2014.01.31 Friday
高須克弥が漁夫の利を得ようとして失敗した例のドラマを一応チェックしてみた。
ニュースになってすぐ学生に意見をきいてみると、
「テレビの影響って、バカんならんですよ。僕なんか、生まれてこのかたずーーーっと、当たり前田のクラッカーって呼ばれますもん。ポストちゃんてあだ名がついた子は悲惨ですよ」
そうか、ナルホドナルホド。
前田のクラッカーは侮蔑するニュアンスでなくても、すっかり世間に定着してしまうと「またか」とウンザリする。ウザいキャッチコピーだろうね。
僕は「ちびくろサンボ」とからかわれていた。童話をうらんだことは一度もないし、封印されてしまったのを寂しく思うほどだが(ニグロイドの血を引く人々にはもっと複雑な思いがあると思う)、創作表現を封印しかねない世論形成には危なっかしいものを感じるのも確か。
赤ちゃんポストから救われた子をポストちゃんなどと呼ぶ人種は、おそらくドラマがなくても手を替え品を替え差別的なあだ名をつけていただろう。
かといって、思慮の浅いドラマが免責されるわけではない。制作者サイド、脚本家がちゃんと公の場で児童福祉について、差別について、メディアの社会的責任についてきちんと意見陳述して、視聴者や当事者との対話を続けるなら、放映してもいいと思う。表現の自由を守りたいなら。
そこまで放映にこだわるような渾身の作品か?といえば、まぁドラマはドラマ。これで放映中止や脚本変更になるぐらいなら、その程度のドラマだったというだけのこと。
ざっくりバッサリ言い放ってしまえば、ドラマは芸能事務所のカタログにしか見えない。芦田愛菜を売りたい。衣装を買いに来てほしい。子役人気に乗じてCMを見せたい。
あちら側の都合で動いているのが民放ドラマだからなぁ…
いくら社会的メッセージを届けたいと大上段に構えても、悪役が花王のシャンプーや三菱の家電製品を使っている場面は絶対にありえない。騒ぎになったらCMをACに差し替えて頬かむりする。
もし、関係団体からのクレームで放映中止になるような前例ができてしまうと、女性差別、障害者差別、動物虐待、民族差別を糾弾するあれやこれやの団体の眼が光ること必至。
未成年者の喫煙シーンさえ封印されている時代だから、制作サイドは地雷原を歩く気分ではないかな?
スポンサーなくして番組制作などありえない民放の宿命も、CMスキップが当たり前になってくると変わらざるをえないだろうし。
制作チームも、もうちょい勉強した方がいい。スポンサーが「テレビCMはリスクが大きい」と手を引くようになると、経営基盤がゆらいでしまう。
数字を取れて被害者も出ないドラマなんて、できるのだろうか。
やはり、「時間ですよ」の復活に期待したいところだ。
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