2009.11.30 Monday
難治性の癌と闘っている哲人が抜けた読書会に出てきた。
この母体の研究会は、そもそも移植医療に象徴される高度医療(医療社会学の目で見ると、システム医療と呼んでもいい)をめぐって医療者、研究者、法曹・政治家が自由意志で集うフォーラムだったのが、社会的関心はやはり癌。
代表のドクターご自身が癌に侵され、その前から組織自体は脳梗塞状態に陥っていた(お前がガンなのだとささやかれている気配も感じるほど、僕は運営にかみついてきた)。
そのグループの今後の打ち合わせも兼ねて、輪番の発表の後、食事をしながら事務局長さんと話し込んできた。
発表者の課題書が、造園史の小野健吉さん著『日本庭園』(岩波新書)だったのも象徴的で、たまたまキャンパスのある職場とない職場を渡り歩いている僕からも、感じていることを話題提供できた。
「内田樹さんが、勤務先の大学改革の一環でコンサルティントに諮ってみたら、インテリジェント・ビルへの移転を提案されたと憤慨されているくだりを読んだことがありますが、キャンパスの存在は意外に大事なんですよね」
と振ると、
「内田さんって、どういう方なんですか」
と尋ねられたので、簡単に紹介したのだが、せまい専門分野の研究者が集まるだけでも(彼は史学が専門で、旧制高校の跡を歴訪しながら、明治という時代にこだわっている)、触発しあう面は多い。これが読書会の魅力だ。
「そういえば、僕の恩師は旧制一高に通っていたころ、神楽坂で豪遊していた武勇伝をよく話しておられましたが、キャンパスとは別に、カルチェラタンのような町が独特の教養を形づくっていたとは思うんですよ。東京だと神田とか、早稲田界隈とか」
「旧制一高はたしか駒場でしたから、新宿も遠くはなかったでしょうね。漱石なんて、新宿の自宅から東大まで、歩いて通学していたらしいですよ」
「遊ぶところも途中にあったんちゃいます?」
「そんな・・・当時の新宿なんて、田舎だったはずですよ」
まぁ、漱石が芸者遊びをしていたかどうかは定かではないものの、帝国大生が大学の校舎以外に、どこでどんな社会経験をしていたかは、おもしろいテーマではある。
その町の看板大学の学生にとっては、歓楽街は「夜の大学」だったかもしれないし、バイトで社会勉強をさせてもらうOJTの場でもあっただろう。
『日本庭園』は、武士の別邸や数寄から文明開化の時代の和洋折衷庭園の歴史までをたどる内容で、いってみれば権力者の社交の場がどう意匠を凝らして変遷してきたか?については詳細にわかる。
抜けているところを読め、と恩師に教わった僕は、寺の境内や神道でいう結界にどんな機能があったか、大学のキャンパスがどんな発想で築かれてきたかに興味がわいたので、官立の大学とミッション系の大学の違いを、見てきた範囲で紹介しながら、事務局長さん(神戸大学出身)のご意見もうかがってきた。
内容は長くなるので割愛するとして、キャンパスが何を中心にできあがっているか、どういう校舎設計がなされているかも、そこから採れる「果実」は味が変わる。
どんな立地かで、当然その地域とのつきあい方も決まってくるし、おのずと独特な学生気質もできあがってくるものだ。
教室と図書館が有機的に直結して、ITインフラも完備、ワークプレイスとしても効率的な都心のサテライトキャンパスみたいな学び舎も時代のトレンドなのかもしれないが、緑陰や池や古びたチャペルが何かしらインスピレーションを生むものではないだろうか。
教室でもない、都会でもない、延長ゼミをカフェでやったり、サークルの打ち合わせをやったり、古本を漁ったりするグレー・ゾーンは、ぜひほしいよなぁと思う。
失敬なたとえをすると、放し飼いの地鶏と養鶏場のブロイラーぐらいの違いは大学生にも現れてくるかもしれない。
というわけで、ワークプレイス研究の学び舎バージョンに、ぼちぼち興味がわいている今日このごろ。
マクドで勉強している高校生にも、エールを送ってあげたい。