2006.08.31 Thursday
かけます、かけます
at 2006 08/31 10:51 編集
熱帯夜がなくなったぐらいでも、ずいぶん朝夕だけは涼しくなった気がする。
あんまり暑いと、ずっと風呂に入っているようで、まるで静香ちゃん気分だし、滝のような汗も何か効用がありそうな気もするから、せいぜい夏はパンチのきいた暑さを楽しめばいいと思う。
めいっぱい暑いからこそ、涼しくなると恋しくなるのが「ぶっかけ飯」。まだ、鍋という気分でもない。
我が国には、味噌汁かけ通称ねこまんまという絶品があるものの、なぜか無性にマーボー丼が食べたくなる。
別に麻婆豆腐でもいいし、麻婆茄子でもいいいが、ご飯にぶっかかっているのがベスト。
これ、もしかして日本人がアレンジした「中華風」料理のようにも思えるが(『美味しんぼ』によると、坦々麺がそうらしい)、日本人はぶっかける名人なのかもしれない。カレーライスという不動の伝統もある。
汁を含んだ飯は消化吸収されやすいし(と言い訳しつつ、咀嚼せず丸呑みしがちなのはデメリットか?)、体にもいいと思うのは素人考えなのだろうか。
1年ほど御無沙汰していた中華街のはずれの日本風ラーメン屋に、さっぱり系ラーメンと麻婆丼のセット定食というのがあって、久々に食うか〜と思って出撃すると、このメニューがなくなっていた。
残念!もう破門しちゃる。
しかたなく、また別の店に浮気して「サバの立田揚げ大根おろしかけ定食」で晩飯をすませてきたのだが、あぁやはりワシは和風に還るのか・・・という感じ。
玉ねぎと崩れかかったジャガイモの味噌汁を温めなおして飯にぶっかけたりすると、もう、こんな安くてうまい決定版はないと思う。
それじゃー腕のふるい甲斐がないわんと言われても、かけめしで喜んでいるのは優良ローコスト男ではないか〜?と自画自賛しているのだが。
ジョンベネ茶番劇
at 2006 08/30 20:14 編集
ジョンベネ殺しを自供していたジョン・マーク・カーが、案の定シロ。
まず、「タイで逮捕」が怪しかった。
別にタイを差別視するつもりはないのだが、欧米人がオリエンタルでエキゾチックな性の香りを求めて、タイやフィリピン、ベトナムといった舞台を借りるのは、よくある話である。「エマニエル夫人」シリーズ(古いなぁ)を思い出すまでもなく。
僕はタイやアメリカの刑法をさっぱり知らないから、証拠なしで裁判所が逮捕状を出すのか、はたまた逮捕状なしで10年前の事件でも現行犯逮捕できるのか(笑)、どっちにしても奇妙な刑事制度だと感じたのだった。
現場で採取したDNAがあるなら、タイで身柄拘束した被疑者のDNAと照合すれば、逮捕できるかどうか簡単にわかりそうなものなのに。なんだか順序が変である。
とにかくつかまえてニュースにすれば、だれかが得するしかけがあるのだろう。
あの被疑者のメル友の大学教授というのが、ジャーナリズムだか映画学だかを専門にしているそうだが、あの事件のドキュメンタリー映画で一発当てようと考えている山師が、あちらの映画業界や報道界には生息しているのだろうね(そこに、タイ警察もからんでいるのかもしれない)。
伏線は、もともとの10年前の事件以来の報道でしっかり張られていた。
一体、ジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃん・・・と、なぜ縁もゆかりも皆無な日本人が、騒ぎ悲しみ憤り怒り報道し続けなくてはいけないのだろうか。
宮崎勤に殺された女児たちの名前など、きれいさっぱり忘れて去られているのに(宮崎被告が名乗っていた今田勇子だけは、妙に記憶に残っているけど)。
謎めいた事件だから・・・というなら、行方不明の吉川友梨ちゃんを探し出す方が大事だと思うが、大衆の好奇心を新鮮に保って何度でもニュースにしてしまう米国の「映画仕掛けなマスメディア」の方が、はるかに巧妙かつ狡猾だということだろうか。
また、「ロリコン・カー」のような目立ちたがり屋もこれから続出するだろうし、そんな異形のキャラを祭り上げたりいじくったりして営利に結びつける業界があっても、不思議ではない。
日本でも、「パリのカニバリスト佐川君」が、よりによってカニバリズムのVシネマ(だったかAVだったか)にかつぎ出されたこともあったが、たとえ被害者が日本にいない事件ではあっても、やはり日本人が根源的に受けつけないエンターテイメントなのだろう、闇に葬られてしまった。
まぁ、佐川事件や宮崎事件は実話で、「犯人は彼本人」と確定しているから、どんなドラマに仕立てても、ウソくさい茶番劇にしかならない。事実は小説より奇なりだから。
今回の、アメリカとタイの司法当局を巻き込んだ茶番劇は、にせメールを永田議員につかませ民主党を揺さぶった茶番劇を思い起こさせる。
ネタをつかまされたのか、自らすすんで飛びついたかの違いはあるにせよ(無意味なほど小さな違いである)、にせメール=ジョンベネ、永田=ジン・マーク・カーという構図だ。
ということは、大失態のコロラド州の司法当局を陥れようとした力が働いたのか?
・・・と考えると、これは政治ドラマというか、現実の政争だから、新しいリアルなエンターテイメントになる。
ジョンベネちゃんは死んで10年たっても、エンターテイメントのダシに使われてノーギャラ。目立ちたがり屋さんや大学教授やマスコミなど、二流三流の具ばかり寄せ集めて、これほどまずい闇鍋はないだろう。
アメリカが日本をなめるのはわかるが、米国民自身も、なめられたものだ。
夏の夜と昼の夢
at 2006 08/29 21:52 編集
月曜日から、通常出勤。といっても午後からだから、これぐらいで疲れているようでは情けない。
おかげで、あっちこっちで居眠りしてしまう。
空腹は最高の調味料、というように、寝るのが楽しみな人にとって疲れは不可欠なのかもしれない。
まず、行きつけの喫茶店で、スーッとのけぞって仮眠。とりあえずスカッとした。
目が覚めると、隣の客が入れ替わっていた。
「はつらつOL風」が、向かい合った体育会系の大学4回生に、連盟がどうの支部がどうの、ネットワークを使って云々、サークルをどうする・・・なんて話をしている。摂理か?(笑)
電車でまたウトウト。
神戸に戻って、早く帰って寝ればいいのに、エクセルシオールでアイス・ラテその2。
昨日記を打っていたら、ドカドカドカッと短大生ふうの5人組が流れ込んできて、僕のテーブルのいすを動員して、「放課後」がスタートした。テーマは「児童中心主義と系統主義」ということらしい。ほほー、まじめだね。
「あの**(教員名)、一人でしゃべって一人で笑ってるねん」
「きもー!!」
てな風に、「キモい」と「かわいい」であらゆるものを評価してしまえる、最強の乙女ボキャブラリーである(一応ほめている)。
どっちも不幸な、ミスマッチな出会いですなぁ。
たぶん、こんな授業は居眠りかメールか内職が蔓延する「授業のような儀式」になっている気もするのだが、居眠りというのは僕は年々お目にかからなくなってきた。「寝るなら来るな」と通告しているわけではなし(そうしたいけど)、目が覚めるようなおもしろいトークをやっている自覚もなし、不思議な傾向ではある。
僕なんか、自分で履修すると決めた授業でも、けっこう居眠りしていたものだが。
まじめに出席して受講して課題をこなして・・・というのが恥ずかしいというか、軽い反逆を覚えるからこそ、寝てみたりもしてたのかもしれない。
今の学生は、正直まじめなのだ。「くそ」がつくほど。だから、心病む子も多いのかもしれない(あくまでも憶測)。
合コンはしない。ナンパなんて僕しません!!と誇らしげに言うし(笑)。
おいおいカンが狂うわい。
何かもっともらしいエクスキューズをでっちあげて教師を引き込んでおごらせるとか(僕はこればかりやっていた)、そんな悪知恵は働かないようだ。
まぁ、これが女子学生とおじさん教員の仲となると確かに難しいものだが、媚びて仲良くしようと考えるおじさんは哀れだし、冥王星人と実りある会話をしようと考えたとたん、これまた眠くなる。
しかも、安眠ではないしね(笑)。
逃げる夏〜の・・・
at 2006 08/28 21:08 編集
いくら日曜の夜といっても、昨夜ほんの11時すぎに、JR元町から山の手に上る目抜き通りで、たまたま人っこ一人見かけなかった。珍しい・・・というか、シュールな眺めだったぞ。
ふだんは、新しい飲食店も次々にオープンしてまぁまぁにぎわっている、トア・ウエストの西の境界にあたる鯉川筋である。
それが、まるで台風の夜みたいだった。この廃墟感には、ウットリする(笑)。
夏休み最後の週末・・・といったって、実際に夏休みを過ごしている幼稚園児から大学生までは人口の2割ぐらいだから、そんなに夏休みだ終わりだと日本中が騒ぐことかい?というのは、前々から消えない疑問。
たぶん皆そう感じながら、海の日で「夏休み!!」のドラを鳴らされ、「8月最後の日曜の夜」に幕を引かれて、粛々と帰宅なさる。愛すべき日本人の横一直線ライフやねぇ。
あいかわらず残暑も厳しいから、海の家なんかは真夏モードをキープしてくれてもいいのに、早々と解体されているのが寂しい。
最近は海に入ってないからわからないが、盆を過ぎたら泳げないほど、海はクラゲだらけになっているのだろうか?
イモの子を洗うような「夏休みの海」より、9月ごろの海の方が静かでいいし、海の家のメニューに秋刀魚、梨、牡蠣なんかがあるのも、風情があっていいではないか。
年中、夏休み明けのような顔色をしている僕は、ことさらに「夏どっか行きましたか?」と聞かれることはない(行ったにちがいない顔をしている)のが少し寂しい。
「夏山」も「18きっぷ旅」も、これからなのだが。
終わりかけてから追いかける、いつものあわただしい夏である。
焦るなぁ・・・。
飲酒運転だけ厳罰
at 2006 08/27 20:01 編集
盆休み明けの初出勤だったから、きのうの準夜勤で、夏休みは終わった。正味、1カ月しかなかった(こんなことで嘆いてるから、会社員の友人に嫌われる)。
帰って間もなく、悲惨な交通事故のニュース。
泥酔公務員に追突された家族5人乗りの車が海に落ちて、子供だけ3人、水死してしまった。母親は暗い海に4度も潜ったり上がったりして子供の救出を試みたそうだが、残念ながら助からなかった。
母は強し!とはいえ、これからのご夫婦の喪失感や憤りは、想像を絶する。子供のご冥福とともに、生き残ったご両親のこれからを慮るばかりだ。
親子でカブトムシを採りに行った帰りだったそうだかあ、あぁ、夏休み最後の行楽で、日曜日はパパの骨休めだったわけね・・・と思い浮かぶ、どこにでもある「いい家族」の夏休みの幕引きだとわかると、悲哀もなおさら。子供の短い人生まで幕引きになってしまうなんて、あまりにも気の毒だ。
もちろん、泥酔状態の22歳バカヤロ公務員も、罪は罪として服役したとしても、一生をかけても罪は償えないだろう。
こんな飲酒死亡事故の悲劇の背景には、酒にルーズな日本の風土や、飲酒運転に甘い交通行政があるから、ええかげん、毅然とした飲酒運転撲滅キャンペーンを推進してほしい。酒飲みの良識に任せていては、あと何人殺されれば飲酒ドライバーが自然消滅するというのだろうか。
もちろん、飲酒運転が摘発されたら、即刻免許取り消し。
飲ませた店も調べて営業停止。
飲酒運転を知ってて黙認した第三者も、共犯者として逮捕。
これぐらいのことはしないと、ほんと犬死にはなくならない。
普通の運転で前方不注意とか信号見落としとうのは「業務上過失」かもしれないが、酒は危いとわかっていて飲んで、自分の意志で運転を始めるわけだから、過失ではなく確信犯といっていいのではないかい?
そんな未必の故意が反映された危険運転致死罪が導入されるようになったのは、当然といえば当然。ただ、罪を重くするだけでは、なかなか抑止効果にならないから、効果的な運用を導入してなんぼだと思う。
たとえば、被告には、懲役刑の代わりに「飲酒運転Gメン」をやってもらって、罪の重さに応じて「10人摘発」「100人摘発」とノルマを課すとかね。
「おれ、酒ぐらいで運転ミスしないもんね」とうそぶくやつは、集めてサーキットでレースをしてもらおう。助手席には家族を乗せて、シートベルトなしだ!
「みーんな自分の運転に自信があるそうだから、大丈夫だよーん」と悪魔笑いをする、警察幹部!(笑)
酒気帯び運転レベルでつかまったやつへの講習は、これぐらいのスペシャルメニューがあってもいいと思う。
仕事でどうしても酒の席と運転は切り離せないんです、という事情をかかえた飲酒ドライバーもいるかもしれない。あまり同情したくないが、それなら酒の飲めない体に改造することを条件に免許を与えればいい。アルコール分解酵素を消してしまって、飲んだら運転できなくなる注射とか。
まぁ、そんな処置は人権問題に発展しかねないから、技術的な飲酒運転撲滅は、別方向から考えなくてはいけない。
運転席にアルコール・センサーをつけて、酔っていたらエンジンがかからないクルマというのは、簡単にできそうな気もする。そんなクルマは売れないから、すべてのクルマに設置を義務づけて、横一直線に始めるしかない。
すると、「センサー解除のノウハウ」なんてのもネット上に出てくるのは確実だから、イタチごっこになるのも確実だったりする。
『ラジオライフ』なんか愛読しつつ、こうやって規制すべし!とアジっているのは、矛盾しているのかもしれないが。
再定義
at 2006 08/26 15:43 編集
冥王星が太陽系惑星から除外されて、矮惑星に「格下げ」されてしまった。
かわいそうに。くさい駄洒落で「わい惑星や」と開き直っている大阪人みたいではないか。
世界中で耳につく関西弁も、天文学会には届かなかったということか・・・。
別に定義が変わったぐらいで、星が消滅したわけではないから、大騒ぎするほどのこともない。pluto=冥王星という訳語は、ろまんちっくな名前だと思うから、残しておいてほしい気もするけどね。
受信料で養われていながら、「受験生にとっては、憶えなきゃいけない星が1個減って助かりますね」と、くだらん・気の利かん・笑えんコメントをしていたキャスターには、ふと知能を疑ってしまったが、「教科書から星が1つ減って寂しい」と話す知的好奇心にあふれた小学生の爪の垢でも煎じて飲ませてもらえばよろしい。
定義変更というインパクトなら、「高齢者」を65歳から80歳に変えてしまえば高齢者問題は解決してしまうし、もっと身近で影響のある定義変更を考えてみてはどうかと思う。
まさに某「公共放送」というのもそうで、「公共性のない番組もやっている公共放送」というのは自己矛盾しているから、暗黙の定義を考え直してみないと、噛み合わない議論に無駄な時間を浪費するだけになりかねない。
医療や福祉の世界では、病気の定義が世界各地でずいぶん違うようだし、タバコ1つとってみても「文化だ」「公害だ」と議論が鎮火しない。ついに、禁煙できない人は、タバコ依存症ということになるようで、愛煙家の皆さんは大変だ。
そうして病気の定義を増やしても、医療費がふくらむばかりだから、むしろ「そんなの病気じゃない、健康のうち」と再定義した方がいいこともある。
たとえば、妊産婦さんが1週間も入院しているのは、先進国で日本だけらしいし、現に日本の健康保険でも異常分娩以外は「病気ではない」ことになっているようだが、病人扱いしすぎることで医療費がかさむ面はあるはずだ。
個人的には、妊婦さんの苦労は正直よくわからないが、働くママ&パパへの育児休暇やフレックス通勤をもっと保障した方が賢いと思う。
定年というのも廃止すべし。
というのは、わが選挙公約にもかかげた「定義破壊」だが、有能な高齢者はどんどん活躍してもらうばかりでなく、有能な少年少女にも期待したい。
たとえば早実の斎藤投手、苫小牧の田中投手には特別に選挙権をあげて、「僕は投票に行きます!」とキャンペーンもやってもらえば、投票率も上がると思う。
いや、選挙の前に苫小牧のナインには住民請求権をあげて、セクハラ前市長の悪業を洗いざらい調べる仕事の方が先になるべきかもしれない。
苫小牧に限らず、地方自治でいう有権者は15歳ぐらいから認めてもいいんではないかと僕は思うが、その他にも、社会人とか、障害者、当事者、受益者・・・といった言葉の定義も、あらためて考え直してもいいと思う。
もっと一般的な、男らしさ、女性らしさ、おじさん、おばさんetcetcも。
きのうかおとといかの某新聞が、31歳の保育ボランティアお兄さんが子供に「おじさん」と呼ばれてへこんでいた投書をきっかけに、おじさん・おばさんの定義をおもしろおかしく書いていた。
当然、年齢ではなく「しぐさ」で線引きする文面になっていて、「おしぼりで顔をふくのがおじさん」「電車で空席に突進するのがおばさん」という調子。まぁ、他愛ない定義ではある。
こんな場面は、定義というか、あるモノサシで相手をおとしめて笑う快感みたいなものが働いている(おじさん、おばさんというカテゴリー自体が毛嫌いされる対象だからね)。
それが差別の始まりだ!・・・などと憤慨するつもりはないけど。
定義は、戦略的に利用すればいいのだ。
あの彼がおしぼりで顔を拭くかどうか、ドキドキしている乙女にこそ、「おしぼり上半身一周」を見せてやるのも楽しい。驚きを超越して、解脱できるというもんだ。
また、「素敵な彼氏」の定義を裏返してみれば、お荷物な彼女と円満に別れられる秘策も見つかるではないか。
つまり・・・
耳に鉛筆はさんでスポーツ新聞を読みつつ待ち合わせ、
デートの話題は墓と介護、
夜景の見えるワインバーで爪楊枝で歯の掃除、
夜景の見えるワインバーで彼女に説教、
夜景の見えるワインバーで座るとき「どっこらしょ」、
夜景の見えるワインバーで足を組んでさりげなく裾からモモヒキ、
夜景の見えるワインバーで鼻毛を拭く・・・
こういう「フルスペックおじさん」を演じれば、29歳の彼女でも「あんなオヤジ男、ふってやったわ」と優越感をもって、すすんで離れて行ってくれる(素敵!!と惚れ直す彼女だと、間違いなく老い衰えるまで連れ添えるパートナーだな)。
以上は「別れるための仮定義」だが、新しい出会いに向けて「素敵な彼氏」にすっと戻らなくてはいけない。
案外、おじさんの定義にどっぷり浸って快感に目覚め、抜けられなくなると、えなりかずきになってしまう危険性もある(笑)。
まぁ、こんなことを気にしているのは男の沽券なるものの弱さで、実際に「夢がない、鍛えてない、安定志向のてめえらこそ、オッサンそのもの」と指摘してやると言い返せない少年も多い。
「あたしら、ミニおばさん」を隠さず開き直っている関西女子は、本当に強いと思う。バルサンも金鳥リキッドも効かないし。
ハンズメッセでっせ
at 2006 08/25 18:33 編集
バーゲンにもクリアランスにも、いざ!と決意して出撃したことはないのだが、さすがに「町内」でやっているのだけは、散歩がてらチェックする。
で、年に2回のハンズメッセ。
ハンズメッセで夏休みが終わり、ハンズメッセで1年が終わる感じ。
2006年「前半戦」は、いやはやな夏の陣だった。外は猛暑、中は冷房、売り場は再び猛暑で、めまいがする。
たぶん、バーゲン慣れしていない僕の脇が甘かっただけだが、オババ含有率の高い大群にもまれて、何度ナマ温かくほてった「プルルン攻撃」をうけたことか・・・(涙)。
特にこわいのが、財布売り場であった。
一体、なにゆえオババは財布に燃えるのだろうか。
イレモノへのこだわりは、「中身」への執着とつながっていて、当然その出どころは金銭欲だから、とにかく「欲望むきだし」のオババが鼻息荒く財布をかきまわしているのである。
こりゃ日本人の人口が減っても、オババ人口だけは減るもんか、と思ったね(笑)。
ハンズメッセなんて大した割引率ではないから、1000円均一なんて、今どきどこの雑貨屋のワゴンセールでもやっている。
ふだん、高値硬直しているハンズだからこそ、バーゲンが目立つだけだろう。
それでも、「とりあえずいじくらせてもらうわさ!」というオバサンの法則があるようだ。
そんな財布売り場に行った当の僕は、「そろそろくたびれてきたなー」と感じる財布のリニューアルを、このハンズメッセで買ったのはいいが、その後8年、くたびれたまま壊れるまでいかないので、古い財布をしぶとく使っている。
バーゲンのたびに買い替えて、また買い足して行くモノというのは、案外ないものだ。
パソコンや家電品のように、一定周期で買い替え需要が巡ってくるようなトレンド商品が、そもそもハンズには見当たらない。
僕も何年か前ここでフィットネスローラーなるものを買ったが、健康グッズは、はやりすたりがありそうで、最近しばらくはホームラン級の商品がない。ヨガマットはハンズメッセに1000円で売っているが、あんなもん段ボールでええやん・・・と関西人は考えるね。
レシートを集めて景品をもらうために、いかにぴったり5000円単位で買うか頭をしぼっていたような買い物熱は、今いずこ。
だから、今回は結局、何も買わなかった。
「こんなの、バーゲンで買わなくても、百均の方が安いぞ」と思うようなものがゴロゴロしている。それほど、百均パワーはばかにできない。
たとえば、もう文具なんか東急ハンズで買う客がいるのかね。
MUJIのようにオリジナルブランドを開発しているなら客もつくだろうけど、「ただ高いだけ」だと、購買欲というのが湧かない。むやみやたらの文具フェチの僕でさえ、ちょっと食指が動かない。
ロフトもハンズも、「このペン先がほしい」「この色のルースリーフがほしい」とこだわりをぶつけるとたいてい失望するから、それなら最初から専門店に足が向くわい。
今はやるのは「安い店」か「深い店」だから、ハンズのような大型日曜雑貨店というのは、だんだん飽きられて行くのかもしれない。パルコのような80年代的「おもちゃ箱」のコンセプトは、客が醒めてしまうとメリットも見失ってしまうからね。
と、よけいな経営コンサルティングまでしてしまった。個人的には、店員がエプロン姿で仕事をしているハンズのような店は好きだし、がんばってほしいからね。
すぐ「卒業」してしまうマニアックな客を引き戻す何かがほしいのだが、「マニアの聖地」になるには、東急ハンズではなく、京阪ハンズ、南海ハンズ(キャンディーズ)に看板替えする必要もあるかも・・・。
愛の手回しシュレッダー
at 2006 08/24 16:37 編集
各地で、シュレッダーで子供が大ケガをした事故に、ニュースが浮き足立っているような気がするのは、ワタクシだけだろうか。
なるほど最近たてつづけに姉歯マンションやパロマの問題があって、製造物責任に敏感になっているのは、悪いことではないけどね・・・使い方の不手際を製造物責任になすりつけている部分も、あるかもしれない気配がなくもないという意見があってもおかしくない(歯切れが悪い!!)。
100円ショップにも売っている包丁だって、人を刺せば命を絶てるように、そもそもシュレッダーは「入れたものを裁断するようにできている機械」だから、指を裁断することもできてしまう。
扱いに気をつけないと大ケガするよ、ということ以上でも以下でもないと思う。
子供の指が入る作りになっているのが問題だ!ということなら、うっかり当たりクジでも入れて粉々になってしまったら、「けしからんシュレッダーだ!!」と憤慨すればいいのだろうか。子猫がしっぽを巻き込まれたら、だれが悪いのだろうか(飼い主だっちゅうの!)。
子供の指を裁断してしまう構造が問題というより、「子供の視界に入れない」という当たり前の注意が欠けていただけのような気がしてならないのだが。
そりゃ被害は、指9本切断となると本当にお気の毒で、お子さま本人には同情を禁じえない。かわいそうに。
親も、自責の念を感じているなら(これが正常な感覚だろう)心中はお察しする。
けれど、電子レンジで濡れた子猫を乾かそうとする飼い主や、炎天下に駐車したマイカーに子供を閉じ込めている親に近い、「悪意のない罪」は、それでもやはり罪として問われるのではないかと思う。
子供の災難を痛み分けしておられる親にムチ打つつもりはないけれど、「ロクヨン」ぐらいで、使用者責任が重いと思うぞ。
「失敗学」の畑村先生は「オフィスユースの機械が家庭でも使われることを想定して設計すべきだ」とコメントしていた。
なるほど、まだまだ改善の余地はあるかもしれない。
「どこでどう使われるか想定して安全仕様にする」という工業デザインの理念は大切だが、どこまで普及するかは、未知数ではあるね。
今回のようなシュレッダーだと、子供の指が入らないせまい開口部にすると数枚ずつしか入れられないから、本来の機能を充分に発揮できない(そもそも売れないな)。
指が入るシュレッダーには「チャイルド・シャッター」でもつけるか?・・・いや、そもそもお茶の間に置くなと消費者に周知徹底する方が賢明じゃないか・・いや、シュレッダーなんかより、高層マンションに住んでいる子連れ家族は、子供一人では窓が開かないマル秘ロック(?)の方が、命にかかわるから優先順位は高いはず・・・とまぁ、あれもこれも危険に見えてくる。
身近に潜んでいる危険を表に出して、安全になものに改良する、というのは当然すべき製品開発だと思う。
そんな理念が、「普遍的」かつ「包括的」に形になって行くなら、とりあえず僕は賛成する。ユニバーサル・デザインにも自然につながって行くと思う。
そもそも、便利だが危険な代表格といえば、なんといっても「走る凶器・クルマ」ではなかったかな?
自宅前で我が子や家族同様のペットをひき殺してしまう悲劇は、シュレッダーで指を失う事故より多いはずだが、それでも「クルマの性能に注意!!」という論説は聞かない。「人をひかない車の開発」は、どうなってまんねん?
家庭に入った事務用品といえば、なんといってもパソコン。
昔から、僕はなんか素朴な家庭のしつけで、「テレビは離れて見なさい」とガミガミいわれてきたものだが、こんな家庭のしつけは、もう迷信として葬られてしまったのかね?
今じゃ学習机の上にCRTを置いて、30cmの至近距離から15インチのモニターを何時間も凝視していたりするお子様もいるようだが、こんなえげつない環境を放置しているのも「シュレッダー家庭」と大差ないような気がする。
クルマもパソコンも刃物も、使えなくなっては困る。
だから、子供や老人や犬猫のいる家に持ち込むなら、いろんな使い方、暴走したときの被害をよーく考えておかないと、結局は弱者が痛い思いをするだけなのだ。
僕も激安のシュレッダーを持っているが、手動なので、うっかり指を裁断しはじめても5秒以内に自分の意志でちゃんと停められるぞ(イテテテテテテ)。
電動のオフィス用シュレッダーを家に置くなんて、ズボラなだけちゃうかと思うのだが、3億円当たりクジか万馬券でも裁断してしまわないと、気づかないズボラなのだろう。
処暑のトポス
at 2006 08/23 22:18 編集
やっと盆休みが終わった。
で、出勤しようとしたら、大阪だけ突発的な大雨で、「警報のため閉店です」となってしまった。
出鼻をくじかれた感じ。
大気が不安定になっているのか、風が強くて、おまけにカラッとしているから、日陰に入ると涼しいのがありがたい。気温だけは「熱帯夜」でも、もう秋の気配ひたひたで、なんというか本当に眠れない絶望的な夜ではない。
うちのとなりに昔あった病院が、通りに面してナースの宿舎を併設していて、何かの規定でエアコンがなかったのか、あんまりひどい熱帯夜にはベランダに出て寝ていた子がいた。
それほどひどい熱帯夜だったということかもしれないが、そんな夏の夜のしのぎ方は、ワイルドでよろしいと思う。夏合宿みたいで。
秋の待ち遠しさに弾みがついたニュースとえば、10月初旬に、震災で全壊した神戸新聞の本社屋がやっと落成し新装開店すると決まった発表は、しみじみとうれしい。あぁ、「震災後」が終わった・・・という感慨に近い気持ちかな。
NHK神戸が元の場所に再建されるまで、ちょうど10年かかったから、報道機関の震災復興というのはずいぶん年月がかかるものだ。
やはり、この場所にはコレでしょう!!と市民に昔から認知されているランドマークがどの街にもあって、トポスというのは神聖化する。
いくら「同じ機能がこなせる」といっても、やはり情報や人の愛憎を扱う報道機関の立地というのは、それなりの意味があると思うのだ。
まぁ、これでようやく、震災前の神戸の都心配置が復活した感じ。
この新聞社ビルには、いろんなテナントが入る予定で、その中に、西日本最大級だというタワレコがある。
「データ」より円盤の好きな僕にとってはうれしい大型出店なのに、ちょうど同時にタワレコUSAがネット配信に負けて経営破綻!というニュースも入ってきた。
「法人は日米で別だから影響ない」とのことだが、どっちにしろ円盤には逆風が吹いているようで全盛期の6割にまで減っているそうだから、がんばってほしいものだ。
タワレコでさえ、全米で89店しかないらしいけど。
好きな局だけダウンロードして曲単価で料金を支払えばいい。
といえば、「便利で効率的」だろうけど、なんだかねぇ・・・。
そのとき好きでなくても、何年かたってから、「好きでなかった曲が違って聞こえる発見」が、円盤の魅力だと思うのだが、それが何万と充満するレコード屋さんという「聖地」のトポスも、様変わりして行くのかもしれない。
やがて、音楽ソフト屋(そもそも、ソフトとかパッケージという呼び名が問題なのだ)も、ネットカフェみたいになって行くのだろうか。
猛暑の妄想
at 2006 08/22 16:50 編集
まだまだ来るんだろうけど、関西の住民にとって、今年は台風のハズレ年のようだ。
先週、スローペースで宮崎から福岡に抜けた台風は、よほどゆっくり九州観光したかったようで、被災地にしてみれば、さっさと行ってほしかったことだろう。
おまけに、「台風一過で秋の空」とは行かないのが、ウンザリするところだ。
たしかに、空は盆休みということもあって、空気の汚れが掃き清められたような、インディゴ・ブルーだったし、はけで描いたような高層の雲に夕日が映えて、秋空に見えなくもない。
あいかわらず気温はサウナ状態でも、セミは晩夏の鳴き声に変わってきたようで、「えらいもんやなー四季の時計は」と風流を愛でたくなる。
ちょうど猛暑のころだけ、ショボショボと驟雨を降らせてくれるぐらいの、都合のいい前線でも停滞してくれればうれしいのだが、まぁそれはないものねだりで、打ち水キャンペーンでお茶を濁しているのが、今年のはやりだ。
水を撒くぐらいの原始的なことが、けっこう効いたりするようだから、これも悪くない。
ただ、いかにも「キャンペーンです」といわんばかりの浴衣嬢が手桶で水を撒いている場面がテレビ中継されていたのは、もう失われた風情でしかないのかな。
・・・と思う一方で、そもそも「浴衣で打ち水」なんて姿は、とってつけたようで非現実的ではある。よくFRIDAYなんかに載っている「バスルームで身をくねらせている水着嬢」グラビアと同じぐらい、冷静に考えると「そんなこと普通せんやろ」シーンだ。
こういうのを、夏の風情とかセクシーショットなのだと刷り込まれて行くんだろうな、とワタクシは殿方諸兄に同情の念を抱くのである(堅いこと言うねぃ!とヤジられそうだ)。
現実の打ち水は、ホームセンターなんかで売ってる「ジェット噴射機能つきホース」なんてので得意げに、しかしズボラに水道水をばらまいて、通行人をヒヤヒヤさせている味気ない眺めしか見られない。ホース1つで風情もなにも吹き飛んでしまう。
金魚売り、竿竹売り、豆腐売りなんかも、軽トラの拡声器でガーガーやられたら、風情もへちまもないように。
やはり、浴衣嬢が1リッター1000円ぐらいのギャラで水を撒いて回りますサービス、というのが丁寧でよろしい(非現実的じゃないか云々は、とりあえず不問にしてあげよう)。
昔ながらの風情が、ハイテクやせちがらい世相でどんどん消えて行くから、「去り行く夏の風情をプレイバックしてあげるファンタジー・サービス」なんてのも、当たると思う。
湘南の思い出バージョンとか、禁断の避暑地バージョンとか・・・
たとえば、スケッチブックを持った麦わら帽子の少女が田舎の駅にたたずんでいる・・・てのも、映画かCMのワンシーンのようで、カメラおじさんの好みそうな「被写体」だが、現実にいたなら、「家出娘!?補導!!事件!?・・・の匂いプンプンだから(笑)、メイド喫茶ブーム後の元ウェイトレスは、こんな夏の乙女サービスをやってほしい。
モニター第一号に応募するぞワシは。
関ジャニ・ナインはいかが?
at 2006 08/21 20:25 編集
今日は、リアルタイムで甲子園決勝に感動。
世間に盾つきまくり竿さしまくり男のように見られる僕は、たしかに高校野球や年賀状、クリスマスなんて年中行事に「ケッ!」と悪態をついていた、尻の青いころもあった・・・が、そんな俺様は今いずこ。
「人生後半」になると、けっこう人間まるくなるものだ(笑)。
世間のまるい人間が、「北海道代表で、よくもここまで・・・」と感心していると、リトルリーグの坊やに「でもね、そんなに地元の選手ばかりじゃないって。地元ゼロのチームもあったよ。全国からスカウトされてくるんだって」と、解説されかねないご時世。
だから、身もフタもない実態に、あえて目を伏せて「創られたしかけ」に感動するしかけになっているものかもしれないな、スポーツ業界というのは(亀田三兄弟は、わかりやすすぎるシカケだろう)。
駒大苫小牧の田中投手も関西人だし、駒沢大学は東京だし、練習だって、純朴な僕など「豪雪の地で練習もできない苦難の野球部!!」と勝手に想像していても、冬は東京のグラウンドで合宿練習していたりするのかもしれない。とすりゃ「苫小牧高校駒沢校」だな。
優秀な野球少年が全国から集まってくるどころか、今後もしかすると中国の怪物みたいな子を帰化させて入部させる学校があったりすれば、都道府県代表対抗という構図が無意味になってしまうかもしれない。
応援団だって、「友情応援」という名目で、男子校にチアリーダーがついたりするようだから、「友情グラウンド提供」「友情OBプロ選手レッスン」なんてのも、ありありだったりする。
とすると、見たいのは堀越学園OG大挙出演のチアリーディング。もう、喜び組どころの騒ぎではなくなるね。
もし、高野連がしめつけを厳しくして、地元の子だけで野球部を組織せよと命じると、ひょっとして勝負にならないかもしれない。フェアにすることが、勝負そのものを成り立たせないおとだって、あり得るのだ。
たとえば、純粋に道産子だけの、道内でしか練習しない野球部なら、まず真夏の甲子園から生きて帰れないはずだ。早実の少年たちも、目の前でナマ関西弁を聞くと、ビビりまくって即ホームシックになるだろう。
「ここで打ちよったら、いてこますぞワレ!!」と、凄まれたら、ちぢこまってしまって、それを「あ〜ら、元気ないやん、慰めたろかー」と関西弁の松浦亜弥にフォローされたりすると、野球以前にもう、「ナマ関西」に撃沈される(笑)。
負けない野球部員というのは、甲子園のついでに関西のゲーセンにでも入って、大学野球で関西お姉さんに目覚めて、プロ入りして新地、祇園のラウンジ&クラブにデビュー・・・という、野球選手なんだかホスト王なんだかわからんスゴロクを進むやつである。
そんな将来がみえる球児が、甲子園で活躍しないものだろうか。
大海の中のタコツボ
at 2006 08/20 11:36 編集
ムーミンが一生懸命やりくりしている掲示板に、1カ月ほど閑古鳥が鳴いていて、思い余ってムーミンパパが「もう掲示板の役割は終わったのかな、集まって飲み会でもやらないか」と呼びかけるメッセージを書いておられた。
もともとは、みな同じムーミン谷で和気あいあいやっていた子たちだが、それぞれ就職して、「パパ」さえ転職して、接点が掲示板だけになっている。
このわびしさは、みな多かれ少なかれ感じていると思うし、思い余ったパパの呼びかけも、その心中はよくわかる。これは魂の雄叫び(笑)なのだ。
甲子園という檜舞台で、一緒に闘って汗と涙を流した野球部員だって、いつまでも一緒だぜ俺たち!!というわけにはいかないだろう。
ムーミンパパの熱いハートは立派だし同情するけれども、ムーミンやノンノンやスニフやミイたち自身が何とかしなくてはいけない状況というのは、主人公たちの自覚か、なりゆきにまかせるしかないと思う。それが「巣立ち」ということでもあるから。
僕など、谷の辺境で釣りばかりしている風来坊だから、「そんなもんだろうなぁ」と思うだけの、無責任な部外者でしかない。いやなやつである。
現役のクラスメイトだと、だれかが音頭を取らなくても利害は一致するようになっているものだが(そうでもないか?)、卒業して立場が十人十色になると、価値観やら利害やら目標やら何もかも違うし、また、それが自然なのかもしれない。
そうして自分のタコツボにこもってしまうプロフェッショナルたちの間に、資格をとるとか、共通の敵を仮定する(笑)とか、合同結婚式でも強行するとか、なにか共有できる利害でも生まれないと、なかなか「昔の絆」は戻らない。
同窓生同士というのは、20年もたって再会すると、中年の恋の火種になったりするスペシャルな絆だが、卒業して数年ぐらいの間は、みな自分の仕事と格闘している時期ではないのかな。みな目の前の「個人的で具体的な問題」で、頭が一杯だろう。
生産的な方向に向かうなら、具体的なタコツボに共通する「抽象的な課題」をさぐって動機づけて行く、ある種のファシリテーションが必要になる。
たとえば「日本国のありかた」なんてのは、思想好き爺さまの専売特許のように見えるけれど、福祉や医療の専門職でいるからには、いま毎日の仕事でかかえている自分の問題と「天下国家の問題」をつなぐ思考・表現回路は不可欠だろうと思う。
それを考えるスタミナというか、インプットが、若い子に圧倒的に不足している。読書と議論を避けて学生生活を終えるという芸当をクリアしてしまう二十代が、圧倒的に多いのだ(自分のかかえている問題を表に出すのに適切な言葉というのは、ドラマとかマンガから借りてくるのだろうか?)。
もちろん、こむずかしいこと抜きの「消費的な享楽」というのも、あっていい。ただのバカ騒ぎでもいし、鍋でも囲みましょう!というのは、いたって自然で、敷居も低い「緩み場」になると思う。
それが、人数も2けたになって鍋が3つ4つになると、3つ4つの島に分断されて、もう国後島・択捉島・歯舞島・色丹島みたいな関係になってしまうのが、よくある「日本の会食の眺め」ではあるけどね。
島民をつなぐのは、散会した後の掲示板だけだったりする(笑)。
こんなタコツボ化とコミュニケーションの分断化は、業種によって、また世代によって様相は違うはずだが、はたしてBBSやSNSが救世主になるのだろうか。
web2.0だなんだと浮き足立っている時代の、「同窓生」や「同業者」の絆というのがどうなって行くのか、僕には何ともわからない。
高齢者や病人と向かい合う仕事は、最も人間くさい職種でもあるから、どこまで人間が好きかを試すリトマス試験紙みたいな面もあるのが、こわいところだ(農業やるなら美白はあきらめられるか!?みたいな踏み絵は、どんな職種にもあるだろうけどね)。
あまり人間くささに巻き込まれすぎると摩滅してしまいかねないし、このしんどさは、分かち合うスキルがないと、孤独な闘いへと追い込まれてしまう。
人間の明暗や人材と個性の関係、職場の力学・・・そんな程度の「抽象的なテーマ」が共通の関心になれば、生産的なコミュニティができると思うのだが、ケース・スタディだコミュニティ・オーガニゼーションだグループ・ダイナミクスだと勉強して実践しているわりに、つい「灯台もと暮らし」になってしまうもののようだ。
彼ら彼女らが、すばらしく善人すぎるせいだろうか?
日本の医療にせよ福祉にせよ、いまだに従事者の滅私奉公で支えられているところもあって、それはそれで感謝しなくてはいけないのだが。
僕など、まず自分が快適な生き方があって、仕事や人づきあいを選んでいるから、悪人だの利己主義者だのと呼ばれるわけか・・・(笑)。
とてもコスモポリタン
at 2006 08/19 08:01 編集
大正末期から神戸に店を構えていたコスモポリタンというチョコレート屋さんが、突然に閉店した。まさに、閉店しました!というところを、たまたま通りかって、驚いてしまった。
貼り紙が何枚も並んでいて、道行く女性がそれぞれに「あら、まぁ!」といわんばかりに覗きこんでは、後ろ髪を引きずるように立ち去って行く。
倒産と違って、資産保全されているわけではなさそうなので、従業員が店内のかたづけをしている。
奥には、まるでしつらえたドラマのセットのように、「エカテリーナ・ショコラーノフ女史55歳」という感じの御婦人が、脱力した顔を隠さず座り込んでいた。関係者の心中は察するに余りある、絵に描いたような「苦汁の撤退」に見える。
貼り紙によると、「売り上げの落ち込みにより閉店を決意した」とのことで、客への感謝の言葉がつづられたメッセージの末尾には、「バレンタイン・モロゾフ」の署名。
このへんの経営スタイルも、部外者にはよくわからない。
クルト・ユーハイム、マカロフ・ゴンチャロフらと神戸で洋菓子の味を競って成長したモロゾフ一族と、独立したもののモロゾフの名前を借りられず「コスモポリタン」として開店した販売部門とは、それなりの長年の確執があったようだ。
ゴンチャロフやモロゾフは、ロシア革命の時代の菓子職人だから、僕など当然ぴんとこない歴史上の人物だが、「コスモポリタン」は、そういえば昔から地元の甘味どころとして、子供心にも「妙なる香り漂う魅惑のスポット」だった(という、昭和の記憶も風化して行く一方だ)。
バブルのころ、いや少し前から、冬にゴージャスな乙女が群がって、華やかな繁盛ぶりを見せてくれていた。
・・・かに見えたのだが、チョコが売れなくなったわけでもないだろうし、素人目には、バブルのころの生産規模をベースに経営していたのか、設備投資が回収できなかったのか、顧客層が固定化されてしまってたのかと、表面的な勘ぐりしかできない。
個人的には「ユーハイムびいき」の僕は、接待で甘味どころといえばユーハイム・レストラン、手土産にはユーハイムのパウンドケーキ・・・と、ユーハイムの「使い道」は広い。
ところが、結局「コスモポリタン」には一度だけ連行されて入った(笑)だけで、おじさんの日常生活にはとんとなじみのない店なのであった。いつの間にやら、「チョコレート=乙女のミサイル」になって久しい。
同じ乙女エリアといっても、日比谷花壇ほどにも縁のない、「乙女の気合い入れ場」と僕は勝手に決めつけていたし、実際おじさん客も家族連れも気軽に寄りつけないオーラをまとっていたのがコスモポリタン。
とまぁ、別に経営批判をするつもりはないし、断固としてもてない男の歪みまくった目で見ているだけのことだと思うが、また老舗の灯が1つ消えるのは、寂しいことではある。
そういえば、コスモポリタンという雑誌があったっけ・・・「ハイト・リレポート」って載ってなかったけ?・・・と僕は全然金いない連想をたぐり寄せるばかりだが、もちろん、タイアップしてたわけではない(だろう)。
「クロワッサン」と落合さんの「クレヨンハウス」と「通販生活」のイメージが頭の中で溶け合っているオジサン脳だから、チョコのコスモポリタンと雑誌のコスモポリタンとスパゲッティ・ナポリタンが頭の中でからみあってしまい、このボケは治りそうにない。
熱湯甲子園
at 2006 08/18 16:34 編集
マンネリも、どうだかなぁ・・・と思いつつ、甲子園テレビ観戦。
当たり前だが、勝ちと同じだけ負けがあって、汗と涙が流れる。負け戦を闘う姿は、気高く、美しい。
球場だけで何万人もの観客の視線を浴びてピンチで戦っている野球部員は、本当に貴重な経験をしていると思う。リリーズのヒット曲「好きよキャプテン」の歌詞が、よーくわかる(笑)。ついでに、「好きよ補欠」も歌ってから引退すべきでしたリリーズ!!
みな同じように闘っているのはわかるが、僕はあえてエコヒイキして、遠路はるばる甲子園に来ている出場校を応援したい。
というわけで、近所に泊まっていた八重山商工が敗退してしまったので、北海道代表を応援していた。
相手は、地元の東洋大姫路である。それでも、北海道を応援するぞ。冬は練習できず、夏は蒸し風呂のような猛暑の中、よくがんばっていると思う。
でも、北海道vs兵庫の戦いのように見えて、それぞれ東京の東洋大学と駒澤大学がバックについていて、そのまたバックはお寺さんである。仲良く引き分けてもよかったのに。
結局、1点差で逃げ切って辛勝した駒大苫小牧はアッパレだった。ピッチャー田中将大クンに、おじさんは萌えてしまったぞ(笑)。居酒屋で祝杯をごちそうしたら、クイクイ飲んでやがったりして・・・。
僕がカテキョーしていた高校球児は、たしか進学して古田とチームメイトになってから巨人に入団したが、すでに高3にして「授業お疲れさまっす!!」と僕にタバコをさしだしてくれる(笑)礼儀正しいやつだった。タバコはいけないが、こういうノリ(だけ)はいいもんだと思う。
それにしても、別に建学の理念を軽視するつもりはないのだが、学校名が土地の名前でない高校は、一瞬どこの代表?と戸惑ってしまう。
報徳学園やPL学園などはもう、関西の強豪として全国に名前が知れわたっているかもしれないが、思想や哲学を表現しているような名前は、ご当地カラーと結びつきにくい。
僕の勝手なお願いで恐縮だが、たとえば「智弁」より「和歌山」とか「奈良」をアピールしてほしい。
全国の高校野球ファンも、その学校創立の理念より、どこの街の高校?という点にこだわって、旅の思い出や身近な人の出身と結びつけて応援するものだと思うからね。
ただ、僕の母校も甲子園に出たことがあるが、PLほど有名でないから、関東人には「みた」と呼ばれそうで(OBの僕でさえミタです!と冗談でいうぐらいだから)、土地の名前もよしあしである。東京都立西高校だと、「西」だけでも寂しいしね。
日大**とか東海大**という形もあって、これも戸惑う。
願わくば、「琉球大学附属旭川高校」「薩摩学園津軽高校」みたいなおちゃめな学校が出てこないだろうか。どっちに力入れして応援すればいいんだか、めいっぱい戸惑わせていただきたい。
僕の好感度ナンバーワンは、「沖縄水産高校」だった。「青い海で漁に励むウミンチュー」が目に浮かぶではないか!!
大洋漁業のホエールズがプロ野球界から消えた今、水産高校は貴重だわな。
それなら、「おいしいシリーズ」で、夕張学園メロン高校というのも創立して、華々しく甲子園デビューしてほしい。
なんだかアンメやコミックの世界に出てきそうな名前に見えるけど。
となると、北海道で黙っていない(笑)あの人が、「鈴木学園ムネオ高校」創立(!?)ということも、ありえるぞ。校歌は当然あの松山千春の作で、試合で流れると「校歌がCDでミリオンセラーになる史上初の高校」になるだろう。
とまぁ、音楽産業と直結した高校も甲子園に出て、ウットリする応援パフォーマンスをやってみせてほしいものだ。
まだ「政治・宗教色グログロ」よりはましだから。
クールなヘッドホン道
at 2006 08/17 13:36 編集
こうも暑いと、ヘッドホンも暑苦しい。
昔から、大音響でスピーカーを鳴らせない情けない住宅事情は変わらず、今も「エアコンなし窓全開」で熱帯夜をしのいでいる。
そんなわけで、昔からヘッドホンが我が「リスニングルーム」になっていた。
ご同輩の諸兄も多いと思う。
ヨドバシなんかに行ってみても、今どきスピーカー視聴コーナーでじっくりスピーカーの音色を吟味している客はいないが、ヘッドホン・コーナーは「こだわってます俺たち!!」といわんばかりの二十代、三十代、四十代、五十代が群がっている。
おぉ、これこそ「男の世界と住宅事情」でんなぁ!!・・・と、僕は妙な連帯感を覚えるのだ。
女性はまずいない。髪が乱れるせいか、重い感じがするのか、伝統的なヘッドホンらしいヘッドホン(カチューシャタイプといえばいいのか?)をかける婦女子はいなくて、イヤホンタイプ、耳かけタイプで「かじゅある」に決めておられる(安いこともあってか?)。
ウォークマンやなんかに付属のインナーヘッドホンをそのまま使っていたりして、あんまり自分の好きな音を追求するわけでもないのだろうか。イヤホンタイプと耳かけタイプの視聴コーナーで、あんまりとっかえひっかえ「あたしの音」を模索しているオーディオ女子(笑)はいないようだし。
僕も「かじゅあるおじさん」になりたいものだが、どうしても「耳かけ式」になじめない。連戦連敗である。
去年ソニーの安物を買って、スカタンみたいな音質だったので、けちったのがよくないのかな、と思って、今週ビクターの高いやつを買ってしまった。珍しい密閉型である。
やかましいからこその大音響で視聴したときには気づかなかったが、静かな家で普通の音量で聞くと、やはり気が抜けたような物足りなさがついて回る。
両側から耳におさえつけると、しっかりとタイトな音になるのだが、「おさえつけない」のが耳かけ式のウリでもある。歯がゆい。
数ミリか数グラムかの圧をかけるか、かけないかだけで、天と地ほどの音質の差が出てしまう。
いっそ、カチューシャでおさえつけたろかとも思ったが、それなら耳かけ式を買った意味がない。
あぁ、かじゅある=スカスカ=漏れ漏れというこっちゃな〜、と僕は「ヘッドホンの法則」を学んだのであった。イヤホンタイプの方が、明らかに音はいいぞ。
世間のかじゅあるオーディオ愛好家は、この法則をどうキモに銘じておられるのだろうか。
僕が古いだけかもしれないが、耳かけ式の音質の上での利点は何もないような気がするから、なぜはやっているのか、どうにもわからない。音も外に漏れる・・ということは、騒音も入ってくるしね。
で、結局どでかいハウジングで耳を包むゼンハイザーのヘッドホンに落ち着いてしまう。イヤーパッドのビロードの触感も優しい。
こんなものを持ち運ぼうとは思わないが、そもそも18歳でウォークマンが世に出た「まさにその世代」なのに、僕には音楽を持ち出して聴くという習慣がないのであった。
ヘッドホンで音楽を聴く趣味がないかわりに、少し軽いAKGのK26というヘッドホンは、強力な密閉型で、遮音効果が抜群なので、読書するときに重宝する。音楽を聴く以外に、「音を聞かない用途」に使えるのも、一粒で二度おいしい(笑)。
音質も驚く重低音が出るし、ゼンハイザーにしろAKGにしろ、やはりドイツ〜オーストリアあたりのメーカーは、クラシックをじっくり聞かせる音づくりをしているような気もする。
これまた今はやりのノイズキャンセリング機能がついた最新機種は、電源もいるし何万円もするし、ちょっと手を出す気になれない(ヘッドホンの求道者としては、手を出してしまいそうな予感もある)が、K26は安いのが取り柄だ。
耳栓をして街を歩いていると変な人に見られるが、ヘッドホンだと音楽を聴いているようにしか見えないから、カムフラージュになるってもんだ。
こんな発想が、じわじわと『うるさい日本の私』の中島義道さん似の風貌に変身させて行くのかもしれない。カジュアルあきらめカタブツおじさんである。
靖らかな国の神と社
at 2006 08/16 17:48 編集
ぼちぼち、近所の店が盆休みから目覚めている。
まだ、寝ぼけマナコという感じ。
盆も正月もないスタバやサンマルクより、「盆休みします」と貼り紙しているような喫茶店が、人間くさくていい。
うちの近所の喫茶店は、まぁ「****カフェ」と名乗ってはいるが、全席喫煙席だし(嫌煙家の僕でも不思議に落ち着く)、レジがカウンターと化していて、常連さんが立ち話している。
いいねぇ、こんな街角の日常が戻ってくるのは。
寝た子を起こす騒ぎに巻き込まれて、「財政難」と書いた朝日新聞と敵対しているのは、あの靖国神社。
純ちゃんの参拝には、拍手と怒号が飛び交っていたそうだ。
こんなにエキサイティングな神社も珍しい。まるで亀田のチャンピオン戦だ。
ただ、興奮するあまり、加藤紘一さんの実家に放火したりする犯人はけしからん。右翼の風上にもおけない。
災難のカトちゃんは、ちょっと中国には弱腰な気はするが、個人的には「加藤の乱」に座布団3枚ぐらいはあげたい(笑)程度には評価している知将なのだ。
この問題に中・韓が口をはさむのは、たしかに内政干渉な気もするから、あまり他国の顔色ばかりうかがわず、国内の問題としてちゃんと決着つけるべきだろう。
日本に滞在した留学生が、神社が日本人の生活にしっとりなじんで、平和で温厚で賢明なエスニシティと「靖国」が、切っても切れない関係にあることを発見すれば、その祖国は、「小異に目をつぶって大同を取る」判断をするかもしれない。
ま、あくまでもこれは仮定であって、日本人の英霊信仰が外交関係にいい働きをしているかどうかについては、よくわからない。わからないからこそ、「靖国の政治経済的メリット」を明解に語れる政治家がいてもいいのに、と思うばかり。
説明できないから、誤解される。誤解の余地を与えないまでに説き伏せるのが外交力というものだろうし、少なくとも説明できないことを無理やり実行するのは、問題を「発酵」させてしまうぞ
。時が解決してくれる問題、風化して行く問題もあるだろうが、靖国問題はそうではないと僕は思う。
もし、他国が国ぐるみの圧力をかけて靖国が倒産(笑)するようなことになったとき、日本の反日・反韓感情は、あちらの「してやったり」感をはるかにしのぐ損失を招くかもしれない。賢明な政治家なら、ちゃんと計算しているはずだが・・・。
どうするつもりかね、韓流スターを売り込みたい手配師たちは。農薬漬けの野菜を売りさばきたい中国農産当局は。
まず国内問題として解決すべき神社の問題は、その一方で、戦没朝鮮人も戦犯も殉職兵士もごっちゃにして祀る大風呂敷な精神が底流にあって、僕の頭の中ではどうも整合しない。
日本人でさえ爽快にわかってないことを、反日ガチガチな隣国に理解されるわけはない。
キリスト教が、ユダヤ教との差異化、イスラム教との対立、宗教改革など、対決軸の中で教義を研いできたのに対して、神道は仏教と習合することはあっても、イスラム教やカトリックと縄張り争いをしたわけではない。なんとなく、この国の野山にあって、特に加入の儀式を経ていない民が「信者」になってたりして(笑)、アバウトそのもの。
戦死した家族は神社に英霊として祀られるが、納骨しているわけでもないし、葬儀は各々の家の信仰形式にまかされる。
そんなアバウトさに、大多数の日本人は違和感を覚えなかったのだろう。
ただ、違和感を覚える遺族もいることはいる。それは尊重してもええんちゃいますか?と思う。
「一緒に祀ってくれるな」というクリスチャンの遺族からの訴えに対して、裁判所は個別に分祀を認めているにもかかわらず、「英霊の御霊は一体となっているもので、分祀は考えられない」と突っぱねる態度は、誠実に説明しないと、日本人にさえ理解されにくくなって行くのではないだろうか。
東条英機の孫娘さんが個人の立場でそうおっしゃっている気持ちはよくわかるが、恨み骨髄に染み込んでいる元部下の遺族もおられるだろうから、分祀されたい人を強引に合祀することは、靖国さんの将来にとっても、決して得策ではないと思う。
おそらく、靖国神社の頭の中では、この国は法治国家ではなく、「神の国」なのだろう。
この点では、国家をつくっていたオウム真理教が重なって見えてしまうぞ(失敬)。
かりに、「死ねば御霊みな一緒」という発想を、世界が「すばらしい!!」と絶賛して受け入れるなら、神道も普遍的な世界宗教になるかもしれないけれど、難しいだろうね。
たとえばヒトラーとナチス親衛隊とドイツ軍兵士を1つの宗教法人で合祀するなんて考えられないだろうし、そんなことを平気でやってしまう神社&それを支持してたりする日本人というのは、なんとファンタスティック!!と尊敬されるのか、あきれられるのか・・・。
神道は決して有害で凶暴な信仰ではないと思う「神道シンパ」な僕は、政治(外交を含む)とからまって、不可解でうさんくさい信仰のようなイメージがつきまとうのは残念に思う。
だからこそ、形式的には政教分離を守って、靖国のありかたは靖国自身と信者が決めることにして、政治とお互いに口出ししない取り決めを結んでほしい。
それに、軍神を信仰するような性質があるとキナくさくなるんだから、いっそラーメンの神様でも祀っておけば、中国はホクホク顔だろう。
すると韓国が黙ってないから、あの微笑みの貴公子に神主を、ジウ姫に巫女をしてもらえばいい。「そんな神社があってもいい」だけの話で、明治神宮も伊勢神宮も出雲大社も、そのままでいい。
「フトコロひろし」の神道なら、なんでもかんでもありあり・・・を示してほしいものだ。
宿題ソリューション?
at 2006 08/15 17:32 編集
旭山動物園がきっかけになったのか、博物館にも「勝ち組」と「負け組」が出てきているらしい。特に夏休み後半戦の今、くっきり明暗が分かれているそうな。
子供の虫捕りひとつとってみても、リアルかつ親切(矛盾するのだが)に「動態展示」してある博物館が大人気。
これが「採集型から観察型へ」とよばれるトレンドのようだ。
じっくり観察だけしたいから、捕る手間は最小にしたい、という発想なのだろうか。たしかに虫に刺されず虫の観察だけできるし(笑)、わからないところは、すぐ専門家に聞ける。
保護者には、喫茶軽食とコンパニオンの「おまけ」つき(ママ向けに、体操のお兄さんも置くか?)。
僕がボランティアしていた博物館も、電子顕微鏡はある、小動物の解剖標本もある、理学博士も多数、世話焼くきたくてウズウズしているボランティアは無料で使い放題(笑)・・・。子供がここで理科の宿題をやれば、大学生なみの研究ができてしまう。理科の先生の評価を越えた研究ができるかもしれない。
でも、それが「自然」か?
たとえば、オオクワガタのいる原野に行く手間はかからないし、安全だし、便利だし、電話で「○○の卵から孵化まで、観察できますか?」と問い合わせたりして(ネットでも案内されてるわな)、「最短距離でソリューション」できる。
なんだか、ビジネスライクやねぇ。
こんな効率的な勉強と、ズボラとの線引きは難しい。いや、同じかもしれない。
「目的ピンポイント近視眼」な子供と保護者が増えるだけちゃうやろか、という気もする。
虫を捕る工夫や、池に落ちて溺れる経験や、マムシに噛まれる災難や、獲物を捕った後のケアなど、昆虫観察の周辺の「雑事」のやりくりも、貴重な勉強のうちだろうにね。
いい博物館が、気軽に子供にも保護者にも利用できるのは大賛成だし、日本中どの自治体にもミュージアム(of art、of natureof history,その他フィギュアとか鉄道とか、マニアックなのでもいい)が必ずあって繁盛している、というのは、望ましい知的社会ではある。
そんな施設を活用して理論的な勉強もするのは大事だとは思うが、人はつい便利な方に流れてしまうから、野山でのたうちまわる子供は減るだろうね。
そして、パパがちゃっかりググって「こことここを回れば、質のいいリソースがすぐそろうぞ」なんて調査プランを立ててプリントアウトしてやったり、ママは「泥んこになると洗濯が大変なんだから」とグチっりつつ、ぬかりなく子供にUVプロテクターを塗ることを忘れない。
子供の背後霊のような、こんな親を相手にしているセンセイたちは大変だ(あ、他人事じゃないか)。
形の上では子供が提出しても、中身は背後霊のしわざ(笑)が濃厚に反映されていて、採点すると、子供は納得してもバカ親が「どこが減点なんだ!」と反撃評価してきたりするそうだから。
いま平均して一人か二人しかいない子供は、親の「配慮」をわかりすぎるほどわかっていて、子供らしい「間抜け」を冒さず、ブクブク・ヒョロヒョロ・ずる賢く成長して行く。
「想定内の世界」で「ソリューション」をこなして行く子供は、実社会の不条理をどうやりくりして行けるのだろうか。
泥んこ、汗だく、けが・遭難・・・こんな経験は、成人してからやらかすとみっともないから、子供のうちに経験しておいた方が人生の宝物になると思うのだが、もし我が子がいたらどうするか?と考えると、正直ちと難しい。
よその子は、泥んこ汗だく傷だらけにしたくてしょうがないくせに(笑)。
御巣鷹山の尾根に追悼
at 2006 08/17 02:14 編集
サイキック青年団の怪談特集を聞いて、すこーしゾクゾクしてから、そうか今朝は荒ゴミの日か・・・と思い出して、不燃ゴミを出してきた。朝か夜中か、微妙な時間帯の静かな路地にトラちゃんがたたずんでいて、しばらく戯れてから部屋へ。
戻ると間もなく、さーっと雨(夕立か、朝立か?)。
一気に、涼しくなった。どこか、邪気を払うように。
今年も、御巣鷹山(すごい!ザウルスで一発変換できた)では慰霊登山で夏がひと山越えた。
事故の悲劇から、もう21年。
事故を知らない世代が、もう成人しているわけだ。光陰矢の如し。
僕も、絶命した「九ちゃん」の年齢を越えてしまった。
いま、九ちゃんが生きていたら、どんな元気な歌を連発しているだろう。渋いバラードも似合いそうだ。
水森亜土さんがシャンソン歌手になっているのも、とても似合う感じ。永遠の不思議少女(歴50年!!笑)のイメージだから。
九ちゃんは、永遠のソバカス少年だ。欽ちゃん球団でプレイしていたかもしれない。
亡くなったこと事態は悲劇だし、ご遺族にとっては残忍な最期だったかもしれないが、一ファンとしては、ただの交通事故とか病死より、飛行機事故で亡くなった九ちゃんは最期までスターらしかったし、永遠にスターらしい。
たぶん、自転車事故で死にそうな(救急車で運ばれた前科があるからなぁ)僕とは、格が違うのだ。
リバイバルヒットした「明日があるさ」も、御巣鷹山に散った後だからこその「明日」として、生前を知るファンには聞こえているかもしれない。
あなたが夢見た未来に、あなたはいないけれど、あなたの代わりに未来を生きている・・・ような感じ。
というのは、勝手な思い込みなのか、おせっかいな話なのか。
新しい人や旅先との出会いに、ふと「あぁ、○○がここにいたら、何というだろうな」と思うと、自然に、あの世の友とその場を共有しているような錯覚におそわれることがある(まだ、声が聞こえる境地にまでは行けてない)。
たしかに、過去は、そのとき共に生きていた相手と実体験を共有しているものだが、未来はいつ「生きていたころ僕の夢見ていた未来」になるかもしれない。僕が生きて迎える明日と、死んでもやってくる明日は、同じようで違う。いや、「違うようで同じ」か。
つまり、未来と過去の世界は、生きている者だけの世界ではなく、死者と共にあることになる。
苦痛や快楽や喜怒哀楽の充満するこの「現在」なんか、ごく一瞬の時間の狭間にすぎないのだ。
だから、過去を懐しむように未来を夢見ると、そこは犬猫、祖父母、父、友のいる、とてもにぎやかな永遠の世界だったりする。
できれば、気づかないうちにそこに行ってられるのが理想だが、なかなかそうは行かない。
盆が明ければ、またいつもの雑事と気慰みに追いたてられる日々が戻ってくるのだろう。
こんな年中暦も、悪くないものだが。
渋滞お見舞い
at 2006 08/13 13:52 編集
職場から、電話やメールや小包で相次いで夏休みの宿題が届く。おちおち「鉄分の濃い旅」にも行けない。
まぁ、とりたてて盆の行事はないし、帰省は自転車で10分だから、時間はどうにでもなるのだが。
自転車おじさんのくせに、まったく必要ない渋滞情報を聞くのが好きで、関越道50キロ・・・フムフム・・・中央道80キロ・・・フムフム・・・名神天王山トンネルで20キロ・・・オヤオヤ・・・と、渋滞に巻き込まれたドライバーを思いやっている。
わけでは、決してない。
「ご苦労さん」とは思うものの、渋滞がわかりきっていて飛び込むのは、もう、日本人やなーと実感する年中行事か、根性を試す儀式か、「笑ってなしゃーない」お祭りかもしれない。
渋滞や行列や「横並び」をやめる日本人は、もう日本人失格だ。
渋滞は、あたかも血がドロドロで、栄養過多な日本列島に張り巡らされた大動脈の、血栓みたいなもの。
日本経済だって、似たようなものだろう。
ガソリンが150円に迫る高値になろうと、あいかわらず渋滞は起きる。いっそリッター500円になれば、渋滞は消え、エタノール車、電気自動車、単車が一気に普及するかもしれない、とさえ思う。
ソーラーカーだん吉も、もちろん自転車も。
いま、ガソリン代の値上げに本当に実際に心の底からネをあげているマイカー族は、いるのだろうか。減価償却しなくちゃいかんとばかりに無理して乗っているオーナーは少なくないだろうが、「乗らない」という選択肢を採れないのは、クルマで商売をしている人か、福祉目的で使っている人ぐらいだと思うのだが。
歩けない老人や障害者や妊婦を運ぶ「福祉カー」みたいな乗り物は、環境にやさしい新世代車を開発して、国がどんどん補助してほしい。デザイナーが腕をふるって、車椅子リフトつきソーラーカーなんてのがモテモテになって、買う客には費用半額を公金補助する、とか。
今のところ、夜中でも光の帯みたいな渋滞が日本中にまたたいている間は、不景気も地球温暖化も、リアリティをもって感じる日本人はいないような気もする。
だからこそ、早く幌馬車の時代が再来しないものだろうか?と僕は本気で思う。たまたま、文春文庫の新刊で椎名誠さんの『地球の裏のマヨネーズ』を読んでいて、モンゴルやスコットランドや南米で馬を操るシーナさんの勇姿が、彷彿と浮かんできたせいでもある。
燃料は草だけでいい。そして、「排出物」は植物の肥やし、魚のエサになる。
「渋滞」していたら、勝手に前後の馬と交尾し始めたりして、「ママー、うちの馬によその馬がかぶさってるよ」「見ちゃダメっ!!」なんて、ほほえましい場面もあるだろう。
おまけに人間のオスメスが発情することになったら、出生率も上がるしね。
液体禁止
at 2006 08/12 20:31 編集
液体爆弾というのを初めて知った。
火炎瓶も、ある種の液体爆弾で、衝撃を与えて発火させるものだったような気がするが、今ふうのは、ジェルやドリンク剤のようにカムフラージュできるらしい。
英国メディアの中には、「ジンとトニックを混ぜるほど簡単」という耳より情報(!?)もあった。おいおい、ええんかいな?と笑いそうになるほど、酒飲みにとってはわかりやすいたとえだ。
僕は前々から、究極の毒ガスや毒薬があって、知っている化学者は知っていても、その製法は核兵器以上に地球上の最高機密になっているのではないかとにらんでいる。
たとえば、戦う気をなくすような神経ガス、幸福と恍惚感で頭がほてりっぱなしの麻薬ガスなんてのがあれば、戦争も、立てこもり犯罪もなくなるだろう。
そして、ありふれた日用品でも、偶然だれも考えつかなかった混ぜ方をしただけで麻薬効果や爆発力を持つような組み合わせがあったりしても、不思議ではない。
ジン+泡盛とか、すっぽんエキスとマムシエキスとか(これは別の意味で爆発しそう・・)。
液体爆弾はまぎらわしくて、ボトルのドリンクを読ませるチェックもすり抜けるそうだから、いっそ全面持ち込み禁止!となるのもしかたない。
手ぶらで乗ればいいのだ。
その代わり、ドリンクサービスを増やすのは簡単にできるし、どーしてもヘアジェルを使いたい客には、客室乗務員が「私の愛用ジェルをおつけしてあげるわサービス」を始めれば、話題になるかもしれない。ANAのエビちゃん似のあのCAに塗ってもらえるキャンペーン!!てのも、ありえるぞ。
テロさまさまの需要喚起である。
第一、たかだか10時間かそこらの空の旅で、やれ「経済座席」がせまいだの、照明がどうのと、異様に騒ぎすぎると思う。
乗ったらビールでも飲ませてもらって、ベロンと寝ておればいいのだ。
・・・と、ちょうど10時間ほどの密室の旅といえば夜行列車の感覚で考えてしまうのだが、列車は駅に降りてみたり、運転席を(外から)覗きに行ったり、いろんなアングルから写真を撮ってみたりと息抜き(なんだか、本業なんだか・・・)するゆとりがある。こんなことを空の旅でやろうとしたら、確実に「あのアジア系の乗客に要注意」と、マークされかねない。
ほんと、盆休みにロンドンあたりに旅する客は、ご苦労さんである。
列車なら荷物も預けなくていいから、シベリア経由で行けばいかがかと思うが、おそらく、こんなマニアの意見は非常識きわまりないのだろう。
アルベルト展
at 2006 08/11 21:55 編集
上北沢暗室職人の写真展に出かけてきた。
ギャラリーに行くと、会場に充満するおねーさんたちに埋もれて、現場監督が鎮座している。まさか、この集まりは摂理か!?と思いきや、そうでもなかった。残念。
「ソリッド・カーブ」の視線の躍動感は、ますます深まっている。
モノクロの焼き加減へのこだわりも、妥協を許さない。アルベルト写真師の境地は、いよいよ定着してきたのを感じる。
では、一杯いきまひょかー!!
ということで(閉館の10分前すべりこみだったから、不真面目だね)、ビールを求めて心斎橋へ。
グラスで出すようなしゃれた店に、ヤロー二人でってのも、ちょっとね・・とアルベルト。そりゃそうかも。たして80歳超だからなぁ。
でも、僕はギャラリーに行く途中に開店していた耳掃除サロンが気になっていて、ヤロー二人ならんで耳掃除に目を細めるのも、おしゃれ〜と、ヒソカに期待していたのだが。
結局、うまい海の幸をつつきながら、ビールと焼酎でマニアックな話に花を咲かせて、「マニアの湯」につかってきた。
湯加減は絶妙である。
やっぱり、最近コレですよ、コレ!
と、フジフィルムのNATURA クラシックを葵の印籠のようにかかげるアルベルト。
いいねぇ、フィルムカメラマンの面目躍如!
作品に対面して、近況をうかがて、インスパイアされるものがあるのは、いいことだ。展覧会が、そんな触媒になっているのを感じる。ネット上で写真展示が簡単にできる時代だからこそ、なおさら。
しかし・・・最初アルベルトが江原啓之に見えた(笑)、あの不思議な磁場はすごい!
あやかりたい、アルベルト・マジックであったな。
at 2006 08/31 10:51 編集
熱帯夜がなくなったぐらいでも、ずいぶん朝夕だけは涼しくなった気がする。
あんまり暑いと、ずっと風呂に入っているようで、まるで静香ちゃん気分だし、滝のような汗も何か効用がありそうな気もするから、せいぜい夏はパンチのきいた暑さを楽しめばいいと思う。
めいっぱい暑いからこそ、涼しくなると恋しくなるのが「ぶっかけ飯」。まだ、鍋という気分でもない。
我が国には、味噌汁かけ通称ねこまんまという絶品があるものの、なぜか無性にマーボー丼が食べたくなる。
別に麻婆豆腐でもいいし、麻婆茄子でもいいいが、ご飯にぶっかかっているのがベスト。
これ、もしかして日本人がアレンジした「中華風」料理のようにも思えるが(『美味しんぼ』によると、坦々麺がそうらしい)、日本人はぶっかける名人なのかもしれない。カレーライスという不動の伝統もある。
汁を含んだ飯は消化吸収されやすいし(と言い訳しつつ、咀嚼せず丸呑みしがちなのはデメリットか?)、体にもいいと思うのは素人考えなのだろうか。
1年ほど御無沙汰していた中華街のはずれの日本風ラーメン屋に、さっぱり系ラーメンと麻婆丼のセット定食というのがあって、久々に食うか〜と思って出撃すると、このメニューがなくなっていた。
残念!もう破門しちゃる。
しかたなく、また別の店に浮気して「サバの立田揚げ大根おろしかけ定食」で晩飯をすませてきたのだが、あぁやはりワシは和風に還るのか・・・という感じ。
玉ねぎと崩れかかったジャガイモの味噌汁を温めなおして飯にぶっかけたりすると、もう、こんな安くてうまい決定版はないと思う。
それじゃー腕のふるい甲斐がないわんと言われても、かけめしで喜んでいるのは優良ローコスト男ではないか〜?と自画自賛しているのだが。
ジョンベネ茶番劇
at 2006 08/30 20:14 編集
ジョンベネ殺しを自供していたジョン・マーク・カーが、案の定シロ。
まず、「タイで逮捕」が怪しかった。
別にタイを差別視するつもりはないのだが、欧米人がオリエンタルでエキゾチックな性の香りを求めて、タイやフィリピン、ベトナムといった舞台を借りるのは、よくある話である。「エマニエル夫人」シリーズ(古いなぁ)を思い出すまでもなく。
僕はタイやアメリカの刑法をさっぱり知らないから、証拠なしで裁判所が逮捕状を出すのか、はたまた逮捕状なしで10年前の事件でも現行犯逮捕できるのか(笑)、どっちにしても奇妙な刑事制度だと感じたのだった。
現場で採取したDNAがあるなら、タイで身柄拘束した被疑者のDNAと照合すれば、逮捕できるかどうか簡単にわかりそうなものなのに。なんだか順序が変である。
とにかくつかまえてニュースにすれば、だれかが得するしかけがあるのだろう。
あの被疑者のメル友の大学教授というのが、ジャーナリズムだか映画学だかを専門にしているそうだが、あの事件のドキュメンタリー映画で一発当てようと考えている山師が、あちらの映画業界や報道界には生息しているのだろうね(そこに、タイ警察もからんでいるのかもしれない)。
伏線は、もともとの10年前の事件以来の報道でしっかり張られていた。
一体、ジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃんジョンベネちゃん・・・と、なぜ縁もゆかりも皆無な日本人が、騒ぎ悲しみ憤り怒り報道し続けなくてはいけないのだろうか。
宮崎勤に殺された女児たちの名前など、きれいさっぱり忘れて去られているのに(宮崎被告が名乗っていた今田勇子だけは、妙に記憶に残っているけど)。
謎めいた事件だから・・・というなら、行方不明の吉川友梨ちゃんを探し出す方が大事だと思うが、大衆の好奇心を新鮮に保って何度でもニュースにしてしまう米国の「映画仕掛けなマスメディア」の方が、はるかに巧妙かつ狡猾だということだろうか。
また、「ロリコン・カー」のような目立ちたがり屋もこれから続出するだろうし、そんな異形のキャラを祭り上げたりいじくったりして営利に結びつける業界があっても、不思議ではない。
日本でも、「パリのカニバリスト佐川君」が、よりによってカニバリズムのVシネマ(だったかAVだったか)にかつぎ出されたこともあったが、たとえ被害者が日本にいない事件ではあっても、やはり日本人が根源的に受けつけないエンターテイメントなのだろう、闇に葬られてしまった。
まぁ、佐川事件や宮崎事件は実話で、「犯人は彼本人」と確定しているから、どんなドラマに仕立てても、ウソくさい茶番劇にしかならない。事実は小説より奇なりだから。
今回の、アメリカとタイの司法当局を巻き込んだ茶番劇は、にせメールを永田議員につかませ民主党を揺さぶった茶番劇を思い起こさせる。
ネタをつかまされたのか、自らすすんで飛びついたかの違いはあるにせよ(無意味なほど小さな違いである)、にせメール=ジョンベネ、永田=ジン・マーク・カーという構図だ。
ということは、大失態のコロラド州の司法当局を陥れようとした力が働いたのか?
・・・と考えると、これは政治ドラマというか、現実の政争だから、新しいリアルなエンターテイメントになる。
ジョンベネちゃんは死んで10年たっても、エンターテイメントのダシに使われてノーギャラ。目立ちたがり屋さんや大学教授やマスコミなど、二流三流の具ばかり寄せ集めて、これほどまずい闇鍋はないだろう。
アメリカが日本をなめるのはわかるが、米国民自身も、なめられたものだ。
夏の夜と昼の夢
at 2006 08/29 21:52 編集
月曜日から、通常出勤。といっても午後からだから、これぐらいで疲れているようでは情けない。
おかげで、あっちこっちで居眠りしてしまう。
空腹は最高の調味料、というように、寝るのが楽しみな人にとって疲れは不可欠なのかもしれない。
まず、行きつけの喫茶店で、スーッとのけぞって仮眠。とりあえずスカッとした。
目が覚めると、隣の客が入れ替わっていた。
「はつらつOL風」が、向かい合った体育会系の大学4回生に、連盟がどうの支部がどうの、ネットワークを使って云々、サークルをどうする・・・なんて話をしている。摂理か?(笑)
電車でまたウトウト。
神戸に戻って、早く帰って寝ればいいのに、エクセルシオールでアイス・ラテその2。
昨日記を打っていたら、ドカドカドカッと短大生ふうの5人組が流れ込んできて、僕のテーブルのいすを動員して、「放課後」がスタートした。テーマは「児童中心主義と系統主義」ということらしい。ほほー、まじめだね。
「あの**(教員名)、一人でしゃべって一人で笑ってるねん」
「きもー!!」
てな風に、「キモい」と「かわいい」であらゆるものを評価してしまえる、最強の乙女ボキャブラリーである(一応ほめている)。
どっちも不幸な、ミスマッチな出会いですなぁ。
たぶん、こんな授業は居眠りかメールか内職が蔓延する「授業のような儀式」になっている気もするのだが、居眠りというのは僕は年々お目にかからなくなってきた。「寝るなら来るな」と通告しているわけではなし(そうしたいけど)、目が覚めるようなおもしろいトークをやっている自覚もなし、不思議な傾向ではある。
僕なんか、自分で履修すると決めた授業でも、けっこう居眠りしていたものだが。
まじめに出席して受講して課題をこなして・・・というのが恥ずかしいというか、軽い反逆を覚えるからこそ、寝てみたりもしてたのかもしれない。
今の学生は、正直まじめなのだ。「くそ」がつくほど。だから、心病む子も多いのかもしれない(あくまでも憶測)。
合コンはしない。ナンパなんて僕しません!!と誇らしげに言うし(笑)。
おいおいカンが狂うわい。
何かもっともらしいエクスキューズをでっちあげて教師を引き込んでおごらせるとか(僕はこればかりやっていた)、そんな悪知恵は働かないようだ。
まぁ、これが女子学生とおじさん教員の仲となると確かに難しいものだが、媚びて仲良くしようと考えるおじさんは哀れだし、冥王星人と実りある会話をしようと考えたとたん、これまた眠くなる。
しかも、安眠ではないしね(笑)。
逃げる夏〜の・・・
at 2006 08/28 21:08 編集
いくら日曜の夜といっても、昨夜ほんの11時すぎに、JR元町から山の手に上る目抜き通りで、たまたま人っこ一人見かけなかった。珍しい・・・というか、シュールな眺めだったぞ。
ふだんは、新しい飲食店も次々にオープンしてまぁまぁにぎわっている、トア・ウエストの西の境界にあたる鯉川筋である。
それが、まるで台風の夜みたいだった。この廃墟感には、ウットリする(笑)。
夏休み最後の週末・・・といったって、実際に夏休みを過ごしている幼稚園児から大学生までは人口の2割ぐらいだから、そんなに夏休みだ終わりだと日本中が騒ぐことかい?というのは、前々から消えない疑問。
たぶん皆そう感じながら、海の日で「夏休み!!」のドラを鳴らされ、「8月最後の日曜の夜」に幕を引かれて、粛々と帰宅なさる。愛すべき日本人の横一直線ライフやねぇ。
あいかわらず残暑も厳しいから、海の家なんかは真夏モードをキープしてくれてもいいのに、早々と解体されているのが寂しい。
最近は海に入ってないからわからないが、盆を過ぎたら泳げないほど、海はクラゲだらけになっているのだろうか?
イモの子を洗うような「夏休みの海」より、9月ごろの海の方が静かでいいし、海の家のメニューに秋刀魚、梨、牡蠣なんかがあるのも、風情があっていいではないか。
年中、夏休み明けのような顔色をしている僕は、ことさらに「夏どっか行きましたか?」と聞かれることはない(行ったにちがいない顔をしている)のが少し寂しい。
「夏山」も「18きっぷ旅」も、これからなのだが。
終わりかけてから追いかける、いつものあわただしい夏である。
焦るなぁ・・・。
飲酒運転だけ厳罰
at 2006 08/27 20:01 編集
盆休み明けの初出勤だったから、きのうの準夜勤で、夏休みは終わった。正味、1カ月しかなかった(こんなことで嘆いてるから、会社員の友人に嫌われる)。
帰って間もなく、悲惨な交通事故のニュース。
泥酔公務員に追突された家族5人乗りの車が海に落ちて、子供だけ3人、水死してしまった。母親は暗い海に4度も潜ったり上がったりして子供の救出を試みたそうだが、残念ながら助からなかった。
母は強し!とはいえ、これからのご夫婦の喪失感や憤りは、想像を絶する。子供のご冥福とともに、生き残ったご両親のこれからを慮るばかりだ。
親子でカブトムシを採りに行った帰りだったそうだかあ、あぁ、夏休み最後の行楽で、日曜日はパパの骨休めだったわけね・・・と思い浮かぶ、どこにでもある「いい家族」の夏休みの幕引きだとわかると、悲哀もなおさら。子供の短い人生まで幕引きになってしまうなんて、あまりにも気の毒だ。
もちろん、泥酔状態の22歳バカヤロ公務員も、罪は罪として服役したとしても、一生をかけても罪は償えないだろう。
こんな飲酒死亡事故の悲劇の背景には、酒にルーズな日本の風土や、飲酒運転に甘い交通行政があるから、ええかげん、毅然とした飲酒運転撲滅キャンペーンを推進してほしい。酒飲みの良識に任せていては、あと何人殺されれば飲酒ドライバーが自然消滅するというのだろうか。
もちろん、飲酒運転が摘発されたら、即刻免許取り消し。
飲ませた店も調べて営業停止。
飲酒運転を知ってて黙認した第三者も、共犯者として逮捕。
これぐらいのことはしないと、ほんと犬死にはなくならない。
普通の運転で前方不注意とか信号見落としとうのは「業務上過失」かもしれないが、酒は危いとわかっていて飲んで、自分の意志で運転を始めるわけだから、過失ではなく確信犯といっていいのではないかい?
そんな未必の故意が反映された危険運転致死罪が導入されるようになったのは、当然といえば当然。ただ、罪を重くするだけでは、なかなか抑止効果にならないから、効果的な運用を導入してなんぼだと思う。
たとえば、被告には、懲役刑の代わりに「飲酒運転Gメン」をやってもらって、罪の重さに応じて「10人摘発」「100人摘発」とノルマを課すとかね。
「おれ、酒ぐらいで運転ミスしないもんね」とうそぶくやつは、集めてサーキットでレースをしてもらおう。助手席には家族を乗せて、シートベルトなしだ!
「みーんな自分の運転に自信があるそうだから、大丈夫だよーん」と悪魔笑いをする、警察幹部!(笑)
酒気帯び運転レベルでつかまったやつへの講習は、これぐらいのスペシャルメニューがあってもいいと思う。
仕事でどうしても酒の席と運転は切り離せないんです、という事情をかかえた飲酒ドライバーもいるかもしれない。あまり同情したくないが、それなら酒の飲めない体に改造することを条件に免許を与えればいい。アルコール分解酵素を消してしまって、飲んだら運転できなくなる注射とか。
まぁ、そんな処置は人権問題に発展しかねないから、技術的な飲酒運転撲滅は、別方向から考えなくてはいけない。
運転席にアルコール・センサーをつけて、酔っていたらエンジンがかからないクルマというのは、簡単にできそうな気もする。そんなクルマは売れないから、すべてのクルマに設置を義務づけて、横一直線に始めるしかない。
すると、「センサー解除のノウハウ」なんてのもネット上に出てくるのは確実だから、イタチごっこになるのも確実だったりする。
『ラジオライフ』なんか愛読しつつ、こうやって規制すべし!とアジっているのは、矛盾しているのかもしれないが。
再定義
at 2006 08/26 15:43 編集
冥王星が太陽系惑星から除外されて、矮惑星に「格下げ」されてしまった。
かわいそうに。くさい駄洒落で「わい惑星や」と開き直っている大阪人みたいではないか。
世界中で耳につく関西弁も、天文学会には届かなかったということか・・・。
別に定義が変わったぐらいで、星が消滅したわけではないから、大騒ぎするほどのこともない。pluto=冥王星という訳語は、ろまんちっくな名前だと思うから、残しておいてほしい気もするけどね。
受信料で養われていながら、「受験生にとっては、憶えなきゃいけない星が1個減って助かりますね」と、くだらん・気の利かん・笑えんコメントをしていたキャスターには、ふと知能を疑ってしまったが、「教科書から星が1つ減って寂しい」と話す知的好奇心にあふれた小学生の爪の垢でも煎じて飲ませてもらえばよろしい。
定義変更というインパクトなら、「高齢者」を65歳から80歳に変えてしまえば高齢者問題は解決してしまうし、もっと身近で影響のある定義変更を考えてみてはどうかと思う。
まさに某「公共放送」というのもそうで、「公共性のない番組もやっている公共放送」というのは自己矛盾しているから、暗黙の定義を考え直してみないと、噛み合わない議論に無駄な時間を浪費するだけになりかねない。
医療や福祉の世界では、病気の定義が世界各地でずいぶん違うようだし、タバコ1つとってみても「文化だ」「公害だ」と議論が鎮火しない。ついに、禁煙できない人は、タバコ依存症ということになるようで、愛煙家の皆さんは大変だ。
そうして病気の定義を増やしても、医療費がふくらむばかりだから、むしろ「そんなの病気じゃない、健康のうち」と再定義した方がいいこともある。
たとえば、妊産婦さんが1週間も入院しているのは、先進国で日本だけらしいし、現に日本の健康保険でも異常分娩以外は「病気ではない」ことになっているようだが、病人扱いしすぎることで医療費がかさむ面はあるはずだ。
個人的には、妊婦さんの苦労は正直よくわからないが、働くママ&パパへの育児休暇やフレックス通勤をもっと保障した方が賢いと思う。
定年というのも廃止すべし。
というのは、わが選挙公約にもかかげた「定義破壊」だが、有能な高齢者はどんどん活躍してもらうばかりでなく、有能な少年少女にも期待したい。
たとえば早実の斎藤投手、苫小牧の田中投手には特別に選挙権をあげて、「僕は投票に行きます!」とキャンペーンもやってもらえば、投票率も上がると思う。
いや、選挙の前に苫小牧のナインには住民請求権をあげて、セクハラ前市長の悪業を洗いざらい調べる仕事の方が先になるべきかもしれない。
苫小牧に限らず、地方自治でいう有権者は15歳ぐらいから認めてもいいんではないかと僕は思うが、その他にも、社会人とか、障害者、当事者、受益者・・・といった言葉の定義も、あらためて考え直してもいいと思う。
もっと一般的な、男らしさ、女性らしさ、おじさん、おばさんetcetcも。
きのうかおとといかの某新聞が、31歳の保育ボランティアお兄さんが子供に「おじさん」と呼ばれてへこんでいた投書をきっかけに、おじさん・おばさんの定義をおもしろおかしく書いていた。
当然、年齢ではなく「しぐさ」で線引きする文面になっていて、「おしぼりで顔をふくのがおじさん」「電車で空席に突進するのがおばさん」という調子。まぁ、他愛ない定義ではある。
こんな場面は、定義というか、あるモノサシで相手をおとしめて笑う快感みたいなものが働いている(おじさん、おばさんというカテゴリー自体が毛嫌いされる対象だからね)。
それが差別の始まりだ!・・・などと憤慨するつもりはないけど。
定義は、戦略的に利用すればいいのだ。
あの彼がおしぼりで顔を拭くかどうか、ドキドキしている乙女にこそ、「おしぼり上半身一周」を見せてやるのも楽しい。驚きを超越して、解脱できるというもんだ。
また、「素敵な彼氏」の定義を裏返してみれば、お荷物な彼女と円満に別れられる秘策も見つかるではないか。
つまり・・・
耳に鉛筆はさんでスポーツ新聞を読みつつ待ち合わせ、
デートの話題は墓と介護、
夜景の見えるワインバーで爪楊枝で歯の掃除、
夜景の見えるワインバーで彼女に説教、
夜景の見えるワインバーで座るとき「どっこらしょ」、
夜景の見えるワインバーで足を組んでさりげなく裾からモモヒキ、
夜景の見えるワインバーで鼻毛を拭く・・・
こういう「フルスペックおじさん」を演じれば、29歳の彼女でも「あんなオヤジ男、ふってやったわ」と優越感をもって、すすんで離れて行ってくれる(素敵!!と惚れ直す彼女だと、間違いなく老い衰えるまで連れ添えるパートナーだな)。
以上は「別れるための仮定義」だが、新しい出会いに向けて「素敵な彼氏」にすっと戻らなくてはいけない。
案外、おじさんの定義にどっぷり浸って快感に目覚め、抜けられなくなると、えなりかずきになってしまう危険性もある(笑)。
まぁ、こんなことを気にしているのは男の沽券なるものの弱さで、実際に「夢がない、鍛えてない、安定志向のてめえらこそ、オッサンそのもの」と指摘してやると言い返せない少年も多い。
「あたしら、ミニおばさん」を隠さず開き直っている関西女子は、本当に強いと思う。バルサンも金鳥リキッドも効かないし。
ハンズメッセでっせ
at 2006 08/25 18:33 編集
バーゲンにもクリアランスにも、いざ!と決意して出撃したことはないのだが、さすがに「町内」でやっているのだけは、散歩がてらチェックする。
で、年に2回のハンズメッセ。
ハンズメッセで夏休みが終わり、ハンズメッセで1年が終わる感じ。
2006年「前半戦」は、いやはやな夏の陣だった。外は猛暑、中は冷房、売り場は再び猛暑で、めまいがする。
たぶん、バーゲン慣れしていない僕の脇が甘かっただけだが、オババ含有率の高い大群にもまれて、何度ナマ温かくほてった「プルルン攻撃」をうけたことか・・・(涙)。
特にこわいのが、財布売り場であった。
一体、なにゆえオババは財布に燃えるのだろうか。
イレモノへのこだわりは、「中身」への執着とつながっていて、当然その出どころは金銭欲だから、とにかく「欲望むきだし」のオババが鼻息荒く財布をかきまわしているのである。
こりゃ日本人の人口が減っても、オババ人口だけは減るもんか、と思ったね(笑)。
ハンズメッセなんて大した割引率ではないから、1000円均一なんて、今どきどこの雑貨屋のワゴンセールでもやっている。
ふだん、高値硬直しているハンズだからこそ、バーゲンが目立つだけだろう。
それでも、「とりあえずいじくらせてもらうわさ!」というオバサンの法則があるようだ。
そんな財布売り場に行った当の僕は、「そろそろくたびれてきたなー」と感じる財布のリニューアルを、このハンズメッセで買ったのはいいが、その後8年、くたびれたまま壊れるまでいかないので、古い財布をしぶとく使っている。
バーゲンのたびに買い替えて、また買い足して行くモノというのは、案外ないものだ。
パソコンや家電品のように、一定周期で買い替え需要が巡ってくるようなトレンド商品が、そもそもハンズには見当たらない。
僕も何年か前ここでフィットネスローラーなるものを買ったが、健康グッズは、はやりすたりがありそうで、最近しばらくはホームラン級の商品がない。ヨガマットはハンズメッセに1000円で売っているが、あんなもん段ボールでええやん・・・と関西人は考えるね。
レシートを集めて景品をもらうために、いかにぴったり5000円単位で買うか頭をしぼっていたような買い物熱は、今いずこ。
だから、今回は結局、何も買わなかった。
「こんなの、バーゲンで買わなくても、百均の方が安いぞ」と思うようなものがゴロゴロしている。それほど、百均パワーはばかにできない。
たとえば、もう文具なんか東急ハンズで買う客がいるのかね。
MUJIのようにオリジナルブランドを開発しているなら客もつくだろうけど、「ただ高いだけ」だと、購買欲というのが湧かない。むやみやたらの文具フェチの僕でさえ、ちょっと食指が動かない。
ロフトもハンズも、「このペン先がほしい」「この色のルースリーフがほしい」とこだわりをぶつけるとたいてい失望するから、それなら最初から専門店に足が向くわい。
今はやるのは「安い店」か「深い店」だから、ハンズのような大型日曜雑貨店というのは、だんだん飽きられて行くのかもしれない。パルコのような80年代的「おもちゃ箱」のコンセプトは、客が醒めてしまうとメリットも見失ってしまうからね。
と、よけいな経営コンサルティングまでしてしまった。個人的には、店員がエプロン姿で仕事をしているハンズのような店は好きだし、がんばってほしいからね。
すぐ「卒業」してしまうマニアックな客を引き戻す何かがほしいのだが、「マニアの聖地」になるには、東急ハンズではなく、京阪ハンズ、南海ハンズ(キャンディーズ)に看板替えする必要もあるかも・・・。
愛の手回しシュレッダー
at 2006 08/24 16:37 編集
各地で、シュレッダーで子供が大ケガをした事故に、ニュースが浮き足立っているような気がするのは、ワタクシだけだろうか。
なるほど最近たてつづけに姉歯マンションやパロマの問題があって、製造物責任に敏感になっているのは、悪いことではないけどね・・・使い方の不手際を製造物責任になすりつけている部分も、あるかもしれない気配がなくもないという意見があってもおかしくない(歯切れが悪い!!)。
100円ショップにも売っている包丁だって、人を刺せば命を絶てるように、そもそもシュレッダーは「入れたものを裁断するようにできている機械」だから、指を裁断することもできてしまう。
扱いに気をつけないと大ケガするよ、ということ以上でも以下でもないと思う。
子供の指が入る作りになっているのが問題だ!ということなら、うっかり当たりクジでも入れて粉々になってしまったら、「けしからんシュレッダーだ!!」と憤慨すればいいのだろうか。子猫がしっぽを巻き込まれたら、だれが悪いのだろうか(飼い主だっちゅうの!)。
子供の指を裁断してしまう構造が問題というより、「子供の視界に入れない」という当たり前の注意が欠けていただけのような気がしてならないのだが。
そりゃ被害は、指9本切断となると本当にお気の毒で、お子さま本人には同情を禁じえない。かわいそうに。
親も、自責の念を感じているなら(これが正常な感覚だろう)心中はお察しする。
けれど、電子レンジで濡れた子猫を乾かそうとする飼い主や、炎天下に駐車したマイカーに子供を閉じ込めている親に近い、「悪意のない罪」は、それでもやはり罪として問われるのではないかと思う。
子供の災難を痛み分けしておられる親にムチ打つつもりはないけれど、「ロクヨン」ぐらいで、使用者責任が重いと思うぞ。
「失敗学」の畑村先生は「オフィスユースの機械が家庭でも使われることを想定して設計すべきだ」とコメントしていた。
なるほど、まだまだ改善の余地はあるかもしれない。
「どこでどう使われるか想定して安全仕様にする」という工業デザインの理念は大切だが、どこまで普及するかは、未知数ではあるね。
今回のようなシュレッダーだと、子供の指が入らないせまい開口部にすると数枚ずつしか入れられないから、本来の機能を充分に発揮できない(そもそも売れないな)。
指が入るシュレッダーには「チャイルド・シャッター」でもつけるか?・・・いや、そもそもお茶の間に置くなと消費者に周知徹底する方が賢明じゃないか・・いや、シュレッダーなんかより、高層マンションに住んでいる子連れ家族は、子供一人では窓が開かないマル秘ロック(?)の方が、命にかかわるから優先順位は高いはず・・・とまぁ、あれもこれも危険に見えてくる。
身近に潜んでいる危険を表に出して、安全になものに改良する、というのは当然すべき製品開発だと思う。
そんな理念が、「普遍的」かつ「包括的」に形になって行くなら、とりあえず僕は賛成する。ユニバーサル・デザインにも自然につながって行くと思う。
そもそも、便利だが危険な代表格といえば、なんといっても「走る凶器・クルマ」ではなかったかな?
自宅前で我が子や家族同様のペットをひき殺してしまう悲劇は、シュレッダーで指を失う事故より多いはずだが、それでも「クルマの性能に注意!!」という論説は聞かない。「人をひかない車の開発」は、どうなってまんねん?
家庭に入った事務用品といえば、なんといってもパソコン。
昔から、僕はなんか素朴な家庭のしつけで、「テレビは離れて見なさい」とガミガミいわれてきたものだが、こんな家庭のしつけは、もう迷信として葬られてしまったのかね?
今じゃ学習机の上にCRTを置いて、30cmの至近距離から15インチのモニターを何時間も凝視していたりするお子様もいるようだが、こんなえげつない環境を放置しているのも「シュレッダー家庭」と大差ないような気がする。
クルマもパソコンも刃物も、使えなくなっては困る。
だから、子供や老人や犬猫のいる家に持ち込むなら、いろんな使い方、暴走したときの被害をよーく考えておかないと、結局は弱者が痛い思いをするだけなのだ。
僕も激安のシュレッダーを持っているが、手動なので、うっかり指を裁断しはじめても5秒以内に自分の意志でちゃんと停められるぞ(イテテテテテテ)。
電動のオフィス用シュレッダーを家に置くなんて、ズボラなだけちゃうかと思うのだが、3億円当たりクジか万馬券でも裁断してしまわないと、気づかないズボラなのだろう。
処暑のトポス
at 2006 08/23 22:18 編集
やっと盆休みが終わった。
で、出勤しようとしたら、大阪だけ突発的な大雨で、「警報のため閉店です」となってしまった。
出鼻をくじかれた感じ。
大気が不安定になっているのか、風が強くて、おまけにカラッとしているから、日陰に入ると涼しいのがありがたい。気温だけは「熱帯夜」でも、もう秋の気配ひたひたで、なんというか本当に眠れない絶望的な夜ではない。
うちのとなりに昔あった病院が、通りに面してナースの宿舎を併設していて、何かの規定でエアコンがなかったのか、あんまりひどい熱帯夜にはベランダに出て寝ていた子がいた。
それほどひどい熱帯夜だったということかもしれないが、そんな夏の夜のしのぎ方は、ワイルドでよろしいと思う。夏合宿みたいで。
秋の待ち遠しさに弾みがついたニュースとえば、10月初旬に、震災で全壊した神戸新聞の本社屋がやっと落成し新装開店すると決まった発表は、しみじみとうれしい。あぁ、「震災後」が終わった・・・という感慨に近い気持ちかな。
NHK神戸が元の場所に再建されるまで、ちょうど10年かかったから、報道機関の震災復興というのはずいぶん年月がかかるものだ。
やはり、この場所にはコレでしょう!!と市民に昔から認知されているランドマークがどの街にもあって、トポスというのは神聖化する。
いくら「同じ機能がこなせる」といっても、やはり情報や人の愛憎を扱う報道機関の立地というのは、それなりの意味があると思うのだ。
まぁ、これでようやく、震災前の神戸の都心配置が復活した感じ。
この新聞社ビルには、いろんなテナントが入る予定で、その中に、西日本最大級だというタワレコがある。
「データ」より円盤の好きな僕にとってはうれしい大型出店なのに、ちょうど同時にタワレコUSAがネット配信に負けて経営破綻!というニュースも入ってきた。
「法人は日米で別だから影響ない」とのことだが、どっちにしろ円盤には逆風が吹いているようで全盛期の6割にまで減っているそうだから、がんばってほしいものだ。
タワレコでさえ、全米で89店しかないらしいけど。
好きな局だけダウンロードして曲単価で料金を支払えばいい。
といえば、「便利で効率的」だろうけど、なんだかねぇ・・・。
そのとき好きでなくても、何年かたってから、「好きでなかった曲が違って聞こえる発見」が、円盤の魅力だと思うのだが、それが何万と充満するレコード屋さんという「聖地」のトポスも、様変わりして行くのかもしれない。
やがて、音楽ソフト屋(そもそも、ソフトとかパッケージという呼び名が問題なのだ)も、ネットカフェみたいになって行くのだろうか。
猛暑の妄想
at 2006 08/22 16:50 編集
まだまだ来るんだろうけど、関西の住民にとって、今年は台風のハズレ年のようだ。
先週、スローペースで宮崎から福岡に抜けた台風は、よほどゆっくり九州観光したかったようで、被災地にしてみれば、さっさと行ってほしかったことだろう。
おまけに、「台風一過で秋の空」とは行かないのが、ウンザリするところだ。
たしかに、空は盆休みということもあって、空気の汚れが掃き清められたような、インディゴ・ブルーだったし、はけで描いたような高層の雲に夕日が映えて、秋空に見えなくもない。
あいかわらず気温はサウナ状態でも、セミは晩夏の鳴き声に変わってきたようで、「えらいもんやなー四季の時計は」と風流を愛でたくなる。
ちょうど猛暑のころだけ、ショボショボと驟雨を降らせてくれるぐらいの、都合のいい前線でも停滞してくれればうれしいのだが、まぁそれはないものねだりで、打ち水キャンペーンでお茶を濁しているのが、今年のはやりだ。
水を撒くぐらいの原始的なことが、けっこう効いたりするようだから、これも悪くない。
ただ、いかにも「キャンペーンです」といわんばかりの浴衣嬢が手桶で水を撒いている場面がテレビ中継されていたのは、もう失われた風情でしかないのかな。
・・・と思う一方で、そもそも「浴衣で打ち水」なんて姿は、とってつけたようで非現実的ではある。よくFRIDAYなんかに載っている「バスルームで身をくねらせている水着嬢」グラビアと同じぐらい、冷静に考えると「そんなこと普通せんやろ」シーンだ。
こういうのを、夏の風情とかセクシーショットなのだと刷り込まれて行くんだろうな、とワタクシは殿方諸兄に同情の念を抱くのである(堅いこと言うねぃ!とヤジられそうだ)。
現実の打ち水は、ホームセンターなんかで売ってる「ジェット噴射機能つきホース」なんてので得意げに、しかしズボラに水道水をばらまいて、通行人をヒヤヒヤさせている味気ない眺めしか見られない。ホース1つで風情もなにも吹き飛んでしまう。
金魚売り、竿竹売り、豆腐売りなんかも、軽トラの拡声器でガーガーやられたら、風情もへちまもないように。
やはり、浴衣嬢が1リッター1000円ぐらいのギャラで水を撒いて回りますサービス、というのが丁寧でよろしい(非現実的じゃないか云々は、とりあえず不問にしてあげよう)。
昔ながらの風情が、ハイテクやせちがらい世相でどんどん消えて行くから、「去り行く夏の風情をプレイバックしてあげるファンタジー・サービス」なんてのも、当たると思う。
湘南の思い出バージョンとか、禁断の避暑地バージョンとか・・・
たとえば、スケッチブックを持った麦わら帽子の少女が田舎の駅にたたずんでいる・・・てのも、映画かCMのワンシーンのようで、カメラおじさんの好みそうな「被写体」だが、現実にいたなら、「家出娘!?補導!!事件!?・・・の匂いプンプンだから(笑)、メイド喫茶ブーム後の元ウェイトレスは、こんな夏の乙女サービスをやってほしい。
モニター第一号に応募するぞワシは。
関ジャニ・ナインはいかが?
at 2006 08/21 20:25 編集
今日は、リアルタイムで甲子園決勝に感動。
世間に盾つきまくり竿さしまくり男のように見られる僕は、たしかに高校野球や年賀状、クリスマスなんて年中行事に「ケッ!」と悪態をついていた、尻の青いころもあった・・・が、そんな俺様は今いずこ。
「人生後半」になると、けっこう人間まるくなるものだ(笑)。
世間のまるい人間が、「北海道代表で、よくもここまで・・・」と感心していると、リトルリーグの坊やに「でもね、そんなに地元の選手ばかりじゃないって。地元ゼロのチームもあったよ。全国からスカウトされてくるんだって」と、解説されかねないご時世。
だから、身もフタもない実態に、あえて目を伏せて「創られたしかけ」に感動するしかけになっているものかもしれないな、スポーツ業界というのは(亀田三兄弟は、わかりやすすぎるシカケだろう)。
駒大苫小牧の田中投手も関西人だし、駒沢大学は東京だし、練習だって、純朴な僕など「豪雪の地で練習もできない苦難の野球部!!」と勝手に想像していても、冬は東京のグラウンドで合宿練習していたりするのかもしれない。とすりゃ「苫小牧高校駒沢校」だな。
優秀な野球少年が全国から集まってくるどころか、今後もしかすると中国の怪物みたいな子を帰化させて入部させる学校があったりすれば、都道府県代表対抗という構図が無意味になってしまうかもしれない。
応援団だって、「友情応援」という名目で、男子校にチアリーダーがついたりするようだから、「友情グラウンド提供」「友情OBプロ選手レッスン」なんてのも、ありありだったりする。
とすると、見たいのは堀越学園OG大挙出演のチアリーディング。もう、喜び組どころの騒ぎではなくなるね。
もし、高野連がしめつけを厳しくして、地元の子だけで野球部を組織せよと命じると、ひょっとして勝負にならないかもしれない。フェアにすることが、勝負そのものを成り立たせないおとだって、あり得るのだ。
たとえば、純粋に道産子だけの、道内でしか練習しない野球部なら、まず真夏の甲子園から生きて帰れないはずだ。早実の少年たちも、目の前でナマ関西弁を聞くと、ビビりまくって即ホームシックになるだろう。
「ここで打ちよったら、いてこますぞワレ!!」と、凄まれたら、ちぢこまってしまって、それを「あ〜ら、元気ないやん、慰めたろかー」と関西弁の松浦亜弥にフォローされたりすると、野球以前にもう、「ナマ関西」に撃沈される(笑)。
負けない野球部員というのは、甲子園のついでに関西のゲーセンにでも入って、大学野球で関西お姉さんに目覚めて、プロ入りして新地、祇園のラウンジ&クラブにデビュー・・・という、野球選手なんだかホスト王なんだかわからんスゴロクを進むやつである。
そんな将来がみえる球児が、甲子園で活躍しないものだろうか。
大海の中のタコツボ
at 2006 08/20 11:36 編集
ムーミンが一生懸命やりくりしている掲示板に、1カ月ほど閑古鳥が鳴いていて、思い余ってムーミンパパが「もう掲示板の役割は終わったのかな、集まって飲み会でもやらないか」と呼びかけるメッセージを書いておられた。
もともとは、みな同じムーミン谷で和気あいあいやっていた子たちだが、それぞれ就職して、「パパ」さえ転職して、接点が掲示板だけになっている。
このわびしさは、みな多かれ少なかれ感じていると思うし、思い余ったパパの呼びかけも、その心中はよくわかる。これは魂の雄叫び(笑)なのだ。
甲子園という檜舞台で、一緒に闘って汗と涙を流した野球部員だって、いつまでも一緒だぜ俺たち!!というわけにはいかないだろう。
ムーミンパパの熱いハートは立派だし同情するけれども、ムーミンやノンノンやスニフやミイたち自身が何とかしなくてはいけない状況というのは、主人公たちの自覚か、なりゆきにまかせるしかないと思う。それが「巣立ち」ということでもあるから。
僕など、谷の辺境で釣りばかりしている風来坊だから、「そんなもんだろうなぁ」と思うだけの、無責任な部外者でしかない。いやなやつである。
現役のクラスメイトだと、だれかが音頭を取らなくても利害は一致するようになっているものだが(そうでもないか?)、卒業して立場が十人十色になると、価値観やら利害やら目標やら何もかも違うし、また、それが自然なのかもしれない。
そうして自分のタコツボにこもってしまうプロフェッショナルたちの間に、資格をとるとか、共通の敵を仮定する(笑)とか、合同結婚式でも強行するとか、なにか共有できる利害でも生まれないと、なかなか「昔の絆」は戻らない。
同窓生同士というのは、20年もたって再会すると、中年の恋の火種になったりするスペシャルな絆だが、卒業して数年ぐらいの間は、みな自分の仕事と格闘している時期ではないのかな。みな目の前の「個人的で具体的な問題」で、頭が一杯だろう。
生産的な方向に向かうなら、具体的なタコツボに共通する「抽象的な課題」をさぐって動機づけて行く、ある種のファシリテーションが必要になる。
たとえば「日本国のありかた」なんてのは、思想好き爺さまの専売特許のように見えるけれど、福祉や医療の専門職でいるからには、いま毎日の仕事でかかえている自分の問題と「天下国家の問題」をつなぐ思考・表現回路は不可欠だろうと思う。
それを考えるスタミナというか、インプットが、若い子に圧倒的に不足している。読書と議論を避けて学生生活を終えるという芸当をクリアしてしまう二十代が、圧倒的に多いのだ(自分のかかえている問題を表に出すのに適切な言葉というのは、ドラマとかマンガから借りてくるのだろうか?)。
もちろん、こむずかしいこと抜きの「消費的な享楽」というのも、あっていい。ただのバカ騒ぎでもいし、鍋でも囲みましょう!というのは、いたって自然で、敷居も低い「緩み場」になると思う。
それが、人数も2けたになって鍋が3つ4つになると、3つ4つの島に分断されて、もう国後島・択捉島・歯舞島・色丹島みたいな関係になってしまうのが、よくある「日本の会食の眺め」ではあるけどね。
島民をつなぐのは、散会した後の掲示板だけだったりする(笑)。
こんなタコツボ化とコミュニケーションの分断化は、業種によって、また世代によって様相は違うはずだが、はたしてBBSやSNSが救世主になるのだろうか。
web2.0だなんだと浮き足立っている時代の、「同窓生」や「同業者」の絆というのがどうなって行くのか、僕には何ともわからない。
高齢者や病人と向かい合う仕事は、最も人間くさい職種でもあるから、どこまで人間が好きかを試すリトマス試験紙みたいな面もあるのが、こわいところだ(農業やるなら美白はあきらめられるか!?みたいな踏み絵は、どんな職種にもあるだろうけどね)。
あまり人間くささに巻き込まれすぎると摩滅してしまいかねないし、このしんどさは、分かち合うスキルがないと、孤独な闘いへと追い込まれてしまう。
人間の明暗や人材と個性の関係、職場の力学・・・そんな程度の「抽象的なテーマ」が共通の関心になれば、生産的なコミュニティができると思うのだが、ケース・スタディだコミュニティ・オーガニゼーションだグループ・ダイナミクスだと勉強して実践しているわりに、つい「灯台もと暮らし」になってしまうもののようだ。
彼ら彼女らが、すばらしく善人すぎるせいだろうか?
日本の医療にせよ福祉にせよ、いまだに従事者の滅私奉公で支えられているところもあって、それはそれで感謝しなくてはいけないのだが。
僕など、まず自分が快適な生き方があって、仕事や人づきあいを選んでいるから、悪人だの利己主義者だのと呼ばれるわけか・・・(笑)。
とてもコスモポリタン
at 2006 08/19 08:01 編集
大正末期から神戸に店を構えていたコスモポリタンというチョコレート屋さんが、突然に閉店した。まさに、閉店しました!というところを、たまたま通りかって、驚いてしまった。
貼り紙が何枚も並んでいて、道行く女性がそれぞれに「あら、まぁ!」といわんばかりに覗きこんでは、後ろ髪を引きずるように立ち去って行く。
倒産と違って、資産保全されているわけではなさそうなので、従業員が店内のかたづけをしている。
奥には、まるでしつらえたドラマのセットのように、「エカテリーナ・ショコラーノフ女史55歳」という感じの御婦人が、脱力した顔を隠さず座り込んでいた。関係者の心中は察するに余りある、絵に描いたような「苦汁の撤退」に見える。
貼り紙によると、「売り上げの落ち込みにより閉店を決意した」とのことで、客への感謝の言葉がつづられたメッセージの末尾には、「バレンタイン・モロゾフ」の署名。
このへんの経営スタイルも、部外者にはよくわからない。
クルト・ユーハイム、マカロフ・ゴンチャロフらと神戸で洋菓子の味を競って成長したモロゾフ一族と、独立したもののモロゾフの名前を借りられず「コスモポリタン」として開店した販売部門とは、それなりの長年の確執があったようだ。
ゴンチャロフやモロゾフは、ロシア革命の時代の菓子職人だから、僕など当然ぴんとこない歴史上の人物だが、「コスモポリタン」は、そういえば昔から地元の甘味どころとして、子供心にも「妙なる香り漂う魅惑のスポット」だった(という、昭和の記憶も風化して行く一方だ)。
バブルのころ、いや少し前から、冬にゴージャスな乙女が群がって、華やかな繁盛ぶりを見せてくれていた。
・・・かに見えたのだが、チョコが売れなくなったわけでもないだろうし、素人目には、バブルのころの生産規模をベースに経営していたのか、設備投資が回収できなかったのか、顧客層が固定化されてしまってたのかと、表面的な勘ぐりしかできない。
個人的には「ユーハイムびいき」の僕は、接待で甘味どころといえばユーハイム・レストラン、手土産にはユーハイムのパウンドケーキ・・・と、ユーハイムの「使い道」は広い。
ところが、結局「コスモポリタン」には一度だけ連行されて入った(笑)だけで、おじさんの日常生活にはとんとなじみのない店なのであった。いつの間にやら、「チョコレート=乙女のミサイル」になって久しい。
同じ乙女エリアといっても、日比谷花壇ほどにも縁のない、「乙女の気合い入れ場」と僕は勝手に決めつけていたし、実際おじさん客も家族連れも気軽に寄りつけないオーラをまとっていたのがコスモポリタン。
とまぁ、別に経営批判をするつもりはないし、断固としてもてない男の歪みまくった目で見ているだけのことだと思うが、また老舗の灯が1つ消えるのは、寂しいことではある。
そういえば、コスモポリタンという雑誌があったっけ・・・「ハイト・リレポート」って載ってなかったけ?・・・と僕は全然金いない連想をたぐり寄せるばかりだが、もちろん、タイアップしてたわけではない(だろう)。
「クロワッサン」と落合さんの「クレヨンハウス」と「通販生活」のイメージが頭の中で溶け合っているオジサン脳だから、チョコのコスモポリタンと雑誌のコスモポリタンとスパゲッティ・ナポリタンが頭の中でからみあってしまい、このボケは治りそうにない。
熱湯甲子園
at 2006 08/18 16:34 編集
マンネリも、どうだかなぁ・・・と思いつつ、甲子園テレビ観戦。
当たり前だが、勝ちと同じだけ負けがあって、汗と涙が流れる。負け戦を闘う姿は、気高く、美しい。
球場だけで何万人もの観客の視線を浴びてピンチで戦っている野球部員は、本当に貴重な経験をしていると思う。リリーズのヒット曲「好きよキャプテン」の歌詞が、よーくわかる(笑)。ついでに、「好きよ補欠」も歌ってから引退すべきでしたリリーズ!!
みな同じように闘っているのはわかるが、僕はあえてエコヒイキして、遠路はるばる甲子園に来ている出場校を応援したい。
というわけで、近所に泊まっていた八重山商工が敗退してしまったので、北海道代表を応援していた。
相手は、地元の東洋大姫路である。それでも、北海道を応援するぞ。冬は練習できず、夏は蒸し風呂のような猛暑の中、よくがんばっていると思う。
でも、北海道vs兵庫の戦いのように見えて、それぞれ東京の東洋大学と駒澤大学がバックについていて、そのまたバックはお寺さんである。仲良く引き分けてもよかったのに。
結局、1点差で逃げ切って辛勝した駒大苫小牧はアッパレだった。ピッチャー田中将大クンに、おじさんは萌えてしまったぞ(笑)。居酒屋で祝杯をごちそうしたら、クイクイ飲んでやがったりして・・・。
僕がカテキョーしていた高校球児は、たしか進学して古田とチームメイトになってから巨人に入団したが、すでに高3にして「授業お疲れさまっす!!」と僕にタバコをさしだしてくれる(笑)礼儀正しいやつだった。タバコはいけないが、こういうノリ(だけ)はいいもんだと思う。
それにしても、別に建学の理念を軽視するつもりはないのだが、学校名が土地の名前でない高校は、一瞬どこの代表?と戸惑ってしまう。
報徳学園やPL学園などはもう、関西の強豪として全国に名前が知れわたっているかもしれないが、思想や哲学を表現しているような名前は、ご当地カラーと結びつきにくい。
僕の勝手なお願いで恐縮だが、たとえば「智弁」より「和歌山」とか「奈良」をアピールしてほしい。
全国の高校野球ファンも、その学校創立の理念より、どこの街の高校?という点にこだわって、旅の思い出や身近な人の出身と結びつけて応援するものだと思うからね。
ただ、僕の母校も甲子園に出たことがあるが、PLほど有名でないから、関東人には「みた」と呼ばれそうで(OBの僕でさえミタです!と冗談でいうぐらいだから)、土地の名前もよしあしである。東京都立西高校だと、「西」だけでも寂しいしね。
日大**とか東海大**という形もあって、これも戸惑う。
願わくば、「琉球大学附属旭川高校」「薩摩学園津軽高校」みたいなおちゃめな学校が出てこないだろうか。どっちに力入れして応援すればいいんだか、めいっぱい戸惑わせていただきたい。
僕の好感度ナンバーワンは、「沖縄水産高校」だった。「青い海で漁に励むウミンチュー」が目に浮かぶではないか!!
大洋漁業のホエールズがプロ野球界から消えた今、水産高校は貴重だわな。
それなら、「おいしいシリーズ」で、夕張学園メロン高校というのも創立して、華々しく甲子園デビューしてほしい。
なんだかアンメやコミックの世界に出てきそうな名前に見えるけど。
となると、北海道で黙っていない(笑)あの人が、「鈴木学園ムネオ高校」創立(!?)ということも、ありえるぞ。校歌は当然あの松山千春の作で、試合で流れると「校歌がCDでミリオンセラーになる史上初の高校」になるだろう。
とまぁ、音楽産業と直結した高校も甲子園に出て、ウットリする応援パフォーマンスをやってみせてほしいものだ。
まだ「政治・宗教色グログロ」よりはましだから。
クールなヘッドホン道
at 2006 08/17 13:36 編集
こうも暑いと、ヘッドホンも暑苦しい。
昔から、大音響でスピーカーを鳴らせない情けない住宅事情は変わらず、今も「エアコンなし窓全開」で熱帯夜をしのいでいる。
そんなわけで、昔からヘッドホンが我が「リスニングルーム」になっていた。
ご同輩の諸兄も多いと思う。
ヨドバシなんかに行ってみても、今どきスピーカー視聴コーナーでじっくりスピーカーの音色を吟味している客はいないが、ヘッドホン・コーナーは「こだわってます俺たち!!」といわんばかりの二十代、三十代、四十代、五十代が群がっている。
おぉ、これこそ「男の世界と住宅事情」でんなぁ!!・・・と、僕は妙な連帯感を覚えるのだ。
女性はまずいない。髪が乱れるせいか、重い感じがするのか、伝統的なヘッドホンらしいヘッドホン(カチューシャタイプといえばいいのか?)をかける婦女子はいなくて、イヤホンタイプ、耳かけタイプで「かじゅある」に決めておられる(安いこともあってか?)。
ウォークマンやなんかに付属のインナーヘッドホンをそのまま使っていたりして、あんまり自分の好きな音を追求するわけでもないのだろうか。イヤホンタイプと耳かけタイプの視聴コーナーで、あんまりとっかえひっかえ「あたしの音」を模索しているオーディオ女子(笑)はいないようだし。
僕も「かじゅあるおじさん」になりたいものだが、どうしても「耳かけ式」になじめない。連戦連敗である。
去年ソニーの安物を買って、スカタンみたいな音質だったので、けちったのがよくないのかな、と思って、今週ビクターの高いやつを買ってしまった。珍しい密閉型である。
やかましいからこその大音響で視聴したときには気づかなかったが、静かな家で普通の音量で聞くと、やはり気が抜けたような物足りなさがついて回る。
両側から耳におさえつけると、しっかりとタイトな音になるのだが、「おさえつけない」のが耳かけ式のウリでもある。歯がゆい。
数ミリか数グラムかの圧をかけるか、かけないかだけで、天と地ほどの音質の差が出てしまう。
いっそ、カチューシャでおさえつけたろかとも思ったが、それなら耳かけ式を買った意味がない。
あぁ、かじゅある=スカスカ=漏れ漏れというこっちゃな〜、と僕は「ヘッドホンの法則」を学んだのであった。イヤホンタイプの方が、明らかに音はいいぞ。
世間のかじゅあるオーディオ愛好家は、この法則をどうキモに銘じておられるのだろうか。
僕が古いだけかもしれないが、耳かけ式の音質の上での利点は何もないような気がするから、なぜはやっているのか、どうにもわからない。音も外に漏れる・・ということは、騒音も入ってくるしね。
で、結局どでかいハウジングで耳を包むゼンハイザーのヘッドホンに落ち着いてしまう。イヤーパッドのビロードの触感も優しい。
こんなものを持ち運ぼうとは思わないが、そもそも18歳でウォークマンが世に出た「まさにその世代」なのに、僕には音楽を持ち出して聴くという習慣がないのであった。
ヘッドホンで音楽を聴く趣味がないかわりに、少し軽いAKGのK26というヘッドホンは、強力な密閉型で、遮音効果が抜群なので、読書するときに重宝する。音楽を聴く以外に、「音を聞かない用途」に使えるのも、一粒で二度おいしい(笑)。
音質も驚く重低音が出るし、ゼンハイザーにしろAKGにしろ、やはりドイツ〜オーストリアあたりのメーカーは、クラシックをじっくり聞かせる音づくりをしているような気もする。
これまた今はやりのノイズキャンセリング機能がついた最新機種は、電源もいるし何万円もするし、ちょっと手を出す気になれない(ヘッドホンの求道者としては、手を出してしまいそうな予感もある)が、K26は安いのが取り柄だ。
耳栓をして街を歩いていると変な人に見られるが、ヘッドホンだと音楽を聴いているようにしか見えないから、カムフラージュになるってもんだ。
こんな発想が、じわじわと『うるさい日本の私』の中島義道さん似の風貌に変身させて行くのかもしれない。カジュアルあきらめカタブツおじさんである。
靖らかな国の神と社
at 2006 08/16 17:48 編集
ぼちぼち、近所の店が盆休みから目覚めている。
まだ、寝ぼけマナコという感じ。
盆も正月もないスタバやサンマルクより、「盆休みします」と貼り紙しているような喫茶店が、人間くさくていい。
うちの近所の喫茶店は、まぁ「****カフェ」と名乗ってはいるが、全席喫煙席だし(嫌煙家の僕でも不思議に落ち着く)、レジがカウンターと化していて、常連さんが立ち話している。
いいねぇ、こんな街角の日常が戻ってくるのは。
寝た子を起こす騒ぎに巻き込まれて、「財政難」と書いた朝日新聞と敵対しているのは、あの靖国神社。
純ちゃんの参拝には、拍手と怒号が飛び交っていたそうだ。
こんなにエキサイティングな神社も珍しい。まるで亀田のチャンピオン戦だ。
ただ、興奮するあまり、加藤紘一さんの実家に放火したりする犯人はけしからん。右翼の風上にもおけない。
災難のカトちゃんは、ちょっと中国には弱腰な気はするが、個人的には「加藤の乱」に座布団3枚ぐらいはあげたい(笑)程度には評価している知将なのだ。
この問題に中・韓が口をはさむのは、たしかに内政干渉な気もするから、あまり他国の顔色ばかりうかがわず、国内の問題としてちゃんと決着つけるべきだろう。
日本に滞在した留学生が、神社が日本人の生活にしっとりなじんで、平和で温厚で賢明なエスニシティと「靖国」が、切っても切れない関係にあることを発見すれば、その祖国は、「小異に目をつぶって大同を取る」判断をするかもしれない。
ま、あくまでもこれは仮定であって、日本人の英霊信仰が外交関係にいい働きをしているかどうかについては、よくわからない。わからないからこそ、「靖国の政治経済的メリット」を明解に語れる政治家がいてもいいのに、と思うばかり。
説明できないから、誤解される。誤解の余地を与えないまでに説き伏せるのが外交力というものだろうし、少なくとも説明できないことを無理やり実行するのは、問題を「発酵」させてしまうぞ
。時が解決してくれる問題、風化して行く問題もあるだろうが、靖国問題はそうではないと僕は思う。
もし、他国が国ぐるみの圧力をかけて靖国が倒産(笑)するようなことになったとき、日本の反日・反韓感情は、あちらの「してやったり」感をはるかにしのぐ損失を招くかもしれない。賢明な政治家なら、ちゃんと計算しているはずだが・・・。
どうするつもりかね、韓流スターを売り込みたい手配師たちは。農薬漬けの野菜を売りさばきたい中国農産当局は。
まず国内問題として解決すべき神社の問題は、その一方で、戦没朝鮮人も戦犯も殉職兵士もごっちゃにして祀る大風呂敷な精神が底流にあって、僕の頭の中ではどうも整合しない。
日本人でさえ爽快にわかってないことを、反日ガチガチな隣国に理解されるわけはない。
キリスト教が、ユダヤ教との差異化、イスラム教との対立、宗教改革など、対決軸の中で教義を研いできたのに対して、神道は仏教と習合することはあっても、イスラム教やカトリックと縄張り争いをしたわけではない。なんとなく、この国の野山にあって、特に加入の儀式を経ていない民が「信者」になってたりして(笑)、アバウトそのもの。
戦死した家族は神社に英霊として祀られるが、納骨しているわけでもないし、葬儀は各々の家の信仰形式にまかされる。
そんなアバウトさに、大多数の日本人は違和感を覚えなかったのだろう。
ただ、違和感を覚える遺族もいることはいる。それは尊重してもええんちゃいますか?と思う。
「一緒に祀ってくれるな」というクリスチャンの遺族からの訴えに対して、裁判所は個別に分祀を認めているにもかかわらず、「英霊の御霊は一体となっているもので、分祀は考えられない」と突っぱねる態度は、誠実に説明しないと、日本人にさえ理解されにくくなって行くのではないだろうか。
東条英機の孫娘さんが個人の立場でそうおっしゃっている気持ちはよくわかるが、恨み骨髄に染み込んでいる元部下の遺族もおられるだろうから、分祀されたい人を強引に合祀することは、靖国さんの将来にとっても、決して得策ではないと思う。
おそらく、靖国神社の頭の中では、この国は法治国家ではなく、「神の国」なのだろう。
この点では、国家をつくっていたオウム真理教が重なって見えてしまうぞ(失敬)。
かりに、「死ねば御霊みな一緒」という発想を、世界が「すばらしい!!」と絶賛して受け入れるなら、神道も普遍的な世界宗教になるかもしれないけれど、難しいだろうね。
たとえばヒトラーとナチス親衛隊とドイツ軍兵士を1つの宗教法人で合祀するなんて考えられないだろうし、そんなことを平気でやってしまう神社&それを支持してたりする日本人というのは、なんとファンタスティック!!と尊敬されるのか、あきれられるのか・・・。
神道は決して有害で凶暴な信仰ではないと思う「神道シンパ」な僕は、政治(外交を含む)とからまって、不可解でうさんくさい信仰のようなイメージがつきまとうのは残念に思う。
だからこそ、形式的には政教分離を守って、靖国のありかたは靖国自身と信者が決めることにして、政治とお互いに口出ししない取り決めを結んでほしい。
それに、軍神を信仰するような性質があるとキナくさくなるんだから、いっそラーメンの神様でも祀っておけば、中国はホクホク顔だろう。
すると韓国が黙ってないから、あの微笑みの貴公子に神主を、ジウ姫に巫女をしてもらえばいい。「そんな神社があってもいい」だけの話で、明治神宮も伊勢神宮も出雲大社も、そのままでいい。
「フトコロひろし」の神道なら、なんでもかんでもありあり・・・を示してほしいものだ。
宿題ソリューション?
at 2006 08/15 17:32 編集
旭山動物園がきっかけになったのか、博物館にも「勝ち組」と「負け組」が出てきているらしい。特に夏休み後半戦の今、くっきり明暗が分かれているそうな。
子供の虫捕りひとつとってみても、リアルかつ親切(矛盾するのだが)に「動態展示」してある博物館が大人気。
これが「採集型から観察型へ」とよばれるトレンドのようだ。
じっくり観察だけしたいから、捕る手間は最小にしたい、という発想なのだろうか。たしかに虫に刺されず虫の観察だけできるし(笑)、わからないところは、すぐ専門家に聞ける。
保護者には、喫茶軽食とコンパニオンの「おまけ」つき(ママ向けに、体操のお兄さんも置くか?)。
僕がボランティアしていた博物館も、電子顕微鏡はある、小動物の解剖標本もある、理学博士も多数、世話焼くきたくてウズウズしているボランティアは無料で使い放題(笑)・・・。子供がここで理科の宿題をやれば、大学生なみの研究ができてしまう。理科の先生の評価を越えた研究ができるかもしれない。
でも、それが「自然」か?
たとえば、オオクワガタのいる原野に行く手間はかからないし、安全だし、便利だし、電話で「○○の卵から孵化まで、観察できますか?」と問い合わせたりして(ネットでも案内されてるわな)、「最短距離でソリューション」できる。
なんだか、ビジネスライクやねぇ。
こんな効率的な勉強と、ズボラとの線引きは難しい。いや、同じかもしれない。
「目的ピンポイント近視眼」な子供と保護者が増えるだけちゃうやろか、という気もする。
虫を捕る工夫や、池に落ちて溺れる経験や、マムシに噛まれる災難や、獲物を捕った後のケアなど、昆虫観察の周辺の「雑事」のやりくりも、貴重な勉強のうちだろうにね。
いい博物館が、気軽に子供にも保護者にも利用できるのは大賛成だし、日本中どの自治体にもミュージアム(of art、of natureof history,その他フィギュアとか鉄道とか、マニアックなのでもいい)が必ずあって繁盛している、というのは、望ましい知的社会ではある。
そんな施設を活用して理論的な勉強もするのは大事だとは思うが、人はつい便利な方に流れてしまうから、野山でのたうちまわる子供は減るだろうね。
そして、パパがちゃっかりググって「こことここを回れば、質のいいリソースがすぐそろうぞ」なんて調査プランを立ててプリントアウトしてやったり、ママは「泥んこになると洗濯が大変なんだから」とグチっりつつ、ぬかりなく子供にUVプロテクターを塗ることを忘れない。
子供の背後霊のような、こんな親を相手にしているセンセイたちは大変だ(あ、他人事じゃないか)。
形の上では子供が提出しても、中身は背後霊のしわざ(笑)が濃厚に反映されていて、採点すると、子供は納得してもバカ親が「どこが減点なんだ!」と反撃評価してきたりするそうだから。
いま平均して一人か二人しかいない子供は、親の「配慮」をわかりすぎるほどわかっていて、子供らしい「間抜け」を冒さず、ブクブク・ヒョロヒョロ・ずる賢く成長して行く。
「想定内の世界」で「ソリューション」をこなして行く子供は、実社会の不条理をどうやりくりして行けるのだろうか。
泥んこ、汗だく、けが・遭難・・・こんな経験は、成人してからやらかすとみっともないから、子供のうちに経験しておいた方が人生の宝物になると思うのだが、もし我が子がいたらどうするか?と考えると、正直ちと難しい。
よその子は、泥んこ汗だく傷だらけにしたくてしょうがないくせに(笑)。
御巣鷹山の尾根に追悼
at 2006 08/17 02:14 編集
サイキック青年団の怪談特集を聞いて、すこーしゾクゾクしてから、そうか今朝は荒ゴミの日か・・・と思い出して、不燃ゴミを出してきた。朝か夜中か、微妙な時間帯の静かな路地にトラちゃんがたたずんでいて、しばらく戯れてから部屋へ。
戻ると間もなく、さーっと雨(夕立か、朝立か?)。
一気に、涼しくなった。どこか、邪気を払うように。
今年も、御巣鷹山(すごい!ザウルスで一発変換できた)では慰霊登山で夏がひと山越えた。
事故の悲劇から、もう21年。
事故を知らない世代が、もう成人しているわけだ。光陰矢の如し。
僕も、絶命した「九ちゃん」の年齢を越えてしまった。
いま、九ちゃんが生きていたら、どんな元気な歌を連発しているだろう。渋いバラードも似合いそうだ。
水森亜土さんがシャンソン歌手になっているのも、とても似合う感じ。永遠の不思議少女(歴50年!!笑)のイメージだから。
九ちゃんは、永遠のソバカス少年だ。欽ちゃん球団でプレイしていたかもしれない。
亡くなったこと事態は悲劇だし、ご遺族にとっては残忍な最期だったかもしれないが、一ファンとしては、ただの交通事故とか病死より、飛行機事故で亡くなった九ちゃんは最期までスターらしかったし、永遠にスターらしい。
たぶん、自転車事故で死にそうな(救急車で運ばれた前科があるからなぁ)僕とは、格が違うのだ。
リバイバルヒットした「明日があるさ」も、御巣鷹山に散った後だからこその「明日」として、生前を知るファンには聞こえているかもしれない。
あなたが夢見た未来に、あなたはいないけれど、あなたの代わりに未来を生きている・・・ような感じ。
というのは、勝手な思い込みなのか、おせっかいな話なのか。
新しい人や旅先との出会いに、ふと「あぁ、○○がここにいたら、何というだろうな」と思うと、自然に、あの世の友とその場を共有しているような錯覚におそわれることがある(まだ、声が聞こえる境地にまでは行けてない)。
たしかに、過去は、そのとき共に生きていた相手と実体験を共有しているものだが、未来はいつ「生きていたころ僕の夢見ていた未来」になるかもしれない。僕が生きて迎える明日と、死んでもやってくる明日は、同じようで違う。いや、「違うようで同じ」か。
つまり、未来と過去の世界は、生きている者だけの世界ではなく、死者と共にあることになる。
苦痛や快楽や喜怒哀楽の充満するこの「現在」なんか、ごく一瞬の時間の狭間にすぎないのだ。
だから、過去を懐しむように未来を夢見ると、そこは犬猫、祖父母、父、友のいる、とてもにぎやかな永遠の世界だったりする。
できれば、気づかないうちにそこに行ってられるのが理想だが、なかなかそうは行かない。
盆が明ければ、またいつもの雑事と気慰みに追いたてられる日々が戻ってくるのだろう。
こんな年中暦も、悪くないものだが。
渋滞お見舞い
at 2006 08/13 13:52 編集
職場から、電話やメールや小包で相次いで夏休みの宿題が届く。おちおち「鉄分の濃い旅」にも行けない。
まぁ、とりたてて盆の行事はないし、帰省は自転車で10分だから、時間はどうにでもなるのだが。
自転車おじさんのくせに、まったく必要ない渋滞情報を聞くのが好きで、関越道50キロ・・・フムフム・・・中央道80キロ・・・フムフム・・・名神天王山トンネルで20キロ・・・オヤオヤ・・・と、渋滞に巻き込まれたドライバーを思いやっている。
わけでは、決してない。
「ご苦労さん」とは思うものの、渋滞がわかりきっていて飛び込むのは、もう、日本人やなーと実感する年中行事か、根性を試す儀式か、「笑ってなしゃーない」お祭りかもしれない。
渋滞や行列や「横並び」をやめる日本人は、もう日本人失格だ。
渋滞は、あたかも血がドロドロで、栄養過多な日本列島に張り巡らされた大動脈の、血栓みたいなもの。
日本経済だって、似たようなものだろう。
ガソリンが150円に迫る高値になろうと、あいかわらず渋滞は起きる。いっそリッター500円になれば、渋滞は消え、エタノール車、電気自動車、単車が一気に普及するかもしれない、とさえ思う。
ソーラーカーだん吉も、もちろん自転車も。
いま、ガソリン代の値上げに本当に実際に心の底からネをあげているマイカー族は、いるのだろうか。減価償却しなくちゃいかんとばかりに無理して乗っているオーナーは少なくないだろうが、「乗らない」という選択肢を採れないのは、クルマで商売をしている人か、福祉目的で使っている人ぐらいだと思うのだが。
歩けない老人や障害者や妊婦を運ぶ「福祉カー」みたいな乗り物は、環境にやさしい新世代車を開発して、国がどんどん補助してほしい。デザイナーが腕をふるって、車椅子リフトつきソーラーカーなんてのがモテモテになって、買う客には費用半額を公金補助する、とか。
今のところ、夜中でも光の帯みたいな渋滞が日本中にまたたいている間は、不景気も地球温暖化も、リアリティをもって感じる日本人はいないような気もする。
だからこそ、早く幌馬車の時代が再来しないものだろうか?と僕は本気で思う。たまたま、文春文庫の新刊で椎名誠さんの『地球の裏のマヨネーズ』を読んでいて、モンゴルやスコットランドや南米で馬を操るシーナさんの勇姿が、彷彿と浮かんできたせいでもある。
燃料は草だけでいい。そして、「排出物」は植物の肥やし、魚のエサになる。
「渋滞」していたら、勝手に前後の馬と交尾し始めたりして、「ママー、うちの馬によその馬がかぶさってるよ」「見ちゃダメっ!!」なんて、ほほえましい場面もあるだろう。
おまけに人間のオスメスが発情することになったら、出生率も上がるしね。
液体禁止
at 2006 08/12 20:31 編集
液体爆弾というのを初めて知った。
火炎瓶も、ある種の液体爆弾で、衝撃を与えて発火させるものだったような気がするが、今ふうのは、ジェルやドリンク剤のようにカムフラージュできるらしい。
英国メディアの中には、「ジンとトニックを混ぜるほど簡単」という耳より情報(!?)もあった。おいおい、ええんかいな?と笑いそうになるほど、酒飲みにとってはわかりやすいたとえだ。
僕は前々から、究極の毒ガスや毒薬があって、知っている化学者は知っていても、その製法は核兵器以上に地球上の最高機密になっているのではないかとにらんでいる。
たとえば、戦う気をなくすような神経ガス、幸福と恍惚感で頭がほてりっぱなしの麻薬ガスなんてのがあれば、戦争も、立てこもり犯罪もなくなるだろう。
そして、ありふれた日用品でも、偶然だれも考えつかなかった混ぜ方をしただけで麻薬効果や爆発力を持つような組み合わせがあったりしても、不思議ではない。
ジン+泡盛とか、すっぽんエキスとマムシエキスとか(これは別の意味で爆発しそう・・)。
液体爆弾はまぎらわしくて、ボトルのドリンクを読ませるチェックもすり抜けるそうだから、いっそ全面持ち込み禁止!となるのもしかたない。
手ぶらで乗ればいいのだ。
その代わり、ドリンクサービスを増やすのは簡単にできるし、どーしてもヘアジェルを使いたい客には、客室乗務員が「私の愛用ジェルをおつけしてあげるわサービス」を始めれば、話題になるかもしれない。ANAのエビちゃん似のあのCAに塗ってもらえるキャンペーン!!てのも、ありえるぞ。
テロさまさまの需要喚起である。
第一、たかだか10時間かそこらの空の旅で、やれ「経済座席」がせまいだの、照明がどうのと、異様に騒ぎすぎると思う。
乗ったらビールでも飲ませてもらって、ベロンと寝ておればいいのだ。
・・・と、ちょうど10時間ほどの密室の旅といえば夜行列車の感覚で考えてしまうのだが、列車は駅に降りてみたり、運転席を(外から)覗きに行ったり、いろんなアングルから写真を撮ってみたりと息抜き(なんだか、本業なんだか・・・)するゆとりがある。こんなことを空の旅でやろうとしたら、確実に「あのアジア系の乗客に要注意」と、マークされかねない。
ほんと、盆休みにロンドンあたりに旅する客は、ご苦労さんである。
列車なら荷物も預けなくていいから、シベリア経由で行けばいかがかと思うが、おそらく、こんなマニアの意見は非常識きわまりないのだろう。
アルベルト展
at 2006 08/11 21:55 編集
上北沢暗室職人の写真展に出かけてきた。
ギャラリーに行くと、会場に充満するおねーさんたちに埋もれて、現場監督が鎮座している。まさか、この集まりは摂理か!?と思いきや、そうでもなかった。残念。
「ソリッド・カーブ」の視線の躍動感は、ますます深まっている。
モノクロの焼き加減へのこだわりも、妥協を許さない。アルベルト写真師の境地は、いよいよ定着してきたのを感じる。
では、一杯いきまひょかー!!
ということで(閉館の10分前すべりこみだったから、不真面目だね)、ビールを求めて心斎橋へ。
グラスで出すようなしゃれた店に、ヤロー二人でってのも、ちょっとね・・とアルベルト。そりゃそうかも。たして80歳超だからなぁ。
でも、僕はギャラリーに行く途中に開店していた耳掃除サロンが気になっていて、ヤロー二人ならんで耳掃除に目を細めるのも、おしゃれ〜と、ヒソカに期待していたのだが。
結局、うまい海の幸をつつきながら、ビールと焼酎でマニアックな話に花を咲かせて、「マニアの湯」につかってきた。
湯加減は絶妙である。
やっぱり、最近コレですよ、コレ!
と、フジフィルムのNATURA クラシックを葵の印籠のようにかかげるアルベルト。
いいねぇ、フィルムカメラマンの面目躍如!
作品に対面して、近況をうかがて、インスパイアされるものがあるのは、いいことだ。展覧会が、そんな触媒になっているのを感じる。ネット上で写真展示が簡単にできる時代だからこそ、なおさら。
しかし・・・最初アルベルトが江原啓之に見えた(笑)、あの不思議な磁場はすごい!
あやかりたい、アルベルト・マジックであったな。