く、わけわからん「プロデュース」の上を行って、はぐらかされているような気もする。
クリエイトとは、ご大層にも「天地創造」の「創造」だぞ。
それに、「厳選」とは何することであるか。わしらが、たとえばボンカレーとククレカレーのどっちがうまいかしらんとスーパーで厳選する客と、どう違うんじゃい?
てな揚げ足取りはさておき、肝心のカレーライスだが、採点は首をひねってしまった。自分のゴールにシュートしてしまいよったチームを見る気分といえばいいか。
たしかにルーは「準絶品」で、カレースタンドにしては上出来だ。
ただ、ご飯がパサパサで、おまけに天井のエアコンからの強冷風で、すぐ冷や飯になってしまうのだ。
おおざっぱにクリエイトなんていうからには、店内の空調やご飯にまで、気配りの広さみたいなものが問われるのではないですかい?「カレールー以外にはこだわってません」では、クリエイターといえぬわ。
と、僕は海原雄山になった気分で採点するのであった。50点!
極楽カレースタンドを訪ねる終わりなき旅は続く・・・
つつじフェロモン
at 2005 05/23 14:00 編集
「裏山を案内するように」との仰せで、おねーさん二人組を山へ連行した日曜日。
僕のいつもの散歩コースを逆に回る形で、新神戸から元町へ、山を大回りして向かう。
「接待」にしてはあいにくの小雨しとしと。
潤いをもらってか、路傍のつつじが生き生きしていて、あたり一面に香りをふりまいている。
こんな小雨の中の山歩きは悪くない。
雨が草木に降る音、地面に降る音は、感性の「解像度」を高めると、一粒一粒が聞き分けられるようになる気がする。
ふと、子供たちに座禅を組ませ、「耳を澄ませて、心を澄ませて・・・」と明鏡止水の境地に置いてから授業を始めるのを儀式のように続けていた塾の経営者先生がいたのを思い出す。
それだけで、特に宗教色はない淡々とした補習塾だったが、当たり前のことを忘れさせないというのは、大切なことだと思う。
とはいえ、僕はじっと水面を凝視し、天を仰ぎつつ思索にふける風流人ではない。つい、トットコトットコ歩いてしまい、初ハイカーを置き去りにすること度々。
そのせいか、3人そろって平等に尻もち転倒1回ずつ。こりゃ引率者失格かもしれない。「もう懲り懲り」と思われてなければいいが・・・。
なんとか無事に、5時間ほどの裏山逍遥を楽しんで、雑踏へ下山。
心地よい疲れが残った。
「下山して有馬温泉」というのは身近な極楽だが、それはまたの機会にということで、家風呂でさっぱり。
これぐらいの山歩きが、日曜日にはちょうどいい。
あらためて、紫陽花の季節が楽しみだ。
高田みずえ「私はピアノ」
at 2005 05/22 10:20 編集
いま話題のレッサーパンダは、中に人間が入っていて、「四つん這いばかりだと疲れるわい」とばかりに、よっこらしょ!と背伸びしているように見えてしかたない。
旭山動物園の成功を横目で見て、「うちにも目玉がほしい」と思ってしかけたネタのようにも見える。うちで代々飼っていた猫だって、じっと立つぐらいはしていたし、ましてや熊だと珍しいしぐさでも何でもない。
みんな、ヒマなのねぇ。
しかけといえば、もっと匂うのがイギリスのピアノマン。
そっくりな話の映画が「たまたま封切り間近」だというから、これは前宣伝の疑惑を持たれて当然で、このニュースを聞いたヨーロッパ人も、眉に唾しながら、「だまされているかも」気分込みで楽しんでいるのかもしれない。
もちろん、本当に記憶障害の患者さんかもしれないから、そのつもりで徹底的な治療計画を立てて、公言すればいい。映画宣伝のネタだったら、会社も役者も「これはヤバい」と降参するだろうし、本物の病人だったら救われる。
こういう追い込み方は、仮病を訴えているかもしれない子供に「注射してもらおうか」と迫る親の発想と似ている(笑)。
かえって、クロシロはっきりつけるより、灰色を楽しむのがミステリー文化だったりする。
コトの舞台がイギリスというのも、「なんだか・いかにも・いやはや」な感じ。あのBBCは、昔から4月1日に大ウソを放送する(ロンドンの鐘ビッグベンが落ちましたとか、王室ネタもあったっけ)ことで有名だった。視聴者もそれを楽しんでいた。
ピアノマンねたも、僕が限りなく「ねた」と疑うのも、それで国が動くとか、だれかに迷惑がかかるような面がなくて、それどころか、いろいろな楽団や大道芸人の名前が出て波及宣伝になっている面が見えてくるから。
それはそれで、種明かしされてから、「なーんだ」と笑ってすませればいい。
逆に、本当に記憶障害の患者さんなら、オチがないというので、がっかりされるかもしれない(笑)。
BBCの上手を行くメディアが、「ピアノマンが、映画の宣伝であることを自供しはじめました」と報道してみれば、何かが動き始めるかもしれない。
大スポ(東スポ)みたいなタブロイド新聞がたくさんあるイギリスだからこそ、すでに鵜の目鷹の目でいろんなシナリオが開陳されているかもしれない。
日本のメディアは、鋭いえぐりもユーモアもイマイチなのが残念。
妙に道徳的な「投書オヤジ」や「PTAおばさん」が多いせいか?
シンタロー・アイランド
at 2005 05/21 13:08 編集
東京都小笠原村沖ノ鳥島に乗り込んだ慎太郎は熱かった。
「日本国」と明記された石碑にキスするわ、スキューバダイビングして「透明度は最高」と海の男ぶりを見せるわ、しめくくり会見では「あれは領土だ。文句あるか!」と息巻いていた。
このパフォーマンスが受けている面は、たしかにあるだろうな。
しかしねぇ・・・2つ合わせて9平米というと、6畳そこそこ。これでは、「定住して経済生活」を営んでみせるのは至難の技ではないか。
個人的には、国土を守りたいし、中国の領海侵犯はけしからんと思うが、沖ノ鳥島に限っては、中国もいうように島というより「やがてなくなりそうな岩」に見えてならない。
日本としては、「住めるが、たまたま今は無人島」というところをアピールしなくてはいけない。
国家主権の問題を、「領海侵犯」して、自治体の首長としてやってしまうのがシンタローの熱い持ち味だ(笑)。
そこで、環境保護はさておきシンタロー特区でもつくって、居住できるよう改造する。
地下10階ぐらい掘り下げた上で、超高層ビルでも建てれば、小さな村ぐらいの人口は暮らせるかもしれない。台風が来れば地下(海底?)に避難するとして。
ふだんは、どのフロアからも、釣り糸を垂れたら新鮮なおかずが入れ食い状態。魚好きにはたまりまセブン!!(という古いフレーズがあったような・・・)。
ただ、海に囲まれて庭も緑地もない孤島の「鉛筆ビル」に閉じ込められると、拘禁反応も避けられないだろうから、精神科医も常駐しなくてはいけない(ドクター自身が変調をきたすかも)。
こんな不安も、愛国心で乗り切れる都知事さんご自身が、ぜひ手本を見せてほしいものだ。72歳でダイビングしてみせた、山下汽船の御曹司・・・生え抜きの海の男ではないか。たしか『海の地図』という小説も、僕は読んだことがあるぞ。
海のロマンにちなんで、海が好きそうな加山雄三、鳥羽一郎を、助役と収入役に任命して、一所に連れて行けばいい。
シンタローの次の手は、「ここは我が東京との領土なんだから、警備員の代わりに海中機雷を沈めておいてかまわんだろう。警官は拳銃を持っているじゃないか」という理屈で、東京都vs原潜を持つ中国海軍の「太平洋海戦」になるかも????
指令長官石原慎太郎が、「大和も建造したらいい」と口走ったりすると、角川春樹が映画づくりに燃えて、戦費は興行収入でまかなえるかもしれない。危うしシベリア超特急!!
結局、キティホークが出撃でもしないと、中国は引き下がらないだろうから、日米安保に頼ろうというのが小泉さん、米軍なみの軍備を持つべしというのがシンタロー。
西村眞悟やシンタローやアーミーおたく石破茂etcetcと並べてみると、小泉首相がずいぶんハト派に見えてくるのも、不思議な錯覚だ。
夢の夢
at 2005 05/20 13:26 編集
まさに目が覚める1分前に見ていた夢が、おもしろい展開になりそうだったのに、起床せざるをえなかった。
残念!
出てくるのは、あの人と、この人と・・・と具体的に現実社会におられる面々で、なぜか一緒に民宿に泊まることになって、洞窟の奥のような狭い狭い階段を降りて行くはめに・・・。
なんじゃこりゃー?というところで、幕。
もう、30cm四方ほどの隙間にもぐりこむような奈落の底への階段だった。
なんだか、これからの人生を暗示しているようで(笑)こわい。しかも、この宿を選んで友人たちを招いたのは僕自身である。あぁ、罪な話。
もしかして、夢の世界の魔王が「罪のない友人を、お前の奈落人生に引きずりこんではならぬ」と戒めてくれたのか?
謙虚に受けとめなくては・・・
しかし、もっと幻想的というか、それこそ夢見心地の夢というのを見たいものだ。トム・クルーズになって、黒木瞳と海を越えた不倫の恋の物語りとか、ジローラモになって山口もえにいたずらするとか。
実際わが夢の世界など、リアルすぎて「あぁ、あの町この界隈やなぁ」と思い出せる眺めばかりだから、夢であって夢がない。
どこか闇の世界の大魔王に「託宣」を突きつけられているような気にもなる。
だから白日夢が豊かになるのか・・・妄想癖と笑われておしまいだが、なんとか大スペクタクルや大河ラブロマンというのを見てみたいものだ。
通販で「夢見マシン」でも買えないものだろうか。
さぁご飯ですよ
at 2005 05/19 09:18 編集
「めし」は腹持ちがいい反面、腹にもたれる感じで、忙しくてバタバタしているときは、なかなか落ち着いて茶碗と箸を持つ構えになれない。
で、ついサンドイッチやトーストとサラダか何かのセットを、喫茶店でかきこんだりしているのだが、そうすると「1日1回は必ず飯を食わねば!」と強迫観念に襲われてしまう。
手軽に腹を満たしたい若い子がハンバーガーの類に飛びつくのもわかる気がする・・・とはいえ、ファストフード屋を横目でみると、どなたもまったり落ち着いていて、別に「ファスト」で食い急ぐ必要もないんちゃうの?とも思う。
ファストでも一応まともな食事に近いのはミスタードーナツの飲茶セットのような気もするけれど、ミスドは最近なにかとトラブル続き。ぜひ仕切り直しをして、立ち直ってほしい。
中華系は豪華な方に行くと天井知らずだし、ミスドやパンダのようなファストフードにも合うし、変幻自在なところはすごい!と思う。
和食党の僕でも脱帽するしかないが、和食もがんばってほしい。
二十歳前後の少年少女に「サバ定食はうまいよー」「冬は粕汁やねー」「たまに変化球でカレイの煮付けもいい」・・・とPRしても、重苦しい印象はつきまとうから、片手でホイホイ食えるような和定食を開発してみてもいいと思う。カウンター形式のお茶づけ屋でもいい。
こんなふうに、僕が追求している「安くてうまい和食」がどんどん普及してくると、和食は昔から晩ご飯―つまり日本人の正餐―のイメージが強いから、家族団らんの求心力が低下して行く心配も、あるにはある。
昨夜の仕事は、大卒者ばかりのセミプロさんグループとの対決(笑)だったが、僕の定義する「家族」を問われて、ふと考えさせられてしまった。
具体的に「だれを家族と見るか」は、まだ答えやすい。人によっては法律的に定義するかもしれないし、僕はとりあえず「腎臓片方あげられる相手が家族」と答えた。
ただ、家族という場なり、ドラマなり、現象なりは、もっと曖昧模糊としていて、「何が家族を家族らしくしている力か」というのは、難問だ。
インセスト・タブーだ嫡出の原理だ配偶契約だと、もっともらしい概念を手際よく説明することはできても、ルールで定義づけて「おぼえなさい」というのも、どこか逃げている感じがする。
身近な世界に立ち戻って考えれば、やはり食事を共に囲む場のようなものが、家族のような気がする。
子供が塾、旦那が残業と赤提灯・・・というのが自然になってしまうと、それは何のための家族なんかねー?という気がする。
そうなる以前に、「食堂の達人」と化してしまうと、家庭に寄りつかないで外へ外へとさまよい出てしまう癖が治らないので困る。
親元に深く深く錨を下ろしているパラサイトさんたち、すっかり女房に調教されている働き蟻さんたちと、家庭なり家族なりのとらえかたは、なかなか一致しそうにない。
僕のような食堂族は、決して例外ではなく、増える一方ではないかと思う。
こんな世の中で、個人の意思表示がなくても、家族が「あげます」といえば臓器を摘出される法改定が、国会で審議されている。
議員センセイたちにとって、家族は個人より優先していいほどに神格化された「ご本尊」なのかもしれない。
個人があって家族があるのか、家族が合って個人があるのか・・・
難問はすっきり解けそうにない。
いらっしゃいマンセー!
at 2005 05/18 17:26 編集
万景峰号が正式な手続きをして入港しているのに、定番の反対運動。
別に僕は北シンパでもないけれども、感情的な反発はどうかと思う。
あの船の入港を阻止すれば、拉致被害者が帰って来るのか?日朝友好になるのか?北の脅威がなくなるのか?
と問いかけて行くと、どれも効果が疑わしい。
どころか、「とにかく反対」というのは、拉致問題をこじらせてきた某政党の発想と似ている。
国民感情としてはわかる面もあるとはいえ、これでは中・韓の反日デモをとやかくいえないし、大人気ない態度を諌める大人になれるのか日本は!?と、つい憂国の士になってしまうぞ。
むしろ、怒りの矛先は年金対策や警察不祥事、公務員厚遇問題に向けるべきだろうに、船一隻にお決まりのようにシュプレヒコールをあげるのは、マスコミがターゲットを設定しているのも大きな理由だろう。報道に躍らされている印象が拭えないのだ。
報道されなくなれば、岸壁で声を張り上げていた人々は、潮が引くように消えて行く。薬害エイズの問題で厚生省を取り巻いた人間の鎖は、今どうしているのだろうか。
マスメディアの「議題設定効果」は、メディア社会学で言い古された説ではあるけれど、ネット社会になっても基本的に放送局の優位は揺らいでいないような気もする。
ブログばやりとはいえ、ブログがニュース性を持てば持つほど、読み手の時事的好奇心は星の数ほど分散して行くから、やはり放送と新聞の力が相対的に強大になって行くのではないだろうか。
せっかく個人で「発信」できるブログなんだから、大手報道機関にできないような「報道」をすればいいと思う。
「JR事故の加害者はスピードを求めた利用客みんな」だとか、
雅子様の不倫願望(!?)をスクープする「皇スポ」とか、
例の「北の船」なら、熱烈大歓迎するメディアもあっていいと思う。
敵視ばかりしていると、反日思想を支えにしている国には励ましになるだけ。
だから、日本に来航した船員を、上げ膳据え膳・酒池肉林で接待漬けにして、「もう北に帰りたくない!亡命しますっ」と言わせるまでとろけさせれば(笑)、日本に行くたびに船員が消える万景峰号は、そのうち来なくなるぞ。
なんだか、チョコレートで日本の子供をとろけさせたGHQみたいな発想だが、「日本よいとこ国交回復」と思ってもらえれば、交渉も前に進むだろうて。
甘いかな?
ミニらも
at 2005 05/17 15:06 編集
駅は、出会いと別れの舞台である!
・・・なんて気取らなくても、人間模様があふれかえっていて、なかなか飽きない。
いやまぁ、玉石混淆、まるでニンゲン見本市である。
駅の食堂街で、いつもの炊き込みご飯定食を目当てに入った店には、でんと酔っ払いが座ってクダを巻いていた。
昼の1時すぎに、もう真っ赤な顔でマドラーをもてあそんでいる。中島らもを縮小して若返らせたような感じの小太り君(推定38歳)。一応、スーツにビジネスバッグ姿だ。
なぜか関東弁で、「俺ってさぁ、普通のサラリーマンには見られないんだよね」と店員を捕まえてはからんでいる。
「ねーねー、俺何に見える?よく芸能関係とか、医者とか弁護士に見られるんだけどさー、当ててみてよ」と、むやみに馴れ馴れしい。
昼間から飲んで自由人になった気分は、それはそれで勝手だが、芸能人、医者、弁護士という発想がプア〜である。キミのような自由人」はいるかもしれないが、それでは仕事にならないから、プロフェッショナルといえるかい?
ミニらも周辺には、あんまりかかわりたくない空気が漂っていて、注文追加のたびに行かざるをえない店員は、つかまっては手を焼いていた。ここはスナックではない、昼の定食屋なのに。
そこは、大阪のおばちゃんパワー!!
店のおかみさんが、
「何に見えるゆうたかて、普通のサラリーマンちゃいますの」
と直球を決めた。
魚雷をくらった成り金のクルーザーは、「ナメクジに塩」と化して行く。
「あた〜り!!ただのサラリーマンですっ」
「学者さんとか弁護士さんやったらね、ちょっと話しただけでわかりますわ」(あんさんそうは見えまへんで!の婉曲表現)
と言われたミニらも君、今度は、へりくだりモードに入って「慰められたいのボク」男になりよった。
「こんなふうに昼間っから酒飲んでる俺って、最低だよね。余剰人員だよね」
と、ヨイショを乞うような、不遜な謙譲。
さすがは百戦錬磨のおかみさん、さわやかに返していた。
「でも、ええ会社ですやん(昼から酒を浴びているあんたを雇用しているなんて、ありがたい話よね)。甘えてたらあきまへん」
「・・・ねぇ」と、いきなり僕に振ってきましたがな、おかみさん!
そうだそうだ、と僕は全面的に「働くおじさん」モードに入って、酒に逃げちゃーいけませんぜミニらも!とテレパシーで檄を飛ばしておいた。
そして定食屋の仁義を守り、15分で炊き込みミッションを完了して店を出たのであった。
階上の待合室で、食後のコーヒー。
この片隅に、NTTのフレッツスポットというのがあって、使い放題の端末が並んでいる。
そこで調べ物をしていた、坊主頭の推定ドイツ人バックパッカー君が、次は公衆電話をかけて何やら懸命にシステム手帳にメモ書きしている。
おそらく、片言の日本語で宿と交渉して、ドイツ語でメモっているのだろう。逆だったらすごいのに。ドイツ語で民宿かどこか強引に交渉して、日本語でメモ書きしているとか。
海外でトホホな顔をしてイエローページをくりくり公衆電話で宿探しをしていた僕と、似たことをやっているなぁ・・・と、ほほえましく眺めてしまった。
ようやく一件落着したバックパッカー君の、不安が洗い落とされたような軽い笑顔は、とてもまぶしかった。
いい旅してるなぁ・・・と思う。
それにしても、なんだかヘドロの海底から石垣島へ移動したような感じ。
季節柄、この新幹線駅には外国人旅行者をよく見かけるが、けっこうな熟年夫婦でもバックパッカーが多い。尊敬してしまう。
ミニらも君も、しゃきっと旅に出て、風に当たってきてはどうかね。
職場→同僚と飲み屋のレールも、思い切って脱線して、職場の違う飲み友達を持つのも、旅みたいなものかもしれない。
もっとも、同僚に飲み友達ゼロの僕は、職場に人生のレールを敷いてもらって走らされている貨車の立場は、よくわからない。
犯罪はよくないとしても、人生の脱線は大いにけっこうだと思うのだが・・・
ダイヤ革命
at 2005 05/16 15:38 編集
スピード優先のダイヤを見直そう、というので、JRはわざわざ所要時間を遅くするダイヤ改定を検討しはじめた。
たしかに、停まる駅が増えて時間が同じということは、それだけ猛スピードで走っているからで、利用者だれもが気にはなっていたんではないだろうか。
JR西日本のドル箱路線の大阪・神戸間は、30kmで20分(新幹線と5分しか違わない!)。停車時を含めて単純平均しても、時速90kmになる。
こりゃ速すぎる・・・とはいえ、僕は乗るとコックリコックリ安眠しているから、慣れというのはこわいものだ。
なんだかんだ言っても、鉄道会社に「とにかくスピード!!」と求めてきたのは、ほかならぬ沿線に住む利用客で、あと5分早起き早発ちすれば、安全ダイヤで通勤できるのだ。
ところが、巷のプロレタリアートの出勤場面は、たぶんバタバタと忙しくて修羅場になっているだろうと思う。
「あなた今日は遅いの?」とか、
「ねぇゴミ出してきて。あっまだ詰めてないのがあるからそれも・・・(用意しとけっちゅうの!!)
とか、企業戦士スクランブル発進の出鼻をくじく嫁にも一因があるのではないだろうか(八つ当たり?)。
そこで、こんな朝の修羅場はそっとしておくとして、ダイヤ改善案を提案してみたい。
1.阪急も阪神も一斉に遅くする。こうすれば、「客が逃げるんじゃないか」と恐れてスピードダウンできないってことはない。
2.全般にスピードダウンしてもよろしいが、大阪〜神戸間ノンストップの「超快速」も走らせる。たしか昔はあったような記憶がある。
「うちにも停まってくれ」という駅に応じていたらキリがない。芦屋も尼崎も、あきらめて下さい。
ついでに、飛行機に対抗しようと思えば、東京―大阪―博多だけ停まる弾丸列車を走らせればいいのだ。飛行機は、羽田〜横田〜名古屋〜伊丹なんて鈍行立ち寄り飛行はしないでしょうに(でも、あったら楽しい。DC-3か何かで)。
3.これが一番かしこくソフトな改善策だと思うけれど、なかなか進まないのがフレックスタイム出勤制。
1分、3分の時短や遅延に目を血走らせたい熱血サラリーマンだけ、いわゆるラッシュアワーに乗ればいいし、鈍行でゆったり通勤通学したい人は時間をずらせて乗ればいい。
安全とゆとりの見直しのためには、ダイヤ「改正」で遅くするという逆転の発想は、悪くないと思う。
もし、それを許さない「1分たりとも速く!!」の産業社会があるとすれば、そっちの方がおかしい。鉄道会社を敵にしてカタルシスをしていただけだと、本当の社会病理は治らない。
過労死も鬱自殺も、日勤教育におびえるJR乗務員も、同じ根から出ている被害者かもしれない。
猫と狐と狸
at 2005 05/15 13:01 編集
母の飼っている猫が、業者にシャンプーやら爪切りやらしてもらっているんだとか。
その業者が、毛玉取りだけはできないという。「暴れると危ないので、獣医に麻酔の注射を打ってもらって下さい」ということになっているらしく、どうしたもんかねーというので、「やめとき!」と一喝してきた。そうやねぇ、注射うってまでねぇ・・・と、愛猫のタヌキ顔を見ながら納得していたようで、何もわかってない猫は、きょとんとしている。
これ、いかにも獣医とペット業者の結託が透けて見える構図ではないか。
でなければ、ただ業者が低能なだけ。
市場サバイバルできまへんで〜!!
そもそも、毛玉で死んだ猫というのは聞いたことがないし、ただマスコットをキレイキレイにしてこねくりまわしたい買い主心理をくすぐる商法が、あれこれ乱立しているのだろう。
実にうまいタイミングで、認知症の老姉妹が、カモに群がる悪徳リフォーム業者に過剰工事で4000万円むしり取られたニュースがテレビから流れてきた。
「こわいなぁ」と眉をひそめる母は、「私は大丈夫」とタカをくくっている、典型的なカモ候補かもしれない。
ペットを思う気持ちはわかるとしても、「ペットぼけ」で判断能力が低下してしまう健常者は多い。
過剰な栄養、過剰な薬、過剰な毛づくろいetcetcで温室育ちしてしまった犬や猫の方も、ガンや痴呆など人間の病気で命を落とす割合が高くなっているという。お気の毒な話だ。
高齢者イコール判断能力なしというわけではないが、「親切にしてもらったから、つい」というだけの動機で、不要な契約をしてしまうことは、よくある話だろう。
・孤独と隣り合わせの身の上
・・・に、
・サービスや商品が日に日にわかりにくくなっている
・・・と、
・業者、店員の親切を信用してしまって、つい「お任せ」
というシナリオは、さんざん全国各地で悲劇を生んでいるのに、なかなか後を絶たない。
せめて「その場で判断せず、だれかに相談する」ぐらいのクセがあれば救われると思うのだが・・・。
幸い、母と同居する弟も僕も「安全第一野郎」で(笑)、ダブル・チェックマンとして働いているから、今のところこれといって被害はないが、それにしても世知辛く、物騒な世の中やなぁと思う。
携帯ぐらいの身の回り品でも、油断できない。「着信履歴が画面に出ていても、知らない番号に絶対コールバックするな」と注意しておかないといけないし、いつどこで引ったくりに遭うか、油断もできない。
骨折して寝たきりにでもなれば、ゆっくり殺されているようなものだから、ほんと高齢者を狙う犯罪は極悪非道だと思う。
大半のペット業者は、まだ「過剰」なだけで、詐欺とまではいえないからいいとしても、露骨に高齢者を食い物にするリフォームまがい業者や振り込め詐欺師などは、つかまえて特養の人柱にしてしまえばいい。
未成年者は、いくらしっかりした高校生でも法定後見の対象になっているんだから、一定年齢以上の高齢者は包括的に成年後見の対象にして、「補助」を適用すると決めれば、こと詐欺(的)被害については、激減するはずだ。「施設から地域へ我が家へ」とうたうなら、目に見えない制度的なガードで高齢者や障害者を守るしくみがあって、実際しっかり活用されていないと困る。
気丈夫な高齢者なら、「私の年金を私がどう使おうと、自己責任じゃい」と息巻くだろうけど、実際だまされたりすると、自責の念や身内への気がね等で深く落ち込んでしまったりする。
こんな後遺症まで考えると、ちょっとしたつまづきも、罪つくりな事件だと思う。
「自己責任」は、否定しないけれども、やりなおしがいくらでもできる若い人の論理ではないのだろうか。
男と女の色恋沙汰など、「キツネとタヌキの化かしあい」だから、くやし涙に流せばそれでいいとしても、高齢者や子供をだます商売は「別格の悪行」という気がするから、ゴルゴの出番だ。
ムフフフフ
at 2005 05/14 14:03 編集
カーペンターズ・ライブ、白い巨塔テレビ版、ウルトラセブン・・・!!
DVDのおかげで、なつかしい映像がどんどん復刻されている。
もちろん、買えば買える値段ではあるものの、いけませんなぁダビング癖は。
そんな不埒なやつに対抗して、コピーガードがつけられるのもデジタルメディアの利点ということになっているが、「フリフリ」グッズが続々と出ているのも現実。しょせんはイタチごっこなのだ。
私的複製や私的編集がどこまで許されるのかは問題として横に置いといて、なんとか「フリフリ」を手軽にやれないものかと、貧乏ったらしいことを考えてみた。
ビデオ信号を高周波に変調して、またビデオ信号に復調すればよろしいのではないか?・・・21世紀のレオナルド・ザ・ピンチにひらめいた仮説である。
むさくるしいだけの我が部屋は、ときには宝が埋もれている魔界でもある。
ビデオ入力端子がなかったころのテレビにビデオを映すためのRFモジュレーターという80年代グッズが、ころがってましたがな。
これをかまして、僕は83年型テレビを2004年まで使っていたのである。
思い立ったが吉日!で、さっそくやってみたところ、あっけなく大正解。
コピーガード信号は消えて無力化していた。
VTR1で再生したDVDを、わざわざ電波に直して、それをVTR2で受信する回り道をしているわけで、理論上は画質の劣化が避けられないが、見た目ではわからないほど忠実に再現されている。
こんなRFモジュレーターなど、今どき売っているのかどうかわからないが、電器屋街に行けば二束三文で在庫一掃しているのではないだろうか。
同じ理屈で、5000円ほどで買えるビデオトランスミッターも使える。
「画像安定化装置」と銘打ったダビング用アダプターは、保証してくれるのかどうか怪しげなメーカーが、怪しげな値段で、怪しげな店で販売して荒稼ぎしているアングラ市場のヒット商品だから、抵抗感はぬぐえない。
そこは、ちょっとした発想の転換で、あっけなく夢はかなう(なんて大げさな!!笑)のであった。
めでたしめでたし。
ポケットの中のオアシス
at 2005 05/13 16:00 編集
連休明けの文庫発売第一波は、今柊二『定食バンザイ!』で買い衝動を直撃してくれたちくま文庫(+ちくま学芸文庫)が豊作だなぁ・・・と思っていたら、講談社文庫も多彩な献立てになっていてうれしい。
アリエス編集部が、在日界随一のイケメンとの誉れ高い東大教授にインタビュー構成した『姜尚中にきいてみた』は、堅苦しさ一色なのが少し難点。せっかくだから、「カンさまの好きな花は?」とか、「プロポーズのお言葉は何でしたか」という女性誌テイストも少しあれば、めりはりがついたと思う。
少々悲観的な日本社会論には、大前研一氏のあいかわらず前向き楽観的なビジネス説法『やりたいことは全部やれ!』で、いいバランスがとれそうだ。
悲観も楽観も、どっちにしても疲れるから、「脱力系」で椎名誠&和田誠『やぶさか対談』が気持ちいい。
この「ダブルまこと」は、別の単行本に『ビールうぐうぐ対談』という、タイトルからして名著があるが(著といってもビールをうぐうぐ呑みながら酔いどれトークしているだけ)、いやはや日本のサラリーマンをくつろがせる名人と鉄人だと思う。
永遠の少年のように見えるご両人も、すでに六十代。読者層であるサラリーマンのほとんどの上司より、さらに年上だ。
ぜひ、中堅クラス〜若手の「うぐうぐ脱力系」のモノカキが後に続いてほしいものである。
たとえば、綱島理友さんの80年代ポパイ的コラムなど、僕はアニキと慕って愛読していたのに、最近あまり見かけないのは、どうしたコトであろう(=ちと綱島さん語法の真似)。
まぁ、皆さんジュニアの進学だ就職だと心休まらない時期なのかもしれない。
それより若いコラムニスト、エッセイストなどの「文筆系」というと、もうブログの方に行っちゃってるのは時代の流れというものか。
でもなぁ・・・やはり、仕事がひけて疲れた体を駅の本屋さんに引きずり、「ガソリン補給」して心が潤う感覚は、文庫本であってほしい。「画面で読書」なんかしたくないのだ(論文やEジャーナルは抵抗がないのに不思議)。
もしかすると、コミックの世界にこそ、そんな文化が濃厚に残っていて、毎週、出たばかりのジャンプ、ビッグコミック類が山のように百均露店に並んでいるのを見ると、やはり紙の上に目を走らせたい欲求みたいなものを感じる。読んで捨てて、拾われてまた売られる雑誌の山また山、波また波・・・!!
製本された紙の束は、ただのメディアではあっても、「それなら電子化して画面で読んで課金」とはならないアウラのようなものは、やすやすと消去できない。
今月はしばらく、ちくま文庫と講談社文庫を読み終えるたびに、次々に1冊ずつ通勤カバンに入れておくだけでも、なんとなく「オアシスを携帯している」ような気分になりそうだ。
脳天気というか錯覚というか、まぁ安上がりな幸福ではある。
大阪人ゴルゴ十三
at 2005 05/12 12:48 編集
イラクで襲撃された日本人警備会社員があれこれプロファイリングされているのをみると、「ゴルゴのような人物が実際いるものだ」と妙に感心してしまう。ともかく無事を祈るばかりだが。
ズドン!・・・「俺の後ろに立つな」
を、地で行っていたのだろうか。
いや、それはイラク武装勢力の側か。
これで、また外人傭兵部隊の存在が知られて、志願するフリーターが出てきたりすると、尻ぬぐいに追われる外務省としては気が気じゃないだろう。
冗談で、のほほんとしている若い子が「自衛隊で鍛えてもらえ」と言われたりする。まるで「お金をくれて資格も取らせてくれる国営トレーニングジム」のように見られる自衛隊も、迷惑していることだろう(笑)。
僕も、救急救命士の卵に「イラクに赴任すれば毎日が救急救命」と発破をかけたりするけれど、温厚な日本人がうかつに戦闘地帯に踏み込むべきではないとも思う。
命懸けの仕事は、やりがいがあるだろうが、「命あってなんぼ」だから。安全第一で命を懸けてほしい(笑)。
カメラ片手にイラクに進入したフリーター香田さんの悲劇も、記憶に新しい。
根無し草の気分でいても、日本国籍を離脱していない限り、世論を気にしてか、外務省は国税をかけて法人の保護・救援に追われるのである。
ゴルゴになるならなるでいいと思うが、「祖国の国民の皆さん、僕に何かあったら税金で助けてね」ということになってしまうしくみは、念頭においてほしい。健康保険に加入して暴走運転するようなものだから。
血なまぐさいところに惹かれて行く「若気の至り」というのは、わからなくもない。死と隣り合わせる陶酔感のようなものがあるのかもしれない。
中近東にまでは行けない「冒険野郎」を惹き寄せる身近な魔界が、高い山だったりする。
僕も安全第一の軟弱山男である。それでも、安全運転男を全うした亡父にいわせると、単独登山するだけで「危険!」と採点されていた。
安全人類が眉をひそめる山岳遭難話を直接・間接に聞くと、遭難は「みっともない」「迷惑」「人騒がせ」なだけで、植村直巳さんのように美化されるケースは、めったにない。
ただ、遭難は単独でもグループでも起こり得るので、僕は「安全のためには集団行動」とは考えなかった。僕の前提は、「事故・遭難はいつか・どこでも・だれにでも起こり得ること」だから、そうなったとき友人を巻き込むかどうかと考えてしまう。
それが、「相棒に迷惑をかけたくない」と友人を思いやる憚り心理なのか、ただの身勝手なのか、自分でもわからなくなってきた今日このごろではある。
たとえば、個人装備として地図さえ持たずに山に同行しようとする仲間はどうにも受け入れ難いし、お互い荷造りしてから険悪なムードになって出発を断念したこともあった。
「それは危ないよ」と説得する一方で、「コース判断もこちらに任されて責任を負うことになるのはかなわんなぁ」という口調になっていたのかもしれない。
「命がもったいない」「危ないことして何の得になるんや」と、浪速の発想になっている自分に気づいて苦笑してしまう。
ご縁はないが、もしかしてゴルゴ13は、「淀川区十三」出身だったのか?
運転士からアナウンス
at 2005 05/12 23:48 編集
事故後、JRへのいやがらせが急増していて、女性運転士が蹴られて負傷する例もあるという。お気の毒に・・・。
八つ当たりしたい庶民感情はわからなくもないし、会社組織全体の問題といえば怒りのやり場がぼやけてしまうから、結果的に最前線の駅員や乗務員が標的になるというののは、なんともやるせない。
事故後、上司の命令ではない宴会をしていた・ボウリングを楽しんでいた・ゴルフに出かけていた社員は、矢面に立って罵詈雑言や暴力やツバを浴びている同僚に対して、どんな気持ちでいるのだろうか。
事故は事故として、その後の対応が、レジャーにふけるなど人として非道なことであれば、その方が罪は重い。
ANAの元機長だったという内田幹樹さんの『機長からアナウンス』(新潮文庫)は、人間くさいコックピットの様子を軽妙洒脱に書いたエッセイで、「人間パイロット」の素顔がうまく描かれているような気がする。
パイロットも、もちろん客室乗務員も整備士も、人間なんだと思う。
ロボットのような正確な仕事を期待するのも酷・・・というより、非現実的ではないだろうか。
楽しくて、やりがいがあって、誇りに思えて、結果として安全で便利なプロフェッショナルの現場は、いやがらせや八つ当たりではできあがらないだろう。
鉄道マンの正直な声も、聞きたいものだし、素の声でアナウンスしてもいいと思う。
「ただいま駆け込み乗車がありましたため1分遅れで運転しております〜」ではなくて、
「あのね、いま駆け込んだ赤い服のお客さん!!気持ちはわかるけど、やめなさいよっホント。危ないったらありゃーしないプンプン!!」
てなふうに(笑)。
人間車掌と人間運転士、人間駅員に人間保線員etcetc・・・が鉄道運行を支えているのだと、当たり前のことを思い知るきっかけになるのではないだろうか。
母校ドットネット
at 2005 05/10 16:46 編集
大学同窓会が発行しているメールアカウントというのを取ってみた。
「3月中はオンラインでの申し込み停止」というので、「年度の変わり目は申し込みが殺到しているのかな」と思いつつ、その表示が黄金連休になってもそのまま。
しかたなく電話で問い合わせると、FAXで承りますというので、送られてきた用紙に書き込んで、「くちゃりくちゃりとFAX文通」で申し込んだ。
希望のアカウントがとれたかどうか、オンラインだと即座にわかるのに、アナログな方法だと、妙な間が開いてしまう。
連休をはさんで、やっと完了通知が郵便で届いた。
あっけなく、「名字そのまま@大学ドットネット」のアドレスが決まっていた。
おいおい、同窓生20万人らしいが、同姓の同窓生で、ストレートな名前でアドレス取る人おらんのかい!?と、首をかしげてしまった。そんなに珍しい姓ではないのに・・・
「サバト」なんてのも確実だろう。
同封のマニュアルというのも、カラーコピーを綴じて製本テープを貼っただけの、まるで同人誌のような、手作り風味満点(笑)。まぁ、初期費用ただ、月料金500円に見合った節約ぶりというところか。
プロバイダーの盛衰も親会社の動きも先行きがよくわからないご時世だから、パーマネントアドレスがほしいと思えば、大学ドメインの方がまだ大丈夫かな?と思うが、なんともいえない。
国公立大学でも、商船大学や小規模なところは、統合で母校名がなくなってしまうから、倒産しない程度の安定経営の私大の方が、まだ安心というものだ。
12〜13世紀から続いているオックスブリッジのような大学なら、ドメインの恒久性はもっと確実だろうが、凡人にはおいそれと「.edu」ドメインのアドレスはもらえない。
凡人の僕は、個人的には@berkeley.eduにあこがれる。オックスブリッジやスタンフォードとは違って、街の名前であり大学の「分校」の名前、わかる人にしかわからないところが通好みだから。
そのあたりの心理をくすぐるドメインビジネスも、現実にあるとは思うけれども、商標権の関係もあって、きわきわのドメインネームになったりするかもしれない。
カップリングパーティーでもてたい男向け商売で、医科大学っぽいドメイン名(@なんとかikadaigaku・・・うさんくさいっ!!)とか、なにがなんでも「UCLA出」になりたかった世間のコガジュン男たちのために、「気分はUCLAよく見るとLAじゃない@uc1a.com」とか(笑)。
コガジュンやサッチーは、みっともない「なりきり」にすぎなかったが、日本の学生の中には、「本命は東大だった慶応大生」という類が少なからずいる。こんな諸君のために、@rokudaigaku.ac.jpドメインのアドレスを発行してあげるのはいかがなもんか?
でも、@***.u-tokyo.ac.jpの学生はわざわざ六大学ドメインなんて取らないだろうから、この聞きなれないドメインのアドレスは少なくとも東大生ではない、というしるしになる(あぁ、じれったい!!)。
そこ行くと、関西なら@kankandouritsu.ac.jpが実用的かもしれない。
「ダンゴ、まんじゅう、ようかん、大福」みたいな4大学だから、どの大学にも、「おっ、@kankandouritsu.ac.jp、ええやん。いただき」てな学生が一定割合いると思う。
万一どこかが倒産しても、アドレスはそのまま使えるから、この「ひとくくりドメインネーム」は名案じゃないかと思うのだが・・・?
おとなりさん問題
at 2005 05/09 08:09 編集
盛大に在宅10連休を満喫した僕の部屋のすぐ近所では、マンションの新築工事が始まっていて、この現場は律義にカレンダー通り仕事をしておられる。
晴れたら月曜から土曜まで、朝9時から夕方6時まで。
その工事関係者の詰め所のような使い道で、長らく空室であった隣室がふさがった。
これが、ちょっとドタバタやってくれる頭痛の種なのである。
大家さんにとっては、とにかく空室をなくすのが経営問題だというのはよくわかる。
巷の不動産広告でも、事務所可、ペット可、ルームシェア可、保証人不要・・・と、あの手この手の「条件緩和」が売りになっている。
なにやら格安航空チケットの投げ売り状態に似ている。
ただ飛行機は、どんな客と乗り合わせてしまっても、せいぜい10時間ちょい辛抱すればすむ。
それが集合住宅暮らしとなると、事務所や土建業の詰め所が同居するのは、どんなもんだか・・・という感じもする。
大声での業務電話、ガチャガチャと機具を出し入れ(?)したりする音や振動が響く土建業者の詰め所も、壁1枚隔てた隣りにいてくれるとかなわんなぁ・・・と思う反面、夜は完璧に無人で静か。当たり前だが、生活の気配は皆無だから。
ものごと、考えようなのか。
前に住んでいたマンションは、真珠加工会社が半分ぐらいを占めている半オフィスビルのような物件で、案の定うちのとなりでも昼間はドリルを回す音が響いていた。
もちろん、そこも夜中は無人だから、夜の静けさが保証されるなら事業所の隣室というのも割り切れるものだな・・・と、少しは大人になった(のか??)。
何かの熱心な信者さんとか、パンクロッカー、声の大きいラブラブカップル(笑)なんてのも、リスクレベルはミドル級だ。
幸運なのかバカのなせるわざなのか、僕は最上階にしか住んだことがないので、「朝から夜中まで元気な子供が住んでいる2DKの直下」なんて悲劇は未体験なのだが、こういうのもリスクではある(しかも、子供はそんなもんだと言われれば、子供公害は打つ手がない)。
いくら広い部屋に家賃を払う余裕があっても、ファミリー物件の一隅に閑居するのをためらう思索家(笑)が世間にいるのはよくわかる。
部屋の両隣りが、残業をまるでしない、定時にからっぽになる役所だったりすると、火の不始末は心配ないし、夜の静けさも完全だからありがたいが、まぁそんな物件はない。
でも、ないものだろうか。つい、ないものねだりをしてしまうぞ。
商業ビルの、たとえば六本木ヒルズの、あらゆる窓から遠い中心部分に部屋があって住むことができたら、これは神秘的で楽しいだろうなぁ・・・と夢見ることもある。
夜景が見えないどころか、照明は絶対に欠かせないから、電気代もかかるし、それとひきかえに家賃は格安になるはずだ。
僕にはワイングラス片手に美女をはべらせて夜景を眺める趣味は絶対ないので、だれもがあこがれる要素を逆手にとって、「ナイスビュー・ゼロで家賃格安」の方をとる。
たしか、地下室は建築基準法で居住用の部屋を造ってはいかんことになっているはずだが、「ビルの脊柱部分の窓なし密室」はどうなのだろう。実際、そんな物件は見たことがないから、法規制の抜け道になっているかもしれない。
倉庫を演劇やバンドの練習に使ったりアトリエにしたりする流行も一時あったように思うが、最近はどうなっているのだろう。運河に面したハードボイルドなスタジオというのも、悪くない気がする。藤原新也ふうの写真家なら住んでいそうだ。
こんなハードボイルドな夢想にふけっていると、必ず反動がくる。
黒木瞳ふうシングルママが引っ越してきて、その娘がやたらなついてしまうという筋書きも、あっていい。
「あのねぇ・・・あたしのパパになって」と、ある日ふいに出てくる小さな告白。
「君のパパにということは、ママのアレということで、あぁそんなことって・・・およよ!!」
てな展開が楽しみというか、妄想過剰というか。
面影
at 2005 05/08 12:18 編集
深夜に近い静寂に浸されたイスラム・モスクの前の歩道で、「ダゴさん」とすれ違った。
チリから神戸へ移住して数十年のダゴベルトさんは、日本人の奥さんと「グラン・ミカエラ・イ・ダゴ」という南米料理屋を中山手通りに開き、息子さんも手伝って、繁盛していた。
道1本隔てたブロックに住んでいた僕は、「接待用」の店の1つとして、何度か食べに行った程度だった。かんかんに熱く炒められたパエジャは、元気をもらえる家庭料理だった。
そして、あの大震災で、店は半壊状態。その後、仮店舗へ移り、さらに移転してしまった。
いくつかの「接待用」の店も、街から消えた。僕も1kmほど西へ引っ越した。
それからちょうど10年。
当時すでに還暦は越えていたであろうダゴさんは、不思議なことに、昔のままだった。
なんとテンガロンハットに、キラキラ光る白いスーツ上下というおしゃれすぎる姿(笑)で、愛犬を散歩させていた。
さすがに、愛犬は代わっていた。
「野生のライオンが神戸を走っている!?バカな!!」と、探偵ナイトスクープに依頼が舞い込み、桂小枝がロケをしに来ていたのは、このダゴさん宅の、胴体丸刈りに散髪されたミニコリーだった。とても人なつっこくて、放し飼いにされて、近所のアイドルになっていた。
いまダゴさんが連れている犬は、ちゃんと縄で引かれて、ダゴさんは「糞始末セット」を携帯していた。
ドッグイヤーという言葉があるように、犬にとって10年というのは、人生の半分かそれ以上を経過する年月なのだろう。
わが実家にいた猫たちも、みな今はこの世にいない。
しかし、スーツで小走りするダゴさんのお元気ぶりには、人間の生存力のようなものを感じてしまった。
地域に根を生やす力が強いのかもしれない。
自分の意志で、この街に暮らすのだと決めた住人に、日本人も外国人もない。
むしろ、行政の都合で、立ち退きだニュータウンだ特養だとベルトコンベアのように動かされる無辜の民より、我を張って、誇りも責任も持ってそこに暮らす人が、血の通った街を創るのだと思う。
明らかにイスラム教徒とクリスチャンとユダヤ教徒が、こんなに接近して共存して暮らす街も珍しいと思う。ハンチントンのいうような「文明の衝突」は、少なくともこの界隈では見られないというか、目立って表面化はしていない。
中国各地で反日デモが頻発していたころ、中華同文学院の前には24時間態勢で警官が常駐していたが、ほとぼりが冷めたのか、今は警備も解かれている。
あんまり難しい理屈を掲げなくても、「いろんな人おって楽しいやん」程度のノリで保たれている、この自然な「平和共存」を、大切にしたい。
オルグ!
at 2005 05/07 08:20 編集
JR事故の被害者ご遺族の一人が、「同じ境遇の方々で団結しましょう」と、被害者の会を呼びかけておられる。
気丈夫だなぁ・・・と感心しつつ、陰ながら応援したいと思う。
こうした立場の、この世のどん底に突き落とされたような立場の人々を救えるのは、受験秀才の臨床心理士でも精神科医でもない。
同じ立場の仲間が集う「場」なのだ。
それを、被害者の側から創ろうと動く姿には、敬服するばかりだ。まだ事故のショックも癒えない日々だろうに・・・。
ところが、こうしたオルグを阻む最大の敵が、ほかでもない、事故を起こした西日本旅客鉄道株式会社そのものである。
事故直後のボウリングやゴルフコンペや宴会にはずいぶん熱心なのに、被害者の自主的な救済活動には、手のひらを返したように冷酷なのがよくわかる。
「プライバシーの観点から、被害者の連絡先は教えられない」という言い訳も、開いた口がふさがらない。アホかいな。
正直に「被害者が団結してもらっちゃ困るんでさぁ」と言えばいいのに。
企業のこんな反応は、ホリエモン風にいえば「想定の範囲内」で、むしろ、何をされたら困るのか、企業体質が陰画のように浮かび上がってくるかのようだ。