「リンガーハット応援」には、538ものアクセスをいただいてしまった。全国チェーン店だからかね?
モジャカレーの店員さんとはmixiで出会えたけれど、カレーねたはアクセスがほとんど伸びないのが残念。月並みすぎるせいかね?
もっと人気のない(あくまでも、このブログの反応だけで)のは文学ねたで、これはまぁしかたない。これ、文学か!?と突っ込まれること必至の雑食性の読書感想文だから。
『1Q84』でも論じれば、ファンの目にも留まるだろうが、春樹作品も好きで読んできたとはいえ、『アンダーグラウンド』あたりから、ちょっとオリジナリティに「?」を感じはじめて、僕は真面目な読者ではなくなってしまった。初期の作品の方が、春樹ワールドの荒削りで尖ったところがあったと思う。
で、あいかわらず荒くれ度(失礼)が心地よいシーナさんのソフトカバーである。
ぶちまけ口調のわりに岩波なんぞからも書評を出されていて、つい先週
『活字たんけん隊』を買ってぼちぼち・・・というところに、角川文庫から
『ひとりガサゴソ飲む夜は…』が出たので、そっちになびいてしまった。
単行本のリメイクにすぎないから、「鮮度」は低いのに、イヤハヤひざをたたきたくなる勢い全開なのである。しかも、モチーフは「こんな酒を、こんなところで」だから、酒飲みにとっては一緒に飲んで笑っているような臨場感もありましてね。
雪洞の熱燗も、焚き火を囲んでの竹燗も、「いい女の口噛み酒」も、厳寒の韓国でオンドルの効いた部屋ですくって飲むマッコロリも僕は未体験の味だが、ビールと日本酒党だと思っていたシーナさんのウィスキーへの思いは、しみじみわかる。年末年始狂想曲を背に、シングルモルトの世界に浸る男の背中は、たくましい。
それでもシーナさんも、もう年金世代なんですな。
アニキ感覚で仰ぎ見ていた(海も山も現役バリバリのご様子だが)つもりが、歳月は人を待たずである。
もっと早すぎた「オヤジ」が、マエストロ開高健。
書棚に遺作が50冊は占拠してくれている。これを全部、仕事がらみの専門書に振り向けていたら…と考えるのは邪道というものだ。
去年は没後20年、今年は生誕80年と続いたこともあって、名作の文庫新装やら特集ムックやらが次々に出ていて、愛読者としてはうれしい悲鳴をあげている。
先月は文春文庫から
『ロマネ・コンティ・一九三五年』が再版されるわ(もちろん単行本は初版で読んでいる)、光文社文庫で
『あぁ。二十五年』が出るわで、念のため読み直そうとしていた矢先に、河出の夢ムックで
『文藝別冊 開高健』が出ていたので、衝動買い。
オマージュあふれる寄稿と書評、単行本未収録の座談など盛り沢山で、あのひょうきんな風貌と甲高い声、芳醇な文体を思い起こさせてくれる。
職場で会うドクター・Tがまた開高さんそっくりな巨匠なので、会うたびに僕は故人の生まれ変わりやなーと唖然としながらも怪しい目線会話(笑)を楽しんでいるのだが、世界のすみっこ(あるときは最前線)を駆けてきたアウトサイダーの人間観察力は、「鋭い」なんてものではない。
ユダヤとコミュニズムと資本主義のトライアンギュレーションを、ベトコンと米軍の両方を観察する中で描きあげた表現者は、開高さんが横綱ではないだろうか。
東vs西が見かけの上で溶解する激変の昭和末期を見届けたかのように開高さんは永眠されたが、その後のアラブという極を、開高さんがどう観察していたか、ぜひうかがいたかった。盟友の小田実と、あの世で呑気に酒でも酌み交わしているかもしれないが。
僕の「呑気」は、鉄分である。
・・・というほどの鉄道マニヤではないし、背骨が線路でできている本物の上北沢暗室職人さんの足元のさらに地下鉄の枕木にも及びません!
メディアファクトリー新書『この列車がすごい』で博識バトルをくりひろげている川島令三さんと「あの横見さん」ほどの戦闘能力(笑)もない。
僕のテツ分というのはは、鋼鉄製のロットリングのペン(廃盤)。もう15年か20年、仕事をしているので、メタルな筆記用具は我々業界人の武器なのだ。
もちろん、パソコンもチョークもそれなりに商売道具なのだが、かたや愛着がイマイチ湧かないし、かたやホワイトボード・マーカーにどんどん置き換わっているから、個人的なアイデア・インキュベーションの武器は、僕の場合はずしりと思いペンである(万年筆に凝るほどの粋人ではない)。
和田哲也さんの『文房具を楽しく使う』(ハヤカワノンフィクション文庫)は、これも単行本で読んでしまっていたのだが、「文庫あとがき」のオマケつき(さすがに解説はついてない)なので一緒に買い物カゴへ。
やたら愛フォンHACK術の類が雨後のタケノコのように出ているご時世に、基本、アナログな筆記用具論は一見ずれているようで、いやいやなんの、ロディアとクオバディスの人気は根強い。
個人的には、ロディアは使いにくいから好きになれないのだが、こんな小さな「紙の束」が、立派に批評の一分野を築いているのは、ロディアやモレスキン、ファイロファクスといった黒船の魔力ですな。
それも、和田さんの紙メディア論は、ただファッション性からの「おしゃれ文具エッセイ」でまとまっていない。理工系の著者らしい情報調理のしかたは、「やはりノートと手帳とダイアリーは最適」と説得力でおさえつけてくれる。
ペンの話はほとんど出てこなくて、あえて書くツールとして富士通のオアシスライトが末尾に出てくるあたり、ますます「今はスマートフォンでしょ」と笑い飛ばされそうではある。
僕も、オアシスライトは使ったことがないのだが、仲良しだった経理ウーマンが単三電池で動くモバイルギアを愛用していた姿を、ふと思い出した。
シンプルな機能で、長時間テクスト入力に最適化された端末というのは、古くて新しい現代の文房具といっていいと思う。乾電池なら、世界のどこでも電源補充できるしね。
時代が求める最先端のヒット商品としては、
ポメラかな?
それでも僕は、「無地ノートにロットリング」で、原稿のドラフトや講義時間デザインをしているから、積もり積もって、ずいぶん無駄な作業をしているのかもしれない。
眼精疲労には、
平石貴久ドクターの『医者以前の健康の常識』(講談社+α文庫)で・・・
あぁ、かすみ目に涙目が治りません!