前々事務長さんから、「今年もお世話になりましたなぁ。メシでもどう?」と電話をいただいて元町へ。
ここの病院を立ちあげられたドクターと同い年ながら、早過ぎる旅立ちをしてしまったドクターとは対称的に、元気そのもの。古希を超えても、生涯現役の勢いでいらっしゃる。
数年来、「どうしても、総括しとかなあかん」と年賀状で宣言しておられた原稿のさわりを持参され、トロツキーまでさかのぼって赤い思想を熱く語られ、僕はひたすらうなずき役。ええんかいな?政党の内部事情を書かれた機密文書(笑)をもらっといて。
「選挙では、大躍進しましたやん」
「でもね、この時代の人事問題はケリがついとらん!」
と、ご自身の党籍をめぐる問題を40年間沸々と温めておられる。
具体的な内部事情は門外漢にはさっぱりわからないが、「そもそも、民主的組織のあるべき形は…」と論じる闘士に、
「マックス・ウェーバーもいうように、組織は合法的支配の手段にすぎませんからね。民主的なマネージメントは自己矛盾ちゃいますの?」
と丁重な反駁をさせていただいた。
こんな議論も、研究会の中でやりたかったものだが、意図してかせずか思想色が脱色された医療研究組織でかれこれ四半世紀つきあってきた「同志」は、最近やっとプライベートな距離が縮まってきた。
この叩き上げの赤い戦士を雇用したドクターも、かつては闘士。
ただ、ご自身の経営する病院では労組を認めなかった。この矛盾を外からとやかくいうつもりはない。医療生協病院でもないし。
それでも、赤い闘士を管理職で重用するなど、それなりの理解はあったドクターは、遺稿集の中で思想遍歴を熱く書き遺しておられる。懐の深さは、敬愛の的になりこそすれ、敵対勢力を生むほどにはならなかった。
もし、反市場主義や世界市民思想をみっちり身につけて理論武装されれば、どんな医療者になっておられただろう?と想像しても、ご本人は海に散骨されているし、後継者もいない。
現実に、病院を取り巻く郊外地域のファスト風土化は進み、老健や介護施設など、地域医療は福祉シフトしている。遠巻きにみれば拡大発展しているように見えるものの、人口構成の質が医療の方向を決めてしまう面は否定できない。もはや、学者をまじえて移植医療や出生前診断を論じるような思想空間は、一民間病院には残っていない。附属の研究機関を設立したかったドクターの遺志は汲み取れはしても、衣鉢を継ぐ人材はいない。
赤い闘士の「慙愧の念」にしても、実践的に仲間を募るとか、組織化するなどして次世代に伝えていくやりかたもあるんちゃいますか?ネットも活用できるでしょうし・・・と僕は提案してみたのだが、「どうもパソコン調子悪いねん」と苦笑いしておられる。
道具立ては、周囲にITエキスパートも大勢おられるはずだから道は開けると思う。
「コンテンツ」は無尽蔵にある(赤い思想も、組織論も、政治論争も)。
あとは、もっと実践的な思想というか、「思い」をバトンタッチするプログラムのようなものが機能していない。世代交代と思想継承の両立の難しさは、永田町と同じことが地域の中小企業でも起きているのだ。
介護・看護職員の離職率の高さは、歴代事務長さんが異口同音に語っておられるテーマだ。
転職しようと資格試験の勉強をしている職員に、人的投資をする経営側の忸怩たる思いもわかる。福祉法人の理事研修にうかがったときも、ストレートに「やめさせないコツ」を求められたことがある。
打ち出の小槌があればいいのだが、あいにくそんな好都合なものはない。
労働力はもっと流動性が高くなることを前提に人事制度を再編しないと、患者との絆をごっそり持ち逃げ状態で有能なスタッフが引き抜かれることもあるだろう。とっくの昔に、医師の世界はそうなっている。
「やっぱり、きちんと教育する組織はスタッフも根づくんちゃいますかねぇ」
「そやなぁ、わしも発破かけとるんやけどね」
「だから僕は送り出す側として勉強する力を仕込んでるんですけど」
「そうでっか、名刺おくれやす」
と商談ぽくなってきたが、あいにく茶話会気分で出向いたので手ぶら。
「いい学校のいい新卒」は、地域病院で奪い合いになっているらしい。
もちろん、「いい職場」でなければ紹介する気になれないのだが、僕が管理職とのつきあいの中で「勉強させてくれるいい法人だな」と思っても、平成生まれ世代がどう感じるかはわからない。
四方山話に花が咲いたものの、中華街のメインストリートに面した広東料理店は、不思議なことに客足がさっぱりだった。夕食には少し早い時間帯だったとはいえ、我々の貸切状態。
これは景気のせいか、営業努力の問題か?
市場と組織は、永遠の課題でありますな。