2010.09.30 Thursday
昨夜は水曜夜のレギュラー最終日で、なんやかんやの引き継ぎで退勤が遅くなってしまった。
そういえば、駅ナカのスーパーが閉店を遅くしていたな…と思い出して、帰りは神戸駅まで乗り越してみた。閉店間際のスーパーで半額シールの宝物をあさり(苦笑)、ちょうど最終バスが見えたので駆け込みセーフ。
この路線は不思議と旅気分になるので、年に何回かは乗るのだが、「終バス」となると客もまばらで、ダウンタウンも閑散としてくる。
進行方向が、どんどん山奥に入っていくような感じになり、地元で平野の祇園さんと親しまれる聖なる山の参道をかすめて走っていると、妙に里心がわいてくるというのか、車内の空気も「おかえりモード」である。客も、どんどん途中で下車して行き、結局最後の乗客は僕になった。
思わず運転士に「おやすみなさい」と声をかけそうになりつつ、下車してすぐの我が家へ。
バスは、僕にとっては旅の足というイメージでもなく、修学旅行の象徴でもなく、「家路」そのものだ。
郊外ニュータウンに家族と暮らしていたころは、駅に近いこともあって、また路線バスというものがなかったので、もう「市バスの乗り方」を忘れてしまうほど電車少年(プラス自転車少年)であった。
でも、もともとは市電、市バスにどっぷり依存していた典型的な下町っ子(だったと思う)。
悠然と走るバスは、三宮ターミナルと家を結ぶ「空飛ぶじゅうたん」のようなもので、ご近所さんと車内で会ったりするローカルな空間であるとともに、どこあたりからかハレの服を着た乗客が乗り降りする繁華街の空気へと入れ替わって行く。
路線の味ってやつですな。
神戸中央を基準にすると、須磨まで行くともう、瀬戸内に旅に来たような感じがするし、六甲山を超える(トンネルで縦貫する)と信州に来たような錯覚をもよおす。六甲や御影の山の手は、「あらまー、住む人種が違うな」と思う豪邸が立ち並んでいたりする。
こんな車窓の変化は、ほとんど昔と変わっていない。市電が市バスに置き換わってしまったのは大きな変化ではあるけれど、市街地のモザイクのような色合いは、意外と昔のままだと思う。
むしろ、郊外ニュータウンは金太郎飴のような「ゼネコン作品群」にすぎないから、都心と郊外を行ったり来たりするバス旅の越境感覚は大きくても、この違いは全国どこでも似たようなものだ。北九州であれ東京であれ札幌であれ、郊外に向かうにつれて退屈してくる。
神戸駅から山麓の住宅街をなめて三宮に下って行く7系統の変化は、200円の値打ちはあるおもしろいドラマである。
たぶん、京都市バスも大阪市バスも、長い路線を乗ると車窓は見飽きないスクリーンだろうと思う。京都市バスは受験で乗ってヒヤヒヤイライラした印象が強すぎるので、めったに乗らなくなったが(地下鉄も便利になったしね)、観光気分で乗ってみるのもいいかな・・・とバス三都物語を考えている秋の雨の日である。