地元民ながら、神戸大学は受けようと思ったことがないし、関心もなかったが在籍していた友人は多い。
兵庫教育大ができたころ、教育学部は発達科学部に宗旨替えして、地方の国立大学(古い分類でえいば二期校)の役割も変わってきたのかな、とワタクシは冷ややかにとらえていた。
その発達科学部が国際文化学部と再編統合し、再来年から「国際人間科学部」になるらしい。
オイオイオイ、神戸大学まで、わけわからん学部名で客集めする時代になったんですかい^^;
阪大が社会学と心理学と教育学を統合して人間科学部を開業したのは、もうずいぶん昔のこと。ここに「国際」をくっつけて対抗しようとしたか?(苦笑)
「国際」と「情報」は、つぶしのきくキャッチフレーズだ。情報経済学部、医療情報学部、国際教養学部,etc,etc…と名乗れば、なんとなく最先端の勉強ができる気になる。実際、こういうくくりの学問体系は必要でもあるし、成果を上げている新設大学、新学部もあるにはあるとはいえ・・・看板倒れにならなきゃいいが。
学者と政治屋の中には、伝統的な1文字学部(法・文・医・薬・農・理・工)が国を背負う人材養成の根幹だと信じ込んでいる化石がいるのも確か。
2文字学部に学んだ立場としては、フンガイしたいところではあるが・・・文学部は究極の文系学部として一目おいております。
その文系学部をあからさまに軽視する
文部科学行政に、文理双方の学者から非難轟々。あたりまえだわな。
要は、金融やコメディカルや会計や通訳のような即戦力になる人材を養成せよ、ソクラテスやウェーバーを講読している場合ではない、といいたげで、あぁこんな役所がかきまわした大学を出た「即戦力」」が世界の笑いものになる日は、きっと10年以内にやってくるね。
文教予算をちらつかされて、多くの国公立大学で教養部が廃止された。
もうこれは「共通一次」以前からの話で、思考力は劣化し、職業学校と化している。特に、地方の(いわゆる)駅弁大学にこの傾向が顕著だ。
看護や介護の人材ニーズが切迫している事情もわかるけど、法文学部や教育学部を出た学士様に、真にその学識を問う専門職を用意できない産業界にも、責任の一端はあると思う。
「4年ぐらい、バイトとサークルの片手間に勉強した経営学の知識なんて役に立たない」
と吐き捨てる経営者は、では社員に求められる国際金融や国際私法、知的財産権,etc,etcの教育を社内で提供できるのか?といえば、頬かむりするしかない。まず教育する人材がいないわな。
さしあたって必要なスキルと、やがて必要になる知識、身につけておかないと土壇場で困る見識を、自分の中で仕分けして体系化できるのが一般教養の底力だと思うんである。
酷暑の中シューカツでぐったりしている大学生は、横並びでシューカツの儀式に呑み込まれて、自分のやりたいことも、世界のトレンドも見えてこない。いや、マルクスの疎外論だの、アダム・スミスの神の見えざる手だの、マキャベッリの君主論だの、「シューカツの役に立たない」から知らずに卒業する。大学でかじらないと、頭が硬くなると一生ご縁がない。
何を勉強すべきかは、自分で判断すればいいから古典を偏重することもないけれども、読むな勉強するな考えるなと逆風にさらされている学問こそ、こっそり勉強してこそ大学生だわな。
国公立大学に「介護福祉学部」が続出する時代になれば(これはこれで反対はしないが)、せめて広井良典さんのディープな福祉思想を学んでぢっくり仕事の未来を考えるようなハビトゥスを身につけてほしいもんである。営業職でも看護職でもトレーダーでも同じだと思う。
微力ながら教養のリカレント教育に携わりつつも、その僕が「もっと物理と化学はやっておけばよかった」と後悔することもたびたび。
まだ、こういう分野は独学できる素材も多々あるのだが、決定的に日本に欠けているのは、「専門教育学」だ。
たとえば心理学や社会学は、経験則も手伝って見取り図も応用も自分なりに描けているつもりだが、「社会学教授法」は確立されていない。
外国語教授法は昔から膨大な蓄積があったりするのに、「文学教授法」は聞いたことがない。
実務的なカリキュラムの改編というなら、まず世代継承できる方法論を学び教える大学院改革から!ではないのかな?