2009.03.31 Tuesday
明日から変わる介護認定基準をにらんで原稿依頼がきたわけではないだろうが、そんなタイミングで老母がどこかの大学に出す原稿を書いていた。
下書きを見せてもらった僕がいいかげんに目を通していたものだから、校正とワープロ打ち直しは弟がやることになったようだ。
ずいぶん手間をかけさせ、手書きを忠実にワープロ原稿にしてもらったのに、憤慨している。なんのこっちゃと思いきや・・・
正月に初めて受けた介護度の判定が要支援の最低ランクだったことを、よほど訴えたかったようで、「介護予防の判定を受けた」と書いていた(ようだ)。
その箇所を、さすが典型的な官僚である弟が、念のため関係部局に問い合わせまでして「要支援」と打ち直していた。それが、気にくわなかったらしい。
「私ら、予防の意味で使っとる言葉やのに」とブツブツ。
ケアマネを教育していた身として、介護事業を仕切っているような、よほどの誇りがあるそぶりは、前々からあるにはあった。
それが元気の源、といえば気休めになるんですがね。ヒトサマに迷惑さえかからなければ。
自前の解釈が正しいという暗黙の前提で筆を進めるもんだから、同じ符牒を使っているお仲間には伝わるが、そうでない人にわかるように伝える配慮は、後回しになっている。
あげく、律義に校正した弟を、
「あの子は現場を知らんから」
となじる。気の毒に(笑)。
そんな癖も、兄弟ともども「あぁ、またか」と承知しているから、苦笑するばかり。
それでも、憎まれ泥かぶり役の僕は、一応ガッツンと
「部外者にも広く読まれる文書やったら、私らの使ってる意味やなくて、全国共通の用語で書かんと誤解を招くがな。役所から来てる書類に、介護予防度1とか書いてるか?不満はあっても、公文書で使っとる用語で書かにゃ」
と言いくるめておいたのだが、納得してくれたかどうか・・・。
こういうところは、「現場たたきあげ」の、経験至上主義者の短所といえなくもない。
お仲間うちで通じる意味をそのまま出版物に載せると、トラブルのもとになるから、言葉遣いを工夫する必要がある。
「現場を知らない」と部外者に言い放つのは簡単だ。
でも、それを言っちゃーおしまいである。現場主義者は、こうしてタコツボにこもる性癖があるようで、タコツボの中だけで問題が解決できればいいのだが、外に向かって「金よこせ人よこせ」と要求だけはする(笑)。
だったら、理解されるようにちゃんと言葉を尽くさないとね。
医療と福祉と行政と学校と家庭と、さまざまな現場があって、お互いの考えなり苦労なりがわからない。
それぞれの現場ごとに、「私が一番現実を知っているのだ。あんたにわかるものか」と、早くて就職1年で神になってしまう(笑)困ったちゃんもいる。これでは、お互いの立場を尊重したフレンドリーな関係にはなりえない。
「わかってくれる人だけでいい」ってわけにはいかないのだ、福祉の制度は。ワンマン会社やサークル活動ではないのだから。
相互不信とモラルハザードを防ぐためにも、「だれも気づかない問題を、だれにでもわかる言葉で伝える」必要がある。
これは至難の技で、医師も政治家もワーカーも教師も学者も苦労している。消耗に耐えられず、離職する人も多い。
用語の定義ひとつとってみても、たしかに難しい。
「自立」の意味は、本人、近親者、行政、医師、学者それぞれにずれがあるもので、「支援」も同様。福祉ワーカーのいう支援と行政の支援と、本人の求める支援も、必ず違う。
何げなく使う「後見」も、意味を取り違えると大変なことになるし、「保証人になる」にしても、その中身は連帯保証なのか身元保証なのか・・・こんな法律用語は、法典にのっとって理解しておけば、「正解はそこにある」わけだから、まだわかりやすい方だと思う。
現場で使っている用語なり解釈なりが本当に正しくて有効だと信じるなら、それをちゃんとアピールするなり注釈をつけるなりすればいいわけで、そこをすっ飛ばして書いてしまうと誤解を招くもとになる。
依頼されて意気揚々と取り組んだ老母の仕事を丸ごと否定するつもりは毛頭ないし、僕自身は書かれた内容にはいっさい口出しも添削もしていない。ただ弟の校正を裏打ちしただけで。
まぁ学術論文を書いているわけでもないから、家族ですったもんだしたおかげで、かえって会話の種になってありがたいことですわ・・・とプラスにとらえておこうか。
当の介護認定の手続き変更はといえば、明日もうスタートするというのに審査会レベルで混乱しているようで、「最前線」の高齢者の生活現場ではもっと悲劇も出てきそうな気配。
「判定が重すぎる」なんて不満はめったにないはずだが、「あの人は去年4だったのに、なぜ同程度の私が今月は要支援になるのか」といったクレームは続出するにちがいない。
社会保険だから、判定基準は全国一律に公正に、という使命があるのと、全般に給付抑制のニーズがあるのも一応わかる。
全体の制度設計を考えると、維持するために必要な「仕様変更」はしかたないとはわかるものの、どうもしっくりこない。
マネージド・ケアの視点から採用された保険方式の介護サービスであればこそ、いい意味での効率追求はどんどん進めていい。
たとえば、週2回の訪問介護を受けられる「権利」は、バウチャー化してもいい。
たまたま体調がよくて、ヘルパーいらずな週があったとすると、たしかに負担金も節約できて、サービス事業者は経営資源をよそに回せる。
だからといって、別の人のサービス利用上限枠がどうなるわけでもない。
そこで、利用権をバウチャーにして、使わなかった権利を、もっとニーズのある(のに介護認定が軽くて上限が低い)人に譲渡して、使ってもらえばいいのだ。「権利の貨幣化」がまさにバウチャーの発想で、権利を使わず眠らせておくのはもったいないし、他人が使えるようになると派生利得も期待できる。
安倍元首相が提唱していた教育バウチャー制度も、なぜ頓挫したのか僕には不可解だ(いずれ導入されると信じているけど)。
優等生は、やりたい勉強は塾でやるから、学校の授業を受ける権利(バウチャー)を習熟の遅い子にあげて、必要な生徒がより手厚い教育を受けられるようにすれば、全体の教師の仕事量は一定でも不満の総和は減らせると思う。
高校生や大学生になると、教師がおせっかいを焼こうとすると、
「僕のことはいいから、もがいているA君をもっと見てあげて」
と、気配りバウチャー(?)を発揮する者もいる。
このへんのやりとりは、ある程度は受益者に任せてもいいだろう。
中には、同級生を脅迫して給食をぶんどる(笑)大食漢もいるかもしれないから、あくまでも自由な取引を少しずつ認めて行くという形で、公的サービスのバウチャー化へと拡大して行けばいいのだ。
地域など小人数のグループ単位で「訪問介護サービス合計○単位」と認めると、その中で資源を柔軟に割り振りできるようになる可能性もある。
ただし、そのグループが互助できるいい関係で結ばれているのが条件になるだろうけど。
こうなると、まさに社会学の守備範囲ですなぁ。
下書きを見せてもらった僕がいいかげんに目を通していたものだから、校正とワープロ打ち直しは弟がやることになったようだ。
ずいぶん手間をかけさせ、手書きを忠実にワープロ原稿にしてもらったのに、憤慨している。なんのこっちゃと思いきや・・・
正月に初めて受けた介護度の判定が要支援の最低ランクだったことを、よほど訴えたかったようで、「介護予防の判定を受けた」と書いていた(ようだ)。
その箇所を、さすが典型的な官僚である弟が、念のため関係部局に問い合わせまでして「要支援」と打ち直していた。それが、気にくわなかったらしい。
「私ら、予防の意味で使っとる言葉やのに」とブツブツ。
ケアマネを教育していた身として、介護事業を仕切っているような、よほどの誇りがあるそぶりは、前々からあるにはあった。
それが元気の源、といえば気休めになるんですがね。ヒトサマに迷惑さえかからなければ。
自前の解釈が正しいという暗黙の前提で筆を進めるもんだから、同じ符牒を使っているお仲間には伝わるが、そうでない人にわかるように伝える配慮は、後回しになっている。
あげく、律義に校正した弟を、
「あの子は現場を知らんから」
となじる。気の毒に(笑)。
そんな癖も、兄弟ともども「あぁ、またか」と承知しているから、苦笑するばかり。
それでも、憎まれ泥かぶり役の僕は、一応ガッツンと
「部外者にも広く読まれる文書やったら、私らの使ってる意味やなくて、全国共通の用語で書かんと誤解を招くがな。役所から来てる書類に、介護予防度1とか書いてるか?不満はあっても、公文書で使っとる用語で書かにゃ」
と言いくるめておいたのだが、納得してくれたかどうか・・・。
こういうところは、「現場たたきあげ」の、経験至上主義者の短所といえなくもない。
お仲間うちで通じる意味をそのまま出版物に載せると、トラブルのもとになるから、言葉遣いを工夫する必要がある。
「現場を知らない」と部外者に言い放つのは簡単だ。
でも、それを言っちゃーおしまいである。現場主義者は、こうしてタコツボにこもる性癖があるようで、タコツボの中だけで問題が解決できればいいのだが、外に向かって「金よこせ人よこせ」と要求だけはする(笑)。
だったら、理解されるようにちゃんと言葉を尽くさないとね。
医療と福祉と行政と学校と家庭と、さまざまな現場があって、お互いの考えなり苦労なりがわからない。
それぞれの現場ごとに、「私が一番現実を知っているのだ。あんたにわかるものか」と、早くて就職1年で神になってしまう(笑)困ったちゃんもいる。これでは、お互いの立場を尊重したフレンドリーな関係にはなりえない。
「わかってくれる人だけでいい」ってわけにはいかないのだ、福祉の制度は。ワンマン会社やサークル活動ではないのだから。
相互不信とモラルハザードを防ぐためにも、「だれも気づかない問題を、だれにでもわかる言葉で伝える」必要がある。
これは至難の技で、医師も政治家もワーカーも教師も学者も苦労している。消耗に耐えられず、離職する人も多い。
用語の定義ひとつとってみても、たしかに難しい。
「自立」の意味は、本人、近親者、行政、医師、学者それぞれにずれがあるもので、「支援」も同様。福祉ワーカーのいう支援と行政の支援と、本人の求める支援も、必ず違う。
何げなく使う「後見」も、意味を取り違えると大変なことになるし、「保証人になる」にしても、その中身は連帯保証なのか身元保証なのか・・・こんな法律用語は、法典にのっとって理解しておけば、「正解はそこにある」わけだから、まだわかりやすい方だと思う。
現場で使っている用語なり解釈なりが本当に正しくて有効だと信じるなら、それをちゃんとアピールするなり注釈をつけるなりすればいいわけで、そこをすっ飛ばして書いてしまうと誤解を招くもとになる。
依頼されて意気揚々と取り組んだ老母の仕事を丸ごと否定するつもりは毛頭ないし、僕自身は書かれた内容にはいっさい口出しも添削もしていない。ただ弟の校正を裏打ちしただけで。
まぁ学術論文を書いているわけでもないから、家族ですったもんだしたおかげで、かえって会話の種になってありがたいことですわ・・・とプラスにとらえておこうか。
当の介護認定の手続き変更はといえば、明日もうスタートするというのに審査会レベルで混乱しているようで、「最前線」の高齢者の生活現場ではもっと悲劇も出てきそうな気配。
「判定が重すぎる」なんて不満はめったにないはずだが、「あの人は去年4だったのに、なぜ同程度の私が今月は要支援になるのか」といったクレームは続出するにちがいない。
社会保険だから、判定基準は全国一律に公正に、という使命があるのと、全般に給付抑制のニーズがあるのも一応わかる。
全体の制度設計を考えると、維持するために必要な「仕様変更」はしかたないとはわかるものの、どうもしっくりこない。
マネージド・ケアの視点から採用された保険方式の介護サービスであればこそ、いい意味での効率追求はどんどん進めていい。
たとえば、週2回の訪問介護を受けられる「権利」は、バウチャー化してもいい。
たまたま体調がよくて、ヘルパーいらずな週があったとすると、たしかに負担金も節約できて、サービス事業者は経営資源をよそに回せる。
だからといって、別の人のサービス利用上限枠がどうなるわけでもない。
そこで、利用権をバウチャーにして、使わなかった権利を、もっとニーズのある(のに介護認定が軽くて上限が低い)人に譲渡して、使ってもらえばいいのだ。「権利の貨幣化」がまさにバウチャーの発想で、権利を使わず眠らせておくのはもったいないし、他人が使えるようになると派生利得も期待できる。
安倍元首相が提唱していた教育バウチャー制度も、なぜ頓挫したのか僕には不可解だ(いずれ導入されると信じているけど)。
優等生は、やりたい勉強は塾でやるから、学校の授業を受ける権利(バウチャー)を習熟の遅い子にあげて、必要な生徒がより手厚い教育を受けられるようにすれば、全体の教師の仕事量は一定でも不満の総和は減らせると思う。
高校生や大学生になると、教師がおせっかいを焼こうとすると、
「僕のことはいいから、もがいているA君をもっと見てあげて」
と、気配りバウチャー(?)を発揮する者もいる。
このへんのやりとりは、ある程度は受益者に任せてもいいだろう。
中には、同級生を脅迫して給食をぶんどる(笑)大食漢もいるかもしれないから、あくまでも自由な取引を少しずつ認めて行くという形で、公的サービスのバウチャー化へと拡大して行けばいいのだ。
地域など小人数のグループ単位で「訪問介護サービス合計○単位」と認めると、その中で資源を柔軟に割り振りできるようになる可能性もある。
ただし、そのグループが互助できるいい関係で結ばれているのが条件になるだろうけど。
こうなると、まさに社会学の守備範囲ですなぁ。