物静かな純文学者だと思い込んでいた絲山秋子さんの作品を、そういえば読んだことがなかった。
この文人に投げつけられた出版社企画が、アラフォーシングルのソロキャンプ。よーやるわ。
文庫になったので斜め読みさせていただいた。
『絲的サバイバル』(講談社文庫)を。
文人をして「サバイバル」といわせるキャンプはどんなんや?と思いきや、愛車フィアットにキャンプ道具を積んでオートキャンプ場に繰り出すだけ。豪勢な道具をいろいろそろえて。
女ひとりキャンプを申し込むくだりは、男ならスルーしてしまう関門がおもしろおかしく描かれている。
品川ナンバーの黄色いクーペでフラリやってきたおばさん…失敬、お姉さまが、キャンプですと?何があったんだ?自殺しに来たのか!?と疑われる場面は、聡明な文人なら織り込み済み。
なんとかかわしつつ、けっこう器用に助け舟の数々を引き寄せながら、長い長い夜を過ごし、タバコをぷかーーーっとふかして帰ってくる。
一番アウトドアらしくない回は、文京区の講談社の庭へ、テントを背負って電車で赴く之巻。
なんだなんだこれは!キャンプですとな?
と突っ込みたい山男、山ガアルも多いことでしょう。
そもそも、墓地のような区画に愛車を停めて脇にテントを張る意味不明なオートキャンプは、キャンプの範疇に入らない。のが山ヤの定義でしょう。
でも、そんなツッコミを受けつけないのが芥川賞作家の文才だ。
決して、「キャンプ入門」でもなければ「大自然へのいざない」でもない。
もし入門ガイドふうに書くと、「これは間違っとる」「ビギナーに変なこと教えるな」「これがスタンダードになると環境負荷が増すだけ」と非難轟々の洗礼を受ける。なんせ、山ガアルは猫も杓子もスパッツ!男まで山スカート♪が増殖しているだけで、山ヤさんの鼻息は荒くなっているのだ。
私は私のやれるスタイルで、星空の下で寝てみました、と淡々と書くだけ。
最終章で、初心者への助言もサービスでつけているものの、その章のタイトルは「キャンプをやめてお家へ帰ろう」である(笑)。
悪くない。
これで、いいのだ。
高いピークに登頂するとか、縦走する、体力の限界に挑む!!なんて無理にならかさなくても、夜空の深さ、森の闇をリアルに見るだけでもお宝体験になる。
僕も小学校にあがったころ、「キャンプ」と銘打ったYMCAのキャンプで初めて集団宿泊をして、速攻ホームシックにかかった夜をありありと思い出す。場所が須磨だったから、国鉄に乗ればで15分で帰宅できる距離だったのに、ホームシック(笑)。
そんなのもキャンプの一経験だ。
布1枚で外気と隔てられただけのキャンプは、たかだか1泊2日であっても、人生を凝縮したような鮮烈な経験になる。
背中のゴツゴツ感、底冷えする冷気、森に充満する物の怪、まさに星が降ってくるような夜空の大海原・・・どれかひとつでも、体感すれば人生の収穫ってもんだ。
ところが、アウトドアも学校化・スポーツ化している。
NHKや新聞社が講座を企画し、テキストがあふれ、ステップ・バイ・ステップで進級する。資格制度まである。時間割が配られ、「自由時間」「消灯時間」「班活動」を守る。オイオイオイ・・・野山は刑務所か?
スキーにビギナーを連行すると、「ここは上級コースでしょ!?」「私は初級ですから!」とびびる紳士淑女もおられる。
級なんかどうでもええ!てっぺんからの眺めを楽しめたら歩いて下りてきてもええがな。
てな楽しみかたもあるのに、ほとんど「雪山道場入門」のような意気込みで構えてしまうのは、生真面目な日本人の性なのかね。
愛車で夜景展望台までドライブして、そのままテントと寝袋をかついで脇道に入って寝泊まりしてもいいと思うのだが、国立公園法だの条例だの、ややこしいルールがちらつく。野放しにすると、自然破壊に直結するからしかたないとはいえ。
今は小型軽量のいいテントがあるから、アタックザックにトレッキングシューズ、ゴアテックス・レインスーツの3点セットをそろえなくても、「ちょっと星空の下で泊まってみる」ぐらいの気晴らしは簡単にできる。ゴミとシモの始末さえちゃんとやれば、「俺たちのラブホはテントだぜ♪ワイルドだろ〜?」なんてカップルがいてもいいと思う。
王道キャンプもあれば邪道キャンプもあり。
オバサンひとりキャンパーは実際何度か出会ったこともあるが、目撃してしまうとせつないものを感じるのも確か(失敬)。
でも、やりゃーいいのである。公園や地下街で何年もキャンプしているおっちゃんたちの気持ちもわかるのではないだろうか?