2010.10.31 Sunday
トロイカ態勢(政治団体ではないので体制とは書かない)でやってきたバイオエシックスの読書会の一角がこの世を去って、会は自然消滅。まだ4ヶ月しかたっていないのに、猛暑をはさんだせいか、遠い過去の話と感じるのは不思議だ。
事務局長さんは史学科ご出身なので、前から考古学や日本近代史の文献を題材に、大学のゼミなみのハイレベルな要約発表をされることがあった。
発表とディスカッションの場は、病院図書室、関連会社の事務所、公民館と転々としたあげく消えてしまったわけだが、「知の現場」はモバイル化(?)して行くようで、少し楽しみな方向が見えてきた。
前々から邪馬台国論争にも興味を持っておられた事務局長さんが古墳めぐりを企画され、のってみることにしたのだ。
「教科書」を送っていただき、企画書は何度も練り直され、ずいぶん気合いが入っている。
とりあえず第1回目は、地元の五色塚古墳に来週案内していただくことが決まった。一人では足が向かなかったから、いい機会になりそうだ。
古墳をはじめとする埋蔵文化は、歴史学と考古学にまたがる学際領域だから、本来おもしろいはずなのに、通俗的にはカビくさいイメージもあって、僕も恥ずかしながら通俗なイメージしかなかった。
そのくせ、アレクサンドリアという古代インテリジェンス都市には興味津々なのだが、邪馬台国論争などについては「どっちでもよかろ?」「同時に繁栄してたかも?」と醒めた気持ちで傍観していた。
僕はあまり政治権力のドラマチックな栄枯盛衰には興味がない。
君主なり国家なりが、どんな体制でインテリジェンスを高めてきたか、また葬ってきたか、知識社会学のメガネで歴史を斬ってみるのがおもしろい。
その意味で、異民族融和政策をとったヘレニズム時代あたりのアレクサンドリアという学術都市のありかたは現代・未来に示唆を投射しつづけていると思うし、英仏独なんかがヒヨコの時代、イスラムの合理主義が最先端の科学・医学を生んでいたことも、偏見のメガネをはずして見てみればわかる。
世界史的にみても、魔女狩りや動物裁判、焚書坑儒や文化大革命のような愚かな盲信は、過去の話のように笑っている現代人は、22世紀になって笑われる対象になるかもしれない。
いま、デジタル教科書だクラウドだと、行政も経済も教育もなびいていて、それはそれで僕自身も「便利で重宝」しているのも確かだが、このブログも含めて、まぁ孫の代まで、サーバーやディスクやシリコンデバイスが残っているかどうか。
いったんプリントアウトすれば残る可能性は高い。現物とデータを巧みに再編集して、アレクサンドリア図書館化する発想で。
木簡やロゼッタストーンのように、後世の人々が血まなこになって読み解こうとしてくれるメディアとして、何が勝ち残るのだろうか。
ぼんやりと、そんな空想もしながら、デジタル教科書については別の機会に考えてみたい。
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