solosolo@JUGEM

そろそろ、ゆっくり、こっそり革命!
2007年2月の日記
もう、ワシやだ

at 2007 02/28 23:29 編集

生きている屍を見た、と言っては失礼かもしれない「おふくろさん」の川内さん。
でも、もう終わっているように見えるのだ。

もう、やだ。
歌わせない。

どうも、法律もファンの存在も眼中にないようだ。「わしの考える仁義」の世界を檻で囲って、耳を剛毛でフタして、聞く耳をもたない。森進一への怨念を、冥土への土産にするのだろうか。

たしかに、元はといえば、森進一が悪い。
川内さんの言い分は、ごもっともではある。
が、いい大人を通り越した大御所の態度としては、ちょいとまずいんではないかい?と思う。

あれほどの年齢になると、何か言って聞かせる人はいない。
僕ぐらいの若輩者でも、若輩とはいえ、説教してくれる人、ガミガミ言う人は減ってくる。それは決して人間ができ仕事ができているからでもなく、ミスをすればもう治らないと思われて、プチンと切られるだけだから。
ましてや、人生の完成期のご老人にガミガミ言う人などいない。

だから、もう、川内さんはあのままだろう。
森進一としては、謝罪はしながら、作詞通りの歌を歌うしかない。変なイントロをつけたCDは回収して絶版にするぐらいの誠意は見せてほしい。

まぁ、あんまりあれこれ策を弄するとヤブヘビだから、無駄な手間をかける必要もないんちゃいますか〜と、森さんには声をかけたい。
それにしても、「昌子の陰謀」を感じるのだが(笑)、こんな邪推もまたヤブヘビかな?


円楽さんは終わっても・・・

at 2007 02/27 23:36 編集

円楽さんが高座で「もう、だめですよね」と引退宣言をしていた。
いや、正確には、つかえつかえ・しどろもどろをさらしながら、やっと高座を終えて、舞台の上で正座から立てずに這い回っていた。その姿はもう、だれの目にも「死に体」だったのではないだろうか。
なぜ、だれかタオルを投げてやらなかったのか。

落語のファンとしては、咄家がゆっくり崩れ落ちる現場を凝視させられたような感じだったかもしれない。
そして、僕をはじめ円楽さんファンとしては、ぜひ復活を見守りたいと思ってはいても、残酷な光景だっただろう。

そんなファンの気持ちを代弁してか、歌丸さんは「まだ引退させない。説得してやらせる」と会見していた。
けれど、円落さん自身が「こんな姿、こんな口調を、木戸銭を取って、お客さんに見せられませんよ」というからには、舞台に引きずり出すこともないと思う。

そして楽屋に戻って、しみじみと引退宣言をしていた円落さんの手には、タバコ!
腎臓透析に加えて、脳梗塞の後遺症でろれつが回らない身の上に、「それでもタバコ」は、ほとんど自殺同然ではないのかな。よけいなおせっかいながら。

芸人の引き際というのは、難しいものだと思う。
光り終えたスターというのは、いぶし銀になれるのか・・・?

それこそ病床の虫の息で、話芸やスピーチをして傾聴してもらえるのは、恩師が弟子に、宗教家が信徒に、親が子にかみしめながら語る言の葉だけで、テレビにはなじまないと思う。それがまるで公開自殺を見ているような気もする僕は、冷淡なのか?

だからミスター長嶋も、あんまり野球の現場に引きずり出さない方がいいのではないかと思うし、山城新伍さんも恍惚状態だとうわさされている。たしかに、画面で最後に見た山城さんの表情は硬直して、なにかこう、「止まって」いた。

リハビリで余生をまっとうするのは立派だし、本人が出たいと思う場には出てもらって、自分の納得できる花道を飾ってもらうのはいい。
ただ、ファンとしてはうれしさ半分、つらさ半分の複雑な気持ちではある。

MBSの角淳一も、何十回とかみながら、ローカルワイドに出て司会をやっている。そこらへんの62歳のおっちゃんならいいとしても、元アナウンサーの栄光の時期を知る視聴者としては、ハラハラし通しだ。
何度も何度もとちりながら、番組の流れを淀ませ話の焦点をぼやかし、あげく笑いでごまかしているのを見ると、痛々しい。出る方も出る方、出す方も出す方ではないかい?
と思うのは、老人への差別になるのだろうか。
「あえて見ない」のも、優しさではないかと思うのだが。


予約までが重い腰

at 2007 02/26 07:40 編集

常宿、といっても2〜3年ぶりになる黒姫山麓の民宿に、無沙汰をわびる気持ちをこめて予約の電話を入れた。
いつもは、氷雪ラリードライバーのようなたくましい運転をされるチャーミングなおかみさんか、原田知世のようなお嬢さんがキビキビと接客や電話番をされているのだが、珍しく・・・というか初めて御主人が出られた。

年賀状のやりとりだけになっていて、不義理で申し訳ないなーと思いつつ「神戸の大沢ですけど」と告げると、「あぁ・・・」と思い出されたような、懐しげな声が返ってくる。まるで「親父の海」の村木憲吉のような、やさしいトーンである。

久々に遠路はるばる行く宿なのに、日本の原風景に帰って行くような感触がうれしい。
この宿が、i-mode予約システムなんか導入されたらどうしよう・・・と思うほどだ(勝手なもんだが)。

ともあれ、無事に男女ちゃんぽんのタコ部屋が取れた。クリスマスイブでも全20室中、18室は空いているような秘境宿だから(笑)、たぶん雪道不足の今シーズンは余裕で空いていることだろう。
それでも、しかも人妻をまじえてでも「相部屋でGo!」は、計画的確信犯的セクハラであろうね。ガハハハハ・・・まぁ、ええわ。

あと、太平洋ベルト地帯の紳士諸兄とも、平日の雪遊びをメールで相談している。
「コードネーム吉永小百合」さんは今回欠席で、八甲田を滑ってきたというエンジニア氏、放送大学でコツコツ勉強しておられる「コードネーム日ハム監督」らと、現地集合することになりそうだ。

黒姫は三十路ばかり、その翌週は僕からみて「親世代」ばかりの面々である。
おーい、日本の四十代、どうなってまんねん!

まぁ、来年あたりから団塊世代がどっと山にやってくるのかもしれないから、足腰を鍛えて迎え撃つとしよう。兄貴分、姉貴分に「弟子入り」されたり、かわいがられたり、ときには説教され(るふりを演じ)ながら、元気な四十代としてがんばりたいものだ。
黒木瞳世代をうるうるさせられるか、どうか・・・お目当ては、そこだけである。


越境を楽しむ

at 2007 02/25 21:13 編集

ふつう新書は書店に並ぶのが遅れ気味だから、発売日すこし前に出ていると、かなり得した気分になる。実際には何の得もないことは百も承知なのに。

池内紀さんの『異国を楽しむ』(中公新書)は、高尚に観光を論じる教養書でもないし、具体的な紀行エッセイでもないし、旅馴れた文学者がちょっと耳打ちしてくれる)tipsはあってもマニュアル本でもない、不思議なタッチのペーパーバックだ。

なにより、中公新書という容れ物が意外だ。
そもそも「岩波!」のイメージが定着していた新書で紀行や随筆というのもミスマッチ感があるから、売るのは大変だろうと思う。以前の装丁の講談社現代新書だと、硬軟どっち向きにも収まりがよかったけど(嵐山光三郎の『日本全国ローカル線おいしい旅』なんてのも)。

ただ、中公新書では、今をときめく陣内君・・・ではない建築家陣内教授の『地中海都市周遊』なんかは、ベストセラーにならないのが不思議なほど、濃密で鮮やかな建築紀行だったりする。さすが中公新書やなぁと圧倒される、歴史絵巻のような構成だ。
大胆にカラー写真満載というのも斬新だし、こういう新書の方向もあっていいよな、と賛同する人も多いであろう名著だと思う。

たしかに、思想的に偏らず、俗に媚びず、深い教養の森を垣間見せてくれる池内センセイの文体は、絵も写真もない紀行書で自由に飛躍し、肩の力を抜いて、FMでおなじみのほっこりした口調が行間から聞こえてきそうな感じさえする。
この中公新書に、すでに3冊上梓されているのも意外だった。

その気安さからか、オペラ座で女性の胸の谷間に顔をほころばせている池内センセイがいて、動物園でボーーッとしている池内センセイがいて、イタリアを鈍行で旅する鉄ちゃん池内センセイがいる。

けっこう安宿や安食堂、街角のバールでなごんでいる池内センセイの姿は、質素でも楽しそうだ。
もちろん、外国語ペラペラの武器があってこその余裕だろうけど、「英会話なんかいらないドタバタツアー」ではなく、ちゃんと土地の人と普段着で接する泥くささが旅の醍醐味ですよ、と無言で諭されているような気もする。
その通りですよねぇ・・・。


ビルダー知事

at 2007 02/24 23:45 編集

真面目なのか冗談なのか、義侠心からなのかわからん、黒川紀章さんの都知事選出馬は、どの政党も戸惑っているらしい。
ひょっとすると、「赤い都政」が誕生するかもしれないのに、共産党も推薦しないのだろうか。

僕の世代なら、彼の師匠の丹下健三はよく知らなくても、建築家としての黒川さんは天才と認めているはずだ。
まぁ、僕は文系だから「ホモ・モーベンスの思想」の未来性に惹かれたぐらいだが、今のモバイル社会、労働力流動、ボーダーレス社会を予見していたような、「ソーシャル・デザイナー」やなぁと感服するばかりだ。

黒川さんの行政手腕については、だれも認めていないだろうが、こんなグランド・デザインのできる首長がトップにいて、現場を動かせるのもいいと思う。

となると、かつての「青島にノック」の再来を期待する関西人いちびり癖で、大阪府知事には安藤忠雄でしょう!!との声は、当然あがってくるはずだ。かなり、得票できると思うぞ。
元ボクサーの経歴を売りにして「裏金役人にパンチ!」とキャンペーンそいてもらうと効果抜群。
大阪がだめでも、ご自身の作品も多い神戸で市長か兵庫県知事をしてもらってもいい。

医師の政治手腕は、大阪市長を見ても坂口前厚労大臣を見ても頼りないから、僕は建築家に期待したい。
ただ、建築家といえばハコモノが作品ゆえ、公共工事の費用が膨らむ・・・?と心配される恐れはある。
そこは前向きに受けとめるしかない。豪華絢爛だがじわじわ傾いて行く公務員住宅を「ピサのシャトー」と名づけて建設し、不祥事を起こした税金泥棒はそこに住まわせればいい。

安藤忠雄さんには、大地にめりこんだような幼稚園、保育園がめりこんだ子供園、墓地にめりこんだ特養などをどんどん建設してもらって、全国から「ここで育児したい」「ここで死にたい」を思う人が集まればいいと思う。
建築には、そんな力がある。
知事公舎か、せめて私邸が、黒川パワー・スポット、安藤パワー・スポットになればおもしろい。

風水師だセラピストだと魑魅魍魎が群がる「ミステリー都道府県」ができればいいのだ。
どうせ清く正しく透明な地方自治など無理なんだから、怪しく楽しめるお役所仕事をみせてほしい。


関西納豆まもなく発売

at 2007 02/23 22:58 編集

しばらく、毎夜定時の「準夜勤」が続く。
ちょうど夕食時だから、ついつい夕食が後回しになって深夜近くになるのは、まずいなーと思う。
毎日規則正しく空腹になるので、ランチタイム、サパータイムを逃すと腹がグーグー鳴って困る。昨夜もそうだった。

いくら夜更かしをしても、また徹夜をしても、決まった時間に食欲が湧いてくるのは、別に親にしつけられた記憶もないから、自然の摂理というものだろうか。
体が呼ぶ声に自然に応える食生活というのは、大事だと思う。
「あるある大事典」にかぶれたわけではないし、そもそも見たことがない番組だったが、納豆をコンスタントに食べていると、腸の調子もいい。バカ素直な体なのだ。

で、「納豆その後」である。
きのう、元NHK元フジのキャスター宮川俊二さんが大阪ローカルの夕方ワイドに出ていて、なりゆき上「60年間食べたことがないんですよ」という納豆を食べさせられていた。
60年間といえば、よほど固い決意で拒んできたことだろうと思う。あぁ、お気の毒に。

それを、「納豆嫌いの関西人向けに開発されたんです(宮川さんは愛媛出身)」「匂わないから」「あっさりしているから」と能書きをつけられて、おそるおそる口にしていた。
食べてすぐ「おぉっ!うまいよ、これ」と絶賛していたのは、本心なのか、演技なのか・・・?
今後どうなっても知らんからね(笑)。

出演者ずらり並んでいっせいに納豆を食べて絶賛するコーナーで、「いや、僕は食べません」と我を貫くのは、さすがに難しいものかもしれない。
関西ローカル番組は、スポンサーの商品を平気で「イマイチやな」とけなす一方で、やたらに同調を迫るところがある。近畿2府4県民は皆タイガース・ファンですよね、いうまでもなく・・・という具合に。

ふな寿司や奈良漬けになじんだ土地なのに納豆星人が少ないのは不思議な気もするけれど、「かつおだし風味の薄口醤油だれ納豆」は、関西に定着するのだろうか。
ソースをかければ、「いけるやん」と喜ぶ特殊味覚の種族もいそうな気もするが・・・。


赤ちゃんポストの前に

at 2007 02/22 23:13 編集

熊本の病院に、こんなファンタスティックなポストができているなんて!
と驚いてしまった、捨て子あずかり窓口。
賛否両論あるのは当然だろう。

このポストが生むモラル・ハザードより、子供の命を救えるメリットの方が大きい、ということなら悪くないのかも?と思う反面、どうも違和感は残る。親の責任があいまいになるリスクは、どんな親を増やすことになるのだろう(もちろん、保護責任者遺棄の刑事責任も)。

献血や臓器提供は、基本的に個人の責任において自由だと思うけれど、子供は親が自由に放棄していいのだろうか・・・でも、捨てたい親に育てられるより、育てたい人に育てられる方が、子供の「幸せ」云々の前にまず「安全」なのかもしれんなぁ・・・と、考えるほどいろいろな面が見えてくる。
このポストの功罪は、長い目で検証して行くしかない。

それに、いきなり「赤ちゃん」というナイーブな存在を扱う前に、モデル・ケースを試してみればどうじゃろ?と思う。
たとえば、「だんなポスト」「奥さんポスト」である(ハローワークのプライベート版だな)。
この方が、意見百出、熱く闘えるにちがいない

夫、妻というのは、ある一人と向かい合っての立場だから、「亭主元気で留守がいい」妻の夫が、病弱で在宅していたりすると「ストレス二倍」なだけ。
相性が悪くて腐っているなら、どんどんシャッフルしましょう!という世の中になれば、おもしろいのではないだろうか。
配偶者にダメ出しされたところも、別の人にとっては長所に見えることもあるかもしれないからね。捨てる神があれば拾う神もいるわけだから、これも「再チャレンジ政策」になりませんかねぇ、安倍総理!

「妻を働かせる夫と、働きたくない妻」なんかは、それぞれ、働きたい彼女と、妻を養いたい男と出会ってくっつくのが、人類繁栄・世界平和・安寧秩序・明朗会計というもんである。まぁ、そんなに簡単に行かないものだろうが。

赤ちゃんは、どんな素質を持っているかいないか未知数なのと同じで、大人のパートナーだって、どう変身するか、化けの皮の下がどうなっているか(笑)も未知数なのだ。
だから、「しまった!」と気づけばリサイクルポスト。
環境保護のように、リユース、リサイクルの前に「リデュース」となると、ブライダル商売そのものが不景気になるから、軽はずみな結婚と正しい離婚、懲りない再婚(笑)がどんどん増えれば、GDPも上昇するってものだ。

でも、「つれあいポスト」に10年も20年も居残っている人も出てきそうで、この中も格差社会になって行くのは避けられそうにない。
年季の入ったお局さまというのも見てみたいが、この先輩格のお局さまというのは、威張っているものだろうか、うなだれているものだろうか。
大地真央なら、僕は入札するかもかもかもしれないが、捨てられたのは「サンバな夫」の方だからね・・・


おかんむりさんよ

at 2007 02/21 23:29 編集

「おふくろさん」の歌詞に、老作詞家が吠えた。
勝手に変なイントロをくっつけるな!今後いっさい森にはワシの歌を歌わせん!と息巻いて、おかんむりである。

著作者は著作物を改変させない権利があるから、「前半」の主張はごもっとも。もし森進一が「わかりました。元通り歌います」といえば、これは真っ当な著作物利用契約の遵守だから、そこまで感情的に禁止することはできないそうだ。
なるほどね・・・財産法は常識的にできているんですなーと勉強になった。

しかし、常識ばかり通るとは限らない芸能界は、パクリやねじ曲げだらけなのが現実だ。お互い、黙認して、見て見ぬふりして、それで蓄積された貸し借りのカードは、ばかにならない量にちがいない。
そこへ、何かのきっかけで「あいつを消せ」「あいつとあいつを闘わせてみよう」という空気ができあがったら、カードが駆使されて訴訟合戦になったりする。

森進一に吠えた川内さんについては、なぜ今になって・・・?と素朴な疑問も覚える関係者もいるようだ。
これも、勘ぐれば、森夫婦の離婚や森昌子復活が地味なニュースにしかならなかったから、もっとおもしろく「前途多難」を焚きつけようとするフィクサーが、作詞家に耳打ちしたのではないだろうか。「そろそろ、訴訟を視野に入れて、声を出しませんか?」と。

「森おろし森あげ」をもくろむ闇の力!と考えると、まるで芸能界と政界は重なって見えてくる。人気商売という点でも似ているし。

民主党つぶしのフィクサーが永田メール問題を仕掛けたとすると、安倍首相おろしのフィクサーは、何を出してくるのだろうか。
安倍学級崩壊状態ともいわれているから、いじめ自殺で引責辞任・・・というシナリオもあるかもしれない。5つも6つも大臣名を背負わされて発熱していた女性閣僚も、ありゃーいじめではないかい?と思ったものだが、ただ、あの姉御は殺されても死なないタイプだから、いじめ甲斐はないだろう。
(ヒツレイ!)



丸山健二も怒る安曇野

at 2007 02/20 06:57 編集

居眠り衝突事故を起こしたスキーバスの運行実態には、あっけにとられてしまった。
「三ちゃん農業」というのは聞いたことがあるが、観光バス事業にもあるとはね・・・。社長が39歳のパパ、運転手が21歳の長男、交替運転手はママ、添乗員は16歳の三男・・・とまぁ、絵に描いたようなファミリー・ビジネスだ。もろに「家族的な職場」だったことだろう。

社屋の玄関前に物干し台があったりする眺めも、何もなければのどかな「自営業者宅」にしか見えなかった。
そんな仕事熱心な家族が総出で、「自転車操業のようなバス操業」をしていたようで、シャレにもならない。

従業員とはいえ、末っ子が兄貴の運転で命を落としているわけだから、刑事責任を追及するのもかわいそうな気もするものの、それでも罪は罪ということか。犠牲になった末っ子添乗員のご冥福を祈るばかりだ。

途中で「あんた、しっかりやんな」と長男一人に残の運転を任せて下車してしまった母親は、悔やんでも悔やみきれないだろう。
我が子の喪に服する間もなく、運転を交替しないで下車してしまった交替運転手は、やはり直接の責任を免れないとは思う。

かろうじて、客の命が奪われる前に司直のメスが入ったのは、せめてもの救いなのか・・・それでも、背骨を骨折したという乗客がもし半身不随にでもなっていれば、おそらく廃業せざるをえない「家族バス会社」は責任をとれるのだろうか。

規制緩和政策の鬼子のような、コンプライアンスもガバナンスもゆるゆるの会社が旅客の命を運ぶ事業にポッと参入できるのも、実におっかない話で、行政の責任も半分ぐらいはありそうに見える。大型二種免許も、路線免許も、こんなに簡単に取れるものだったのだろうか?

労基署は、スキーバス事業がメインの家族企業だと把握していて、前にもイエローカードを出してマークしていたらしい。
それが、なぜ業務停止まで行かなかったかといえば、「雪が本格的に降るのを待っていた」そうだ。アホか。冬が来る前に、危険なバス運行を止めにゃならんでしょうに。

会社が倒れても、これから転業するとしても、このバス会社のスタッフ一同は家族であり続けるわけだから、「家族で再スタート」となると、また同じミスをくりかえさないだろうか。

家族経営の典型が個人病院だったりするし、「三ちゃん経営」のようなファミリー・ビジネスが丸ごと悪いというつもりはないけれど、安全管理までなおざりになるのはまずい。
ところが、行政がメスを入れられるのは結果としての事故だけで、親子や夫婦の関係までは監督できない。だから、あずみの観光バスの社長が専務に関係を迫ると、これはセクハラになるのか、よくある「夫婦の営み」なのか?・・・こんなことは、行政指導しようにも無理があるわな。

僕も「魔性の社長」に仕える副社長なんて身分をもくろんだりしているから、ゆるゆる経営いかん!!と力説しにくいところはあるのだが、世間のファミリー企業はしっかり安全管理もやってほしいと願うばかりでありますな。

そして我が家では、「なんなの副社長、この業績は。研修しなきゃいけないわね〜。バスルームへいらっしゃい!!」というヒトミ社長のお仕置きが、夜な夜なくりひろげられるのである。労基署も視察したくてたまらない労務管理が・・・(笑)。
アホやなー


大阪の次はアモ〜レ・マラソ〜ン

at 2007 02/19 07:40 編集

東京マラソンは、とりあえず無事に挙行されたようで、めでたし、めでたし。あんな寒そうな雨でも成功したんだから、次やるときは雪でも大丈夫だろう。

直前の住吉会vs山口組の抗争も、スリルとサスペンスで大会をひきしめる効果があったのかもしれない(ひょっとして、おちゃめな893さんの演出か?)。
そのへんは、さすがに、いざとなりゃ「東京軍」でも編成して鎮圧しかねないコワモテの都知事のおひざもと。平和裡に終わろうと戒厳令が出ようと、どっちに転んでも楽しめる。

東京全体が完全封鎖されたわけでもないとはいえ、実際7時間も交通規制するのは大変だろうなぁ・・・と思う。それでも大混乱がなかったのは、アッパレ!と海外のマラソン関係者も評価していたそうだ。
これを某O阪市でやれば、「ちょっとぐらい通らしてんか」「融通きかしてぇや」と、なしくずし的に「堤防」が決壊して、やがて暴動に発展する可能性は128%ほどありそうだ(笑)。

そうやって、なしくずしになること前提で、大阪の世界選手権も開催してほしい。「なにわ節だよマラソンは」て感覚で。
コースは、ジャンジャン横町を走り抜けて通天閣を昇り降りして、大阪城に乗り込んで、ホームレスの村を世界に中継する。補給ポイントに並んでいるのはタコヤキとか(笑)。

テレビで映るから、沿道の広告もド派手を極めることまちがいなし。沿道みな道頓堀みたいになって、グリコの看板、カニ道楽、食い倒れ人形がやたら増殖して、スタートからゴールまで、必ず画面のどこかに映っていそうな気もする。

関市長も、立場上マラソンやオリンピック誘致をしなくてはいけないだろうが、医者としての立場で考えると、「都会であんまり激しく運動されると肺によくないぞ」と思っているかもしれない。おそらく。

それは東京でも同じことで、そもそも大気が汚れている上、何千、何万もの先行ランナーの吐く二酸化炭素を吸いながら走るのは、不健康といえば不健康だわな。
そのせいでもないだろうけど、2名ほど心肺停止したランナーがいたらしいが、「AED容易してますから心配停止」というわけにはいかない。

東京とか大阪のように空気の澱みやすい都心で、窒素酸化物、二酸化硫黄etcetcを大量に吸わせるマラソン大会というのは、考えなおした方がよろしいのではないか・・・と、ふと僕は冷静に考えてしまうのだ。
そうなれば代案を!というわけで、「神戸淡路マラソン」はどうかいなーと、地図を見ながら勝手にコース設定をしてみたりしている。

芦屋あたりから、須磨、舞子海岸を走って淡路に渡るのは、眺めがすばらしいコースだし、潮風、六甲颪の「ダブル横風」を受けながら爽快に走れるぞ。
並行して走る主要道が高速も含めて何本もあるので、1本だけマラソンで封鎖しても大丈夫。
そして明石海峡大橋を走る。なぁに、マラソン中だけ車はフェリーに回せばいいのだ。
だめならランナーをフェリーで運んでもいい。「デッキで足踏みしてろ」と命じて。

絶景また絶景の、すばらしい都市マラソン・コースになると思うのだが、ただ芦屋をコース途中に通ると、イケメン選手を誘惑する悩ましい奥さんがうごめいていたりして、走る前から骨抜きになる(笑)選手が出るかもしれない。そこはネックというか、オプショナル・ハプニングというか・・・

かどわかされてから走っても、ゴールしてからかどわかされても、心臓に悪いから、芦屋、御影、塩屋あたりに医師と風紀委員を張り付けておかにゃならんわな。
「ちょっと、そこのベンツの奥さん、持ち帰りはだめですよ!」とかなんとか注意してやらないと、招待選手された芸能人ランナーなんかは「青田刈り」されるね。
外国人だと、ジローラモみたいなイタリア人選手がむやみに増えそうな気もするし(笑)・・・あぁ、偏見コテコテの「阪神淡路大マラソン」青写真だな。


夜のウォーキング

at 2007 02/18 09:14 編集

しとしと冷たい雨が降っていたので、体を暖めるのを兼ねて、日が暮れてから徒歩で出撃した。とりあえず中央図書館へ向けて。

しばらく座り読みしてから、ハーバーランドへ南下する。ここから東へ九十度ターンして、中華街から北上する「反時計回りルート」を予定していたのだが、家に忘れ物をしていたのに気づいた。情けない。

戒めをこめて、罰金200円なりを自分に課すことにする。
で、バスで一旦帰宅。神戸駅から、大きな時計回りルートに方向転換することになった。

氷雨の夜のバスは、独特のうらさびしいムード満点で、暖房が心地よく、うつらうつらしてしまう。
新開地、湊川・・・と旧都心を北上する路線なのに、車内は閑散としている。間もなく乗客は僕だけになってしまった。

途中で下車して行く客たちが消えて行く街の明かりが、どこか別世界のように見える。
車窓に流れて行く、雨に煙る夜の街頭は、ここが神戸なのか千葉なのか広島なのか、区別がつかない。おかげで、しみじみ我が街とは実感できない、抽象的な「夜の雑踏」を滑って行くかのような非現実感覚もまたオツなものである。

忘れ物を手にとって、再び外出。今度は三宮〜元町と右回りに歩く。
「陣内・紀香」で沸いていた(であろう)生田神社横を通ると、ひっそりと静まり返っていた。
厳戒体勢、と報道は誇張していたけれど、生田警察の隣りだから、警備は楽々だっただろう。西門正面の飲食店には、「ご成婚おめでとう」の貼り紙があった。

挙式前日まで、のんびり「なるとも」の司会をやっていた陣内君だから、大騒ぎするほどのこともない、淡々と「儀式一発」ですんだのだろう。兵庫県民同士、親族だけで粛々と、簡素な式を挙げたご両人は、なかなか鮮やかで好感度アップではなかっただろうか。

あっけない「宴の後」の街頭をずんずん歩き、TSUTAYAにブツを返して、やっと昨夜の任務終了。
たぶん、5000歩ぐらいのにわかウォーキングでしかないと思うのだが、冷気を浴びながらもうっすら汗をかいて、気分は爽快だった。
夏の雨はアスファルトの匂いが、春には沈丁花、秋には木犀の香りが折々の風情として漂ってくるものなのに、冬の雨は無味無臭で、そこはかとなくわびしいのが、何ともいえない快感だったりする(笑)。

ひと雨ごとに暖かくなるのは、まだ早い!
・・・と、あたふたとスキーの計画を立てて部隊編成を進める今日このごろだ。例年なら厳冬期まっただ中なのに、いったいこの陽気はなんだろね?



「要するに」

at 2007 02/17 23:50 編集

イレギュラー千本ノックのような、ひな祭りまで連日連夜の仕事が入ってきた。

忙しくなると、本の世界に逃げたくなる。
講談社文庫の新刊は、待ってましたの椎名誠兄貴の『くじら雲追跡編』。
副題が「にっぽん海風魚旅2」だから、島旅や岬への旅やら、絶品シーフードやら、日焼けした人々との言葉のキャッチボールあり、そしていい顔・顔・顔の写真が満載されていて、あぁ、ポケットの中に吹く「旅の風」なるかな〜〜〜と、ヒシヒシ感じる。

別に椎名さんが軟派だとは思わないが、こういう(いい意味で)雑誌ふうの本と相乗効果が出るのが、堅い本のような気もする。
お堅い岩波文庫からは、『サミング・アップ』という、岩波らしくない現代そのままのサマセット・モームのエッセイ集が出ていた。ひと昔前の新潮文庫の古典シリーズで、『要約すると』という訳題で出て絶版になっていたやつだ。岩波は軽佻路線に行くのか?

モームといえば『月と六ペンス』だが、まともに読んだことがない。
予備校時代のリーダーの老講師がやたらモームが好きな学者で、自分で編集した分厚い教材を使って熱心かつ丁寧に講読を施してくれたおかげで、成績は急上昇した。
残念ながら、その伊藤律にそっくりの老講師が熱く語るモームの滋味のようなものは、わからないままだった。英文学のテクストは難しい。

英語で四苦八苦すると日本文学に逃げるのが息抜きになっていたから、開高健おやじの小説、エッセイは貪り読んでいた。開高さんも、モームの『要約すると』を名作アフォリズムとして紹介していたから、ちょうど授業と道楽の複線でモームに寄り添っていた感じ。
未だ、モームが読めたとは思えないが(苦笑)。

ただ、不確かな時代だから、箴言集のようなものが求められているのかもしれない。
僕の尊敬していた作家が、処世訓のような、また「○○になれるための十の法則」の類のマニュアル本を書かされるのも、ちょっとどうだかなぁ・・・と哀しくなるが、しかたないのかな。

「大切なものは、目には見えないんだよ」なんてパクリ文句を、子供に垂れて偉そうな顔をしている大人に限って、お経ひとつ聖書ひとつ読まない。「読書よりケータイ」はもう、茶髪のオバサンやちょいワル気取りの団塊おじさんまで染み渡っている「時代の空気」みたいなものだ。
あなたがたこそ、ありがたい言葉や感動させるための言葉を拾い集めてないで、じっくしモームでもソクラテスでも読みなはれ!と恫喝してやりたい。

モームなら、今の日本人を見ると、どんな警句を吐くだろうか。
小学生の娘のTバック写真集なんかで小遣い稼ぎしている大人を見ると、「子供を救え!大人から離して」と言うかもしれない。
「大人がバカだから」「大人がずるいから」「大人が欲深いから」で、世の中の問題の大半は説明がつくような気もするしね。


サッポロがんばれ!

at 2007 02/16 22:19 編集

サッポロビールがピンチ!
サッポロビール党の党員としては、黙ってみているわけにはいかない。

ハゲタカ・ヤンキー・ファンドがサッポロ株を買い占めて、アサヒビールに「買わないかい?」と持ちかけているのが真相のようだが、メディアによっては「アサヒビールが市場支配を狙ってサッポロ株をを買い占めている」ようにも報じられている。
いずれにしても、アサヒと外資ファンドとの間に、「魚心に水心」の取引が成り立っているのだろう。

白馬の騎士が現れて救ってくれなければ、サッポロはアサヒの子会社になってしまうか、この外資ファンドに買われて即よその会社か似たようなファンドに転がされて、マネーゲームのコマとして命果てて行くことになりかねない。

血を吐きながらのたうち回る会社の血しぶきで儲けるようなファンドというのは、これからも「日本買い」を進めて行くのは確実で、ホテルやゴルフ場などバブルの遺産は、かなり外資が買い叩いているという。
同業者が吸収合併したり異業種で提携したりすることは、これまでもあった。ソニーだって松下だって、「アメリカの魂」を買い、三菱はニューヨークを買ってきた。
そのツケが回ってきたわけか?

買収されたくなければ、防衛策をとるか、上場をやめるか、打つ手もあっただろうにと思うが、マツダやニッポン放送や明星食品の例を見て、サッポロビールは何をしていたのだろうか。ファンだからこそ、厳しく愛のムチをふるいたくなるぞ。

たとえ同業他社の傘下に落ち着いたとしても、サッポロビール党というのは、アサヒでないからサッポロを飲んでいるところもあるわけで、買収されたらブランド価値がなくなるから、売り上げは落ちないだろうか。そうなれば見返りが乏しい買い物になることぐらい、アサヒはわからんか?

ファンドが買収、となると経営のノウハウを持つわけではなく買って転がすだけだから、いい買収か悪い買収か・・・どころではない、ただ不安しか感じない。
どうせなら、日本の怠慢メガバンクがシティ・グループやドイツ銀行に買収されるようなサプライズは、ひょっとして悪くない感じもするのだが、銀行業界は政府が手厚く保護して飼い馴らしているから、まだガラガラポンは起こらない。

うまいビールを誠実に製造しているサッポロのような会社を買収するより、石川五右衛門かルパン3世のような鮮やかな勧善懲悪を見せて、「まいう〜!!」と絶賛されるようなファンドは、ないものだろうか。


春一番ちょっと待て

at 2007 02/15 09:35 編集

春一番が吹いてしまった。
東京でさえ、初雪が降らないうちに春の嵐!?と戸惑っているようだから、このまま春が来てしまうのだろうか。損した感じやなぁ・・・。
あわてて、3月のスキー・プランを連発で立てているありさまだ。

キャンディーズの「春一番が〜掃除したてのサッシの窓に〜」の歌が、自然と脳裏にこだまする。
歌詞は、「お引っ越しのお祝い返しもすまないうち〜に〜」と続く。あぁ、キャンディーズの世代までは礼節があったんですなぁ。今じゃ祝い返しどころか、引っ越し祝いさえ、何それ!?と言われそうだ。

もっとも、中元、歳暮を一度もやりとりしたことがないやつが、えらそうなこと言うな!と叱られそうだから、愚痴は口チャック・・・。

今年は特に、寒がりの人や猫は暖冬にぬか喜びしているようだが、うんと雪が山に積もってくれないと、夏になって水不足や発電不能なんてことになるから、やはり冬は冬らしく雪化粧するのがいい。
なのに、おてんと様どうしてるんでしょう?

前川つかさの『大東京ビンボー生活マニュアル』(講談社漫画文庫)は、延々5巻、昭和末期の東京の下町暮しを描いてホッコリさせてくれる名作だが、ここにも都心の積雪で雪だるまを作る場面が出てくる。
あぁ、こんな時代が、すぐそこにあったんやなぁ・・・という感じ。

別に東京に限らなくても、かつて街は寒かった。寒波が来ると白一色になっていた。
クルマは走れなくなり、目抜き通りが広大な歩行者天国になる(ホコテンというのが初めて東京にできたのは70年代になってからだったと思う)。

冬の賓客である雪は、一夜にして非日常な夢の世界を出現させてくれる、「魔法の杖の一振り」のようなものだ。いまいましげな顔をしないで、笑顔で迎えようではないか!と思う。
仕事をする大人は雪に難儀しつつ恨んでいても、子供にとっては楽園だから、犬と一緒にのたうちまわって遊びほうければいい。

こんな積雪そのものがめったに見られない今、都会に多少降ってもパニクる人はいないから(ピリピリするのは受験生ぐらいか?)、冬の季節感がないよなぁ・・・と寂しく思う。
店員なんか半袖で仕事をしているし、なにより寂しいのが、道端で焚き火が見られないこと。

もっとも、僕の焚き火シーンなんか、どんど焼きとか落ち葉焚きのような情緒あるものではなくて、町中やたら工事ばかりやっていた時代に、廃材を燃やす工事人夫さんたちが、近所の薄汚いガキ(=僕のような)にかまいながらの残務処理だったかもしれない。これはこれで、「なごみの場」ではあった。

こういう経験を経ないで成長する子供が多いことが、最近の火事で子供が犠牲になりやすい一因ではないか・・・と消防研究の専門家が話しておられた。
ちょうど僕が子供のころの日本人は、平均して1日8本のマッチを燃やしていたのが、今は0.2本だという。たしかに、大人も主婦も、マッチよりライター、コンロより電磁調理器具、焚き火より家でポカポカ暖房、の時代だ。

火とつきあう経験が圧倒的に乏しいから、火と煙のこわさを知らない、だから防火の備えも考えないし、火の気に鈍感で、出火すると逃げ遅れるのだそうだ。
おまけに家の気密性が高くて、別の部屋や階で出火してもわかりにくいから、気づいたら手がつけられないほど火の手があがっていたりする。化学建材は猛毒の煙を出して、焼け死ぬことがなくても窒息死する。

たしかに、一家で焼死する火事が多いような気もするが、まぁ、だからといって子供だけ助かって親・祖父母が犠牲になるのが自然でいいとはいえない。
僕も、別に風呂を薪で焚いていた経験があるわけでもなく、せいぜい火鉢に練炭、焚き火にキャンプファイヤーぐらいの経験しかない。

このまま、雪に吹きさらされながら焚き火にあたったり、家の中の赤い炎にホッコリしたりする国民的な経験が消えて行くと、ただ情緒的なものだけでなく、失うものは大きいような気がする。

天変地異や暑さ寒さへの適応力が衰えるにつれて、ストレスが蓄積されて細胞がガン化しやすくなる・・・というのは、かなり強引な素人推論だが、大自然のリズムに、悶々いらいら鬱々として愚かな抵抗をしているのも、文明人の浅はかさかもしれない。「年中22℃の空間」で過ごすつもりだろうか。

猛暑には汗、寒さには鳥肌、雨には濡れたTシャツ、風にはミニスカート・・・があればいいではないか。
あと、火遊びは大人の専売特許。かな?


感動の涙 そうそう その調子!

at 2007 02/14 08:54 編集

板橋署常盤台交番のおまわりさんが、残念ながら絶命してしまわれた・・・というので、全国から弔意の手紙やら花束やらが集まっている様子。
たしかに、文句なしに立派な殉職を遂げられた「警官の鑑」であることにちがいはないし、地域で愛されていた頼もしいプロフェッショナルだったのだなぁ、とあらためて思う。
僕も、合掌して敬礼して表彰して叙勲してさしあげた次第である。

だから、あの交番に大阪府民や大分県民や北海道民から寄せられる弔意に横槍を入れるつもりはないのだが、それにしてもねぇ・・・美談と感動に飢えているのか日本人よ!とも思う。
精神構造は、偉大なる将軍様を賛美する映画に狂喜する人民と、ちょっと似ている(笑)。

なんだか、徳島の崖っぷち犬の騒ぎを思い出すぞ。
そういえば、崖っぷち犬がいたなぁ・・・という「国民的記憶」も、やがて風化して、多摩川にいたアザラシや、皇居の濠かどこかにいたカルガモ親子と同じような運命をたどるのだろうけど。

たまたま話題になっただれかを、ことさらに「聖化」する国民的感動したがり症は、マス・ヒステリーと表裏一体だ。
かつて日本の同盟国にいたアドルフおじさんが、今この国に生きていたら、美談こてこての国策映画を続々と作って、感動好きな国民を丸めこむのは簡単だろう。
絶叫と号泣が、自宅にフルスペック大画面プラズマ+5.1サラウンドを構えて感動に飢えている日本人の魂を、うち震えさせるのだ。
ちゃんちゃら、おかしい。

近ごろは、一流の(はずの)アーチストまでも、「感動の舞台をご覧下さい」なんて言い方をしていたりするから、まず自分のパフォーマンスに全力を注いでくれればええわいな、と苦笑してしまう。あくまでも結果として、多くの人が感動したり、人によっては不満だったりするだけのことではないかい?

医療ドキュメンタリーで、「奇跡的に救われた命」に無理やり感動させる類の演出も定番だが、実際に「感動する治療を致します」なんて医者が目の前にいたら、限りなくうさんくさいでしょうに。
同様に、「感動的な裁判」を戦う弁護士がいてもおかしいでしょうに(笑)。あの弁護士なら、やりかねないとはいえ・・・(!?)。

まぁ、実務のプロと芸術家は追い求める成果の質が違うとは思うが、この中間ぐらいにある(と僕は思う)教育のプロが、「感動する教育」「子供の心をつかむ授業」なんてことを口にし出すと、ちょっと危ないなぁと思う。おいおい、教師は手品師ちゃうで。「すぴりちゅある・かうんせらー」とも違うって。
こういう教師が、「水に語りかけましょう」てなトンデモ世界に傾いて行くのかもしれない。

今回の警官の殉職それ自体は感動に値するお仕事だが、かといって、感動する海上保安や感動する保線作業というのは聞いたことがない。
感動したがり屋さんは、マスコミが「ほら、まれに見る美談でしょう」と差し出すニュース素材だけでなく、身近で身を張って働いているプロフェッショナルに目を向けたらどうだ?

どっぐぱーくや崖っぷちの犬に、もう顕微鏡的な超ピンポイント近視眼で目をうるませて「引き取らせてっ!!」と申し出るなら、自分の町の動物処分場に行ってみるつもりはないのだろうか。

とまぁ、せっかく人民が「心の洗われる思い」をしたがっているのに、八つ当たり的に水をさすのもなんだが、どうしても僕には「危険な回路」が見えてしかたないのだ。
いや、日本全国の感動マニアさんの暮らしている世界と、常盤台交番が直結させられていて、間の回路がすっ飛んでしまっているショートカットが、おっかない。

クルマの総量自体が基本問題なのにエコ・カーやハイブリッド・カーがはやったり、エアコンの使い過ぎこそ元凶なのに国民が原発の被害者であるかのように報道する・・・この程度のイカサマを見破れないほど、感動の涙で日本人の目は曇っているのだろうか?
泣けてまいります・・・ケタケタケタケタ


生存させてもらえない遭難者

at 2007 02/13 23:31 編集

宮崎の漁船転覆事故は、3日間の漂流後に無事救助!でめでたし、めでたし。
当て逃げされた上に、寒かっただろうに、ホントよくがんばりました・・・と祝福しつつ、僕の腹には的外れな、邪悪な好奇心がムクムク。
あの救命ボート、かわいいやんか!
乗ってみたいし、寝てみたい。できれば一家に一台。

乗り物に燃えるマニヤな殿方はみな、興味津々だったと思うぞ。
そこを見通して、ちゃんとスタジオで「実物解説」してくれていた番組もあった。

サンスター・スパイセットを思い起こさせる非常用食糧や釣り道具などが収められたガジェットには、心穏やかならぬトキメキを覚える。
サバイバル・キットには、国土交通省謹製のサバイバル・マニュアルもついていて、これが力強く遭難者を励ます感動の激励文なのだ。人は海で死ぬのではない、恐怖から死ぬのだ!という具合に。

しかも、細心の気配りが行間ににじんでいる。うかつに「一応」とか「とりあえず」「かもしれない」などと書いてたりしない(笑)。

ただ、今回のように72時間で救助されるぐらいならちょうどいい励ましになるだろうが、漂流が長引くと、もっと悲壮感が漂ってくるはずだから、バージョン・アップしなくてはいけない。「1週間たったら読め篇」とか、「死を覚悟した遭難者向け篇」とか。

まちがって、遭難2日目に開封して読んだりすると、「遺族に伝えたいことをここに書いておきましょう」というページに愕然としたりする。こりゃ罪だわな。
あくまでも、助かるのだ!もう少しの辛抱だ!希望を持て!一色でかためたマニュアル本でなくてはいけない。

でも、僕のような下世話な野郎も遭難するだろうから、「1週間で発見されたら表彰状、1ヶ月もてば国民栄誉賞、半年もてばモテモテ!!」と書いてくれてたら、僕は遭難したまま孤島に潜伏するね。もてるというなら、「該当者」が孤島にいらっしゃい!いや、一緒に遭難してみませんか?と、わがままな記者会見をしたりして。

こんな遭難者は、同情も祝福もされないから、遭難ではなく「失踪」扱いされておしまいだろう。
それはそれでいいんですが…。
救命ボートではちょっと貧相だから、廃船でいいから空母か潜水艦に乗せて海へ放ってくれたら、あとは勝手に生きて行きますが、だめですかねぇ・・・。
 


鍋蓋ころがり

at 2007 02/12 12:13 編集

「真っ白に雪化粧した裏庭」が今年は望めそうにないので、うららかな春山散歩のつもりで、なまった体を運んできた。

12℃ぐらいあると、ポロシャツにウィンドブレーカーぐらいでも寒くないし、うっすら汗をかくぐらいで、ちょうどいい陽気だ。
ぬるんだ風が雑木林をかけ抜ける音を聞き、行き交うハイカーとあいさつを交わし、無料の幸福(笑)にひたる。

目をつぶっていても歩けそうなコースを75分。
雪が降らないどころか、雨もほとんど降っていないカラカラ陽気のせで、再度公園の池も半分ほど干上がっていた。当然、ボートも引き揚げてしまっている。

ちょっと寒波が来ると全面が真っ白に凍りついて、荒涼感満点の静かな奥座敷だったのになぁ・・・と去年の眺めを思い出しながら、茶屋でお決まりのタコヤキを注文してランチ・タイム。
この茶屋は吹きさらしの露店だから、外気温と同じ店内で、おばーちゃんが調理をしているわけだ。今年は助かっているだろう。

この公園から、ガイドマップによると15分ほどで鍋蓋山の山頂に着く。こんなに近いのに、踏破したことがなかったので、足を延ばしてみた。
そういえば、六甲全山縦走路にもなっている尾根道だったから、左手に市街地から大阪湾、右手に裏六甲のニュータウンを同時に眺めながらの道は「お得」で楽しい。雪が降れば、瀬戸内と山陰の両方の眺めを楽しめる道だろう。
すぐに着いた486mの山頂からは、淡路島が幻想的に浮かんで見える絶景。すぐ足元は市街地だから、夜景ハイキングも楽しそうだ。

この山頂からは、ほとんど一直線で下山するコースがあったので、「はよ帰ろ」とずぼらな選択をしたのが悲劇の始まりだった。
ふつう登山道は、谷筋とか、岩場の迂回とか、クネクネと曲がりくねるものなのに、強引に一気に通しました!!という感じで、下山しているのに急登があったりして、やたら険しい細い道だった。

下りと上りが交互にくるのは、使う筋肉と関節技が違うので、とても疲れる。最後の方になると、急な砂地でズリ落ちそうになりつつ、なんとか拾った木の枝をストック代わりにズリ落ちないようにしながら、結局は半分ズリ落ちてきた(笑)。

岩場にはロープが這わせてあるのに、それも所々ちぎれていて、「なんじゃこりゃ、コース整備してないんかねー」とぼやきながら、やっと人里に着いてわかった。
なんと、「登山禁止」の看板がついているではないか。

あのなー、登山より下山の方が危険なんじゃい!なんで上から「下山禁止」にしとかへんねん!!
と憤慨しつつ、僕はたぶん二度と歩かないコースを「封印」したのであった。
いつもの下山路だと、目をつぶっていてもOKの「家路」だから、同じ標高差を下るのに、こんなに難儀する道があるとは・・・と、あらためて裏庭の別の面を発見できたのはおもしろかったけど。

帰って速攻で入浴して、全身に睡眠薬をするこんだような甘美な疲れから、すぐコテンと仮眠してしまった。
あぁ極楽、極楽。
連休の中日には、ちょうどいいアドベンチャーだった。


トアロード20年

at 2007 02/11 08:08 編集

トア・ロードのCafe BERTHIERに、「このたび閉店となりました。1985年以来、ご愛顧ありがとうございました」と貼り紙が出ていた。
うぉーっ、なんということだ!
と嘆き悲しむ資格のないワタクシは。上客でないどころか、結局一度も行かなかった。

でも、ショートケーキのように可憐な外見の建て物は、トアロードの名物といってもいい(だから地元市民としてはビジターに席を譲っていたつもり)。
開店当初は、景気も絶好調の時代で、ちょうど僕が大学を卒業した年でもある。バブル前夜祭のような時代で、だれでも羽振りがよかった。

この80年代を通じて、トアロードを上り下りしてすごしていた僕がつるんでいた相手は、しかし羽振りとは無縁の、のちのヲタの卵。Cafe BERTHIERに出入りする「じょしだいせい」や「ぎゃる様」たちを横目に、ぞろぞろ固まって歩いて、高架下の喫茶店や「餃子の王将」へ、けだるいたむろをしに行ったものである。
いやー、苦々しく楽しかった(笑)。

大学の同級生どもは、当時流行のMGやトライアンフに女子を積載して、苦楽園や芦屋あたりの隠れ家ふう瀟洒なすい〜つ店へ、前戯がてら出撃していたが、僕はせいぜい「サ店」。パックマンが標準装備だったりする。
「焼きたてパンがおいしいお店」なんてのになると、もう、奥様ぎゃる様に席をゆずるしかない。「きっちゃ店」が一番である。

トアロードとハンター坂にはさまれた好立地のワンルームマンションに蟄居するようになってからも、ショートケーキのような「てぃーる〜む」には、男おいどん、足を踏み入れなかった。やはり「きっちゃ店」が一番である。
そしてバブルが崩壊すると、トアロードから人波そのものが引いて行った。

おかげで静けさを取り戻した坂道というのは、僕の好みではあるけれど、商売しかも単価の安いコーヒーをふるまったり、スイーツ激戦地帯でケーキを並べたりする業種だと、苦境からなかなか脱出できないのかもしれない。おまけに、650円以上のケーキセットというのは、おいどんのルールでは許されない・・・なんてことをいうワタクシこと喫茶店ポリスも、責任の一端は感じている。一応。

観光名所へのルートになっているわけでもないし、どんな目的の客がどう流れているのか、ふと考えると謎は解けない。
そんなトアロードは、いま抗争・・・いや高層マンション・ラッシュ。

個性的な商いが店をたたみ、デベロッパーに地ならしされて行く。
郊外ニュータウンを嫌悪する僕は、都心に住む家族が増えること自体は大歓迎だが、マンションが多少のデザインを競い合っていても、「みやこ」としては静かでわびしく、味気ない。食事をしたり酔っ払ったり買い物をしたり、客人としての観光客もそぞろ歩いて、鯉やら愛やら憎しみやら(笑)が渦巻いている街こそ、おもしろいし愛着が湧くと思う。
人の渦が淀むスポットとして、きっちゃ店は街に欠かせないな点景だろう。

木村紺さんの名作コミック『神戸在住』は、ちょうどこの界隈の盛衰に、登場人物の成長・成熟を絶妙に織り込んだ連作だ。
これからは、この作品と街と、そして僕とだれかを重ね合わせながら、トアロードの盛衰を見て行くことにしよう。
ちょっとは買い物してマネーを落として下さいよ我が街に!
と、商店会からクギを刺されそうだが。



受験参考書

at 2007 02/10 23:05 編集

退勤して地元に戻って、アポをとっていた出版社と打ち合わせ。
ドカンと大きな原稿の仕上げに、春休みがつぶれそうな予感がする。

何年か前にも、こちらはシンクタンクから請け負って、レクチャー半分教材作成半分の仕事で大阪や博多を行き来したことがあった。
シンクタンクでも出版社でも、未開拓の分野に乗り込もうとする企業の野望はエネルギッシュで、いろいろと刺激を受ける。

今回は出版社だから、「自分で問題を解いてスパイダー・チャートに自己採点をプロットして行けると、おもしろいんじゃないでしょうか。既存の出版物にはない新機軸だと思いますけど」と提案してみると、編集者は熱心にメモをとっておられた。さすが、プロだなぁと思う。

調子に乗って、これまでのメディア・ミックス教育事業を垣間見て感じたことも紹介する。
「日本総研さんも、通信教材と講座を組み合わせてやっていますが、ちょっと顧客との距離感があって、せっかくのコンテンツの相乗効果が見えにくかったですね」・・・とか何とか話しているうちに、出版と教育の事業の違いが、思った以上に大きいような感じた。

教育現場にいると、完全な板書や印刷資料、明朗な口頭表現へのニーズをひしひしと感じる。

まじめで熱心でけっこうなことではあるのだが、ノートは全員が同じ内容を書き写す。強迫的に同じ文面だから、自分のノートと違うことが書いてあれば、強迫的に不安がる。自分の問いをぶつけて、得たこと考えたことを記録したノートではないから、同じものにしかなりようがないのだ。
全員同じ内容なら、だれかが代表で書いて、コピーして配ればええんちゃうのと思うのだが、それでも「同一の作業」はなくならない。つまり、出版作業をしているわけだ。

こうして、ライブ演奏だったはずの授業は、商品になる。
昔々、生録がはやっていたころ、レコーディング・コンサートという無気味な催しがあったのを思い出す。聴衆は、思い思いの録音機(デンスケとか、オープンリールデッキとか)を構えて、マイクでバンドを録音するのである。
演奏された音楽を楽しむのは、テープを持ち帰って、編集してからの話。

これと同じようなことが、教室で現在進行形なのだ。
まぁ、全面否定するつもりはないし、熱心に消化吸収しておられる姿勢はアッパレだと思うけれど、僕が出版社に提案したのは、この逆バージョンだった。
「ライブ演奏つき参考書」である(笑)。別に朗読を録音したCDをつけるわけではないが。

今でもCDやDVDのついた本はいろいろ出てはいるものの、耳で内容を吸収できる本というのは、まだまだ少ない。
アフターケアはwebで・・・というのでURをつけている場合もあるにはあるが、こういう紙媒体と電子媒体の相互乗り入れは、もっと進んでいいと思う。

楽曲ごとにダウンロードするネット音楽が、ワンセット販売のCDより伸びているように、だんだん本もそうなって行くはずだ。
それでも、完成品として求められる本は残るだろうから、どんどん出版と教育とwebの融合、本の解体・教育の解体は、前向きに見守りたいものだ。


2倍カップル

at 2007 02/09 22:22 編集

ぱっと見たら、寺島しのぶと見間違えそうになった秋吉久美子が、喜色満面で記者会見をしていた。
実の息子より若い彼と結婚!!というのは、いやはやアッパレですな。

息子は、まぁ無理に「お父さん」と呼ばなくていいとしても、しばらく戸惑うことだろう。
それでも、「52歳の新妻と子づくりに挑む26歳クン」の方が、アッパレ度はだんぜん上だと僕は思う。現代の特攻隊員だ。
最初から、ギリギリ感に迫られつつも(笑)、わかってつきあうわけだから、それ相応の覚悟はあったにちがいない。

老婆心ながら、もし結婚早々「できない」ことがわかると、子供がほしい彼に、子づくりを、「よそでしておいで」と言うのか、「私が天国に行ってから」と、遠すぎるおあずけを言い渡すのだろうか・・・?
秋吉久美子の身のふり方に、世の「年の差カップル」が注目しているのは間違いない。

そして、小泉今日子や、秋吉久美子が道を切り開いたおかげで、年の差2倍カップルが案外はやるかもしれない。
思いっきり生電話にも、似たおばさんが出ていた。
息子とほとんど同年代の彼氏とつきあっていて、結婚話に発展したバツイチ四十路が、隠していた身の上がバレて彼氏激怒、でも手放したくないのどうしましょ〜という、どうしようもないおばさんだった。
当然のように、みのさん「あんた無責任だよ」とガツン。
いやはや・・・大胆不敵なお姉様の姿を、一瞬拝見してみたい気もする。

いま「団塊の世代」がとりあげられるニュースは多いが、団塊の世代は男性サラリーマンだけではない。半数は女性なのだ。
時間と退職金を手にしたキャリアウーマンが、フォーリーブス再結成」に熱狂するだけならまだしも、関ジャニへ、嵐へジュニアへと萌えはじめると、「うんと姉さんカップル」も珍しくなくなるだろう。

子供は想定外になるのが、「母息子クラス」の年の差カップルの利点というか、覚悟になるのかな。
だから、お互いかどちらかが、そこそこの年ごろだと、(遊びなら遊びでいいとしても)ドライに割り切れるかどうかが、大人のリトマス試験紙になりそうだ。
よけいな期待をさせない火遊びに徹して、さっぱり幕引きできればややこしいことはないだろうし、子供が見え隠れするつきあいになれば、2軒目のファミリー物件を物色しなくてはいけない。それが大人の責任というもんである。

「おふくろよ、あの大学生が俺の継父になるのかい?」
てなケースは笑えるだけですむとしても、娘がいるケースだと、娘と母と彼氏がややこしいことにならなければいいが・・・
鯉多きママが見守っているのは、あの聖子か・・・その聖子は、麻丘めぐみ先輩の動きを参考にしているかもしれない。


更生不能厚生労働大臣

at 2007 02/08 23:31 編集

またまた柳沢大臣が失言。
「子供を二人以上持ちたい世の中は健全」という大臣に対して、「二人持ちたいカップルが健全で、持ちたくない人は不健全なのか!!」と噛みつく議員も野党にいるのだが・・・。

これはこれで、おいおい、的外れではないかい?
斬る刀が歪んでいると、返す刀にやられてしまうぞ。

問題にすべきは、二人以上の子供がほしい「健全カップル」にフィットした政策を展開して行きたい、という政策の偏りの方ではなかろうか。
ただでさえ、独身者は割増しの税金、社会保険を払わされているのに、古い政治屋の頭には「標準家族」なんて先入観があるから、制度差別には鈍感になってしまうのだろう。
こんな制度差別でわりを食うのが、子供がほしくて持てない人と、子供がほしくない人になるだろうか。あと、ほしくないのに産まされてしまった人への配慮もない。

同じ断罪口調でも、シーナ誠さんの「正しい日本の夏」とか「居酒屋のあるべき姿」「ほどよいビール」なんかは、よくない夏やビールや居酒屋への愛もにじませているから、許されるのだ。うーんとうなるほど言葉づかいがうまいのは、作家だから当然か。
政治屋が、健全さとか美しさをスローガンにかかげるのはいいが、まず隗より始めろ、である。健全な政治、健全な役所、健全な選挙を実現してから、子づくりをためらっている庶民を不健全と呼びなはれ。
もちろん、それでも子なし人生を選ぶ「不健全な日本人」は少なからず残るだろう。しかたないわな。

柳沢大臣の脳内回路はもう、修正困難かもしれないから、もう、大臣のまま泳がせておけば、安倍政権の自爆装置になるのではないだろうか。
だから、やめなくていい。
次は何が飛び出すか、楽しみですらある。


祝!札幌リオ祭り

at 2007 02/07 07:32 編集

あまりにも、ぽかぽかといい天気だったので、トレーナーも脱いで洗濯をして、Tシャツ1枚でベランダへ干しに出たら、寒くなかった。なんじゃい、この陽気は!?と思うほど。
さすがにTシャツ1枚だと少しひんやりするものの、紫外線が降り注いでいるから、まるで「春スキーの休憩時間」のような気分だった。

札幌の雪祭りや紋別の流氷観光などは、うんと寒いほど効果抜群なのだろうが、さて、雪祭りの季節になると僕が後頭部で気になるのは、「裏番組」でもあるリオのカーニバル。

冬が温暖化すると、あちらが冷夏になる・・・というわけではないとしても、イパネマの娘たち&おにいさんたちに札幌へ来てもらえば、暖冬ならではの新企画にならないだろうか。
お忙しいとは思うけど。

すでにオーストラリア人がニセコのおなじみさんだから、札幌にはブラジル人、夕張にはカーネギー・メロン大学生、根室には宗男、帯広には中島みゆき、十勝には花子がよく似合う。
ついでに青森にはアニータか。

南半球人の目には、この国の冬はどう映るのだろうか。
いま何かと静かなブームの耐震偽装建築は、首都圏や京阪神など、細かいことにこだわりまくる土地柄では、まるで九龍城みたいな扱いをされているが、おおらかな北の大地だと大ざっぱに受け流してくれそうだ。勝手に決めて悪いけど。道産子の僕の姉も、なにかと「しょうないっしょ」「ま、いいさー」でカラリと受け流しているぞ。

バカにならない量の雪が毎年積もり、道路も畑も山も湖も凍りついてしまう土地だと、多少建物が歪もうが腐ろうが「手入れして住めばいいさー」と、たくましく暮らしておられると思う。勝手に決めて悪いけど。たくましい道産子自身が、耐震強度ナンバーワンだ。

南国土佐にも、限りなく怪しいマンションがあったっけ。
あの高知の九龍城こと沢田マンションなんか、「耐震強度は震度2まで」ぐらいに見えるが、どうなんだろう。
この1年の騒ぎのあおりをくらって、退去勧告など出されやしないかと、天国の沢田さんもヤキモキしているかもしれない。自慢の「現代芸術作品」だろうに(笑)。

阪神大震災では、公共工事でさえ、鉄筋の節約(?)がバレていたぐらいだから、ヒューザーやアパよりずさんな業者は、まだまだありそうな気もする。ただ、政治的な思惑や業界内の力関係次第で、リークされたりもみ消されたりするだけ。
出てくるのはトカゲの尻尾にすぎず、決して本丸は炎上しない。

いくらマスコミが騒ぎ、「○○業界に激震が走りました」といっても、未だ日本のどの業界も、こと基幹産業に限れば、本当に崩壊したり、外国の植民地状態になったりしているところはない。
流通は、ウォルマートだカルフールだと攻勢をかけてきても、存在感は刺し身のツマぐらいだし、エクソンやBPのガソリンスタンドも見たことがない。チェコ・ビールも自販機で買えないぞ何とかならんか!(ヤケクソ)

つまり、日本企業の業界は、妙に耐震強度が強すぎるのだ。まだまだ、愛国者が自衛隊に乗り込んで自決するほどの非常事態でもない。

でも、政財界への不信感や政治離れ、ニート問題など、筋繊維が海綿体になってしまうように、内面から立ち腐れて行ってるような気配は感じる。たとえば、公的年金なんぞリアルに危い。いや、もう、すでに・・・。

まぁ、いいさー。どうしようもないっしょ。
と受け流せる耐震性能が、いやでも日本人には身についているわけか?


自立させない自立支援?

at 2007 02/06 23:19 編集

ネパールかどこかの国王が亡くなって、群衆の中で葬送が執り行われているのか・・・と思ったら、大阪の公園に住んでいたホームレスが、ベッドに寝たまま運び出されているところだった。
なるほど・・・木にしがみついている人を、根こそぎ抜いて木ごと持って行くような発想ですな。

感心している場合ではない。
公園美化整備に名を借りたホームレス排除だ!
というのは、その通りだ。「ホームレスとともに世界陸上」というわけにはいかないから、大阪市は、世論を味方に「当然の措置だ」という。

それに、大阪の大きな公園や河川敷の「ホームレス・ホーム」は、食卓あり調理場ありサロンあり倉庫ありで、もう何がなんだか、1つの村みたいになっていたりするから、市民からの風当たりも強い。
大阪城公園では、元大工のホームレスが2階建てのバラックを建てて、仲間に分譲していたこともあったという。
市も、排除しようと思えば、口実になる国際イベントを誘致しなくてはいけないから大変だ。

なるほどホームレス対策、ひいては雇用分配は政策の課題だから、ホームレスを生む役所にも責任の一端はある。
僕は個人的に公園のホームレスが目障りになったとか不愉快に思ったことはないけれど、個人商店の軒先というのではなく、公共の土地だから、放置して蔓延して行くのも困る。ホームレスの方々は、廃屋とか草ボーボーの空き地とか、迷惑にならないところに蟄居して、職探しに励んでほしいと思う。

昨日の長居公園に何百人もの撤去作業員が動員されたのは、たった9人のホームレスのためではなく、支援者の抵抗があったからだが、果たしてあの若い支援者たちは、何をどう「支援」しているのだろうか。

シュプレヒコールをあげることも、場合によっては必要だと思うが、肝心のホームレスが働いて食い扶持を稼ぐようになるか、生活保護を受給できるような支援が最重要のはずだ。
なんなら、支援者が自分の家に下宿させてあげて、職探しを手伝ってもよろしいのではないか。「それはいやだな」と思えば、即いい仕事を見つけてあげられることだろう。

社会の最底辺の人々への支援は、必要だが難しいことだと思う。
支援することで慢性化する面もあるし、支援せず数年目をそらしていれば自然消滅するものでもない。
役所に、必要な施策を訴えて行くのも市民の責任だろうが、ことホームレスないし低所得者対策が改善されれば、そこに流れ込んでくるニューカマーが増えることは確実だ。
生活保護のジレンマと重なって見えてくる。

やはり、最低生活水準が満たせる仕事を、求職者全員に保証することを、行政は目標としてほしい。
裏金づくりの名人が役所の隅々に寄生している大阪に限れば、公務員は無能でも平均年収700万円(フリンジ・ベネフィット含む)だから、100人カットしてその7億円を7000人のホームレスに分配すると一人100万円。国民年金以上の額にはなるぞ。もちろん、現金ばらまきではなく、ちゃんと100万円分の仕事をしてもらえばいい。

残業手当という税金の無駄遣いをしている無能役人には、タクシーではなく、元ホームレスの引く人力車で深夜帰宅してもらおう。家まで送って力尽きたら、泊めてあげるしかない。
これが4LDKなんて官舎だったりしたら、もう下宿したくなるだろうね。すればええ、すればええ!

公僕サマたちは、そんな「車夫」を、家政夫にしたげなさい、したげなさい!ひょっとして奥さんも悦ぶかもしれない(現代版チャタレー夫人の恋人だな)。
役人は、無能無策のツケをホームレス・ステイで実感してもらえばよろしいのだ。名案だと思うがな。


白鳥おばさん

at 2007 02/05 23:21 編集

ストックホルムで、白鳥11羽と同居していた67歳のおばちゃまには、一瞬驚いた。
ついでに、あの世界一でかいスカンジナビア人の北の都に、25平米のワンルーム・マンションというものがあったのか!と驚いた。
15畳もあると、羽ばたかなければ白鳥クンたちと暮らすことはできそうだし、肩を寄せ合っていると(白鳥の肩って、どこや?)、案外暖かかったりするのかな。

ただ、運動不足になりそうだから、今度飼うときはビルの屋上ぐらいに水を張って、自由に離着陸できるようにした方がいいよ・・・白鳥は人騒がせだからアヒルがいいでしょう・・・とアドバイスしなくても、このおばちゃま、「私のバードランド」構想を暖めているかもしれない。

こんなおばちゃんとは、どこか相通じるものがありそうで、驚きよりもうらやましさが勝ってしまう僕は、孤独なアニマル好きだったりするので(笑)、あらためてペンギンかアヒルとの同居の夢がふつふつと湧いてくる。いかんなぁ・・・。

松江のフォーゲルパークでフクロウの芸を見てからは、フクロウも気に入った。なんだか太った猫みたいで、じっとしていると鳥に見えない(でも猫を捕って食ったりもする猛禽類だが)。
海辺に暮らしていたらイルカを餌付けするのもやりがいがありそうだし、草原に家があれば馬もオーソドックスでいいぞ。これからは、マイカーより馬車である。

あぁ、こうしてムツゴロウ王国のウィルスが・・・
どっぐぱ〜くボランティアの二の舞いに・・・!(笑)。


ケツをとれ

at 2007 02/04 21:01 編集

トミーズ健が、中国の寺で、よりによって観光客の前で尻出し芸をやったカドで、公安当局から始末書を書かされた・・・というお笑い芸を披露していた。
前科と背中合わせのプロ根性(?)も、芸人の心意気というものですかねぇ。

僕も、落語家なんか、いつでもどこでも「今日は日和がいいってぇもんじゃーない、晴れ晴れのコンコンチキだってんだ、なぁ八っつぁん!」てな乗りでしゃべっているような気がするし、色眼鏡かもしれないが「二十四時間スター」でいてほしい気持ちから、ついそう期待する。

演技なのか地なのかわからないのが、なにわの芸人の声はとにかくどこででもでかいこと。常軌を逸しているほど、でかい。すぐ絶叫するハイ・テンション。
たぶん、世界中オレサマのしゃべり慣れた言葉で世渡りできると思い込んでいるのがアメリカ人と大阪人だから、宴会芸の乗りを中国でもどこにでも持って出るのだろう。尻出しと「象さん」は、学生時代に先輩から後輩へ受け継がれる伝統芸みたいなもので、なかなかギャグや持ちネタがヒットしない芸人は、ついつい伝統芸に頼ってしまうのかもしれない。

まぁ、健さん(というと高倉みたいだが)も反省しているようだから、謹慎が解ければ、元気に職場復帰してもらいたいものだ。
その「職場」は、芸人にとっては、お笑いを期待され、ボケたら突っ込んでくれる、突っ込まれるためにボケにゃならん、大阪という舞台なのだ。
京都、神戸では決してそんなことはないもんなー。

ふつうのオッサン、おばちゃんも「ハイおおきにー、けつねうどん650万円!」とジョークをかましてくるし、この素の延長上に浪速芸人がいるわけだから、公私の区別なんかなくなるのかもしれない。女優の顔とプライベートをしっかり守りたい女優が、大阪出身というのをひた隠しにしたいのもわかる。

それを考えると、最近しみじみ「ええやっちゃなぁ」と思うのが、NHK有働アナである。
番組ゲストが大阪人なら大阪弁こてこてに切り替えて「ちゃいますやん」「ほんまですのん?」とやっているし、あのメイクは田辺聖子に通じるものがある。決して美人ではないくせに、どうにもこうにも愛嬌満点。

それにひきかえ、おい、「関西弁は忘れました」なんて顔をしている日テレ森富美よ、テレ朝丸川珠代よ、有働を見習え!
せめて、トミーズ健を見習うなら、うーん認めてあげてもいいが、君たちがやっても、おもしろくないやね。
やっぱり有働だ(笑)。


季節の変わり目でしょうか

at 2007 02/03 17:05 編集

福岡でも雪が積もっていた昨日、午後の神戸は、やっとチラホラと雪が舞いましたかねーという程度の初雪だった。期待はずれもいいところ。
とりあえず、初雪バンザイではある。

とはいえ、僕のスキー仲間は関東人と三河人ばかりになってしまった。明らかに「灯台もと暗く」なっている。
会社なら会社、役所なら役所、学校なら学校、と職場ごとのリズムのようなものがあって、職場を横断する面々と集まるのがとても難しい。
みな家庭や地位を持つようになると、ますます身動きしにくくなるようで、ふと空き時間ができそうなときな、身近にいて「阿吽の呼吸」が通じる同じ組織の人間と、ちょっと一杯・・・がせいぜいの気晴らしになってしまうのだ。

まったく違う職種、組織の働き盛りのサラリーマンや自営業者や主婦が、ぴったり都合が合い、同じテンションで泊まりがけのグループ旅行プランがまとまるなんてことは、奇跡に近い。
そんな奇跡的なことを共にやってきた仲間が、初めて父親になった去年は、「山もスノボもカヌーも、一度も行けませんでしたわー」と苦笑していたが、熱烈マイホームパパも楽しんでやっているようだから、それはそれで、ひとつの生き方ではないかと思う。
「望み通りの苦労なら、不本意な苦労より幸せちゃうのん?」というと、沈黙されてしまうけど(あぁ、こうして嫌われて行くのだろう・・・笑)。

仕事でも家庭でも、どっぷり浸って、ふと空いた時間にぶらり出かける旅ほど貴重なものはないし、いくら高くても
goo日記アーカイブ2007年 | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0)
| 1/1PAGES |


CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   
<< February 2007 >>
PROFILE
NEW ENTRY
RECENT COMMENT
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
your IP
ブログパーツUL5
OTHERS
RECOMMEND

SPONSORED LINKS