2006.10.31 Tuesday
開け、ゴマカシ!
at 2006 10/31 21:58 編集
きのう退社して新大阪界隈を歩いていたら、僕と同じ道を駅に向かって歩いている浴衣野郎がいた。ダッフルバッグを肩にかけて、スタスタと。
琴欧州だった。あらま!
付き人もつけないで、よくまぁ大胆に、飄々と、お気楽に・・・。すれ違う人々みな小声で「琴欧州?・・・だよね」とささやいたり、おじさんはうなったりしている。
自然体で、いい感じ。
どんな日本人も胴体の陰にすっぽり隠れるほど、でかくて腰の位置も高い上に、ゆっさゆっさ・のっしのっしと力士歩きではなく、競歩のような歩き方は、かっこいい。
目撃しただけで御利益がありそうな、不思議なオーラは、やはり国技の担い手だからかな。
僕のように、喫茶店に入って気づかれにくい存在は哀しいが、力士は逆に目立ちすぎて、プライバシー皆無だ。いくら「変装」しようと、全身で「力士です」と宣伝して歩いているようなものだから、ふだんウンザリするほど見られ続けて穴だらけだろう。お気の毒に。
こんなふうに力士が目立ち過ぎるのと対称的に、かなり悪どいことをして面が割れていない公務員がいる。
5年間欠勤して血税をだまし取っていた奈良市職員が、匿名報道のままなのだ。
これも、サイキック・コメントによると、丁重に扱わないと逆ギレして、いもづる式に汚職の構造を大暴露しそうだから、組織ぐるみで守っているのだという。
なるほどね、そう考えた方がつじつまが合う。
組織が崩壊して業界から追放された「話題の人」に、あの姉歯事件関係者もいる。こちらは、EホームズのF田社長・・・なんて匿名にした方が目立ってしまうが、このF田さん(僕はかなりシンパである)、「APAホテルグループにも偽装があるぞ!女傑社長とねんごろな安倍首相に直談判させろ」と息巻いている。
これが本当なら、ホテルや不動産業界まるごと、耐震偽装どころか、震源地そのものになりそうな話ではないか。
いいぞ、がんばれH田!(笑)
暴露が怖ければ、F田さん、ヒューザーO嶋社長、S研のU河社長・・・という具合に匿名にして、業界の血の結束で守り通さなくてはいけないよな(笑)。それとも、かなりの確率で、F田さんは暗殺される。
それでこそ、隠し合いかばい合いの、談合体質な業界の闇の力である。
かと思えば、あちこちでいたいけな女子中高生が、いじめを苦に相次いで自殺している。闇を感じるぞワタクシは。
ぜひ遺書を公開して、加害者を明らかにしてはどうだ?
およそ、いじめで自殺する被害者はいても、加害者が責任を取って後追い自殺した話は聞いたことがない。加害者の人権が保護されて匿名化したまま、というより、いじめっ子は「あの子も、この子も、みんなでからかっていた」と申し開きすれば自然に匿名化するから、永遠に加害責任はうやむやのまま風化して行く。
わずか5年もたてば、「昔そういえば死んじゃった子がクラス(クラブ)にいたな」「だれだったっけな〜?」てな程度ですんでしまうのだ。
どこの学校でも、クソ役人校長が(ちくしょー好調のまま県教委幹部になれたかもしれないのに、とダジャレ混じりでツバを吐いているだろう)、「いじめは確認できませんでした」とぬかしている。マスコミの取材では、ちゃんと加害者を指摘した証言も次々に出てきているのにね。
ひたすら実態を隠そうとしているのか、本当に実態がつかめていないのか、どちらなのか。
教師が調べて実態がわからないのだとしたら、生徒が教師に心を開いていない学校なのだということだろうに。
本当に生徒が何でもかんでも暴露するようになれば、いじめも体罰もセクハラも差別も、どんどん出てくるような気がする。
だから、心を開けさせる学校臨床心理職という部外者が現場に入ってくることに抵抗する教員文化というのがあったと記憶している(別の意味で僕はスクールカウンセラーに反対し続けているが)。
実態をつかもうとすれば、純粋に上下関係でない、客観的な第三者でないと、無理ではないかと思う。学校でも、企業でも、組織は闇だらけだから。
F田社長のような暴露マンが、学校いじめ業界(!?)からも出てこないだろうか。
「私はこれがおもしろくて、いじめ歴10年!でも足を洗ったので、心を入れ替えて暴露します」という転向者が、いじめの闇を開いて見せてくれると思うのだが。
トリックは予想内
at 2006 10/30 19:35 編集
おいおいソフトバンク、0円といいつつ、長期契約やらゴールドプラン指定やら9時以降は200分やら条件をいっぱいつけて、かなり偽装に近いんではないかい?
基地局や回線の増強こそ最優先の課題だろうに、よほど資金が不足しているのか、宣伝が先行しているのはアベコベな気もするが、まぁ僕はユーザーではないから他人事でしかない。
本当の通話定額でぢーーーっくり会話したい人はウィルコムを選ぶだろうから、もしKDDIとウィルコムが提携して複数回線割引でも始めれば、ドコモもソフトバンクも致命傷になるのではないだろうか。
そこが、業界通でない僕には謎で、なぜ元DDIはKDDIと提携してくれないのだろうか。業界の牽制か役所の指導か、不思議な力が働いているような気がしてならない。
たしかに、あまり独占が進むのはよくないだろうが、それを言うなら、ドコモのケータイ事業とPHS事業のカップリングこそ問題だろうに・・・(ドッチーモなんて端末もあったけ)。
独占に近い寡占といえば、阪神間の電車3社でも、熱い戦いが始まった!
まぁ、これは10年戦争以上の長期戦になっている宿命の対決だが、JRが阪神、阪急の間にまた新駅を造る工事を進めていて、来春のダイヤ改定が決戦になりそうだ。
「阪急以北」の住民は阪急に乗り続けるだろうし、阪神以南の住民もわざわざJRに乗りに行かないだろうから、実際にJRに浮気する客は、阪急と阪神の間に住む限られた層にはなるだろう。
それでも、JRの鼻息は荒い。利便性の競争は、大いにがんばってほしいけど。
通勤通学客の奪い合いは、KDDIウィルコム問題と少し違うが、やはり素朴な疑問は感じる。阪神は、奈良まで直通の新線を工事中だから、開通したら「姫路から奈良まで乗り換えなし」が実現する。これはJRにないメリットだから、期待が高まる。
ところが、阪急は何やってまんの?と思うほど、小手先の対抗策しか打ってこない。JR夙川に対抗して、「阪急夙川にも特急を停めます」といっても、こんなことをしていると、特急が限りなく普通に近づいて行くぞ。「その代わり、スピードアップします」ったって、スピード勝負は事故を連想させるから、客の命を賭けた競争なんて、禁じ手ではないかい?
やはり、KDDIとウィルコムの提携(案)のような劇薬に相当するのは、阪急の京都線、神戸線の直通だろう。
長年阪急に通学定期代を貢いでいた身としては、不甲斐なさは募るばかり。ええかげんに、十三駅乗り換えをさせる変な運賃体系は見直して、神戸から京都に直行できる便を導入しなさい!と思うのだが・・・。
そうすれば、JRの代わりに阪急で京都に行こうか、と思う「阪神間の客」は増えるだろう。大阪の客が京都や神戸に行く、または京都や神戸の客が大阪に行く流れだけを考えている阪急経営陣の頭は、どうしようもなく古いのだ。
阪神間だけを移動するなら、阪急でもいい。僕も、学生時代までは阪急だけ乗っていればよかった。
でも、いま新大阪に通勤するにはJRしかないし、京都へ遊びに行くのに阪急で行こうとは思わない。
「スルっと関西」なんてソフト面でJRに対抗するのはさておくとして、ハード面も伴ったネットワーク思考が欠けている。50点頭なのだ。
そりゃーたしかに「宝塚や箕面や阪神間の沿線開発地域と大阪を結ぶ電車」が阪急の原型だったとはいえ、大阪中心で考えるより、京阪神、ひいては滋賀と瀬戸内を結ぶ広域ネットワークで考えるJRの方が、少しは利口だと思う(大事故は起こすけど)。
梅田を素通りする「広域移動」には、JRがダントツで便利。おかげで、梅田にはめったに途中下車しなくなったぐらいだ。
そうか・・・
ははーん、さては大阪の財界が、大阪を素通りさせないよう、阪急に京阪神直行便を走らせない闇の圧力をかけているのかもしれないぞ(笑)・・・なんて考えはじめると、ますます疑惑は深まってよろしくないが、僕と同じ「阪急客OBいまJR客」は少なくないと思う。
JR夙川駅は、(僕は通過するだけだから関係ないが)大歓迎。阪神の奈良作戦も、アッパレな発想だ。
大阪起点発想の阪急は、そろそろ脳ミソを入れ替えたらどうだ?
社名もよくない。
「大阪スルー電鉄」
これしかない!(笑)「阪休電車」でもいい。
いっそ阪急は、十三を大阪の玄関口にすればいいのだ。
「十三ギャグ」で笑わせてくれた故・岡八郎さんも喜ぶだろう。
単身赴任のような、家族ドラマのような・・・
at 2006 10/29 22:01 編集
明け方近くまで荷造り作業をしても、なかなか終わらなかった。
もう、泉のようにゴミがわいてくる。
思い切りのよしあしで、ゴミの量は変わってくるようだ。
さばさばしていると、どんどん捨てられる。
「これはいつか使えるかも・・・」「記念になるから」と思って取っておいたものは、いざ執念をあっさり解き放つと、「もう、ええわ」と簡単に手放せる。
この執着気質が、一瞬だけか、何年も尾を引くかが、ゴミの量を大きく左右する。
クセモノは、昔やっていたミニコミとか、大学時代のゼミやサークルの機関誌の類を「発掘」してしまったとき。非売品だし、片面コピー+ホッチキスの安っぽい冊子だが、こんなものでも、軽薄でクリスタルで、底抜けに明るい80年代が目の前に広がって、ついつい見入ってしまう。
僕の手元には、大学進学までの幼少年期の写真というものが残っていないので、20歳以降の人生絵巻だけでも貴重なのだ。
こんなとき、家族でいると温度差が違うものだから、ビジネスライクに淡々と作業しているときママが昔のラブレターを出してききたり、娘が家とお別れしていたりして、ドラマチックな引っ越しになる。
そういうのが、ないもんなぁ・・・
もっとも最近だと、「そんなものは、持って行けませんよ」と言われても、「パパは置いてってもいいから、この壁の落書きは持って行きたいの!という子は普通にいそうに見える。
ゲーム機は肌身離さなくても、ペットの犬や猫は置いて行ったりする。
で、何百kmも離れた新居に、買い主を追いかけて訪れた犬や猫なんかが話題になることもある。
捨てるような買い主を追いかけることもないと思うけれど、引っ越しは家族の愛情模様をあぶり出すリトマス試験紙になっている面は確かにあるようだ。「パパはニューヨーク支店に栄転だ♪」となっても、置いてかれることをそろって望む妻と子供・・・もいたりするから、引っ越しはもう、家族の愛情を測るイベントではなくなっているのかもね。
秘宝館廃止か?移転再開か?
at 2006 10/28 23:51 編集
あぁ忙しい。
そろそろ、頼んどくか〜と気軽に引っ越し業者さんに電話しはじめて、だんだん焦ってきた。かける先、かける先みな「満車です」でアウト。いかにも「え、あさってですか〜!?」と驚いたような声のトーンは、言外に「バカヤロー」を匂わせている。
たしかに、最近やたらCMを見るような気がするから、引っ越しシーズンなのだろう。
そんな大手業者は全滅。
10件目に届こうかという「すがるコール」に、やっと地域密着運送店が応えてくれた。見積もりは明朗会計、ダンボールは前日までに届けておきましょう、ただ忙しくて先約を回ってから行くので夕方になります、と断りがあった。これはもう、しかたない。
ともあれ、今度ばかりは専門業者の2トントラックで「一掃」できそうだ。
あたふたと「魔界」にメスを入れはじめると、荷造りに夜通しかかりそうな気配。ワナワナ・・・
「ねぇパパー、このプーさん連れてっていい?」
「だめだ、今度のマンションはぬいぐるみ禁止だ」
「あーん、やだよ〜」
なんてドラマチックなシーンはどこにもないのが独り身の味気なさ。出てきた古いアルバムをめくり、「ありがとう」ってつぶやく・・・てな干渉に浸りたくても、そんな「ろまんちっくアイテム」もない。
つくづく、味気ない暮らしだなぁと思う。
前回のプレ引っ越しに集まってくれた悪友たちは、天然男たちだから、「ろまんちっく映像ソフト」のおすそ分けを期待しているような口ぶりだったが、それもない。
どこかに、景気よく空気をパンパンにつめた人形でも隠しておいて発見してもらおうか?(笑)
南極何号ならともかく、角刈りで柔道着を着た細川たかし似の人形があったりすると、後々語り草になりかねないから、あれは空気を抜いて畳んでおくとするか(!?)。
ステーション・ポータリビティー!
at 2006 10/27 15:47 編集
再び、琵琶湖岸の新幹線駅誘致問題。
このゴタゴタに嫌気がさしたのか、栗東市職員の新規採用内定者は、一人を除いてほとんど辞退してしまったらしい。代わりに馬でも採用するのだろうか。
栗東市がはじいた新駅の経済効果予測は、どうも怪しいぞ・・・ということで、滋賀県が調べなおしたところ、予測は半額ほどだったという。
どちらの調査も政治的な意図がこもっているはずだから、おそらく正解は「間」にありそうだが、やはり見込みは甘いのではないだろうか。
この秋のJRダイヤ改定では、京阪神を結ぶ通勤電車が福井県まで開通した。西は瀬戸内・姫路、東は北陸・敦賀まで直通、しかも特急・急行料金もいらない!というのは画期的だ。
太平洋と日本海をつなぐ通勤電車なんて、全国にどれだけあるだろうか。
もちろん、JR西とJR東海と行政の仕事はそれぞれ別だが、こんな風に在来線をもっと便利にする方が、投資対効果は大きいのではないか?と素人目には見える。
どうしても造りたいなら、新駅をとりあえず開業してみて、あてがはずれたら即ご破算にするぐらいの潔さがあってもいい。ただ閉鎖するだけだと「もったいない」から、どこかに移転すればどうじゃろか?と思ったりもする。
たとえば、品川駅の次に「新品川駅」なんか、どや?(笑)というのは悪い冗談ですむが、京都・大阪の中間に新高槻駅というのは、アホな政治家がまじめにぶちあげそうな話ではある。
あと、在来線乗り換えの要衝になっていて、空き地も広々とある尼崎駅(大阪駅から5分!)も、「新」がつくとおもしろい。
もう、新幹線と新快速の違いが紙一重になってくる。
大阪のベッドタウンになっている三田市には新三田駅があるから、ここは駅名を変えなくても新幹線駅にできるのがアドバンテージ!(もしかすると、新幹線が通ることを見越して新三田駅を開業していたのかもしれない)。
福知山を突き抜けて、「山陰新幹線」としては悪くないルートである。
とまぁ、昔ウルトラセブンに出ていた「空中浮遊する都市」みたいな感じで、あちこち仮設駅を動かしてみて、経済効果をみればいいのだ。
レンタル料金とか命名権料なんかをくっつけて、浮遊することで収益が上がる駅なんて路線もいい。
利用者にとっては、こんな駅は迷惑でしかないだろうけど。
履修偽装高校
at 2006 10/26 22:48 編集
全国の高校で発覚した履修漏れ・・・というより、履修偽装といえるほど確信犯もあったようで、地方の進学熱心な高校が、幕府に従わない藩になっていたということか。
それほど地方では高校が予備校化していて、受験シフトせざるをえないのだなぁという事情が浮かび上がってくる。
今の大学受験で、社会科の選択は、必修のはずの世界史が25%、日本史42%、地理33%になっていて、この世界史が主に偽装のターゲットになっているようだ。
ただ、この受験シフトゆえの履修偽装は、生徒や保護者や教師まるごと一蓮托生になった要望でもある。「生徒に罪はない」と擁護していた校長先生もいたが、「入試でいるかいらないか」で科目を選び、「偏差値が上がる授業」を求めているのは、生徒自身ではないのかな?
オトシマエは、補習である。
何十時間か、多い高校で200時間の補修を受けるはめになるようで、ご苦労さんなことだ。
まぁ、それで卒業できなくなって大学合格が無駄になるようなことには、ならないだろう。形式的に春休みあたりに集中授業をして、「居眠りしてていいから授業を受けているふりをしろ」「試験は全員通してやる」ということになる。いや、そうならなければ暴動が起きる。
つまり、受験に直結しない授業なんて、「儀式」になっているのだ。昔から。
文科省の学習指導要領が、どこまで大学受験シフトすべきか、純粋に高卒者が習得してほしい学科構成であるべきかは、これから議論していけばいいと思うし、そのきっかけになった事件ではあると思う。
時代によって、必要な公教育コンテンツは違ってくるだろうし、社会科に限っても現代社会が消えたり、倫理社会はけっこう大事に思えてきたりする昨今なのだ。
公教育で足りない部分は予備校で、といっても、経済的な余裕がない家庭や、予備校がない地域だと、おいそれとは補えない。こうして「大都市圏の裕福な師弟」とのさまざまな格差が開いて行くのは、問題ではある。
「社会に出てからが勉強だ」てな乱雑な意見もあるけれど、18歳の受験の結果次第で、かなりの程度、社会のどの層に属して行くかが決まってしまうのが現実。
だから、現役の高校生と保護者は「我が子の通っている今の高校」で頭が一杯になってしまうのも無理はないだろうなぁと同情する。
そこは、企業で何十年のキャリアを積んでいる親が、長期的に学歴の意味について大人のスタンスを持って、我が子の進学を考えてほしいと思う。「進学だけが人生じゃない」と、本心からいえるのかどうか。
となると、親の責任も重大になってくる。教諭は教育行政の世界しか知らないから、自分の業績は「○○大学進学させ率」でしか自分の評価基準がない。あと教えられるのは、教員試験合格術ぐらいだろうから(笑)。
たしかに、働きながら、必要に応じて経済や法律や情報処理や医学など勉強できる社会教育、リカレント教育の必要性は、僕が前々から訴えてきた選挙公約だが、考えれば考えるほど広い問題だから、あえて下世話で個人的な「せまーい補修希望」を叫んでお茶を濁しておきたい。
女子高生と机を並べて勉強したかった!
である(笑)。
下足箱にラブレターを入れさせたり、第二ボタンを下さいと言わせたり、インターハイのアマチュア無線の部でモールス通信優勝を木陰で祈ってもらったり・・・(結局そんなチャンスに恵まれない少年だとわかっているから、全部たのんでしていただくのである)、そんな青春よプレイバック!!
・・・と願ってもしかたないか。
こういう授業以外のオカズは、未消化な大人が多いと思うから、ビジネスになるかもしれないのだが。
腹の出たガクラン姿や、オババのセーラー服や、怒った瞬間に脳卒中の鬼監督・・・で阿鼻叫喚(笑)。
もちろん、メインコンテンツの国語も英語も、けっこうおもしろいと思うぞ。教育実習で来た女子大生や好青年を、いぢめ抜いてやろうと待ち構える親世代の生徒たち!
というのも、ときめくではないか。
幸か不幸か、僕は優等生であったので(そりゃ就職クラスにいたからか)、補習の必要はない。ただ、「女子高生」が一人も一カケラもいなかったのが、悔やまれてならない。
母校は男子校のままでいいから、万葉集とか古今集なんて独立した科目はやめて、「コンパ」「出会い」「ナンパ」に置き換えて補習をしてほしいものだ。
しかしまぁ、美しい国づくりを反映したような、右寄りの母校だったなぁと懐古するばかりである。
ナンバー・ポシビリティ
at 2006 10/25 20:57 編集
ナンバー・ポータビリティが解禁。
といっても、実際に動きはあまりないようで、すぐ競争激化とは行かなかった。
すでに各社とも、長年の顧客を囲い込んでいるということか?
僕の携帯は旅行のときしか携帯しないので、古い機種のまま特に不自由もないのだが、たしかに10年近く使っている1号機PHSと、最新の(といってもドコモの505シリーズ)2号機を合わせても、維持費はめっぽう安い。特に、長年のユーザーはドコモ率が高いから、あえて割高な乗り換えをしようとしないユーザーが多いのかもしれない。
手数料5000円なりを払ってもほしいサービスがよそにあるのか、それと別に単価何万円も払ってでもほしい端末がよそにあるのかと考えると、ふと頭が覚醒してしまうのだ。
それほど、似たり寄ったりの品揃えなのだ。
個性的といえば、一人負けするのではないかとささやかれているソフトバンクは、ウィルコムをパクって自社端末同士は通話無料なんて打ち出していて、もう破れかぶれ感さえある(笑)。
売りのアクオスケータイは、特定の文字列入力で幻想的な反応をするというので話題になっていたし、この会社からは目が離せない。ある日いきなり孫社長がフサフサになって登場するぐらいのことも、やりそうだし。
テレビは空き時間にチェックできればいい程度にしか見ていないので、ワンセグでいいか・・・と食指を動かしているところだが、まだ機能がこなれていない。
録画できても画像はコピーできないとか、いろいろプロテクトがかかっているのだ。来年のドコモのアクオスケータイでは少し緩和されるようだが、どうせそうなるんだから、いっそ潔く機能ブレークしてほしいものだ。
今は、手軽さと「もどかしさ」とのジレンマで、自然に買い替え控え状態、というところかな。
わが本命は、時期未定のPHSナンバー・ポータブル化である。
050をIP電話にとられ、060で落ち着いていたら070に移れといわれ、ケタ数も勝手に増えて、なにやらPHSは哀れな流浪の民なのだ。おかげで、不変の下4けた番号にはむやみな愛着があるぞ。
まぁ、来年度中にドコモが撤退するから、いやおうなくキャリアを替えるしかない。ウィルコム独占市場というのは、ちょっと癪だがなぁ・・・
だから、ドコモやauでは見えない「社長の顔」があるソフトバンクは、ケータイ市場ではあっさり負けて、PHSに乗り換えるのも手ではないかな。いっそ、PHSはヲタのハッテン場として生き残ればいいのだ。
5ドル定食
at 2006 10/24 22:38 編集
また新しい定食屋を発掘した。
チェーン展開しているようだから、とりたてて珍しい穴場でもないだろうが、鮭の切り身二丁が乗ったちゃんちゃん焼き定食650円、松茸と野菜の炒め定食690円、五穀米のとろろ丼580円・・・という具合だ。
ご飯の量が少なめで、ちょうどいい。
割安感あってか、いつも店は混んでいて、安い店特有の若い客が嬌声をあげてはしゃぎまわっていたりする。
それと、なぜかいつ行っても必ずといっていいほど外国人観光客がいて、もの珍しそうに和定食屋にチャレンジしている。
ガイドブックにでも載っているのだろうか。
食券の販売機で戸惑い割り箸にとまどい、付け合わせの漬け物に顔をしかめている(笑)のは、決まって白人系だ。ま、和食の味にめざめて下さい。
日本人と似た観光客は、もう手慣れたものだ。
その分野について僕はまったく知らないので「アニメ」としかわからないカードをごっそり買ってきて、店で点検しているOTAKUさまグループに囲まれて、僕は孤独なんだかにぎやかなんだかわからん晩飯をとっていた。
僕の向かいで親子丼を先に食っていたあんちゃんは、仲間に「それ何が入ってるの?」と聞かれて、chicken and eggと答えていた。そりゃあまりにもその通りだが、丼の感覚をつかんでませんな。
案の定、そいつは具だけ早々と食ってしまい、残った「汁かけ飯」を黙々と食っていた。今後の上達に期待したい(笑)。
でも、こんな不手際も、旅人にとっては「異文化」の楽しみなのだろうと思う。どの国でもマクドでスイスイ、片言の片言英語で注文OKというのも、便利なようで味気ないから。
日本にきた観光客にしても、5ドルかそこら相当の「和風の定食」を食べて、ジャパニーズ・キュイジーヌだと思われても困る。海原雄山でなくても、これは許すわけにはいかないのだ(笑)。
和風やフレンチ風、イタリアン風、中華風・・・が混沌となっている全体が、和風な雑食性というものかもしれないが、「ここに連行したら何国人でも脳天落雷の大ショックを受けて和食に開眼する!!」というような、600円程度の定食屋がないものだろうか(あぁ、無理か)。
そういう「美食洗脳倶楽部」が無数にあるのは中華の強みだろうが、寿司屋も蕎麦屋も、がんばってほしいものだ。
リットー調査団
at 2006 10/23 16:23 編集
新幹線の新駅を誘致するかどうかでもめていた栗東の市長選挙が、投開票された。
案の定、現職強しの地方選挙だから、「やっぱり駅ほしい」派の現職が当選はしていた。
当選は当選だから、これで「よーし駅つくるのじゃ」と勢いづくのもしれないが、民意の実態としては、当選者を支持しない票が6割だったのだ。知事も「駅いらないわ」と公約して当選している。
こんなとき、県知事のマニフェストと市長のマニフェストの、どっちが優先されるのだろうか。
滋賀県民の気持ちはよくわからないのだが、同じJRアーバンネットワークの沿線住民として見れば、「新幹線駅がなくても、新快速があればいいんでないかい?」とも思う。
180億円もかけて駅を造って、さて需要はあるのか、駅前再開発やなんかの公共投資は回収できるのか、草津駅や彦根駅や大津駅まで「うちにも新幹線」と名乗りをあげてこないか(笑)等々、問題山積であるね。
僕は個人的にファンである嘉田知事は、県民の人気はあるのに役所からは不人気だ。かわいそうに。
それなら、「東海道新幹線新駅凍結」が県知事公約なんだから、いっそ「ニュー新幹線」を通して、好きなだけ駅を造ればよろしい。たとえば琵琶湖一周の環状新幹線というのも、総延長200kmぐらいになるから、けっこう乗りごたえはあるだろう。
湖北の余呉もマキノも高島も志賀も「駅ほしい」と言うだろうから、20ぐらい駅を設ければいいのだ。そこを時速300kmでは目が回るから、駅に番号をつけて、この便は偶数駅に、この便は奇数駅に、スペシャル便は5番飛びに停車する・・・というようにすると、どの駅も公平になる。まるでルーレットである。
乗り間違うと厄介なことになるが、それは今の新幹線でも同じこと。この「のぞみ」は、この駅に停まるんだろうか?と戸惑うことがあるからね。
そもそも、当初の趣旨を尊重すれば「のぞみ」なんかは博多・新大阪・名古屋・東京だけ停車でいいと思うし、飛行機と対抗するなら「のぞみ」の上に「回天」でも新設して、博多発・東京停車・盛岡直行なんて弾丸列車にすればいい。
割り切る潔さも守らないと、「うちの村にもリニア駅を!造らないなら用地売らないよ」てなことになってしまう。
すでに、のぞみを、うちにもうちにも!!せめてひかりを!・・・と「こだま駅」がおねだりするから、のぞみはひかりと大差なくなってしまったのだ。
なんだか、エレベーターに乗ったらいたずらで全部のフロアのボタンを押してあって、各停になってしまった歯がゆさに似ている。
栗東駅は、ローカルな問題のように見えて、新幹線駅が増えるかどうかという問題なんだから、全国の鉄ちゃんが論じ倒す格好の話題になる可能性がある。
また、そうなった方がいいとも思う。「もう、宮城県の鉄ちゃんまで、なんで栗東駅をごちゃごちゃいうの!!」という気持ちだろうけど、停車駅と通過地域のメリット・デメリットを、交通経済の枠組みで考えなければいけない。
そこが、途中停車しなくていいエアラインに勝つための、「鉄の使命」なのである!(笑)
そのうち、駅が増えすぎて、今度はリストラ駅なんてのも出てくるかもしれない。
造ったはいいが、すぐ用済みになってしまった「新品ピカピカの廃墟」なんてのは、上北沢暗室アルベルト室長あたりが喜んで撮影に行くだろう。
「レコパル熱」再来?
at 2006 10/22 22:51 編集
渡辺香津美さんのDJでジャズ番組を堪能。いい感じの「深夜感」だ。
たいてい留守録音を夜中にプレイバックすることになるが、聞いているうちに寝てしまう。トーク番組も、1時間たたないうちに確実に寝てしまう。
人が語る声は、最良の子守歌になるようだ。
夜通し電灯をつけているから、おしゃべりがにぎやかで明るい部屋で安眠するクセが、すっかり僕の身についてしまった。
深夜ラジオを聞きながらの勉強というのは、あんまり僕には経験がないが(実際、勉強にならないだろう)、ステレオをかけながら寝てしまうことは、しょっちゅうだったし今もそうだ。
ウォークマンやi-podを聞くのとは別次元の、部屋がコンサート・ホールになる「夢見装置」が、ステレオという家具。
あぁ、オーディオ・コンポも新居で再構築したいなぁ・・・と思ってオーディオ雑誌を見ると、基本的にマニア度は
オーディオ青年、オーディオ少年が、そのまま年をとってオーディオおじさんをしているからだ。
今のトレンドは、5.1chサラウンドでホーム・シアターを!!がブームだとか。浦島太郎の僕には、プラズマも、フルスペック・ハイビジョンも、なんのことやら、さっぱりわからない。
昔から、4chだのスーパーウーハーだのバイノーラルだの、いろいろな立体音響がはやってはすたりをくりかえしてきたものだから、その1つの波にすぎないか、と構えているだけ。
2chで聞くとクインテットがデュエットに聞こえるわけじゃなし、「ウットリできるハイファイ・サウンド」が楽しめたらそれでいいではないか。
うるさがたのオーディオ中年には、「僕のアンプはマーク・レビンソン、スピーカーはJBL4343・・・」なんて言えばもう、殺し文句になって、ハハーッツ!!とひれ伏させるぐらいの威力があるものだが、こんな伝説をまとったコンポーネントというのは、今あるのだろうか。5.1サラウンドが、そうなるわけか?
映像を楽しむ道楽は、それはそれでいいとして、映画やテレビを見ながら寝てしまうと、どこか損したような、もったいない気がするのに、音楽を聞きながら寝てしまうと、幸福感が残る。
僕だけかもしれないし、その理由もわからないが、こんな錯覚を感じさせてくれるのも、「オーディオの懐」みたいなものかもしれない。
震災まで愛用していたラックスマンの真空管アンプとタンノイ・エクリプスを再び震わせる日は近い!(押入れの中で死んでなければいいが・・・)
リモコンつきCD・MDコンポの手軽さも、これはこれで捨て難いグータラな体になってしまったのが、ただただ悔やまれる。
来週の引っ越し助っ人は、同じくオーディオマニアで、トヨエツ同級生のK杯君だが、彼がゴージャスに一人暮らしする芦屋の広々マンションに行くと、同じくグータラになっていた(笑)。
「ブルータス、おまえもやな」と、ちょっと安心した。
M8はライカではなーい!!
at 2006 10/21 21:05 編集
毎月20日の写真誌チェックは、もうほとんど
なんで毎月、「最高画質」のデジカメが出るねん!頂点を極めたというカメラが、なんでこんなに多いねん?メーカーの提灯持ちにふけりおって・・・とブツブツ悪態をつきながら、アホらし。
と「総括」して終わり。
今は新聞夕刊の方がおもしろい。
産経の関西版に、抒情的な写真とともに連載されていた内田ユキオ氏のエッセイは単行本になったし、今は日経に宮本隆司さんが連載をしている。
静謐な建築写真、というより廃墟写真で有名になったかもしれない宮本氏は、阪神大震災で被災した友人に「ぜひ撮りに来てほしい」と請われて現地入りして、壊滅した被災地の光景に慄然とする。
その瓦礫の一部を使ってベネチア・ビエンナーレに出展したくだりは、小林康夫さんの連続対談集『表現者たち』(講談社)で語られているが、この縁なのかどうか、今は神戸の芸大で教えておられる。
そのキャンパス模様が短いエッセイになっていて、写真専攻の学生の「いま」が伝わってくる。
僕も「えっ、夜行列車というものを知らないだとー!?」と驚かされるのと近い昭和の終わり世代は、ときに「フィルムを見たことがない」と無邪気に語り、宮本センセイを驚かせる。
たしかに、写真はケータイ、使いきりカメラはフィルムにノータッチ、ちょっと真剣に構える子だとデジカメという時代に、あえてフィルムを装填するカメラを使う子はいないのかもしれないわな。
またある子は、印画紙を買って来て明るい部屋で開封し、小分けしてから学校に持って来たというので、感光するという現象を教えるはめになったそうだ。
感光という化学反応、光がレンズで屈折して像を結ぶメカニズムなんかを知る機会を、デジカメは奪ってしまった。たしかに、失敗カットはどんどん消せるし、費用を気にせず撮りまくれるし、パソコン→プリンターと直結して、プリントアウトも自前でできる。
そんなデジフォトの本質はとても便利で、僕もありがたく活用しているのだが、そこに宮本センセイは「失敗をおそれちゃいけないよ」とレクチャーをかましておられるそうだ。
そうだそうだ!(笑)
そういや学生といえば、もう、フィルムを知らない世代どころか、普通の学校教育を受けた日本人のほとんどは、鉛筆と消しゴムでノートを取るスタイルを刷り込まれていて、ことあるごとに僕は革命のノロシをあげては総スカンをくらっている。
書き間違えたら消しやすいから、鉛筆(シャーペン)で書かないと不安。そして失敗は消せばいい、と学習する。
鉛筆なんて摩擦があって疲れるし、消していると書くスピードが遅いし、かすれたりするし、ろくなことはないと思うから僕はボールペン派だった(中国では万年筆を使わせているそうだから、戦前の日本の旧制高校と似ている)。
ちょうど、デジフォトが好き、というよりフィルムを避ける現代人気質には、自分の失敗を消してしまいたい鉛筆根性(いや消しゴム根性か?)もあるように思う。
そうして撮られた写真は、コピーも偽造(レタッチともいう)も自由にできるから、こりゃまるで「鉛筆書きの契約書」みたいなものではないだろうか。
デジフォトのコンテストとかデジカメで撮ったスクープ写真なんてのも、偽造の競い合いをしているだけだったり・・・(だからモナちゃん、そこから反論できるぞ!)。
フィルムならネガ(ポジ)に唯一の真実が残るけれど、デジタルデータにオリジナルもクソもないからね。
シャープな感性の『SWITCH』最新号も、「フィルム写真は生き残るか」なんて特集を組んでたりして、最近フィルム派としては居心地が悪いったらありゃーしない。
別にデジフォトを駆逐しようとか、無駄な抵抗をする気はないけどね。
もう、これはこれで、写真ではなくデジタル絵画だと思えばいいのかもしれないが、二度と再現できない「フィルムに感光する瞬間の緊張感」が、創作の火花になるような気もするんだがなぁ・・・。
まぁ、LPレコードや針、真空管アンプなんてのも静かにはやっているようだから、「良心の感性」みたいなものに、淡い期待を寄せたい芸術の秋である。
遭難したら晩酌
at 2006 10/20 16:35 編集
神奈川県では家族が、奈良ではカメラおじさんグループが、山で遭難する行楽の秋である。
気軽に紅葉見物に出かけるのもいいけれど、危機管理が乏しいと人騒がせなことになる。
祖父と母とともに山で3夜をすごした娘っこ二人ともフリーターだったことまで報道されて、ふもとで安否を気遣っていたパパは、しつけの甘さまで詮索されるはめになる。
報道もちょっと眉唾なところがあって、家族ハイキングの先導者だったおじーちゃんは、「ヒマラヤ登山歴もあるベテラン」らしいのだが、今回の神奈川県の山では、高度計表示を1けた見誤っていたそうな。おいおい・・・。
1000mの山を100mだと勘違いして「わしらの下山スピードはダイビングなみじゃな」と満足したり、10000mに見えて「ぅぅぅわしらは、エベレストを超えたんじゃ〜っ」と狂喜したりするベテランというのは、ちょいと怪しい(笑)。
900mの六甲山でも遭難死するハイカーはいるぐらいだから、八十代の「ベテランのOB」と、登山は初めてという孫娘たちが、低い山を甘く見てしまったのかもしれない。
僕も、晩秋の黒姫山で、日が暮れて途方に暮れて涙に暮れた(笑)ときは、「無謀登山者いい気味だ」なんて新聞の見出しが思い浮かんだ。
日が暮れた薮の中を漕いでいると、錯乱した脳神経の網の目をかいくぐっているような絶望感に襲われる。夜になると目視がきかないから地図もコンパスも役に立たない。
まぁなんとか偶然に登山道に戻れて、夜中近くに山小屋に駆け込めたから幸運だったものの、テントさえあれば、泊まって翌日じっくりルート検索ができただろう。
いや、最初から「適当にテントで寝る」つもりでバックパッキングしていたら、遭難することもないわけだ。ケガや急病がなければ。
とすると、食糧や寝る場所やコース・チェックなど、自分以外のだれかに依存するほど、危険は増すということでもある。いざとなると、飢餓!野宿!?救援要請!?費用は・・・とパニックになってしまうからね。
遭難すること前提に、それなりの装備はいるのではないかと思う一方で、高度計やGPSやケータイなど、手軽な道具が普及するわりに遭難事故も増えているような気もする。これも、ハイテク小道具がお守り気分を与えてくれて安心してしまうからか?
一口のんだら一夜は体温を維持して安心して生き延びられる魔法の救命薬なんてのも期待したいところだ。
「結局そりゃー酒やがな」ということにもなりそうだが。
著作物は著作者を裏切る?
at 2006 10/19 23:29 編集
夢は時間を裏切らない
時間は夢を裏切らない
は、松本零士さん描く星野少年の言葉か、ケミストリーの歌う槙原敬之のオリジナルなのか?
と双方が争っている。マッキーの「銀河鉄道999は知っているが読んだことがない」という弁明は、ちょっと苦しいから、わざと999を777とでも言い間違えてみせると、もっともらしくなるかもしれない。
窮地に立たされたマッキー、銀河鉄道の名前だって松本零士のオリジナルなの?先人がつくったのかもしれないのよね!と噛みついている場合じゃないのだ(オカマ言葉に深い意味はない)。
しかし、オリジナリティはというと、ちょっと微妙なフレーズではあるな。
松本零士さんは自信満々で、また愛着もあるようだが、これぐらいは自由に使わせてもいいのではないか?と思う言葉でもある。
それに、なんだかありがたい格言のように見えて、意味不明な気もしてくるぞ。夢は時間を裏切らず一緒にいるというなら、「夢がかなうには時間がかかるでー」とも受け取れるし、「時間が夢を置き去りにして過ぎ去って行く」ようにも思える。
いっそ、「夢は現実を裏切らない。現実は夢を裏切らない」の方が名文句ではないかい?
おっと、そうなりゃ夢を見るなといわんばかりの現実的なフレーズだが(笑)。
「阪神優勝」ぐらいでも知的所有権が認められるご時世だから、気のきいたフレーズは使いにくくなって行きそうな気もする。
もちろん、著作権は守られなくはいけないし、パクリとオマージュはきちんと区別されるべきだと思うが、純粋にビジネスライクな話でもない。芸術文化の創作の世界に、権利やらソリューションやらを持ち込むと、つまらなくなって、業界全体がやせ細って行くかもしれない。
松本零士さんのような大御所からすると、「一言あいさつぐらい入れるのが礼儀だろう」てな仁義の感覚から憤っているのではないか?とも思う。たとえば、堂々と「好きなラフマニノフのピアノ協奏曲へのオマージュ」と明言してAll By Myselfを書いたエリック・カルメンのように、フェアプレイで行けばいいと思う。
しかし現実に、マッキーと松本零士の距離感は、エリック・カルメンとセルゲイ・ラフマニノフより遠かったということなのか・・・おかしいね、せまい日本の芸能界なのに。
新書365冊は6年
at 2006 10/18 22:39 編集
朝日新聞社が新書に乗り出してきた。
ときどき新幹線で出張してきた宮崎哲弥さんを見かける書店で、どれどれ〜と朝日新書の品揃えを見て、その宮崎哲弥さんの『新書365冊』を購入。
帯には、「ミヤテツさん、読みすぎです!」と突っ込みが書いてある。ミヤテツなんて、「宮崎鉄道」みたいで、もしかして宮崎氏の秘められた趣味へのオマージュが埋め込まれているのかもしれませんなぁ。
疑惑はともかく、新書だけで毎月60冊読んでいるという。あいやー!読みすぎです(笑)たしかに。
僕の1年の新書消化量ぐらいではないか。ケタちがいやがな。ヒヤーッ・・・
新書100冊の書評集だから、どこからでも拾い読みできるし、それなりにおもしろく読み通せた。いやはや博覧強記なミヤテツさんの「読みすぎっぷり」には脱帽。
それでも、都市論や家族論などの社会学分野の新書は、いかにも社会学のタームを借りて書かれていて「おぉ、あんたもシャガクねぇ」と苦笑しつつ、少しは回路の接点を感じたのだった。
自分のおハチの政治分野の名著には、何ページも割いて熱烈推薦を寄せている反面、だめ本はケチョンケチョン。これも小気味がいい。
たとえば、トンデモ科学、似非科学本には手厳しくて、『ケータイを持ったサル』『考えないヒト』がヒットした正高信男なんかは数行でトンデモ扱い、「頭のいい人悪い人」の作文マニュアル本を乱発している樋口裕一に至っては、「かくも頭の悪い人の本がなぜ売れる?」の1行で切り捨てている。いやはや爽快。
感覚が合うなぁと思うのは、「無反省な越境」への警戒で、たとえばエンジニアが天下国家を論じたり、心理学屋さんが医学に踏み込んだりすると、往々にして基礎知識の欠落から理屈が破綻して「トンデモ」か「オカルト」に飛躍してしまう例がよくある(水に語りかけると愛情が通じていい水になる!なんてのが、僕を最近笑わせてくれたトンデモおとぎ話だった)。
動物の子育てを人間に置き換えて教訓にしなさいと諭すアナロジーや、遺伝子や環境ホルモンで社会病理を説明してしまう還元主義が、これまたヒットしたりするから、こんな「迷著」にミヤテツは手厳しい。中でも「脳モノ」の本を警戒しているようで、たしかにそんな気もする。
似非科学イコール宗教でもない、宗教書は宗教書としてきちんと評価して、怪しい宗教書まがい(たとえばニューエイジもの)はちゃんとあぶり出している。
この中でも、自分の立ち位置を仏教徒だと明言しつつ、霊魂をもてあそぶ世俗仏教やイカサマ坊主にもちゃんと鉄杭を刺している。
よく仏教を論じているニューエイジ学者の上田紀行なんかには、ちょっと批判的な評価のようだが、さてどんなもんだろう。
宗教論になると、論者の「目利き度」や良心があらわになってくるから、これからのミヤテツに、「お手並み拝見」である。
もの言えば 唇寒し ほっとこか
at 2006 10/17 12:14 編集
福岡の中学生の自殺は、担任教諭の差別発言だった!?
と告発が出て、どんどん出るわ出るわ、下品な冗談にもならないゴミ発言。
女子生徒には「豚」、ちょっとした親切をした子には「「偽善者」、そして今はこの世にいない当の生徒には、「イチゴが腐ったかのような表現」とぼかされているが、推して知るべし「再現できない言葉」なのだ。
こやつがまた国語教師らしいから、刑罰や民事責任を負うのでなければ、失語症になるのが報いというものかもしれない。
とはいえ、「犯人はこいつだ」と標的を決めて、いじめがなくなるわけではない。
担任教師の発言の責任は一番重いとは思うものの、差別的な教師に対して、このクラスには「抗体」ができなかったのだろうか。
「先生、ひどい!」
「そうだそうだ、○○君に謝れ」
というような連帯が生まれないほど、先生が専制的で(ダジャレかましている場合じゃない)、生徒たちは萎縮していたのだろうか。
もし、生徒一人一人が「あの子と先生」の問題に無関心であったり、ひどい場合グルになっていじめがはやるようなクラスだと、教師をつるし上げても本質は変わらない。次は、学校以外の場でいじめが潜行するだけだろう。
いじめは、取り巻きや傍観者がよけいに悲惨な構図を招くことがある。下手にいじめられっ子に味方して報復されるのも怖いから、知らぬ存ぜぬ・・・これでは、「気づきませんでした」という校長や教育委員会と同じ発想ではないか。いや、校長や教育委員というのが「中学生なみ」ということなのか。
今回のケースは、いじめっ子が担任教師だったようだから、なかなか盾つけなかったことだろう。教師が女生徒を「豚」と呼ぶのに相乗りして、同級生も「豚!」「豚!」と呼ぶようになった・・・なら、もちろん教師が主犯格だとしても、相乗りした生徒にも罪は問うべきではないかいな?と思うのだ。
でないと、主犯を断罪して共犯を免罪(こういう禊が日本人は好きだが、主犯と共犯が固い絆で結ばれている共同体であればこそ効果がある儀式なのだ)するだけだと、共犯は「新たな主犯」が出てきたとき、再び同じようないじめの温床になりかねない。
もしも、ひょっとして、件の中学教師が「クラスが団結するか分裂するか、反応を見るためにあえて偏った発言をしてみた」なら、それも1つの働きかけではあるかもしれない。僕も、「マヨネーズお好み焼き」を激しく差別してみせたりするが、これは若い子みな団結して反撃してきやがる(笑)。
でも、具体的な生徒をコケにするのは御法度で、マヨネーズやファストフードなど、できるだけ人格のないモノを貶める方が愛情というもんだ。
いじめと自殺そのものは、もう取り返しのつかない結果だが、その処理を誤ると、悲劇がなんの教訓にもならず、いじめは連綿とくりかえされる。そんな予感が残る学校事件は、気が滅入る。
学習しない学校組織というのは、つきあっているとバカを学習するだけ。時間と税金の無駄である。
ひとさまのマイホームへの夢
at 2006 10/16 18:16 編集
ありがたいことに、男ども3人と軽トラそれに3ナンバーのワゴン車が出動してくれたのに、一気に引っ越し完了とは行かなかった。
しょぼい買い出しと、しょぼい小荷物の搬出で、「プレ引っ越し」の日曜日。なんだかなー、我ながら要領わるいぞ。
それというのも、DKをかたづけはじめて、これはもう掃除の次元ではない、産廃業者に来てほしいほどの汚染の巣窟であることがわかり(笑)、友人を病気にするわけにはいかん!と変な遠慮が働いてしまったのだ。そんな意味で、引っ越し人夫は気がねしなくていい業者が一番、という説も納得できる。
軽トラを借りてきてくれた親切なホリエクンとしゃべっていると、「パパの鑑」のような奮闘ぶりに、あぁ病気・ケガをさせるわけにはいかん!と感じ入るあまり、なおさら人夫扱いはヒツレイに思えてくるのであった。
筋金入りのカヌーイストが、「今年はどこにも漕ぎに行ってませんわ。たまの休みに、赤ん坊背負って自転車で近くの公園に行くぐらい」と苦笑しつつ、良きパパ良き夫へ全身全霊シフトしている。これはもう、邪魔してはいけない立派な家庭人兼仕事人の偉大な姿であるね。
最近よく言われる「ワーク・ライフ・バランス」なんて、僕なら「両方しないバランス」とうそぶいて遊びに出るだろうが、ホリエクンは101%と99%ぐらいの奮闘ぶり。200%フルスロットルの働く良きパパである。
まぁ、永遠に続くわけではないから、あと20年ほどの辛抱(笑)というところかな。
今は、世間の子持ち族と同じく「マイホームか、賃貸借り替えか」で悩んでいる様子。
どうも51対49ぐらいの割合で、「賃貸の方がリスクは小さいかなー」という心境のようだが、たしかに悩ましい選択だと思う。
もしかすると、伊根の舟屋のようないかしたカヌーイスト・ハウスを建ててくれるかもしれないし、MTBやRVのガレージを最初から組み込んで、趣味の仲間がドヤドヤ集まって、さぞかし子供にとっては刺激的で楽しい我が家になるだろう。ワハハハハ
その「ドヤドヤ」の首謀者はたぶん僕で、「おーい奥さんビールもう1本!」と好き勝手なくつろぎ方を満喫する。
ようやく日付が変わって退散した後、嵐の過ぎ去ったホリエクン・ハウスで主が配偶者からどんな視線を浴びているか、知ったこっちゃない(笑)。
あー、恩を仇で返す罪人になりそうで、まことに申し訳ない。
こうして予告篇を流しておくと、受け身ができているだろうか・・・?
パンドラの箱クリニック
at 2006 10/15 21:54 編集
「その業界」では有名なドクトル根津が、代理出産を請け負っていたことを、何カ月もたってから認めて、波紋を招いている。
・・・とはいえ、「この医師」にして「あの代理出産」だから、驚天動地の大ニュースとまではいえない。
ちょうど、向井・高田夫妻の代理出産裁判や、愛媛の生体腎臓移植が話題になっている折も折だから、ネガティブなイメージの「キワモノ医療」というより、「そんな手があったか!」と妙に希望を感じてしまう一般国民も多いと思う。
今回は、出産できない娘のために、母親が娘とその夫との受精卵を宿して代理出産したということだから、母親の血を引いた子が祖母から産まれた、という形になる。
母親になりたい女性にとっては、学会除名その他のバッシングをものともせず助っ人を買って出てくれるドクトル根津は、卵子を提供できない女性の姉妹から提供された卵子を使った人工授精を初めて実施した方でもある。
その際に、「第三者の精子を使う人工授精と同じで、子を持ちたい夫婦の夢をかなえる正当な医療だ」という趣旨の会見をしていたように僕は記憶している。
一抹の違和感はあるものの、この違和感と、生殖技術の「恩恵」と、どっちが正しいのか考えると、心もとない気分もする。
第一、被害者がいない。
関係者がそれぞれの呵責なり負担なりを覚悟した上で、いや苦労するからこそ授かった命は、ひときわ愛しいのかもしれない。
もし、我が身ならどうだろう・・・と、ふと考える。
健康な妻がいながら、病気で「タネが尽きた」なら、弟に「おい、よろしく」と頼むのもやぶさかでない(弟からは依頼されないと思うが)。
ヒマラヤ登山に行くようなことがあれば、精子冷凍保存も考えるかもしれない。オーストラリアだったか、男性の事故死の直後に精子が採取されて妻か婚約者との間で子をもうけたケースもあり、「死後生殖」が話題になったこともあったっけ。
妻が卵子を提供できず、その姉妹が「無償で代理提供」してくれるというなら、断わるだろうか。出産できない妻に代わって産んであげるという親族がいたら、断わる方が残酷な気もする。
親族の中でこういう「代理」が行われると、報酬が生じない限り正当な歯止めをかけようがないから、かなりハードルは低くなってしまう。
こんな場合のハードルをあれこれ考える――主に批判的に――のが生命倫理学で、僕も長いこと研究会活動にかかわってきたのだが、弊害より恩恵の方がクローズアップされるようになってきたのを感じる。それほど、生殖技術はポピュラーになってきている。
批判の1つに、「子供にとって親の認知が混乱する」という懸念もあった。
これも、どこのだれだかわからない(ようにされている)匿名の代理母より、「あなたは確かにパパとママの血を分けた子だけど、産んでくれたのは叔母さん」という方が、まだショックは小さい気もする。
僕の姉は、子供のできなかった叔父夫婦の養女になって幸せな親子として育ち、僕とも父とも変わらず家族として生きてこられたし、こんな養子縁組と代理出産なり代理受精なりは大差ない時代が、間もなくやってくるだろう。
そもそも、叔父(伯父)や叔母(伯母)と、子供や甥っこ姪っこが斜めの親子関係を築いていた複合家族は、日本人にとっては違和感が少ないし、公的医療制度の枠内で匿名化されたり、精子・卵子・受精卵のブローカーが仲介して商業化するよりは許されやすいと思う。
もちろん、臓器や精子や卵子、子宮を提供するかどうかは当事者の自発的な意思にもとづくべきではある。
それに、こうした「親族資源」に恵まれた人と恵まれない人との不公平は生じると思うが、一律に禁止した平等というのも酷な話だ。
子を持ちたい親心は、最大限に実現できればいい。
「家族制度の安定・維持」より、望まれた命が健やかに宿って育つことが大事ではないかと思う。
歯止めは、ケース・バイ・ケースで練り直して行けばいいのだ。
一番の追い風は、人工生殖で授かった子供との、幸福そのもののファミリーが堂々と世に出ること。
「僕は試験管の中で宿ったけど両親の愛情満点です」と胸を張れたら、普通の家族で憎しみ合っているより、はるかに美徳かもしれない。
段ボール・ララバイ
at 2006 10/14 21:19 編集
夜中に段ボール捜索に出かける。あぁ、怪しいアジア人やなぁ(苦笑)。
意外にコンビニやスーパーは廃棄物の管理をきちんとやっていて、適当に持ち去るなんてことはできない。
昔は酒屋の前なんかに持ってけドロボー状態で山積みしてあったものだが、牧歌的な時代は過去の話。
アパレル店の前には、冷蔵庫が入りそうなほど巨大な段ボール箱がつぶされて廃棄を待っている。
衣類は軽いわりにかさばるから、梱包もあんなサイズになるのだろうか・・・それでホームレスはファッションビルの閉店時間に箱をあさって、快適な大型マイホームを手に入れているのか・・・と、妙に納得させられる。
ボランティアに通っていた博物館で、イベントといえば段ボールで家具や家を作るデモンストレーションをよくやっていたのを思い出す。もちろん、僕が主導で。博物館には、建材やハイテク機材を搬入したときの、たんす大の段ボール箱がふんだんにあったから、燃えてしまうのだ(笑)。
まるで、秘密基地を建築廃材で造っていた悪ガキ時代の再演のようなことを、僕は嬉々として現場を仕切り、男児女児を問わず、けっこう段ボールハウスは人気上々だった。少女建築家も少女建大工もいたし。
段ボール・ハウスは設計も増築もリフォームも簡単。そして、そこそこ遮音&断熱効果もあって、「寝心地」は悪くない。
川俣正さんだったか、現代芸術家が掘っ建て小屋のようなインスタレーションを持ち味にしていたと思うが、どれもつい気持ちが中に引き込まれる、不思議な作品ではある。
大のおじさんがキャンプに熱中するのも、この「秘密基地」原体験があるせいかもしれない。
僕なんかは「クルマで行くならテントいらんやん」と身もフタもないことを口走ってしまうけれど(だからテントは背負って行く)、男はわざわざ鋼鉄の箱があるのにテントを張りたくなるようだから。
昔あるOLの一人暮らしの部屋に遊びに行ったら、段ボール箱をつないだ摩訶不思議な塔があって、猫の遊び場なのだと笑っていた。毎日飽きずに天井近くの「階」まで上り下りするから、運動不足の解消にもなるそうだ。
確かに、わが家にいた歴代の猫たちも、狭い魔宮のような空間が好きだった。子猫は出られないような隙間に入り込んで悲鳴をあげていたりするし、とんでもないところに入り込んで出産する雌猫もいた。
もしかすると、「段ボール箱入り息子」の僕は、猫成分が濃いのかもしれない。
猫ひろしはどうなんだろう。聞いてみようかね?
懲りないザウ中
at 2006 10/13 18:39 編集
ザウりぐせが治らない。
ピカピカのザウルスが、売れ残ってワタクシを呼んでいる。
・・・ように見えた。
現代人ケータイ中毒症を笑えない。もう重症の「ザウ中」である。
いまやケータイやスマートフォンが手帳代わりになって、PDAの低迷が止まらないのか、神戸のソフマップなんかじゃ、中古PDA売り場まるごとなくなっているではないかっ!!
というわけで、大阪へパトロールに行くと、ガラスの檻の中から「救い出して、第一線で働かせてくれ!!」と懇願する目(笑)。
ありがたいのか、やるせないのか、ともかくトホホな安値で救出」してきた。クリエも安い安い、ジョルナダやインターリンクなんかのHPC2000も投げ売り価格だ。
そんな中で現役でがんばっている「ザウ千」は、いま使っているモデルと、クロック5MHzぐらいしか違わない上メモリー構成は同じなのに、動作がきびきびしているのは不思議。
USBホストがついたので、キーボードを外づけしてみようとか、HDDつないでみるか?と、拡張の野望(笑)が出てくる。そんなことしていたら、せっかくの「胸ポケに入るリナックスPC」が、身動きとれなくなって行くだろうに。
買ってすぐ単体で一通りのことができるのも安心できる。
データを移して、前の動作環境を引き継げるのは、定評あるザウルスの「人徳」みたいなものだが、赤外線でやると2時間近くかかったのは閉口した。
なんとか、設定も住所録もメールデータもブックマークその他のファイルも全部移して、「クローン・ザウルス」が完成。
いやー快適だわ、この操作感。
なのになのに、旗色が悪いPDA。
ケータイにPCファイルビューワーやらフルブラウザーやら押し込むより、逆にPDAに電話機能をつけた方が、本当に「業務通話しながら業務書類作成」ができるのに・・・と思っている間に、W-ZERO3が出た。
こいつがPDA客を吸い寄せてくれたおかげで、「純PDA」が売れ残って値崩れしているのかもしれない。変な恩恵である。分譲マンションブームが賃貸マンション家賃相場を下げてくれるようなものか?
ともあれ、ザウルスはジャイアンツよりは不滅です!と讃えながら、この日記を「5代目」でポチポチ打ちまくって行こうと思う。
オーバースペック家電
at 2006 10/12 20:49 編集
ありがたいことである。「引っ越し人夫」を買って出てくれる仲間や、その口コミで集まってしまった。アウトドア野郎たちだから、パワー満点である(土建業や自衛隊員の友人がいれば、鬼に金棒・ジョンイルにトマホークかもしれない)。
人夫1号の「ホリエクン」が、転居先を豪邸地帯だと勘違いしているようで、「豪邸地帯=大沢さん金持ち=日当たんまり」との推理が伝染した気配もあるが、事実誤認とサスペンスと大どんでん返しに出くわすことになるだろう(笑)。
まぁ、ちゃんと礼は尽くそうと思うが、僕が「当事者」としてすべきことはさっぱり進んでいない。さみだれ風の出勤があると、なかなか片づけもうまく行かないのだ。
空いた時間に電器屋へ白もの家電を見に行くと、どいつもこいつも豪勢だこと。つくづく、豊かになったねぇと思う。不景気だ雇用不安だというのはウソで、実は消費天国でバブっているのではないか?
とかなんとか憤慨しつつ、腕組みして頬に片手をあてて、ワタクシは家電音痴で悩める昼下がりの主婦を演じていた。
「容量10キロもいらないわ、半分でいいの」と店員に伝えると、「お子様はそんなにいらっしゃらない・・・?」と勝手な見当をつけられるから、「うん、まぁ、一人だけやし」とごまかしておく(子供が一人ではない、世帯人員が合計一人である)。
洗濯機は、縦穴式に加えて最近の流行が出し入れしやすい横穴式だそうで、洗濯係のズボラを手助けしているようだ。
そうかいそうかい、そのうち下穴式洗濯機が出てくるだろう。
冷蔵庫も、250リッタークラスが標準で、野菜室だなんだと今はわけわからん小部屋がついているのね〜アラすてき!!・・・とは行かないぞワシは!
こんなにでかいのを置けば、ますます食べ残しが埋没してしまって、発掘作業をすると恐ろしいものが出てきそうだ。今の冷蔵庫は霜取りを数年に1回しかやってないから、冷凍庫にこびりついた氷は、けっこうな年代物になっている。
下宿学生は減っても、単身赴任やシングル中高年は増えているだろうから、もっとシンプルで安いものが並んでいてもいいのに、あいかわらず家電売り場というのは、家族生活が標準的ターゲットのようだ。
まぁ、しかたないといえばいえるけど。
とまどう家電の筆頭は、電子レンジだで、そういえば使ったことがないのだった。70年代から実家にはあったが、自炊生活にはないまま「何とかなって」きた。電子レンジよりポット、ポットよりアイロン、アイロンよりこたつがほしい。どれも、ないならないで何とかなるものだが。
電子レンジ最新鋭機は、グラタンだ炊き立てご飯だピザだ餅だと、細かな設定ができる。アラ〜いいわ買いましょう♪・・・とはならんぞ、まだまだ!!。
こうなると、まるで中に何も入れなくてもご飯やおかずができそうな気がしてくるから、いやはやアラアラの家電マジックではあるね。
こんな家電の魔法のおかげで、主婦がどんどんズボラになって行く気もする。
その上で育児支援??・・・わけわからん。
各実験
at 2006 10/11 20:48 編集
偉大なる将軍様が、人騒がせな火遊びをやりおった。
はたして核実験なのか、「核実験のつもり」なのかはわからない。地震計でマグニチュードいくらと出ていても、こっそり建造してた将軍さまの巨大銅像を倒してしまった揺れなのか、はたまた核実験とまちがえて原発を暴発させてしまったのかもしれない。そういうこともありありな、支離滅裂な国だから。
ただ、今度ばかりは中国が激怒しているそうだから、いざ王国が崩壊したとき、陸続きで難民が流れ出して行く先は中国か韓国しかないわけで(日本のカニ漁で網にかかるかもしれない)、アフターケアの方が大変だろうと思う。
勤勉な、ロボットのような小学生は、商魂たくましい日本の進学塾あたりが受け入れようとするだろうが・・・。
受け皿がない限り、将軍様が固執している「俺様体制の維持」は、結局そうならざるをえないのだ。
たとえ「民族統一」が悲願だとはいえ、ドイツのようには行かない気もする。
そもそも、民主的な混乱と、専制的な安定のどっちがいいかは、なんともいえない。タイの政変だって、プミポン国王がいなければ流血の内乱になっていただろうし、日本の戦後復興にはGHQが判断した君主制の維持(つまり天皇の処刑は回避、ただし象徴的に存続させる)が結果的にはよかったと僕は思う。
これがもし共和制にでも転換していたら、ひょっとしてアメリカの52番目の州になっていたかもしれない。
アメリカの建国者たちこそ国王の専制から逃れた移民たちだったが、専制政治の長所を経験的に知らない上に、建国者の手前、自分たちの創り上げてきた体制が世界一でなくては納得できないのかもしれない。
その反面、無能ブッシュは、ジョンイルやサダムの国民的人気や、ジャップの皇族への尊崇が、うらやましくてしかたないのではないだろうか。
不適切なおイタで蹴落とした前大統領「葉巻王子」が、ただの人になってもけっこう人気者だったり、その女房が次期大統領にかつぎあげられたりするのを見て、ブッシュの脳の中は「なぜだ!」で満ち満ちているにちがいない。
レーガンの時代ならまちがいなくガツンと反撃していただろうに、度重なる核騒動に、ブッシュは拳をあげていいものやらいけないやら、迷っているありさまだ。
将軍さまの側も、ちゃちな実験で国際社会の出方をうかがっている作戦かもしれないから、我々としては乗ってあげないイケズな態度も、効果があるのかもしれない。
なり注(なりゆきに注目しています)でいるとしても騒いだとしても、すること・しないことは大して違わず、どっちにしても日本人一人一人は何も行動しないんだから。
東京の政財界人連中にとっては、山手線の内側にテポドンが落ちて、ようやく身に迫る危険を感じるのではないだろうか。
うまいぐあい(?)に、もし六本木にミサイルが撃ちこまれたら、さすがに報道各社はお祭り騒ぎになりこそすれ、東北や北陸の原発が破壊されたって、他人事でしかないだろう。
「阪神大震災の1カ月後」が、サリン一吹きで吹き消されてしまったのを、関西人は忘れてないからね。
いざ日本に核ミサイルが命中したとしても、それは本番ではなく、日本人の反応を見る「各実験の1つ」にすぎないと僕は思う。
わけわからん県代表
at 2006 10/10 09:36 編集
国体が終わった。
予定された「地元優勝」。なんだかね・・・。
東北の某県代表で、卓球の強い国ふうの選手名も見えた。
どういういきさつで、この選手がこの県を代表することになったのだろうか。帰化したのか?
都道府県対抗という構図が、もう形骸化しているようにも見える。石原慎ちゃんの「国体やめたらどうかねぇ」発言も、ごもっとも感がある。
たとえば、青森県代表で出ている鹿児島大学生はギリギリOKだとしても、スキーヤーひしめく北海道の選手枠に漏れた道産子を大勢スカウトして、冬季国体スキー種目に臨む沖縄の学校なんてのも出てくる可能性はある。「沖縄に引っ越せば、生まれ育った北海道より国体に出られる確率が高い!?」とかね(僕も考えたことがある)。
なにかと話題になった高校野球も、「駒大苫小牧エース」は兵庫県人だったし、アフリカ人ランナーを留学させて大学駅伝にぶつける大学もある。
留学生を排除しろというつもりはないが、外国人留学生や内地留学生になってくると、いったい何と何が戦っているのかわからない。
いっそ個人戦としてやれば?とも思う。強ければいいのだ!となると、モンゴルからの留学生でそろえた相撲部なんてのも出てくるだろうけど。
国民体育大会の「国民」「県民」の資格は何なのか?
現にあるケースとして、中国残留孤児が一家で日本に「帰国」してきた場合、その子は日本人なのか、中国人なのか。日本で生まれた外国籍の在日外国人はどうだのか。
王貞治さんが国体に出られなかったエピソードは、50年たってもすっきりした形で収まってはいない。
個人的には、民族学校の生徒も外国籍の「定住者」も国体には出てもらって純粋にスポーツの祭典として楽しめばいいと思うが、ただ勝つために戦力として外国人選手を投入する手口は、あさましいといえばあさましい。
コトはスポーツだけにはおさまらない。
国会議員選挙に、ペルー出身アルベルト・フジモリさんは出られるが、僕の主治医の「大阪出身北朝鮮国籍ドクター」は出られない。おかしい。
あの偉大なる将軍の、できの悪そうな息子が亡命してきたら、日本人は受け入れるのだろうか。
ダニエル・カールやデイブ・スペクター、マルシアはもう、日本人でいいと思うけれど、ボビー・オロゴンやゾマホン、ユンソナになると、正直「まだまだ」感も完全にはぬぐえない。僕のものさしは、肌の色や言語能力ではなく、「ダジャレと方言」である(笑)。
ユンソナは、関西に住むように。
つまり、都道府県、ひいては国への「帰属」はどんな条件で証明されるのかが、あらためて問われるのだと思う。
逆に、もし日本人が、たとえばアメリカ代表でオリンピックに出ようと思えば、せめて永住権を取って、税金を払って、できれば兵役に就いてイラクで戦い、だめ押しでクリスチャンになってみせれば、アメリカ人は同胞として受け入れてくれるかもしれない。
では外国人に、どんな基準で日本人の身分を与えるのか−−日本人として受け入れるのか。
これが明らかでないから、スポーツの祭典がサスペンスの舞台になるのだ。
ローカルのレベルでは、わかりやすい都道府県もある。
たとえば大阪に住んで大阪弁をしゃべらないやつは永遠によそ者だし、転校生は迫害さえ受ける(笑)。我が街では、「海と山」をほめておけば、おめでたい神戸市民は喜んでいるが、山口組とか「日本一広い同和地区」をほめてはいけない。
あぁ、年の瀬にかけて、ますます悩みは募るぞ。
NHKの紅白歌合戦なんか、昔から夫婦デュオは紅組か白組か?と視聴者を悩ませてきたし、女ことばで歌う中条きよしは紅か白か(笑)?・・・となると、これもはっきりして下さい橋本会長!という気分ではあるね。
山麓のエイリアン
at 2006 10/09 21:28 編集
隔月ペースの読書会に出席。
輪番で自分の担当回だったのに、あいかわらず一夜漬けもいところだ。
朝までに1冊読んで、夜が明けたらレジュメを打って・・・で行こうかと思って「読む態勢」に入ったのが想定外の始まりだった。「読む態勢」と「眠る態勢」が、同じラーゲなのだ(苦笑)。
やはり、目が覚めたら当日の昼前だった。あぁ・・・!!
火事場のバカぢからで何とかまとめて、会議場へ自転車を飛ばして一件落着。
久々の研究仲間との談論風発は楽しい。
同じテーマでも、哲学者さんやビジネスマンからの切り口はいろいろな発見をさせてくれるし、ふだん教祖として信者の洗脳ばかりしている僕が、知的な謙虚さに身を置ける場は貴重だ。
ぴったり会議場の閉館時刻までねばって、会食へ、食後のコーヒーへといつもの段取りで流れて行った。
3連休の真ん中、しかも体育の日である。
よりによってこんな日に読書会というのも、物好きねぇあなたたち・・・と我々を笑うかのように、山から下りてきたハイカー数名が居酒屋に入ってきた。
地元で国体をやっていて、すぐ裏山は山岳競技の舞台になっている。カラッと晴れ上がって、絶好のハイキング日和だから、この連休はふだん以上に一般市民ハイカーの姿を見かけた。
山歩きは僕自身「お仲間」でもあるし、楽しさも醍醐味も、現場の高揚感もよくわかる。
とはいえ、あまりにもモノモノしいから、お仲間でいることが恥ずかしくなって、そっと目をそらしてしまうこともあるのは哀しい現実だ。六甲山を日帰りで歩くぐらいで、なぜ40リッターは入りそうなでかいザックや、雪山仕様のような重苦しい登山靴が必要なのだろうか(六甲を歩くスタイルで雪の八ヶ岳に登る僕の方が、たぶん責められるのだろうけど)・・・と、ふと疑問を覚えるぞ。
かつて山男は、「臭い・汚い・がさつ」の三拍子で人里をのし歩く鼻つまみ者だった。
当の本人は、「アドベンチャーに挑む俺様」の自己像に酔っているから、街行く人々のうさんくさそうな目線さえエネルギーに変換してしまうほど舞い上がっているから、意に介さずである。あぁ、反省するなぁ。
冷静になって「お仲間」をみると、やはりうさんくさい(笑)。
泥んこのザックに熊よけの鐘をつけたまま、ガラガラ音を立ててショッピングモールを歩く神経は、どうなっているのだろうか。
モノの本には、下山して「社会復帰」するための着替えを持参しましょうとまで書いてあるご時世なのだが。
たとえば、祭りが好きだぜ!!という荒くれ男が、ふんどしにハッピ姿で電車に乗ってたりすると「ポロリ公害」で迷惑千万だろうが、似たようなことを堂々とやってしまうのが山ヤさんの恥知らずなところでもある。
サーファーは、真夏でも海パン一丁で街をのし歩いたりしないから、ケジメがついてて立派です!わしら山男お恥ずかしい限りです・・・と、僕は頭を垂れてしまうぞ。
「ビーチサンダルでバーに行かない」という類は、決してダンディズムや格式のような構えたものではなく、大人の良識といってもいい暗黙の了解だったと思うのだが、いまや「大人の教科書」に書かれないと型破りを平気でやってしまって、またそれに気づかない大人も多い。若年痴呆である。
一番きくのは、子供が注意することかもしれない。
「恥ずかしいよオバサン!その着メロ」
「おじさん、そんなタバコは本当の愛煙家には見えません」
と、公衆の面前で恥知らずな大人を罵倒するスーパー少年少女が出てきてくれたら、日本の未来は明るいと思う。
その意味で、山はジジババ天国であってほしくない。
初雪が初吹雪とは
at 2006 10/31 21:58 編集
きのう退社して新大阪界隈を歩いていたら、僕と同じ道を駅に向かって歩いている浴衣野郎がいた。ダッフルバッグを肩にかけて、スタスタと。
琴欧州だった。あらま!
付き人もつけないで、よくまぁ大胆に、飄々と、お気楽に・・・。すれ違う人々みな小声で「琴欧州?・・・だよね」とささやいたり、おじさんはうなったりしている。
自然体で、いい感じ。
どんな日本人も胴体の陰にすっぽり隠れるほど、でかくて腰の位置も高い上に、ゆっさゆっさ・のっしのっしと力士歩きではなく、競歩のような歩き方は、かっこいい。
目撃しただけで御利益がありそうな、不思議なオーラは、やはり国技の担い手だからかな。
僕のように、喫茶店に入って気づかれにくい存在は哀しいが、力士は逆に目立ちすぎて、プライバシー皆無だ。いくら「変装」しようと、全身で「力士です」と宣伝して歩いているようなものだから、ふだんウンザリするほど見られ続けて穴だらけだろう。お気の毒に。
こんなふうに力士が目立ち過ぎるのと対称的に、かなり悪どいことをして面が割れていない公務員がいる。
5年間欠勤して血税をだまし取っていた奈良市職員が、匿名報道のままなのだ。
これも、サイキック・コメントによると、丁重に扱わないと逆ギレして、いもづる式に汚職の構造を大暴露しそうだから、組織ぐるみで守っているのだという。
なるほどね、そう考えた方がつじつまが合う。
組織が崩壊して業界から追放された「話題の人」に、あの姉歯事件関係者もいる。こちらは、EホームズのF田社長・・・なんて匿名にした方が目立ってしまうが、このF田さん(僕はかなりシンパである)、「APAホテルグループにも偽装があるぞ!女傑社長とねんごろな安倍首相に直談判させろ」と息巻いている。
これが本当なら、ホテルや不動産業界まるごと、耐震偽装どころか、震源地そのものになりそうな話ではないか。
いいぞ、がんばれH田!(笑)
暴露が怖ければ、F田さん、ヒューザーO嶋社長、S研のU河社長・・・という具合に匿名にして、業界の血の結束で守り通さなくてはいけないよな(笑)。それとも、かなりの確率で、F田さんは暗殺される。
それでこそ、隠し合いかばい合いの、談合体質な業界の闇の力である。
かと思えば、あちこちでいたいけな女子中高生が、いじめを苦に相次いで自殺している。闇を感じるぞワタクシは。
ぜひ遺書を公開して、加害者を明らかにしてはどうだ?
およそ、いじめで自殺する被害者はいても、加害者が責任を取って後追い自殺した話は聞いたことがない。加害者の人権が保護されて匿名化したまま、というより、いじめっ子は「あの子も、この子も、みんなでからかっていた」と申し開きすれば自然に匿名化するから、永遠に加害責任はうやむやのまま風化して行く。
わずか5年もたてば、「昔そういえば死んじゃった子がクラス(クラブ)にいたな」「だれだったっけな〜?」てな程度ですんでしまうのだ。
どこの学校でも、クソ役人校長が(ちくしょー好調のまま県教委幹部になれたかもしれないのに、とダジャレ混じりでツバを吐いているだろう)、「いじめは確認できませんでした」とぬかしている。マスコミの取材では、ちゃんと加害者を指摘した証言も次々に出てきているのにね。
ひたすら実態を隠そうとしているのか、本当に実態がつかめていないのか、どちらなのか。
教師が調べて実態がわからないのだとしたら、生徒が教師に心を開いていない学校なのだということだろうに。
本当に生徒が何でもかんでも暴露するようになれば、いじめも体罰もセクハラも差別も、どんどん出てくるような気がする。
だから、心を開けさせる学校臨床心理職という部外者が現場に入ってくることに抵抗する教員文化というのがあったと記憶している(別の意味で僕はスクールカウンセラーに反対し続けているが)。
実態をつかもうとすれば、純粋に上下関係でない、客観的な第三者でないと、無理ではないかと思う。学校でも、企業でも、組織は闇だらけだから。
F田社長のような暴露マンが、学校いじめ業界(!?)からも出てこないだろうか。
「私はこれがおもしろくて、いじめ歴10年!でも足を洗ったので、心を入れ替えて暴露します」という転向者が、いじめの闇を開いて見せてくれると思うのだが。
トリックは予想内
at 2006 10/30 19:35 編集
おいおいソフトバンク、0円といいつつ、長期契約やらゴールドプラン指定やら9時以降は200分やら条件をいっぱいつけて、かなり偽装に近いんではないかい?
基地局や回線の増強こそ最優先の課題だろうに、よほど資金が不足しているのか、宣伝が先行しているのはアベコベな気もするが、まぁ僕はユーザーではないから他人事でしかない。
本当の通話定額でぢーーーっくり会話したい人はウィルコムを選ぶだろうから、もしKDDIとウィルコムが提携して複数回線割引でも始めれば、ドコモもソフトバンクも致命傷になるのではないだろうか。
そこが、業界通でない僕には謎で、なぜ元DDIはKDDIと提携してくれないのだろうか。業界の牽制か役所の指導か、不思議な力が働いているような気がしてならない。
たしかに、あまり独占が進むのはよくないだろうが、それを言うなら、ドコモのケータイ事業とPHS事業のカップリングこそ問題だろうに・・・(ドッチーモなんて端末もあったけ)。
独占に近い寡占といえば、阪神間の電車3社でも、熱い戦いが始まった!
まぁ、これは10年戦争以上の長期戦になっている宿命の対決だが、JRが阪神、阪急の間にまた新駅を造る工事を進めていて、来春のダイヤ改定が決戦になりそうだ。
「阪急以北」の住民は阪急に乗り続けるだろうし、阪神以南の住民もわざわざJRに乗りに行かないだろうから、実際にJRに浮気する客は、阪急と阪神の間に住む限られた層にはなるだろう。
それでも、JRの鼻息は荒い。利便性の競争は、大いにがんばってほしいけど。
通勤通学客の奪い合いは、KDDIウィルコム問題と少し違うが、やはり素朴な疑問は感じる。阪神は、奈良まで直通の新線を工事中だから、開通したら「姫路から奈良まで乗り換えなし」が実現する。これはJRにないメリットだから、期待が高まる。
ところが、阪急は何やってまんの?と思うほど、小手先の対抗策しか打ってこない。JR夙川に対抗して、「阪急夙川にも特急を停めます」といっても、こんなことをしていると、特急が限りなく普通に近づいて行くぞ。「その代わり、スピードアップします」ったって、スピード勝負は事故を連想させるから、客の命を賭けた競争なんて、禁じ手ではないかい?
やはり、KDDIとウィルコムの提携(案)のような劇薬に相当するのは、阪急の京都線、神戸線の直通だろう。
長年阪急に通学定期代を貢いでいた身としては、不甲斐なさは募るばかり。ええかげんに、十三駅乗り換えをさせる変な運賃体系は見直して、神戸から京都に直行できる便を導入しなさい!と思うのだが・・・。
そうすれば、JRの代わりに阪急で京都に行こうか、と思う「阪神間の客」は増えるだろう。大阪の客が京都や神戸に行く、または京都や神戸の客が大阪に行く流れだけを考えている阪急経営陣の頭は、どうしようもなく古いのだ。
阪神間だけを移動するなら、阪急でもいい。僕も、学生時代までは阪急だけ乗っていればよかった。
でも、いま新大阪に通勤するにはJRしかないし、京都へ遊びに行くのに阪急で行こうとは思わない。
「スルっと関西」なんてソフト面でJRに対抗するのはさておくとして、ハード面も伴ったネットワーク思考が欠けている。50点頭なのだ。
そりゃーたしかに「宝塚や箕面や阪神間の沿線開発地域と大阪を結ぶ電車」が阪急の原型だったとはいえ、大阪中心で考えるより、京阪神、ひいては滋賀と瀬戸内を結ぶ広域ネットワークで考えるJRの方が、少しは利口だと思う(大事故は起こすけど)。
梅田を素通りする「広域移動」には、JRがダントツで便利。おかげで、梅田にはめったに途中下車しなくなったぐらいだ。
そうか・・・
ははーん、さては大阪の財界が、大阪を素通りさせないよう、阪急に京阪神直行便を走らせない闇の圧力をかけているのかもしれないぞ(笑)・・・なんて考えはじめると、ますます疑惑は深まってよろしくないが、僕と同じ「阪急客OBいまJR客」は少なくないと思う。
JR夙川駅は、(僕は通過するだけだから関係ないが)大歓迎。阪神の奈良作戦も、アッパレな発想だ。
大阪起点発想の阪急は、そろそろ脳ミソを入れ替えたらどうだ?
社名もよくない。
「大阪スルー電鉄」
これしかない!(笑)「阪休電車」でもいい。
いっそ阪急は、十三を大阪の玄関口にすればいいのだ。
「十三ギャグ」で笑わせてくれた故・岡八郎さんも喜ぶだろう。
単身赴任のような、家族ドラマのような・・・
at 2006 10/29 22:01 編集
明け方近くまで荷造り作業をしても、なかなか終わらなかった。
もう、泉のようにゴミがわいてくる。
思い切りのよしあしで、ゴミの量は変わってくるようだ。
さばさばしていると、どんどん捨てられる。
「これはいつか使えるかも・・・」「記念になるから」と思って取っておいたものは、いざ執念をあっさり解き放つと、「もう、ええわ」と簡単に手放せる。
この執着気質が、一瞬だけか、何年も尾を引くかが、ゴミの量を大きく左右する。
クセモノは、昔やっていたミニコミとか、大学時代のゼミやサークルの機関誌の類を「発掘」してしまったとき。非売品だし、片面コピー+ホッチキスの安っぽい冊子だが、こんなものでも、軽薄でクリスタルで、底抜けに明るい80年代が目の前に広がって、ついつい見入ってしまう。
僕の手元には、大学進学までの幼少年期の写真というものが残っていないので、20歳以降の人生絵巻だけでも貴重なのだ。
こんなとき、家族でいると温度差が違うものだから、ビジネスライクに淡々と作業しているときママが昔のラブレターを出してききたり、娘が家とお別れしていたりして、ドラマチックな引っ越しになる。
そういうのが、ないもんなぁ・・・
もっとも最近だと、「そんなものは、持って行けませんよ」と言われても、「パパは置いてってもいいから、この壁の落書きは持って行きたいの!という子は普通にいそうに見える。
ゲーム機は肌身離さなくても、ペットの犬や猫は置いて行ったりする。
で、何百kmも離れた新居に、買い主を追いかけて訪れた犬や猫なんかが話題になることもある。
捨てるような買い主を追いかけることもないと思うけれど、引っ越しは家族の愛情模様をあぶり出すリトマス試験紙になっている面は確かにあるようだ。「パパはニューヨーク支店に栄転だ♪」となっても、置いてかれることをそろって望む妻と子供・・・もいたりするから、引っ越しはもう、家族の愛情を測るイベントではなくなっているのかもね。
秘宝館廃止か?移転再開か?
at 2006 10/28 23:51 編集
あぁ忙しい。
そろそろ、頼んどくか〜と気軽に引っ越し業者さんに電話しはじめて、だんだん焦ってきた。かける先、かける先みな「満車です」でアウト。いかにも「え、あさってですか〜!?」と驚いたような声のトーンは、言外に「バカヤロー」を匂わせている。
たしかに、最近やたらCMを見るような気がするから、引っ越しシーズンなのだろう。
そんな大手業者は全滅。
10件目に届こうかという「すがるコール」に、やっと地域密着運送店が応えてくれた。見積もりは明朗会計、ダンボールは前日までに届けておきましょう、ただ忙しくて先約を回ってから行くので夕方になります、と断りがあった。これはもう、しかたない。
ともあれ、今度ばかりは専門業者の2トントラックで「一掃」できそうだ。
あたふたと「魔界」にメスを入れはじめると、荷造りに夜通しかかりそうな気配。ワナワナ・・・
「ねぇパパー、このプーさん連れてっていい?」
「だめだ、今度のマンションはぬいぐるみ禁止だ」
「あーん、やだよ〜」
なんてドラマチックなシーンはどこにもないのが独り身の味気なさ。出てきた古いアルバムをめくり、「ありがとう」ってつぶやく・・・てな干渉に浸りたくても、そんな「ろまんちっくアイテム」もない。
つくづく、味気ない暮らしだなぁと思う。
前回のプレ引っ越しに集まってくれた悪友たちは、天然男たちだから、「ろまんちっく映像ソフト」のおすそ分けを期待しているような口ぶりだったが、それもない。
どこかに、景気よく空気をパンパンにつめた人形でも隠しておいて発見してもらおうか?(笑)
南極何号ならともかく、角刈りで柔道着を着た細川たかし似の人形があったりすると、後々語り草になりかねないから、あれは空気を抜いて畳んでおくとするか(!?)。
ステーション・ポータリビティー!
at 2006 10/27 15:47 編集
再び、琵琶湖岸の新幹線駅誘致問題。
このゴタゴタに嫌気がさしたのか、栗東市職員の新規採用内定者は、一人を除いてほとんど辞退してしまったらしい。代わりに馬でも採用するのだろうか。
栗東市がはじいた新駅の経済効果予測は、どうも怪しいぞ・・・ということで、滋賀県が調べなおしたところ、予測は半額ほどだったという。
どちらの調査も政治的な意図がこもっているはずだから、おそらく正解は「間」にありそうだが、やはり見込みは甘いのではないだろうか。
この秋のJRダイヤ改定では、京阪神を結ぶ通勤電車が福井県まで開通した。西は瀬戸内・姫路、東は北陸・敦賀まで直通、しかも特急・急行料金もいらない!というのは画期的だ。
太平洋と日本海をつなぐ通勤電車なんて、全国にどれだけあるだろうか。
もちろん、JR西とJR東海と行政の仕事はそれぞれ別だが、こんな風に在来線をもっと便利にする方が、投資対効果は大きいのではないか?と素人目には見える。
どうしても造りたいなら、新駅をとりあえず開業してみて、あてがはずれたら即ご破算にするぐらいの潔さがあってもいい。ただ閉鎖するだけだと「もったいない」から、どこかに移転すればどうじゃろか?と思ったりもする。
たとえば、品川駅の次に「新品川駅」なんか、どや?(笑)というのは悪い冗談ですむが、京都・大阪の中間に新高槻駅というのは、アホな政治家がまじめにぶちあげそうな話ではある。
あと、在来線乗り換えの要衝になっていて、空き地も広々とある尼崎駅(大阪駅から5分!)も、「新」がつくとおもしろい。
もう、新幹線と新快速の違いが紙一重になってくる。
大阪のベッドタウンになっている三田市には新三田駅があるから、ここは駅名を変えなくても新幹線駅にできるのがアドバンテージ!(もしかすると、新幹線が通ることを見越して新三田駅を開業していたのかもしれない)。
福知山を突き抜けて、「山陰新幹線」としては悪くないルートである。
とまぁ、昔ウルトラセブンに出ていた「空中浮遊する都市」みたいな感じで、あちこち仮設駅を動かしてみて、経済効果をみればいいのだ。
レンタル料金とか命名権料なんかをくっつけて、浮遊することで収益が上がる駅なんて路線もいい。
利用者にとっては、こんな駅は迷惑でしかないだろうけど。
履修偽装高校
at 2006 10/26 22:48 編集
全国の高校で発覚した履修漏れ・・・というより、履修偽装といえるほど確信犯もあったようで、地方の進学熱心な高校が、幕府に従わない藩になっていたということか。
それほど地方では高校が予備校化していて、受験シフトせざるをえないのだなぁという事情が浮かび上がってくる。
今の大学受験で、社会科の選択は、必修のはずの世界史が25%、日本史42%、地理33%になっていて、この世界史が主に偽装のターゲットになっているようだ。
ただ、この受験シフトゆえの履修偽装は、生徒や保護者や教師まるごと一蓮托生になった要望でもある。「生徒に罪はない」と擁護していた校長先生もいたが、「入試でいるかいらないか」で科目を選び、「偏差値が上がる授業」を求めているのは、生徒自身ではないのかな?
オトシマエは、補習である。
何十時間か、多い高校で200時間の補修を受けるはめになるようで、ご苦労さんなことだ。
まぁ、それで卒業できなくなって大学合格が無駄になるようなことには、ならないだろう。形式的に春休みあたりに集中授業をして、「居眠りしてていいから授業を受けているふりをしろ」「試験は全員通してやる」ということになる。いや、そうならなければ暴動が起きる。
つまり、受験に直結しない授業なんて、「儀式」になっているのだ。昔から。
文科省の学習指導要領が、どこまで大学受験シフトすべきか、純粋に高卒者が習得してほしい学科構成であるべきかは、これから議論していけばいいと思うし、そのきっかけになった事件ではあると思う。
時代によって、必要な公教育コンテンツは違ってくるだろうし、社会科に限っても現代社会が消えたり、倫理社会はけっこう大事に思えてきたりする昨今なのだ。
公教育で足りない部分は予備校で、といっても、経済的な余裕がない家庭や、予備校がない地域だと、おいそれとは補えない。こうして「大都市圏の裕福な師弟」とのさまざまな格差が開いて行くのは、問題ではある。
「社会に出てからが勉強だ」てな乱雑な意見もあるけれど、18歳の受験の結果次第で、かなりの程度、社会のどの層に属して行くかが決まってしまうのが現実。
だから、現役の高校生と保護者は「我が子の通っている今の高校」で頭が一杯になってしまうのも無理はないだろうなぁと同情する。
そこは、企業で何十年のキャリアを積んでいる親が、長期的に学歴の意味について大人のスタンスを持って、我が子の進学を考えてほしいと思う。「進学だけが人生じゃない」と、本心からいえるのかどうか。
となると、親の責任も重大になってくる。教諭は教育行政の世界しか知らないから、自分の業績は「○○大学進学させ率」でしか自分の評価基準がない。あと教えられるのは、教員試験合格術ぐらいだろうから(笑)。
たしかに、働きながら、必要に応じて経済や法律や情報処理や医学など勉強できる社会教育、リカレント教育の必要性は、僕が前々から訴えてきた選挙公約だが、考えれば考えるほど広い問題だから、あえて下世話で個人的な「せまーい補修希望」を叫んでお茶を濁しておきたい。
女子高生と机を並べて勉強したかった!
である(笑)。
下足箱にラブレターを入れさせたり、第二ボタンを下さいと言わせたり、インターハイのアマチュア無線の部でモールス通信優勝を木陰で祈ってもらったり・・・(結局そんなチャンスに恵まれない少年だとわかっているから、全部たのんでしていただくのである)、そんな青春よプレイバック!!
・・・と願ってもしかたないか。
こういう授業以外のオカズは、未消化な大人が多いと思うから、ビジネスになるかもしれないのだが。
腹の出たガクラン姿や、オババのセーラー服や、怒った瞬間に脳卒中の鬼監督・・・で阿鼻叫喚(笑)。
もちろん、メインコンテンツの国語も英語も、けっこうおもしろいと思うぞ。教育実習で来た女子大生や好青年を、いぢめ抜いてやろうと待ち構える親世代の生徒たち!
というのも、ときめくではないか。
幸か不幸か、僕は優等生であったので(そりゃ就職クラスにいたからか)、補習の必要はない。ただ、「女子高生」が一人も一カケラもいなかったのが、悔やまれてならない。
母校は男子校のままでいいから、万葉集とか古今集なんて独立した科目はやめて、「コンパ」「出会い」「ナンパ」に置き換えて補習をしてほしいものだ。
しかしまぁ、美しい国づくりを反映したような、右寄りの母校だったなぁと懐古するばかりである。
ナンバー・ポシビリティ
at 2006 10/25 20:57 編集
ナンバー・ポータビリティが解禁。
といっても、実際に動きはあまりないようで、すぐ競争激化とは行かなかった。
すでに各社とも、長年の顧客を囲い込んでいるということか?
僕の携帯は旅行のときしか携帯しないので、古い機種のまま特に不自由もないのだが、たしかに10年近く使っている1号機PHSと、最新の(といってもドコモの505シリーズ)2号機を合わせても、維持費はめっぽう安い。特に、長年のユーザーはドコモ率が高いから、あえて割高な乗り換えをしようとしないユーザーが多いのかもしれない。
手数料5000円なりを払ってもほしいサービスがよそにあるのか、それと別に単価何万円も払ってでもほしい端末がよそにあるのかと考えると、ふと頭が覚醒してしまうのだ。
それほど、似たり寄ったりの品揃えなのだ。
個性的といえば、一人負けするのではないかとささやかれているソフトバンクは、ウィルコムをパクって自社端末同士は通話無料なんて打ち出していて、もう破れかぶれ感さえある(笑)。
売りのアクオスケータイは、特定の文字列入力で幻想的な反応をするというので話題になっていたし、この会社からは目が離せない。ある日いきなり孫社長がフサフサになって登場するぐらいのことも、やりそうだし。
テレビは空き時間にチェックできればいい程度にしか見ていないので、ワンセグでいいか・・・と食指を動かしているところだが、まだ機能がこなれていない。
録画できても画像はコピーできないとか、いろいろプロテクトがかかっているのだ。来年のドコモのアクオスケータイでは少し緩和されるようだが、どうせそうなるんだから、いっそ潔く機能ブレークしてほしいものだ。
今は、手軽さと「もどかしさ」とのジレンマで、自然に買い替え控え状態、というところかな。
わが本命は、時期未定のPHSナンバー・ポータブル化である。
050をIP電話にとられ、060で落ち着いていたら070に移れといわれ、ケタ数も勝手に増えて、なにやらPHSは哀れな流浪の民なのだ。おかげで、不変の下4けた番号にはむやみな愛着があるぞ。
まぁ、来年度中にドコモが撤退するから、いやおうなくキャリアを替えるしかない。ウィルコム独占市場というのは、ちょっと癪だがなぁ・・・
だから、ドコモやauでは見えない「社長の顔」があるソフトバンクは、ケータイ市場ではあっさり負けて、PHSに乗り換えるのも手ではないかな。いっそ、PHSはヲタのハッテン場として生き残ればいいのだ。
5ドル定食
at 2006 10/24 22:38 編集
また新しい定食屋を発掘した。
チェーン展開しているようだから、とりたてて珍しい穴場でもないだろうが、鮭の切り身二丁が乗ったちゃんちゃん焼き定食650円、松茸と野菜の炒め定食690円、五穀米のとろろ丼580円・・・という具合だ。
ご飯の量が少なめで、ちょうどいい。
割安感あってか、いつも店は混んでいて、安い店特有の若い客が嬌声をあげてはしゃぎまわっていたりする。
それと、なぜかいつ行っても必ずといっていいほど外国人観光客がいて、もの珍しそうに和定食屋にチャレンジしている。
ガイドブックにでも載っているのだろうか。
食券の販売機で戸惑い割り箸にとまどい、付け合わせの漬け物に顔をしかめている(笑)のは、決まって白人系だ。ま、和食の味にめざめて下さい。
日本人と似た観光客は、もう手慣れたものだ。
その分野について僕はまったく知らないので「アニメ」としかわからないカードをごっそり買ってきて、店で点検しているOTAKUさまグループに囲まれて、僕は孤独なんだかにぎやかなんだかわからん晩飯をとっていた。
僕の向かいで親子丼を先に食っていたあんちゃんは、仲間に「それ何が入ってるの?」と聞かれて、chicken and eggと答えていた。そりゃあまりにもその通りだが、丼の感覚をつかんでませんな。
案の定、そいつは具だけ早々と食ってしまい、残った「汁かけ飯」を黙々と食っていた。今後の上達に期待したい(笑)。
でも、こんな不手際も、旅人にとっては「異文化」の楽しみなのだろうと思う。どの国でもマクドでスイスイ、片言の片言英語で注文OKというのも、便利なようで味気ないから。
日本にきた観光客にしても、5ドルかそこら相当の「和風の定食」を食べて、ジャパニーズ・キュイジーヌだと思われても困る。海原雄山でなくても、これは許すわけにはいかないのだ(笑)。
和風やフレンチ風、イタリアン風、中華風・・・が混沌となっている全体が、和風な雑食性というものかもしれないが、「ここに連行したら何国人でも脳天落雷の大ショックを受けて和食に開眼する!!」というような、600円程度の定食屋がないものだろうか(あぁ、無理か)。
そういう「美食洗脳倶楽部」が無数にあるのは中華の強みだろうが、寿司屋も蕎麦屋も、がんばってほしいものだ。
リットー調査団
at 2006 10/23 16:23 編集
新幹線の新駅を誘致するかどうかでもめていた栗東の市長選挙が、投開票された。
案の定、現職強しの地方選挙だから、「やっぱり駅ほしい」派の現職が当選はしていた。
当選は当選だから、これで「よーし駅つくるのじゃ」と勢いづくのもしれないが、民意の実態としては、当選者を支持しない票が6割だったのだ。知事も「駅いらないわ」と公約して当選している。
こんなとき、県知事のマニフェストと市長のマニフェストの、どっちが優先されるのだろうか。
滋賀県民の気持ちはよくわからないのだが、同じJRアーバンネットワークの沿線住民として見れば、「新幹線駅がなくても、新快速があればいいんでないかい?」とも思う。
180億円もかけて駅を造って、さて需要はあるのか、駅前再開発やなんかの公共投資は回収できるのか、草津駅や彦根駅や大津駅まで「うちにも新幹線」と名乗りをあげてこないか(笑)等々、問題山積であるね。
僕は個人的にファンである嘉田知事は、県民の人気はあるのに役所からは不人気だ。かわいそうに。
それなら、「東海道新幹線新駅凍結」が県知事公約なんだから、いっそ「ニュー新幹線」を通して、好きなだけ駅を造ればよろしい。たとえば琵琶湖一周の環状新幹線というのも、総延長200kmぐらいになるから、けっこう乗りごたえはあるだろう。
湖北の余呉もマキノも高島も志賀も「駅ほしい」と言うだろうから、20ぐらい駅を設ければいいのだ。そこを時速300kmでは目が回るから、駅に番号をつけて、この便は偶数駅に、この便は奇数駅に、スペシャル便は5番飛びに停車する・・・というようにすると、どの駅も公平になる。まるでルーレットである。
乗り間違うと厄介なことになるが、それは今の新幹線でも同じこと。この「のぞみ」は、この駅に停まるんだろうか?と戸惑うことがあるからね。
そもそも、当初の趣旨を尊重すれば「のぞみ」なんかは博多・新大阪・名古屋・東京だけ停車でいいと思うし、飛行機と対抗するなら「のぞみ」の上に「回天」でも新設して、博多発・東京停車・盛岡直行なんて弾丸列車にすればいい。
割り切る潔さも守らないと、「うちの村にもリニア駅を!造らないなら用地売らないよ」てなことになってしまう。
すでに、のぞみを、うちにもうちにも!!せめてひかりを!・・・と「こだま駅」がおねだりするから、のぞみはひかりと大差なくなってしまったのだ。
なんだか、エレベーターに乗ったらいたずらで全部のフロアのボタンを押してあって、各停になってしまった歯がゆさに似ている。
栗東駅は、ローカルな問題のように見えて、新幹線駅が増えるかどうかという問題なんだから、全国の鉄ちゃんが論じ倒す格好の話題になる可能性がある。
また、そうなった方がいいとも思う。「もう、宮城県の鉄ちゃんまで、なんで栗東駅をごちゃごちゃいうの!!」という気持ちだろうけど、停車駅と通過地域のメリット・デメリットを、交通経済の枠組みで考えなければいけない。
そこが、途中停車しなくていいエアラインに勝つための、「鉄の使命」なのである!(笑)
そのうち、駅が増えすぎて、今度はリストラ駅なんてのも出てくるかもしれない。
造ったはいいが、すぐ用済みになってしまった「新品ピカピカの廃墟」なんてのは、上北沢暗室アルベルト室長あたりが喜んで撮影に行くだろう。
「レコパル熱」再来?
at 2006 10/22 22:51 編集
渡辺香津美さんのDJでジャズ番組を堪能。いい感じの「深夜感」だ。
たいてい留守録音を夜中にプレイバックすることになるが、聞いているうちに寝てしまう。トーク番組も、1時間たたないうちに確実に寝てしまう。
人が語る声は、最良の子守歌になるようだ。
夜通し電灯をつけているから、おしゃべりがにぎやかで明るい部屋で安眠するクセが、すっかり僕の身についてしまった。
深夜ラジオを聞きながらの勉強というのは、あんまり僕には経験がないが(実際、勉強にならないだろう)、ステレオをかけながら寝てしまうことは、しょっちゅうだったし今もそうだ。
ウォークマンやi-podを聞くのとは別次元の、部屋がコンサート・ホールになる「夢見装置」が、ステレオという家具。
あぁ、オーディオ・コンポも新居で再構築したいなぁ・・・と思ってオーディオ雑誌を見ると、基本的にマニア度は
オーディオ青年、オーディオ少年が、そのまま年をとってオーディオおじさんをしているからだ。
今のトレンドは、5.1chサラウンドでホーム・シアターを!!がブームだとか。浦島太郎の僕には、プラズマも、フルスペック・ハイビジョンも、なんのことやら、さっぱりわからない。
昔から、4chだのスーパーウーハーだのバイノーラルだの、いろいろな立体音響がはやってはすたりをくりかえしてきたものだから、その1つの波にすぎないか、と構えているだけ。
2chで聞くとクインテットがデュエットに聞こえるわけじゃなし、「ウットリできるハイファイ・サウンド」が楽しめたらそれでいいではないか。
うるさがたのオーディオ中年には、「僕のアンプはマーク・レビンソン、スピーカーはJBL4343・・・」なんて言えばもう、殺し文句になって、ハハーッツ!!とひれ伏させるぐらいの威力があるものだが、こんな伝説をまとったコンポーネントというのは、今あるのだろうか。5.1サラウンドが、そうなるわけか?
映像を楽しむ道楽は、それはそれでいいとして、映画やテレビを見ながら寝てしまうと、どこか損したような、もったいない気がするのに、音楽を聞きながら寝てしまうと、幸福感が残る。
僕だけかもしれないし、その理由もわからないが、こんな錯覚を感じさせてくれるのも、「オーディオの懐」みたいなものかもしれない。
震災まで愛用していたラックスマンの真空管アンプとタンノイ・エクリプスを再び震わせる日は近い!(押入れの中で死んでなければいいが・・・)
リモコンつきCD・MDコンポの手軽さも、これはこれで捨て難いグータラな体になってしまったのが、ただただ悔やまれる。
来週の引っ越し助っ人は、同じくオーディオマニアで、トヨエツ同級生のK杯君だが、彼がゴージャスに一人暮らしする芦屋の広々マンションに行くと、同じくグータラになっていた(笑)。
「ブルータス、おまえもやな」と、ちょっと安心した。
M8はライカではなーい!!
at 2006 10/21 21:05 編集
毎月20日の写真誌チェックは、もうほとんど
なんで毎月、「最高画質」のデジカメが出るねん!頂点を極めたというカメラが、なんでこんなに多いねん?メーカーの提灯持ちにふけりおって・・・とブツブツ悪態をつきながら、アホらし。
と「総括」して終わり。
今は新聞夕刊の方がおもしろい。
産経の関西版に、抒情的な写真とともに連載されていた内田ユキオ氏のエッセイは単行本になったし、今は日経に宮本隆司さんが連載をしている。
静謐な建築写真、というより廃墟写真で有名になったかもしれない宮本氏は、阪神大震災で被災した友人に「ぜひ撮りに来てほしい」と請われて現地入りして、壊滅した被災地の光景に慄然とする。
その瓦礫の一部を使ってベネチア・ビエンナーレに出展したくだりは、小林康夫さんの連続対談集『表現者たち』(講談社)で語られているが、この縁なのかどうか、今は神戸の芸大で教えておられる。
そのキャンパス模様が短いエッセイになっていて、写真専攻の学生の「いま」が伝わってくる。
僕も「えっ、夜行列車というものを知らないだとー!?」と驚かされるのと近い昭和の終わり世代は、ときに「フィルムを見たことがない」と無邪気に語り、宮本センセイを驚かせる。
たしかに、写真はケータイ、使いきりカメラはフィルムにノータッチ、ちょっと真剣に構える子だとデジカメという時代に、あえてフィルムを装填するカメラを使う子はいないのかもしれないわな。
またある子は、印画紙を買って来て明るい部屋で開封し、小分けしてから学校に持って来たというので、感光するという現象を教えるはめになったそうだ。
感光という化学反応、光がレンズで屈折して像を結ぶメカニズムなんかを知る機会を、デジカメは奪ってしまった。たしかに、失敗カットはどんどん消せるし、費用を気にせず撮りまくれるし、パソコン→プリンターと直結して、プリントアウトも自前でできる。
そんなデジフォトの本質はとても便利で、僕もありがたく活用しているのだが、そこに宮本センセイは「失敗をおそれちゃいけないよ」とレクチャーをかましておられるそうだ。
そうだそうだ!(笑)
そういや学生といえば、もう、フィルムを知らない世代どころか、普通の学校教育を受けた日本人のほとんどは、鉛筆と消しゴムでノートを取るスタイルを刷り込まれていて、ことあるごとに僕は革命のノロシをあげては総スカンをくらっている。
書き間違えたら消しやすいから、鉛筆(シャーペン)で書かないと不安。そして失敗は消せばいい、と学習する。
鉛筆なんて摩擦があって疲れるし、消していると書くスピードが遅いし、かすれたりするし、ろくなことはないと思うから僕はボールペン派だった(中国では万年筆を使わせているそうだから、戦前の日本の旧制高校と似ている)。
ちょうど、デジフォトが好き、というよりフィルムを避ける現代人気質には、自分の失敗を消してしまいたい鉛筆根性(いや消しゴム根性か?)もあるように思う。
そうして撮られた写真は、コピーも偽造(レタッチともいう)も自由にできるから、こりゃまるで「鉛筆書きの契約書」みたいなものではないだろうか。
デジフォトのコンテストとかデジカメで撮ったスクープ写真なんてのも、偽造の競い合いをしているだけだったり・・・(だからモナちゃん、そこから反論できるぞ!)。
フィルムならネガ(ポジ)に唯一の真実が残るけれど、デジタルデータにオリジナルもクソもないからね。
シャープな感性の『SWITCH』最新号も、「フィルム写真は生き残るか」なんて特集を組んでたりして、最近フィルム派としては居心地が悪いったらありゃーしない。
別にデジフォトを駆逐しようとか、無駄な抵抗をする気はないけどね。
もう、これはこれで、写真ではなくデジタル絵画だと思えばいいのかもしれないが、二度と再現できない「フィルムに感光する瞬間の緊張感」が、創作の火花になるような気もするんだがなぁ・・・。
まぁ、LPレコードや針、真空管アンプなんてのも静かにはやっているようだから、「良心の感性」みたいなものに、淡い期待を寄せたい芸術の秋である。
遭難したら晩酌
at 2006 10/20 16:35 編集
神奈川県では家族が、奈良ではカメラおじさんグループが、山で遭難する行楽の秋である。
気軽に紅葉見物に出かけるのもいいけれど、危機管理が乏しいと人騒がせなことになる。
祖父と母とともに山で3夜をすごした娘っこ二人ともフリーターだったことまで報道されて、ふもとで安否を気遣っていたパパは、しつけの甘さまで詮索されるはめになる。
報道もちょっと眉唾なところがあって、家族ハイキングの先導者だったおじーちゃんは、「ヒマラヤ登山歴もあるベテラン」らしいのだが、今回の神奈川県の山では、高度計表示を1けた見誤っていたそうな。おいおい・・・。
1000mの山を100mだと勘違いして「わしらの下山スピードはダイビングなみじゃな」と満足したり、10000mに見えて「ぅぅぅわしらは、エベレストを超えたんじゃ〜っ」と狂喜したりするベテランというのは、ちょいと怪しい(笑)。
900mの六甲山でも遭難死するハイカーはいるぐらいだから、八十代の「ベテランのOB」と、登山は初めてという孫娘たちが、低い山を甘く見てしまったのかもしれない。
僕も、晩秋の黒姫山で、日が暮れて途方に暮れて涙に暮れた(笑)ときは、「無謀登山者いい気味だ」なんて新聞の見出しが思い浮かんだ。
日が暮れた薮の中を漕いでいると、錯乱した脳神経の網の目をかいくぐっているような絶望感に襲われる。夜になると目視がきかないから地図もコンパスも役に立たない。
まぁなんとか偶然に登山道に戻れて、夜中近くに山小屋に駆け込めたから幸運だったものの、テントさえあれば、泊まって翌日じっくりルート検索ができただろう。
いや、最初から「適当にテントで寝る」つもりでバックパッキングしていたら、遭難することもないわけだ。ケガや急病がなければ。
とすると、食糧や寝る場所やコース・チェックなど、自分以外のだれかに依存するほど、危険は増すということでもある。いざとなると、飢餓!野宿!?救援要請!?費用は・・・とパニックになってしまうからね。
遭難すること前提に、それなりの装備はいるのではないかと思う一方で、高度計やGPSやケータイなど、手軽な道具が普及するわりに遭難事故も増えているような気もする。これも、ハイテク小道具がお守り気分を与えてくれて安心してしまうからか?
一口のんだら一夜は体温を維持して安心して生き延びられる魔法の救命薬なんてのも期待したいところだ。
「結局そりゃー酒やがな」ということにもなりそうだが。
著作物は著作者を裏切る?
at 2006 10/19 23:29 編集
夢は時間を裏切らない
時間は夢を裏切らない
は、松本零士さん描く星野少年の言葉か、ケミストリーの歌う槙原敬之のオリジナルなのか?
と双方が争っている。マッキーの「銀河鉄道999は知っているが読んだことがない」という弁明は、ちょっと苦しいから、わざと999を777とでも言い間違えてみせると、もっともらしくなるかもしれない。
窮地に立たされたマッキー、銀河鉄道の名前だって松本零士のオリジナルなの?先人がつくったのかもしれないのよね!と噛みついている場合じゃないのだ(オカマ言葉に深い意味はない)。
しかし、オリジナリティはというと、ちょっと微妙なフレーズではあるな。
松本零士さんは自信満々で、また愛着もあるようだが、これぐらいは自由に使わせてもいいのではないか?と思う言葉でもある。
それに、なんだかありがたい格言のように見えて、意味不明な気もしてくるぞ。夢は時間を裏切らず一緒にいるというなら、「夢がかなうには時間がかかるでー」とも受け取れるし、「時間が夢を置き去りにして過ぎ去って行く」ようにも思える。
いっそ、「夢は現実を裏切らない。現実は夢を裏切らない」の方が名文句ではないかい?
おっと、そうなりゃ夢を見るなといわんばかりの現実的なフレーズだが(笑)。
「阪神優勝」ぐらいでも知的所有権が認められるご時世だから、気のきいたフレーズは使いにくくなって行きそうな気もする。
もちろん、著作権は守られなくはいけないし、パクリとオマージュはきちんと区別されるべきだと思うが、純粋にビジネスライクな話でもない。芸術文化の創作の世界に、権利やらソリューションやらを持ち込むと、つまらなくなって、業界全体がやせ細って行くかもしれない。
松本零士さんのような大御所からすると、「一言あいさつぐらい入れるのが礼儀だろう」てな仁義の感覚から憤っているのではないか?とも思う。たとえば、堂々と「好きなラフマニノフのピアノ協奏曲へのオマージュ」と明言してAll By Myselfを書いたエリック・カルメンのように、フェアプレイで行けばいいと思う。
しかし現実に、マッキーと松本零士の距離感は、エリック・カルメンとセルゲイ・ラフマニノフより遠かったということなのか・・・おかしいね、せまい日本の芸能界なのに。
新書365冊は6年
at 2006 10/18 22:39 編集
朝日新聞社が新書に乗り出してきた。
ときどき新幹線で出張してきた宮崎哲弥さんを見かける書店で、どれどれ〜と朝日新書の品揃えを見て、その宮崎哲弥さんの『新書365冊』を購入。
帯には、「ミヤテツさん、読みすぎです!」と突っ込みが書いてある。ミヤテツなんて、「宮崎鉄道」みたいで、もしかして宮崎氏の秘められた趣味へのオマージュが埋め込まれているのかもしれませんなぁ。
疑惑はともかく、新書だけで毎月60冊読んでいるという。あいやー!読みすぎです(笑)たしかに。
僕の1年の新書消化量ぐらいではないか。ケタちがいやがな。ヒヤーッ・・・
新書100冊の書評集だから、どこからでも拾い読みできるし、それなりにおもしろく読み通せた。いやはや博覧強記なミヤテツさんの「読みすぎっぷり」には脱帽。
それでも、都市論や家族論などの社会学分野の新書は、いかにも社会学のタームを借りて書かれていて「おぉ、あんたもシャガクねぇ」と苦笑しつつ、少しは回路の接点を感じたのだった。
自分のおハチの政治分野の名著には、何ページも割いて熱烈推薦を寄せている反面、だめ本はケチョンケチョン。これも小気味がいい。
たとえば、トンデモ科学、似非科学本には手厳しくて、『ケータイを持ったサル』『考えないヒト』がヒットした正高信男なんかは数行でトンデモ扱い、「頭のいい人悪い人」の作文マニュアル本を乱発している樋口裕一に至っては、「かくも頭の悪い人の本がなぜ売れる?」の1行で切り捨てている。いやはや爽快。
感覚が合うなぁと思うのは、「無反省な越境」への警戒で、たとえばエンジニアが天下国家を論じたり、心理学屋さんが医学に踏み込んだりすると、往々にして基礎知識の欠落から理屈が破綻して「トンデモ」か「オカルト」に飛躍してしまう例がよくある(水に語りかけると愛情が通じていい水になる!なんてのが、僕を最近笑わせてくれたトンデモおとぎ話だった)。
動物の子育てを人間に置き換えて教訓にしなさいと諭すアナロジーや、遺伝子や環境ホルモンで社会病理を説明してしまう還元主義が、これまたヒットしたりするから、こんな「迷著」にミヤテツは手厳しい。中でも「脳モノ」の本を警戒しているようで、たしかにそんな気もする。
似非科学イコール宗教でもない、宗教書は宗教書としてきちんと評価して、怪しい宗教書まがい(たとえばニューエイジもの)はちゃんとあぶり出している。
この中でも、自分の立ち位置を仏教徒だと明言しつつ、霊魂をもてあそぶ世俗仏教やイカサマ坊主にもちゃんと鉄杭を刺している。
よく仏教を論じているニューエイジ学者の上田紀行なんかには、ちょっと批判的な評価のようだが、さてどんなもんだろう。
宗教論になると、論者の「目利き度」や良心があらわになってくるから、これからのミヤテツに、「お手並み拝見」である。
もの言えば 唇寒し ほっとこか
at 2006 10/17 12:14 編集
福岡の中学生の自殺は、担任教諭の差別発言だった!?
と告発が出て、どんどん出るわ出るわ、下品な冗談にもならないゴミ発言。
女子生徒には「豚」、ちょっとした親切をした子には「「偽善者」、そして今はこの世にいない当の生徒には、「イチゴが腐ったかのような表現」とぼかされているが、推して知るべし「再現できない言葉」なのだ。
こやつがまた国語教師らしいから、刑罰や民事責任を負うのでなければ、失語症になるのが報いというものかもしれない。
とはいえ、「犯人はこいつだ」と標的を決めて、いじめがなくなるわけではない。
担任教師の発言の責任は一番重いとは思うものの、差別的な教師に対して、このクラスには「抗体」ができなかったのだろうか。
「先生、ひどい!」
「そうだそうだ、○○君に謝れ」
というような連帯が生まれないほど、先生が専制的で(ダジャレかましている場合じゃない)、生徒たちは萎縮していたのだろうか。
もし、生徒一人一人が「あの子と先生」の問題に無関心であったり、ひどい場合グルになっていじめがはやるようなクラスだと、教師をつるし上げても本質は変わらない。次は、学校以外の場でいじめが潜行するだけだろう。
いじめは、取り巻きや傍観者がよけいに悲惨な構図を招くことがある。下手にいじめられっ子に味方して報復されるのも怖いから、知らぬ存ぜぬ・・・これでは、「気づきませんでした」という校長や教育委員会と同じ発想ではないか。いや、校長や教育委員というのが「中学生なみ」ということなのか。
今回のケースは、いじめっ子が担任教師だったようだから、なかなか盾つけなかったことだろう。教師が女生徒を「豚」と呼ぶのに相乗りして、同級生も「豚!」「豚!」と呼ぶようになった・・・なら、もちろん教師が主犯格だとしても、相乗りした生徒にも罪は問うべきではないかいな?と思うのだ。
でないと、主犯を断罪して共犯を免罪(こういう禊が日本人は好きだが、主犯と共犯が固い絆で結ばれている共同体であればこそ効果がある儀式なのだ)するだけだと、共犯は「新たな主犯」が出てきたとき、再び同じようないじめの温床になりかねない。
もしも、ひょっとして、件の中学教師が「クラスが団結するか分裂するか、反応を見るためにあえて偏った発言をしてみた」なら、それも1つの働きかけではあるかもしれない。僕も、「マヨネーズお好み焼き」を激しく差別してみせたりするが、これは若い子みな団結して反撃してきやがる(笑)。
でも、具体的な生徒をコケにするのは御法度で、マヨネーズやファストフードなど、できるだけ人格のないモノを貶める方が愛情というもんだ。
いじめと自殺そのものは、もう取り返しのつかない結果だが、その処理を誤ると、悲劇がなんの教訓にもならず、いじめは連綿とくりかえされる。そんな予感が残る学校事件は、気が滅入る。
学習しない学校組織というのは、つきあっているとバカを学習するだけ。時間と税金の無駄である。
ひとさまのマイホームへの夢
at 2006 10/16 18:16 編集
ありがたいことに、男ども3人と軽トラそれに3ナンバーのワゴン車が出動してくれたのに、一気に引っ越し完了とは行かなかった。
しょぼい買い出しと、しょぼい小荷物の搬出で、「プレ引っ越し」の日曜日。なんだかなー、我ながら要領わるいぞ。
それというのも、DKをかたづけはじめて、これはもう掃除の次元ではない、産廃業者に来てほしいほどの汚染の巣窟であることがわかり(笑)、友人を病気にするわけにはいかん!と変な遠慮が働いてしまったのだ。そんな意味で、引っ越し人夫は気がねしなくていい業者が一番、という説も納得できる。
軽トラを借りてきてくれた親切なホリエクンとしゃべっていると、「パパの鑑」のような奮闘ぶりに、あぁ病気・ケガをさせるわけにはいかん!と感じ入るあまり、なおさら人夫扱いはヒツレイに思えてくるのであった。
筋金入りのカヌーイストが、「今年はどこにも漕ぎに行ってませんわ。たまの休みに、赤ん坊背負って自転車で近くの公園に行くぐらい」と苦笑しつつ、良きパパ良き夫へ全身全霊シフトしている。これはもう、邪魔してはいけない立派な家庭人兼仕事人の偉大な姿であるね。
最近よく言われる「ワーク・ライフ・バランス」なんて、僕なら「両方しないバランス」とうそぶいて遊びに出るだろうが、ホリエクンは101%と99%ぐらいの奮闘ぶり。200%フルスロットルの働く良きパパである。
まぁ、永遠に続くわけではないから、あと20年ほどの辛抱(笑)というところかな。
今は、世間の子持ち族と同じく「マイホームか、賃貸借り替えか」で悩んでいる様子。
どうも51対49ぐらいの割合で、「賃貸の方がリスクは小さいかなー」という心境のようだが、たしかに悩ましい選択だと思う。
もしかすると、伊根の舟屋のようないかしたカヌーイスト・ハウスを建ててくれるかもしれないし、MTBやRVのガレージを最初から組み込んで、趣味の仲間がドヤドヤ集まって、さぞかし子供にとっては刺激的で楽しい我が家になるだろう。ワハハハハ
その「ドヤドヤ」の首謀者はたぶん僕で、「おーい奥さんビールもう1本!」と好き勝手なくつろぎ方を満喫する。
ようやく日付が変わって退散した後、嵐の過ぎ去ったホリエクン・ハウスで主が配偶者からどんな視線を浴びているか、知ったこっちゃない(笑)。
あー、恩を仇で返す罪人になりそうで、まことに申し訳ない。
こうして予告篇を流しておくと、受け身ができているだろうか・・・?
パンドラの箱クリニック
at 2006 10/15 21:54 編集
「その業界」では有名なドクトル根津が、代理出産を請け負っていたことを、何カ月もたってから認めて、波紋を招いている。
・・・とはいえ、「この医師」にして「あの代理出産」だから、驚天動地の大ニュースとまではいえない。
ちょうど、向井・高田夫妻の代理出産裁判や、愛媛の生体腎臓移植が話題になっている折も折だから、ネガティブなイメージの「キワモノ医療」というより、「そんな手があったか!」と妙に希望を感じてしまう一般国民も多いと思う。
今回は、出産できない娘のために、母親が娘とその夫との受精卵を宿して代理出産したということだから、母親の血を引いた子が祖母から産まれた、という形になる。
母親になりたい女性にとっては、学会除名その他のバッシングをものともせず助っ人を買って出てくれるドクトル根津は、卵子を提供できない女性の姉妹から提供された卵子を使った人工授精を初めて実施した方でもある。
その際に、「第三者の精子を使う人工授精と同じで、子を持ちたい夫婦の夢をかなえる正当な医療だ」という趣旨の会見をしていたように僕は記憶している。
一抹の違和感はあるものの、この違和感と、生殖技術の「恩恵」と、どっちが正しいのか考えると、心もとない気分もする。
第一、被害者がいない。
関係者がそれぞれの呵責なり負担なりを覚悟した上で、いや苦労するからこそ授かった命は、ひときわ愛しいのかもしれない。
もし、我が身ならどうだろう・・・と、ふと考える。
健康な妻がいながら、病気で「タネが尽きた」なら、弟に「おい、よろしく」と頼むのもやぶさかでない(弟からは依頼されないと思うが)。
ヒマラヤ登山に行くようなことがあれば、精子冷凍保存も考えるかもしれない。オーストラリアだったか、男性の事故死の直後に精子が採取されて妻か婚約者との間で子をもうけたケースもあり、「死後生殖」が話題になったこともあったっけ。
妻が卵子を提供できず、その姉妹が「無償で代理提供」してくれるというなら、断わるだろうか。出産できない妻に代わって産んであげるという親族がいたら、断わる方が残酷な気もする。
親族の中でこういう「代理」が行われると、報酬が生じない限り正当な歯止めをかけようがないから、かなりハードルは低くなってしまう。
こんな場合のハードルをあれこれ考える――主に批判的に――のが生命倫理学で、僕も長いこと研究会活動にかかわってきたのだが、弊害より恩恵の方がクローズアップされるようになってきたのを感じる。それほど、生殖技術はポピュラーになってきている。
批判の1つに、「子供にとって親の認知が混乱する」という懸念もあった。
これも、どこのだれだかわからない(ようにされている)匿名の代理母より、「あなたは確かにパパとママの血を分けた子だけど、産んでくれたのは叔母さん」という方が、まだショックは小さい気もする。
僕の姉は、子供のできなかった叔父夫婦の養女になって幸せな親子として育ち、僕とも父とも変わらず家族として生きてこられたし、こんな養子縁組と代理出産なり代理受精なりは大差ない時代が、間もなくやってくるだろう。
そもそも、叔父(伯父)や叔母(伯母)と、子供や甥っこ姪っこが斜めの親子関係を築いていた複合家族は、日本人にとっては違和感が少ないし、公的医療制度の枠内で匿名化されたり、精子・卵子・受精卵のブローカーが仲介して商業化するよりは許されやすいと思う。
もちろん、臓器や精子や卵子、子宮を提供するかどうかは当事者の自発的な意思にもとづくべきではある。
それに、こうした「親族資源」に恵まれた人と恵まれない人との不公平は生じると思うが、一律に禁止した平等というのも酷な話だ。
子を持ちたい親心は、最大限に実現できればいい。
「家族制度の安定・維持」より、望まれた命が健やかに宿って育つことが大事ではないかと思う。
歯止めは、ケース・バイ・ケースで練り直して行けばいいのだ。
一番の追い風は、人工生殖で授かった子供との、幸福そのもののファミリーが堂々と世に出ること。
「僕は試験管の中で宿ったけど両親の愛情満点です」と胸を張れたら、普通の家族で憎しみ合っているより、はるかに美徳かもしれない。
段ボール・ララバイ
at 2006 10/14 21:19 編集
夜中に段ボール捜索に出かける。あぁ、怪しいアジア人やなぁ(苦笑)。
意外にコンビニやスーパーは廃棄物の管理をきちんとやっていて、適当に持ち去るなんてことはできない。
昔は酒屋の前なんかに持ってけドロボー状態で山積みしてあったものだが、牧歌的な時代は過去の話。
アパレル店の前には、冷蔵庫が入りそうなほど巨大な段ボール箱がつぶされて廃棄を待っている。
衣類は軽いわりにかさばるから、梱包もあんなサイズになるのだろうか・・・それでホームレスはファッションビルの閉店時間に箱をあさって、快適な大型マイホームを手に入れているのか・・・と、妙に納得させられる。
ボランティアに通っていた博物館で、イベントといえば段ボールで家具や家を作るデモンストレーションをよくやっていたのを思い出す。もちろん、僕が主導で。博物館には、建材やハイテク機材を搬入したときの、たんす大の段ボール箱がふんだんにあったから、燃えてしまうのだ(笑)。
まるで、秘密基地を建築廃材で造っていた悪ガキ時代の再演のようなことを、僕は嬉々として現場を仕切り、男児女児を問わず、けっこう段ボールハウスは人気上々だった。少女建築家も少女建大工もいたし。
段ボール・ハウスは設計も増築もリフォームも簡単。そして、そこそこ遮音&断熱効果もあって、「寝心地」は悪くない。
川俣正さんだったか、現代芸術家が掘っ建て小屋のようなインスタレーションを持ち味にしていたと思うが、どれもつい気持ちが中に引き込まれる、不思議な作品ではある。
大のおじさんがキャンプに熱中するのも、この「秘密基地」原体験があるせいかもしれない。
僕なんかは「クルマで行くならテントいらんやん」と身もフタもないことを口走ってしまうけれど(だからテントは背負って行く)、男はわざわざ鋼鉄の箱があるのにテントを張りたくなるようだから。
昔あるOLの一人暮らしの部屋に遊びに行ったら、段ボール箱をつないだ摩訶不思議な塔があって、猫の遊び場なのだと笑っていた。毎日飽きずに天井近くの「階」まで上り下りするから、運動不足の解消にもなるそうだ。
確かに、わが家にいた歴代の猫たちも、狭い魔宮のような空間が好きだった。子猫は出られないような隙間に入り込んで悲鳴をあげていたりするし、とんでもないところに入り込んで出産する雌猫もいた。
もしかすると、「段ボール箱入り息子」の僕は、猫成分が濃いのかもしれない。
猫ひろしはどうなんだろう。聞いてみようかね?
懲りないザウ中
at 2006 10/13 18:39 編集
ザウりぐせが治らない。
ピカピカのザウルスが、売れ残ってワタクシを呼んでいる。
・・・ように見えた。
現代人ケータイ中毒症を笑えない。もう重症の「ザウ中」である。
いまやケータイやスマートフォンが手帳代わりになって、PDAの低迷が止まらないのか、神戸のソフマップなんかじゃ、中古PDA売り場まるごとなくなっているではないかっ!!
というわけで、大阪へパトロールに行くと、ガラスの檻の中から「救い出して、第一線で働かせてくれ!!」と懇願する目(笑)。
ありがたいのか、やるせないのか、ともかくトホホな安値で救出」してきた。クリエも安い安い、ジョルナダやインターリンクなんかのHPC2000も投げ売り価格だ。
そんな中で現役でがんばっている「ザウ千」は、いま使っているモデルと、クロック5MHzぐらいしか違わない上メモリー構成は同じなのに、動作がきびきびしているのは不思議。
USBホストがついたので、キーボードを外づけしてみようとか、HDDつないでみるか?と、拡張の野望(笑)が出てくる。そんなことしていたら、せっかくの「胸ポケに入るリナックスPC」が、身動きとれなくなって行くだろうに。
買ってすぐ単体で一通りのことができるのも安心できる。
データを移して、前の動作環境を引き継げるのは、定評あるザウルスの「人徳」みたいなものだが、赤外線でやると2時間近くかかったのは閉口した。
なんとか、設定も住所録もメールデータもブックマークその他のファイルも全部移して、「クローン・ザウルス」が完成。
いやー快適だわ、この操作感。
なのになのに、旗色が悪いPDA。
ケータイにPCファイルビューワーやらフルブラウザーやら押し込むより、逆にPDAに電話機能をつけた方が、本当に「業務通話しながら業務書類作成」ができるのに・・・と思っている間に、W-ZERO3が出た。
こいつがPDA客を吸い寄せてくれたおかげで、「純PDA」が売れ残って値崩れしているのかもしれない。変な恩恵である。分譲マンションブームが賃貸マンション家賃相場を下げてくれるようなものか?
ともあれ、ザウルスはジャイアンツよりは不滅です!と讃えながら、この日記を「5代目」でポチポチ打ちまくって行こうと思う。
オーバースペック家電
at 2006 10/12 20:49 編集
ありがたいことである。「引っ越し人夫」を買って出てくれる仲間や、その口コミで集まってしまった。アウトドア野郎たちだから、パワー満点である(土建業や自衛隊員の友人がいれば、鬼に金棒・ジョンイルにトマホークかもしれない)。
人夫1号の「ホリエクン」が、転居先を豪邸地帯だと勘違いしているようで、「豪邸地帯=大沢さん金持ち=日当たんまり」との推理が伝染した気配もあるが、事実誤認とサスペンスと大どんでん返しに出くわすことになるだろう(笑)。
まぁ、ちゃんと礼は尽くそうと思うが、僕が「当事者」としてすべきことはさっぱり進んでいない。さみだれ風の出勤があると、なかなか片づけもうまく行かないのだ。
空いた時間に電器屋へ白もの家電を見に行くと、どいつもこいつも豪勢だこと。つくづく、豊かになったねぇと思う。不景気だ雇用不安だというのはウソで、実は消費天国でバブっているのではないか?
とかなんとか憤慨しつつ、腕組みして頬に片手をあてて、ワタクシは家電音痴で悩める昼下がりの主婦を演じていた。
「容量10キロもいらないわ、半分でいいの」と店員に伝えると、「お子様はそんなにいらっしゃらない・・・?」と勝手な見当をつけられるから、「うん、まぁ、一人だけやし」とごまかしておく(子供が一人ではない、世帯人員が合計一人である)。
洗濯機は、縦穴式に加えて最近の流行が出し入れしやすい横穴式だそうで、洗濯係のズボラを手助けしているようだ。
そうかいそうかい、そのうち下穴式洗濯機が出てくるだろう。
冷蔵庫も、250リッタークラスが標準で、野菜室だなんだと今はわけわからん小部屋がついているのね〜アラすてき!!・・・とは行かないぞワシは!
こんなにでかいのを置けば、ますます食べ残しが埋没してしまって、発掘作業をすると恐ろしいものが出てきそうだ。今の冷蔵庫は霜取りを数年に1回しかやってないから、冷凍庫にこびりついた氷は、けっこうな年代物になっている。
下宿学生は減っても、単身赴任やシングル中高年は増えているだろうから、もっとシンプルで安いものが並んでいてもいいのに、あいかわらず家電売り場というのは、家族生活が標準的ターゲットのようだ。
まぁ、しかたないといえばいえるけど。
とまどう家電の筆頭は、電子レンジだで、そういえば使ったことがないのだった。70年代から実家にはあったが、自炊生活にはないまま「何とかなって」きた。電子レンジよりポット、ポットよりアイロン、アイロンよりこたつがほしい。どれも、ないならないで何とかなるものだが。
電子レンジ最新鋭機は、グラタンだ炊き立てご飯だピザだ餅だと、細かな設定ができる。アラ〜いいわ買いましょう♪・・・とはならんぞ、まだまだ!!。
こうなると、まるで中に何も入れなくてもご飯やおかずができそうな気がしてくるから、いやはやアラアラの家電マジックではあるね。
こんな家電の魔法のおかげで、主婦がどんどんズボラになって行く気もする。
その上で育児支援??・・・わけわからん。
各実験
at 2006 10/11 20:48 編集
偉大なる将軍様が、人騒がせな火遊びをやりおった。
はたして核実験なのか、「核実験のつもり」なのかはわからない。地震計でマグニチュードいくらと出ていても、こっそり建造してた将軍さまの巨大銅像を倒してしまった揺れなのか、はたまた核実験とまちがえて原発を暴発させてしまったのかもしれない。そういうこともありありな、支離滅裂な国だから。
ただ、今度ばかりは中国が激怒しているそうだから、いざ王国が崩壊したとき、陸続きで難民が流れ出して行く先は中国か韓国しかないわけで(日本のカニ漁で網にかかるかもしれない)、アフターケアの方が大変だろうと思う。
勤勉な、ロボットのような小学生は、商魂たくましい日本の進学塾あたりが受け入れようとするだろうが・・・。
受け皿がない限り、将軍様が固執している「俺様体制の維持」は、結局そうならざるをえないのだ。
たとえ「民族統一」が悲願だとはいえ、ドイツのようには行かない気もする。
そもそも、民主的な混乱と、専制的な安定のどっちがいいかは、なんともいえない。タイの政変だって、プミポン国王がいなければ流血の内乱になっていただろうし、日本の戦後復興にはGHQが判断した君主制の維持(つまり天皇の処刑は回避、ただし象徴的に存続させる)が結果的にはよかったと僕は思う。
これがもし共和制にでも転換していたら、ひょっとしてアメリカの52番目の州になっていたかもしれない。
アメリカの建国者たちこそ国王の専制から逃れた移民たちだったが、専制政治の長所を経験的に知らない上に、建国者の手前、自分たちの創り上げてきた体制が世界一でなくては納得できないのかもしれない。
その反面、無能ブッシュは、ジョンイルやサダムの国民的人気や、ジャップの皇族への尊崇が、うらやましくてしかたないのではないだろうか。
不適切なおイタで蹴落とした前大統領「葉巻王子」が、ただの人になってもけっこう人気者だったり、その女房が次期大統領にかつぎあげられたりするのを見て、ブッシュの脳の中は「なぜだ!」で満ち満ちているにちがいない。
レーガンの時代ならまちがいなくガツンと反撃していただろうに、度重なる核騒動に、ブッシュは拳をあげていいものやらいけないやら、迷っているありさまだ。
将軍さまの側も、ちゃちな実験で国際社会の出方をうかがっている作戦かもしれないから、我々としては乗ってあげないイケズな態度も、効果があるのかもしれない。
なり注(なりゆきに注目しています)でいるとしても騒いだとしても、すること・しないことは大して違わず、どっちにしても日本人一人一人は何も行動しないんだから。
東京の政財界人連中にとっては、山手線の内側にテポドンが落ちて、ようやく身に迫る危険を感じるのではないだろうか。
うまいぐあい(?)に、もし六本木にミサイルが撃ちこまれたら、さすがに報道各社はお祭り騒ぎになりこそすれ、東北や北陸の原発が破壊されたって、他人事でしかないだろう。
「阪神大震災の1カ月後」が、サリン一吹きで吹き消されてしまったのを、関西人は忘れてないからね。
いざ日本に核ミサイルが命中したとしても、それは本番ではなく、日本人の反応を見る「各実験の1つ」にすぎないと僕は思う。
わけわからん県代表
at 2006 10/10 09:36 編集
国体が終わった。
予定された「地元優勝」。なんだかね・・・。
東北の某県代表で、卓球の強い国ふうの選手名も見えた。
どういういきさつで、この選手がこの県を代表することになったのだろうか。帰化したのか?
都道府県対抗という構図が、もう形骸化しているようにも見える。石原慎ちゃんの「国体やめたらどうかねぇ」発言も、ごもっとも感がある。
たとえば、青森県代表で出ている鹿児島大学生はギリギリOKだとしても、スキーヤーひしめく北海道の選手枠に漏れた道産子を大勢スカウトして、冬季国体スキー種目に臨む沖縄の学校なんてのも出てくる可能性はある。「沖縄に引っ越せば、生まれ育った北海道より国体に出られる確率が高い!?」とかね(僕も考えたことがある)。
なにかと話題になった高校野球も、「駒大苫小牧エース」は兵庫県人だったし、アフリカ人ランナーを留学させて大学駅伝にぶつける大学もある。
留学生を排除しろというつもりはないが、外国人留学生や内地留学生になってくると、いったい何と何が戦っているのかわからない。
いっそ個人戦としてやれば?とも思う。強ければいいのだ!となると、モンゴルからの留学生でそろえた相撲部なんてのも出てくるだろうけど。
国民体育大会の「国民」「県民」の資格は何なのか?
現にあるケースとして、中国残留孤児が一家で日本に「帰国」してきた場合、その子は日本人なのか、中国人なのか。日本で生まれた外国籍の在日外国人はどうだのか。
王貞治さんが国体に出られなかったエピソードは、50年たってもすっきりした形で収まってはいない。
個人的には、民族学校の生徒も外国籍の「定住者」も国体には出てもらって純粋にスポーツの祭典として楽しめばいいと思うが、ただ勝つために戦力として外国人選手を投入する手口は、あさましいといえばあさましい。
コトはスポーツだけにはおさまらない。
国会議員選挙に、ペルー出身アルベルト・フジモリさんは出られるが、僕の主治医の「大阪出身北朝鮮国籍ドクター」は出られない。おかしい。
あの偉大なる将軍の、できの悪そうな息子が亡命してきたら、日本人は受け入れるのだろうか。
ダニエル・カールやデイブ・スペクター、マルシアはもう、日本人でいいと思うけれど、ボビー・オロゴンやゾマホン、ユンソナになると、正直「まだまだ」感も完全にはぬぐえない。僕のものさしは、肌の色や言語能力ではなく、「ダジャレと方言」である(笑)。
ユンソナは、関西に住むように。
つまり、都道府県、ひいては国への「帰属」はどんな条件で証明されるのかが、あらためて問われるのだと思う。
逆に、もし日本人が、たとえばアメリカ代表でオリンピックに出ようと思えば、せめて永住権を取って、税金を払って、できれば兵役に就いてイラクで戦い、だめ押しでクリスチャンになってみせれば、アメリカ人は同胞として受け入れてくれるかもしれない。
では外国人に、どんな基準で日本人の身分を与えるのか−−日本人として受け入れるのか。
これが明らかでないから、スポーツの祭典がサスペンスの舞台になるのだ。
ローカルのレベルでは、わかりやすい都道府県もある。
たとえば大阪に住んで大阪弁をしゃべらないやつは永遠によそ者だし、転校生は迫害さえ受ける(笑)。我が街では、「海と山」をほめておけば、おめでたい神戸市民は喜んでいるが、山口組とか「日本一広い同和地区」をほめてはいけない。
あぁ、年の瀬にかけて、ますます悩みは募るぞ。
NHKの紅白歌合戦なんか、昔から夫婦デュオは紅組か白組か?と視聴者を悩ませてきたし、女ことばで歌う中条きよしは紅か白か(笑)?・・・となると、これもはっきりして下さい橋本会長!という気分ではあるね。
山麓のエイリアン
at 2006 10/09 21:28 編集
隔月ペースの読書会に出席。
輪番で自分の担当回だったのに、あいかわらず一夜漬けもいところだ。
朝までに1冊読んで、夜が明けたらレジュメを打って・・・で行こうかと思って「読む態勢」に入ったのが想定外の始まりだった。「読む態勢」と「眠る態勢」が、同じラーゲなのだ(苦笑)。
やはり、目が覚めたら当日の昼前だった。あぁ・・・!!
火事場のバカぢからで何とかまとめて、会議場へ自転車を飛ばして一件落着。
久々の研究仲間との談論風発は楽しい。
同じテーマでも、哲学者さんやビジネスマンからの切り口はいろいろな発見をさせてくれるし、ふだん教祖として信者の洗脳ばかりしている僕が、知的な謙虚さに身を置ける場は貴重だ。
ぴったり会議場の閉館時刻までねばって、会食へ、食後のコーヒーへといつもの段取りで流れて行った。
3連休の真ん中、しかも体育の日である。
よりによってこんな日に読書会というのも、物好きねぇあなたたち・・・と我々を笑うかのように、山から下りてきたハイカー数名が居酒屋に入ってきた。
地元で国体をやっていて、すぐ裏山は山岳競技の舞台になっている。カラッと晴れ上がって、絶好のハイキング日和だから、この連休はふだん以上に一般市民ハイカーの姿を見かけた。
山歩きは僕自身「お仲間」でもあるし、楽しさも醍醐味も、現場の高揚感もよくわかる。
とはいえ、あまりにもモノモノしいから、お仲間でいることが恥ずかしくなって、そっと目をそらしてしまうこともあるのは哀しい現実だ。六甲山を日帰りで歩くぐらいで、なぜ40リッターは入りそうなでかいザックや、雪山仕様のような重苦しい登山靴が必要なのだろうか(六甲を歩くスタイルで雪の八ヶ岳に登る僕の方が、たぶん責められるのだろうけど)・・・と、ふと疑問を覚えるぞ。
かつて山男は、「臭い・汚い・がさつ」の三拍子で人里をのし歩く鼻つまみ者だった。
当の本人は、「アドベンチャーに挑む俺様」の自己像に酔っているから、街行く人々のうさんくさそうな目線さえエネルギーに変換してしまうほど舞い上がっているから、意に介さずである。あぁ、反省するなぁ。
冷静になって「お仲間」をみると、やはりうさんくさい(笑)。
泥んこのザックに熊よけの鐘をつけたまま、ガラガラ音を立ててショッピングモールを歩く神経は、どうなっているのだろうか。
モノの本には、下山して「社会復帰」するための着替えを持参しましょうとまで書いてあるご時世なのだが。
たとえば、祭りが好きだぜ!!という荒くれ男が、ふんどしにハッピ姿で電車に乗ってたりすると「ポロリ公害」で迷惑千万だろうが、似たようなことを堂々とやってしまうのが山ヤさんの恥知らずなところでもある。
サーファーは、真夏でも海パン一丁で街をのし歩いたりしないから、ケジメがついてて立派です!わしら山男お恥ずかしい限りです・・・と、僕は頭を垂れてしまうぞ。
「ビーチサンダルでバーに行かない」という類は、決してダンディズムや格式のような構えたものではなく、大人の良識といってもいい暗黙の了解だったと思うのだが、いまや「大人の教科書」に書かれないと型破りを平気でやってしまって、またそれに気づかない大人も多い。若年痴呆である。
一番きくのは、子供が注意することかもしれない。
「恥ずかしいよオバサン!その着メロ」
「おじさん、そんなタバコは本当の愛煙家には見えません」
と、公衆の面前で恥知らずな大人を罵倒するスーパー少年少女が出てきてくれたら、日本の未来は明るいと思う。
その意味で、山はジジババ天国であってほしくない。
初雪が初吹雪とは