天下の京大が、血税を使ってトンデモ研究をしているとは思いたくないし、記者会見の段階では研究者も断固とした結論をアピールしているわけではないが・・・
新生児に正義感が備わっているそうな。
オイオイオイオイオイオイオイオイ!!
こういうこじつけというか先入観というか、無邪気な前提は、よく心理系の研究者と院生がやっていて、お隣りさんの我々がチャチャ入れていたものだ。
実証派(と称する)研究者が、損得や愛情や正義といった文学的な概念を持ちこむと、トンデモ研究が暴走する。「ちょっと待って。被験者が実験で期待されている役割を演じている可能性は排除できてるの?」と突っ込むと、研究発表会がしらけるので(笑)、まぁ実験屋のファンタジーを鑑賞しよか、と構えている社会学者もいる。
あくまでも実験は実験。統制したように現実社会はできていないし、実験レベルでしか再現性はない。
京大学者がふけっている実験場面も、簡単すぎる。まず新生児はこの画像を、いじめっこといじめられっこ、バリケード、という道具立てとして認識できているのだろうか。
原始的パックマンのようなアニメーションを新生児に見せて、「いじめられている子」と同じ色のぬいぐるみを「手に取った」だけの反応を、弱い者を守ろうとする正義の現れじゃね?…と思いたい、信じたい、こじつけたい!!のだろうか、秀才研究者たちは。
加えて、赤ちゃん天使説を信奉する(?)メディアが、サプライズを騒ぎたてる。
哲学のセンセイは「正義とは何ぞや?定義せよ」と突っ込みたくてウズウズしているだろうし、文学のセンセイからは「選んだぬいぐるみと、その後どうつきあっているかアフターストーリーを記述せよ」と注文されるのは必至だ。
実験心理学の専門家なら、「単に動きの早いものは目で追えないので動きの鈍いものに関心が向いただけ」という仮説も示せるだろう。「手に取った」のは利他行動なのか、所有欲から出た利己的行動なのかは、研究者の意味づけ次第。
そして、正義とは何ぞや?である。
強者が弱者を襲う場面で、弱者をかばうのも正義なら、強者を攻撃するのも正義。正義はひとつではない。たとえば大人から財布を引ったくった子供は、許すのが正義なのか処罰するのが正義なのか。
人間なら、そんな場面の「いきさつ」を知ってから、行動選択をしますわな。
なぜ赤い丸は青い丸を追っかけているのか、意味づけをして解釈する能力は、単純すぎる実験で「立証」されるものではない。
幼稚園児ぐらいになると、赤い丸と青い丸のどっちが「どろぼう」でどっちが「ひがいしゃ」なのかストーリーを描いてから、攻撃する対象、救う対象を決めるぐらいはできる。どうしてこっちを選んだの?と尋ねると、理由も答えるだろう。
もっとも、のろいキャラクターを選び取った理由が、「ぼくが、とどめをさしたいから」だったりする可能性も、なきにしもあらず(笑)。正義の対極にある悪は、赤ちゃんは絶対に持って生まれない、なんて先入観にとらわれていると、帰無仮説さえ浮かんでこない。
京大の発達心理学者さんは、ぜひ被験者群に追跡実験をして、学者の考える正義と子供の行為との位相のズレを、虚心坦懐に探究していただきたいね。
なんなら、ワタクシのゲーム理論の授業を聴講しにきなさい。
「友達を裏切ってはいけません」と親や教師にいいつけられて育った犯罪者が共犯者を隠避しつづけるようなとき、正義は2つも3つも成り立つのである。
んなこと、一般教養で勉強しなかったのか、センセイたち!!
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